「人間らしい」ということ

巡回先のブログにちょっと変り種があった:

H-Yamaguchi.net: 「人間らしい」ということ

よく使われてて一見当たり前っぽいのだが、よく考えるとあれ?なことばというのがよくある。

[…]

で、今回もそういうことが頭をよぎったわけだ。よく考えると「あれ?」なことばの最たる例の1つ。「人間らしい」について。

一見当たり前に見えて意味のよく分からない単語として「人間らしい」という言葉が取り上げられている。三つの使用例が挙げられている:

  1. 「人間らしい生活」
  2. 「人間らしい労働、働き方」
  3. 「人間らしい生活、くらし」

そして、これらの用法の持つイメージに対し

これって、「人間とは何か」みたいな、けっこう本質的な概念のような?

そんな簡単なコンセプトじゃないんじゃないかと疑問が提起され、「人間らしい」という単語の辞書的定義から始まり、生活保護における支給水準の議論まで分析されている。特に、生活保護に関連して

ある人々が「人間らしい生活」を送れないでいるということは、他の人々の「人間らしい」判断の結果でもあるのだなあ、ということだ。

という下りはまさにその通りだ。

しかし、個人的にはそのような分析ははあまりにも生真面目に過ぎるではないかと思う。ナイーブと言っていい。例えば、

「人間らしい生活」を主張する方々は、皆が「人間らしく」ふるまえば自然と問題は解決に向かう、と無意識に想定してはいないだろうか。

と疑問を呈しているが、私には「人間らしい生活」を主張する人々が、「人間らしさ」の基準は共通で、誰もが「人間らしく」振る舞えば問題は解決し、誰もが「人間らしく」生活できると本当に信じているようには思えない。普通に生活していてそんな信念を合理的に維持するのは不可能だろう(注)。

むしろ、「人間らしい」という言葉は決まった意味があるというよりも、自分の主張を通すためのレトリックとして使われる方が多いように思える。「人間らしい」という修辞を用いることで自らの意見への反論を封じ込める。例えば生活保護で言えばこうだ:

  • 原告(受給者):こんな生活は「人間らしい」生活とは言えない!!!
  • 被告(国):ちり紙が足らなければ新聞紙を使えばよく,頭は丸坊主で十分だ。
  • 原告:それでも人間か!!!

「人間らしい」ことに反対するなんて「人間らしくない」わけだ。もちろん、その論理が成立するためにはまさに「人間らしさ」について合意があり、「人間らしく」あれさえすれば問題が解決するという前提条件が必要だ。でもそんなことは関係ない。「人間らしさ」について論理を持ち出すことが既に「人間らしく」ないのだから。「人間らしさ」を持ち出して何かを要求する人間は信用できない。

(注)人間らしく振る舞う(P)と問題は解決する(Q)という命題P→Qを考える。この命題はPが成り立っているのにQが成り立っていない場合があれば棄却される。みんなが善意で行動していても問題が解決しないケースなんて数多なのでこの信念を維持するのは非常に困難だ。分かりやすい逃げ道はPが完全には成り立っていないと考えることだろう。しかし元記事で指摘されている通り、社会の構成員全員が人間らしく行動することは想定できないので完全にPであればQという命題は反証不可能になる。これは神の存在命題に似ている。神が存在するという命題は、何が存在しないという証拠になるのか自体分からないという意味で反証不能だ。

宗教が子供に対する刷り込みで存続するように「人間らしさ」が全てを解決するという主張も幼少期の刷り込みによって保持できるだろう。そのような人々が「人間らしさ」を議論に持ち出す場合には、それはレトリックではなく真面目な主張と言える。過度に宗教的な人々が大真面目に「神」を議論に持ち出すのと同じだ(むしろこれが「過度に」宗教的かを判断する基準だ)。こちらの対応は同じだ。彼らの議論は無視して、その提案が自分にどんな得をもたらすかだけ尋ねればよい。

追記:生活保護のようなケースではなく、一般的な用法についてコメントがあった。議論の根拠にしない場合、「人間らしい」という言葉の使用に特段の害はないように思えが、かなり曖昧な意味を持つことは変わらないようだ。さらに、曖昧な言葉を使うことで相手の興味を惹くような場合まで考えると特定の単語単独での意味を確定すること自体意味があるのか疑わしい。もちろん議論の根拠となる場合には意味の確定は必要なので上の話に戻ることになる。

誰もが「人間らしく」ふるまうことと、誰もが「人間らしく」生きることは必ずしも同じではない、ということは意識しておいたほうがいいと思う。

「人間らしい」ということ」への2件のフィードバック

  1. 私、実は「人間らしい」という言葉を社会的な意味ではなくよく使います。
    ただ生活とか社会じゃなくて「人間らしい人」なんですけど。
    これもまた矛盾して聞こえますけど、私がよくいう「人間らしい人」は、
    ・喜怒哀楽がはっきりしている(感情が豊か)
    ・熟考する
    ・失敗する
    等。
    これらを人の言動に垣間見れた時、私は自分の中で「あぁ、この人って人間らしいなぁ」って思ったりします。
    逆に、無感情に、考えから来たものでもなく、機械的にばかり、まるでロボットのように振る舞う人は(実際の所あまり出会ったことはないですけど)「人間らしい人」じゃないと思ってます。
    確かに、コラム等で見る「人間らしい」は
    “「人間らしい」という修辞を用いることで自らの意見への反論を封じ込める”
    ためのものかもしれないですね。
    なるほどって思っちゃいました。
    というか、こっちの方が一般的なのかもしれないですが、いつも私が考えている意味がちょっと違ったので (^_^;)ゞ

  2. いや勿論それが一般的な用法でしょう。議論の根拠にしない限りは問題は生じないと思う。

    ちなみに普通の意味での「人間らしい」は初めて会った人に使うと面白い。褒めているのか貶しているのか正確にはよく分からないし、どういう意味で使っているのかはっきりしないので相手の興味を惹ける。どう意味か聞かれたら、何となく、とか、褒めてんだよ、とか言って濁しておけば大丈夫(まあ濁すも何も元から何も考えずに言っても同じだけど)。

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