命の値段?

「裁判官論文が波紋」というより朝日新聞が波紋を呼びこもうとしているように見える次の記事:

asahi.com(朝日新聞社):「命の値段」、非正規労働者は低い? 裁判官論文が波紋

パートや派遣として働く若い非正規労働者が交通事故で亡くなったり、障害を負ったりした場合、将来得られたはずの収入「逸失利益」は正社員より少なくするべきではないか――。こう提案した裁判官の論文が波紋を広げている。

裁判所が用いる逸失利益計算で正規労働者と非正規労働者を分けようという提案をしている論文についてだ。逸失利益とは損害賠償なんかで本来得られてたであろう利益・収入を言うわけで、労働者によって違うという主張自体は特に真新しいものではない。それを「命の値段」と呼ぶのが不適切なだけだ。差を設ける事自体を問題とするのなら、重度障害者の逸失利益はゼロ計算が普通のようだ(ゼロでないという判決が初めてでたというニュースが昨年末にあったが既に新聞社のサイトには見当たらない…)。

この論文に対し、非正規労働者側は反発している。…脇田教授は朝日新聞の取材に「論文は若者が自ら進んで非正規労働者という立場を選んでいるとの前提に立っているが、若者の多くは正社員として働きたいと思っている。逸失利益が安易に切り下げられるようなことになれば、非正規労働者は『死後』まで差別的な扱いを受けることになる」と話す。

さらに、逸失利益に差を設けることについて、差別だという主張を引いているが、これは的外れだろう。平均逸失利益が正規労働者と非正規労働者が異なるのはおそらく事実であり、実際に違うものを違った風に扱うことを差別だと批判するのは難しい。むしろ批判すべきは以下のような点だ:

  1. 逸失利益が人によって異なるのは事実だが、それなら正規・非正規という分け方だけに留まる理由はなく、そこだけを取り上げるのはおかしい
  2. 現在正規雇用であっても将来的にそうとは限らないので、概算するにも指標として不適切。
  3. 本来得られたであろう便益を金銭収入だけで算出するのはおかしい(余暇を重視したキャリア設計をして途中で死亡した場合、得られるはずだった将来の所得は逸失利益に含まれるが、得られるはずだった将来の余暇の価値は含まれない)。
  4. 加害者に適切なインセンティブ=ペナルティーを与えるという視点で考えると、普通加害者は事前に相手が正規雇用か非正規雇用かを認識していないのでそれを計算に入れる必要がない(例えば逸失利益が一番使われるであろう交通事故)。

そこで逸失利益の代わりになるのが統計的生命価値(Value of Statistical Life)だ。これは、人々が死ぬリスクを回避するために(例えば乗用車の安全設備に)どれだけの資源=お金を割いているかを調べ、そこから「一人」の命を救うために(政府が)負担する費用を計算するものだ。日本やアメリカでは5-10億円程度という推定結果が一般的だ。この数字は金銭収入以外の価値を含んでいるため逸失利益≒生涯所得よりも遥かに大きくなる。

「統計的」とあるように、この数字はある特定の人間の「命の値段」を示すものではない。確実な死を防ぐために支払える金額は多くの人にとって払える限界額だろうし、死ぬことと引き換えにお金を貰うことは(遺族への配慮を抜きにすれば)意味が無い。(重要ではあるものの)あくまで政策を決定・評価するための数字に過ぎない。「一人」の命を救うというのは例えば10000人が利用すると2人死ぬ危険があった設備を1人の犠牲に抑えるという意味であって、ある人を救うという話ではないわけだ(統計的生命価値が7億円ならこの改善に7億円までならかけるべきとなる)。

ちなみに医療の場合には、政策の対象が一定の病気の人や年齢の人に絞られるので、生活の質や余命を考慮にいれた数字(Quality-Adjusted Life Year; QALY)を使ってどの政策を優先すべきかが議論される(べき)。