中国の翻訳サイト

コラボレーションに基づく中国の翻訳サイトが紹介されている。

The Wikipedia of news translation: Yeeyan.org’s volunteer community

Aside from reading stories, users can perform two basic actions: recommend a story or a URL for translation, or translate a recommended story.

Yeeyan.orgは英語のサイトを中国語に翻訳して公開するサイトだ。読者は訳して欲しいページを送ったり、逆にそういったページを翻訳することができる。

The site’s design encourages participation in a number of different ways. The front page prominently displays a staff-curated selection of recommended but as-yet-untranslated articles.

もちろん翻訳者を集める方が難しいので、そのために一通りの工夫がしてある。ユーザーごとに翻訳したストーリーのリストやコメントの数、バッジを表示するなど、大抵のフォーラムにあるサイトへの貢献を促す仕組みを備えている。

Beginning translators tend to produce rough texts and make many mistakes, says Kitty, but “it is cruel if we don’t even provide a chance.”

さらに、翻訳の質にはこだわっていない。厳しい管理をすると翻訳を始めようとするひとを遠ざけてしまう。これはQ&Aベースのフォーラムなどで重要な視点で、初心者を上手く取り込むための試みだ。フォーラムであれば初心者向けの専用ページを作るのもその一つだ。

Under international law, permission from the copyright holder is generally required to create or publish a translation. By publishing user-supplied translations of arbitrary news material, Yeeyan creates a public good in a legally dubious fashion.

しかし、勝手に翻訳を公開するのは、翻訳権の侵害である。これは日本でも英語サイトを全訳する場合に問題となる(例えばこのブログでは全訳は避け、常に自分の意見が主になるように心がけている)。

Even so, Yeeyan is actively seeking agreements with copyright holders to create and publish translations of their work.

そのため、Yeeyanは著作権者に対して翻訳を作成・公開する合意を取り付けるべく努力していて、既に有名サイトであるReadWriteWebの中国版を公開している。

But there’s money to be made offline if you have access to a huge pool of translation talent, and connections to publishers on both sides of the language divide.

Yeeyan自身は著作権の問題もありあまり広告収入を上げていないが、翻訳家のプラットフォームとして機能することで収益をあげているようだ。翻訳で稼ぎたい人が集まりYeeyan上でニュースなどを翻訳、そこで認知され、実際の仕事を受注する。仕事を手に入れる評判作りとスキルアップのために、公共財を提供するというのは(仕事につながらない)Wikipediaよりもオープンソース開発に近いだろう。

ブックスキャン

スキャニング代行合法化には賛成だが、理由はちょっと違う。

本のスキャニング代行サービスはもうそろそろ合法としようか

だって、代わりにやって欲しいもの(笑)。

スキャン代行合法化のメリットは個々の人間が合法とされている個人複製を外注、分業できることだけではない。本当のメリットは、もし代行が合法でならスキャンされる書籍の権利者・出版社がデジタルデータを提供するということだ。スキャン代行を合法にすることでスキャン代行自体必要なくなる。

理由は簡単でスキャン代行というのは社会的にみて異常に非効率だからだ。既に印刷されおそらく劣化した紙媒体を裁断した上でスキャン、OCRという作業には費用がかかる。だからこそ今回低価格を売りにする業者の登場が話題になった。しかし、代行業者が幾ら費用を切り詰めようと出版社には勝てない。元のデータを持っているのだからそれを販売すればいいだけだ。但し幾つかクリアすべき壁がある。

一つの問題は、単にデジタルデータを販売するだけでは、書籍を購入した人ととそうでないひととの間に価格差をつけられないことだ。紙媒体所有者は再び全額を払いたくないので低価格を望むが、市場のなかで既に紙媒体を所有していてかつ電子化を望む人の割合が小さければ、出版社にとっては単に彼らを無視しているほうが利益になる(均一価格かそもそも電子版を出さない)。しかしこの問題は単に紙媒体を出版社に提出させれば解決する。スキャン代行でも原本は商品価値を失う程度に破壊されるので消費者としても問題はないだろう。

もう一つは、出版社が原本をデータとして保有していない場合だ。実際にそのような例がどれくらいあるのかは知らないが、そういうケースでは出版社自身がスキャンする必要があるかもしれない。しかしこの場合でも、出版社ないし出版社が委託した業者(Googleでもいい)が行えば一度電子化するだけで終わりなので、紙媒体一つずつをスキャンするという膨大な無駄は回避できる

著作権制度は、コンテンツを作成するために私的独占を通じてインセンティブを与える制度だ。どの程度の権利を著作者に与えるかはインセンティブと独占の弊害とのバランスによって決まる

今、本のスキャニング代行という極めて非効率なサービスが注目を浴びているというのはそこに需要があるということであり、それを妨げる制度の弊害が大きくなっているということだ。独占の弊害というコストが増大しているのであれば、ベネフィットが変わっていなくてもそのバランスは再調整される必要がある

引用と剽窃

久しぶりにリファラを覗いたところ名指しされていたので(釣られている気もするが)取り上げてみよう。

どうせならパクられて喜ぶ人の記事をパクってほしい

以前、「剽窃の検証」で説明したが、「ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう」という記事がkeitaro-newsというサイトにほぼ丸々コピーされたことがあった。こちらから連絡を入れたものの、開き直りとしか取れない発言を連発するばかりで最終的には記事が削除されただけで音信不通となった。

先日、同じサイトが再び他のサイトの文章をほぼ丸写ししたということが話題になった。今回リンクしているのはそれに対する反応だ。

keitaro2272さんの特徴は、参照した記事を大幅にリライトすることだ。元の記事を自分のブログのフォーマットに変換し、わかりにくいと思った部分は大胆に書き換えたり、バッサリ削ぎ落としたりする。

著者の徳保さんは上のようにコピーを行っているサイトの運営者を特徴付けている。私の記事の場合には正直わかりにくくなっているだけだった。

原典へのリンクがあれば、fromdusktildawnさんや青木さんは、こうした記事の書き換えを認めただろうか。fromdusktildawnさんはどうかわからないが、青木さんは「引用」という形式を守ることを求めていたので、おそらく認めなかったろう。

私の考えが推測されているので答えておくと、「書き換え」は「引用」とは異なるので認めない。「書き換え」であるなら少なくとも「書き換え」だと明示するべきだ。別に難しいことではないだろう。これは「書き換え」自体を否定しているわけではない。時折記事の掲載を依頼されるが、その際には「書き換え」は了承している。ちなみに細かな修正以外はその旨表記されるし、実際の掲載前には確認の連絡が入るのが普通だ。

いまのウェブには、編集者が欠けている。カウンター文化が後退し、自分の文章が読まれる場所はRSSリーダーでもtumblrでもいいよ、という感覚が広まってはきたが、一見してパクリだとわかるような「書き換え」まで許容されるようになっただろうか。まだ、そこまでは進んでいないだろう。

編集者が欠けているのはその通りだ。自分の文章が読まれる場所はどこでもいいよという感覚も広がっている。しかし、その延長に自分の文章がパクられてもいいは含まれていないだろう。「進む」という表現はおかしい。

タイトルを変え、本文に手を入れることで、原典のままではリーチし得なかった層に届くようになる、というケースは少なくないと思う。それを「もったいない」と思う感覚は、私の中にもある。が、記事のリライトはハードルが高い。まず認められない。だからゲリラ的にやっていくんだ……しかし当然、それでは叩き潰されることになる。

「タイトルを変え、本文に手を入れ」るというのは編集者の仕事だろうが、その後に自分の名前をつけて売る編集者はいない。どうして「タイトルを変え、本文に手を入れ」た後にその旨を表示して編集者として掲載するという穏当な中間地点は考慮されないのだろうか

keitaro2272さんは、過去の多くの同種の事例とは異なり、剽窃を指摘されてもブログを畳んでこなかった。私はここにひとつの希望を見る。

私は、剽窃を指摘されてもブログを畳まないのはそれが(主に金銭的な)利益になるからだと考えるがどうだろう。法的手段に訴える人はほぼいない。

keitaro2272さんとしては非常に厳しい制約になるが、その自由に使える記事だけをネタ元として、半年くらい更新を頑張ってみてはもらえないか。もし、keitaro2272さんのリライトによって、全く注目されなかった記事が世間で大受けするといった事例が相次ぐならば、「盗用でもいいからネタ元に加えてほしい」というブロガーが少しずつ増えていくのではないかと思う。

この提案には二つの問題がある。一つは「著作者名の詐称もOK」というサイトだけでは同じような運営はできないことだ。多くの人にとって記事を書くために時間を投じるのは何らかのリターンを期待しているからだ。ブログ自体が無料であるかとは関係ない。知名度を上げるでもいいし、広告収入を見込むでもいい。前者であれば少なくとも誰の文章かすら明示されない剽窃はマイナスでしかないし、後者では(将来を含め)トラフィックが発生しなければ意味がない。

もちろん、単に自分の文章を読んでもらえれば満足という人もいるだろう。しかし、それだけの理由でまとまった費用を支払う人はあまりいない。とにかく読んでもらいたくてしょうがないか、機会費用が低いか、時間をかけずに書いている、という状況が多くなるだろうが、そうやって出来た記事をどれだけ読みたいだろうか。

文中で挙げられている2chのまとめ系ブログは確かにとても面白い記事が多い。しかし、署名なしで書き込まれた文章の(リンクなし)転載と、署名のあるブログの記事の盗用を同列に比べるのはどう考えても無理がある。

二つ目は「盗用でもいいからネタ元に加えてほしい」のであればそれはもはや盗用ではないということだ。

どうせならパクられて喜ぶ人の記事をパクってほしい

というタイトルになっているが、それなら確かに誰も文句は言わない。

パクられてもOKな人が世の中には何人もいるのだ。両者をうまくつなぐ仕組みの不在こそが問題なのである。

しかし問題は「パクられてもOKな人」とパクリたい人をつなぐ仕組みの不在ではない「パクられてもOKな人」な人の文章をパクリたいひとがいない(ないし非常に少ない)のだ。著作権に限らず知的財産権は、簡単にパクることができるものを保護する制度だ。それによってパクられることをあまり心配せずに、コンテンツを生産することができる。コンテンツからの利益とそれが配布されることの社会的便益とのバランスをとっているわけだ。一定のバランスを強制するわけでもない。ただ広まって欲しいのであれば転載・改変を許可すればよいだけの話だ。

ウェブの発達は、無料のコンテンツを増やした。これは無料でも広まってくれた方が著者にとってプラスであることが多いからだが、そのコンテンツから著者というタグを取り外してしまうというのは全く別次元の問題だ。自分の作った文章がぱくられてでも流通して欲しいというのは自由だし、現行制度・文化的にも問題なくできる。しかし、全ての文章がそうでなければならないなら世の中に流通するコンテンツは大幅に減ってしまうだろう。

日本版フェアユース

アメリカでは著作権侵害の申し立てに対し、フェアユースが抗弁として用いられる。フェアユースが認められるかどうかは以下の四点(17 U.S.C. § 107)にしたがって総合的に判断される(balancing test):

(1) the purpose and character of the use, including whether such use is of a commercial nature or is for nonprofit educational purposes;
(2) the nature of the copyrighted work;
(3) the amount and substantiality of the portion used in relation to the copyrighted work as a whole; and
(4) the effect of the use upon the potential market for or value of the copyrighted work.

(1)使用目的(2)著作物の性質(3)利用の程度(4)市場への影響である。日本でもフェアユースを導入しようという議論が進んでいるが、Copy & Copyright Diaryさんでその内容が紹介されている。

日本版フェアユースの範囲 – Copy & Copyright Diary

日経の記事では、フェアユースとして認められるものとして

1. 広告で利用する写真にたまたま美術品などが写り込んでいるケース
2. 合法的な利用に必要なケース(CDをインターネット配信する場合のサーバーでの楽曲複製など)
3. 本来の利用でない複製(言語分析のために小説を複写するなど)

があげられている。

これらは技術的理由・取引費用の観点で正当化できる。配信のための複製は著作権者にとっても必要だし、一部に入り込んでしまう程度の二次利用は取引費用がなければ簡単に合意できるはずだが、現実には交渉費用・裁判費用・支払いに伴う費用などにより難しい。よって、当該著作物の市場価値への影響がなければ(=取引費用がなかったとしても極めて少額の使用料になる)、最初から利用可能としておくことが望ましい

朝日の記事では、フェアユースとして認められないものとして

* 社内会議で配るために書籍の一部をコピーすること
* 他人の著作物を利用して新たな創作をするパロディー

の2つが例としてあげられている。

逆にフェアユースにならない例として社内利用やパロディーが挙げられている。おそらく商用利用は基本的にアウトということだろうが、いずれも程度によるだろう。小規模の企業内利用で元の作品の収益が悪化するとは考えられない。逆に商用目的のパロディであれば交渉費用は複製の規模に対して比較的小さいのでフェアユースにならないのも妥当に思える。

ただし、アメリカにおけるフェアユースは一般規定であり認めらるもの・認められないものを列挙するというのは趣旨が異なることには注意する必要がある。あくまで個別ケースについて四つの観点からチェックするという構造だ。日本版フェアユースという言葉遣いは(同様の構成をとらないのなら)誤解を招くように思う。

本題とは関係ないがちょっと気になった部分がある:

法制問題小委員会では日本版フェアユースの導入について検討を行っているが、秋より具体的な検討は権利制限の一般規定ワーキングチームで行われていた。ワーキングチームは非公開で行われていたので、そこでの議論は全く分からなかった。

フェアユースに関する議論は非公開のようだ。朝日新聞と日経新聞がその内容を報じているが、それもインターネット上には存在しない。著作権に関する議論がこれほど閉鎖的でいいのだろうか。

フェアユースについてはこれからも注目していきたい。

出版社・芸能事務所・フリー編集者

電子書籍化が国内出版社同士の協力を促しているというニュース。気になったのは電子書籍の出版権についての記述だ。

asahi.com(朝日新聞社):電子書籍化へ出版社が大同団結 国内市場の主導権狙い – 文化

著作権法ではデジタル化の許諾権は著作者にある。大手出版社幹部は「アマゾンが著作者に直接交渉して電子書籍市場の出版権を得れば、その作品を最初に本として刊行した出版社は何もできない」と語る。

現状では出版社は電子書籍の出版権を持っていない。よってアマゾンのような第三者がその権利を著作権者から直接取得してしまう可能性がある。

日米の「綱引き」で作家の取り分(印税)が紙の本より上がる可能性は高い。出版社から見れば、作品を獲得するためにアマゾンとの競争を迫られることになる。

作家の取り分が紙の本より上がることは社会的にみれば望ましい。ある書籍のがもつ潜在的な市場規模のうち、著作権による独占で得られる著者の取り分はかなり少ない。よって本来社会的には価値のある著作も、著者の個人的見返りに見合わないために執筆されない。作家の取り分が増えればより多くの著作が世に出回る

講談社の野間省伸(よしのぶ)副社長は「経済産業省などと話し合い、デジタル化で出版社が作品の二次利用ができる権利を、著作者とともに法的に持てるよ うにしたい」との考えだ。新潮社の佐藤隆信社長は「出版社の考えが反映できる場を持つことで国内市場をきちんと運営できる」と語る。

そうすると、電子書籍の権利の話は出版社が自分の取り分を維持したいだけのようにも聞こえるがそうでもない。何故なら電子書籍の売上と紙媒体での売上には外部性があるからだ。出版社にとっては営業努力をして紙媒体で売った作品を電子書籍でばらまかれては努力が無駄になってしまう。逆に、新規の著作では電子書籍が紙媒体のプロモーションのために使われるだろう。

このような問題を解決する簡単な方法は二つの販売経路を一つの主体が管理することだ(内部化)。そうすれば、紙媒体の売上への影響も計算にいれた上で電子書籍のプロモーションを行うことが出来る。

出版社も新しい出版契約についてはデジタル化の権利まで含むものにするだろうが、過去の契約については作家と再交渉が必要、つまり作家への見返りが必要であり、これを政策的になんとかしてほしいというのが上の発言だろう。

ただ、この流れが電子書籍の権利までに止まるかは疑わしい。音楽市場においてデジタル化は音楽の販売によって利益を上げるというビジネスモデル難しくした。アーティストはライブパフォーマンスで稼ぐようになっており、既に有名アーティストがコンサートプロモーターであるLiveNationのような企業と契約している。これは上の理屈と全く同じで、ライブと音楽販売との間の外部性を内部化するビジネスモデルだ。前者の重要性が増せば、ライブを本業とする企業がレコードレーベルに優位に立つのも頷ける。

書籍でも執筆者にとって著作の売上自体の重要性は減っていっている。収益化の難しいデジタル化はその流れを加速させるものだ。本を出版することで知名度・ネットワークを築き、別の経路でその金銭的リターンを享受しようとする人が増えれば、出版は個人のプロモーションの一部でしかなくなる

そうなったときに出版社が競争優位を持っているとは限らない。個人レベルのプロモーションでは例えば芸能事務所に分がある。今ならソーシャルメディアのコンサルタントがプローモーターとなることもありうるだろう。プロモーションを一手に引き受けるものが出版も手がける。

また利益の回収方法が多様化すればそれを適切にカバーするビジネスがなくなるかもしれない。そうなれば、将来稼ぐことを見越して出版社が作家を囲い込むことはできなくなる。有名になったとして出版で稼いでくれないなら投資を回収できないからだ。結果、著者自身がリスクを負った上で必要に応じて外部と契約することが多くなるだろう。これはフリーの編集者という職業を生む。

現在の出版社が生き残ろうと思うなら、音楽業界がたどった道を分析し、それに抗うのではなくうまく乗っていくべきだ。

追記:

紙の本の出版権とデジタル化権の抱き合わせには反対」に実際の業界の慣習を交えた興味深いエントリーがある。これについても後ほど考察したい。