いつもコメント頂いているWillyさんのブログから:
もともとはこちらのエントリーへのコメントだ。主な主張は次の一節だ:
しかし、日本人には
「資格取得は効率の悪い差別化である」
という視点が余りにも欠落しているように思う。
あまり資格取得に邁進している知り合いがいないので日本人に一般化できるかどうかわからないが、大量の書籍がでることからすればそうなのだろう。
資格が平均的に見て割に合わないのは当然だ。資格をとる理由は主に二つだろう:
- シグナリング
- 独占利潤
前者は、資格をとることによって自分の能力ないし学んだことを信頼できる形で労働市場にアピールすることだ。多くの人にとって一流大学へいくことの経済的メリットはこれだ。企業は一流大学にいくことで学生が何かを学んだとは思っていない(少なくとも生産性が上昇するという意味では)。にも関わらず一流大学の学生を優先して雇用するのは、そういう学生の方が平均的にみて出来がいいからだ。
ではなぜそれが分かっているのに、みんな入ろうとしないのか。それは学習能力の低い学生にとって受験でいい成績を残すのが極端に難しいからだ。仮にそうでないとしたらより多くの人間が競争に参入し割に合わなくなるまで難易度は上がる。そしてまさにこれが大学がシグナリングとして有効な理由である。成績が非常にいいのは元々頭がよいか類稀なる努力ができるかどちらか(ないし両方)だ。
後者は、資格が一定の独占業務に結びついている場合に当てはまる。一定の業務につける人間の数が限られているということは、供給曲線が一定の場所で垂直に上がっているということだ。そのため、超過利得が発生する。よく挙げられるのはニューヨークのタクシー免許(メダリオン)だ。数が限られているため、タクシーの料金が上がるためもし保有していれば大きな利益がでる。ただこちらもうまい話はない。利益が見込める以上、免許の価格がそれに釣り合うまで上昇する。
両者の境界ははっきりしない。例えば弁護士資格を持っていれば頭もあって努力もできると推定されるし、独占業務もあるため独占利潤も発生する。大学であっても極めて入学が困難な場合、ある特定の仕事がそこの卒業生に限定されてしまうことはある。ただはっきりしているのはどちらであれ美味しい話なんてないということだ。広い意味での「資格」が「お得」である可能性は三つしかない。
- ある「資格」の取得が他の人に比べて非常に楽である(取得のための直接コストが低い)
- 他に出来ることがない(取得のための機会費用が低い)
- 他のひとが「資格」の価値に気づいていない(裁定取引)
誰にでもわかりやすい大学受験を使って説明しよう。1はもともと出来がいい場合だ。簡単に入れるなら入らない理由はない。これは「資格」以前に持っている能力という限られた投入要素からのリターンに過ぎない。2は、他に取り柄がない場合だ。逆の例を使えば、サッカーで食っていこうとしている人に大学は必要ない。より効率的な資源の使い道がある。例え、それほど勉強が得意でなくとも、他に使い道がなければ勉強するのは最善の選択肢だ。3はある大学ないしある専攻が将来価値を大きく増すと知っている場合だ。例えば数学オリンピックはこれに当たるかもしれない。数学オリンピックの金賞(これは上位1/12に与えられる賞のこと)はアカデミックな文脈では非常に役に立つ。しかし殆どの高校生はそのことを知らないように思う。このケースは限られた投入要素が「情報」だと解釈できる。一般に知られているような資格はどれも当てはまらない。これはWillyさんの挙げている次の三つに該当する。
・自分の情報のアドバンテージを認識すること
・自分の情報のアドバンテージを活用すること
・他人の努力していないところでこそ努力をすること
重要なことは1,2,3の全てを活用する事だ。情報面でのアドバンテージは単に探しているだけでは見つからない。何故なら、誰でも手に入るような情報ではアドバンテージにならないからだ。例えば、IT技術の利用法をよく知っていてもIT業界では普通のことだ。しかし同じ人間が一定のコミュニティにいけばその知識はアドバンテージになる。そしてアドバンテージが築けるようなコミュニティはしばしば「資格」で閉じられている。100年前の社会ではこれは明白だっただろう。上流階級の子弟はまさに上流階級というコミュニティにいることでアドバンテージを得た。そうでない人間は商売なり、勉強なりでそこに上がることを目指す。
子供がいたとしたら次のようなアドバイスをするだろう。まず、生まれつきの能力(1,2)を生かして普通はなかなか入れないコミュニティに入り、その中で情報的優位を築き(3)、こんどはその集団の中での相対的優位(1,2)を生かす(以下繰り返し)。自分からみて成功している人間はどれもこのサイクルに乗っている(追記:最初から人の入れないコミュニティにいる場合は最初のステップは既にクリアしている)。
この当たり前のサイクルがよく認識されていないのは教育システムの影響だろう。教育過程において、勉強すればよい人生が送れるといった間違ってはいないが正しくもない説法を聞かされ続けるのが一因のように思う。歴史的にみれば、頭のよい人間が社会の上に立てたのはごく最近だけの話だ。石器時代なら肉体的な強度が最重要だった。古代なら軍事能力、中世なら支配者に気に入られる能力といった風にだ。現代に入り頭のよい人間の価値は高まった。しかしこれも技術の発展によるものだ。そしてこの流れは逆に向かっているように思う。情報処理能力の発展は単純な頭のよさの希少価値を下げる。今のうちに特殊なコミュニティにおける人脈を築き、その中での相対的優位を確保することが重要だろう。
P.S. こう考えると自分の人生はあまり効率的ではないね。まあ、あまりにも一つのことに適性が集中してると市場の力に人生支配されちゃうけどね。
突然のコメント失礼します。
資格ライターをしております鈴木と申します。はじめまして。
貴ブログにて資格について非常に興味深いお話をされていましたので、誠に勝手ながら私の個人ブログにてご紹介させていただいてます。
(もしご迷惑でしたらお申し付けいただければ削除します)
今後ともぜひ定期的に貴ブログをチェックさせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
P.S.
実は私もGraSPP経済政策コースの卒業生です。
はじめまして。
ご紹介ありがとうございます。公共政策でそういう方がいらっしゃるというのは風の噂に聞いたことがあります。小さいところでしたがなかなか変わり者が多くていいところでした。
資格専門のニュースというのは面白いですね。これは、裁定取引を手伝うという意味で市況について解説するのと同じ機能を果たしますね。もちろん、最終的な目的はそれを通じて知名度を上げることかと思いますが。
資格といういわばコモディティと知名度という希少財との違いについてはそのうち書いてみたいと思います。
ありがとうございます。
知ってていただいてうれしいです(笑)
2年次にはほとんど授業には出ていなかったので、同学年にしかほとんど面識ないんですよね…
変わり者が多くていいところだったという点については非常に同感です。
しかし、「裁定取引を手伝う意味で」とか「資格といういわばコモディティと知名度という希少財との違い」というのはまた斬新な視点ですね。
なんだか、GraSPPで勉強してた頃を思い出します。
それでは今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
ピンバック: アメリカでの資格 » 経済学101
先日お会いしたunoです。面白い記事がすごいスピードで更新されているので驚いています。コメントしようと思っていたら、いつも次の記事が更新されているので、時期を逸していました。
資格ですが、現実的には資格を取ろうと決める時点で、資格の価値に気がつくというのは難しい場合が多いのでしょうね。資格の価値も変わりますし。弁護士資格や公認会計士資格の価値はここ10年でかなり変わっているでしょう。他方で、東大卒という価値は余り変わっていないかもしれませんが。
ところで、「情報処理能力の発展は単純な頭のよさの希少価値を下げる。」という意味がよくわからないのですが教えてもらえませんか。個人的には、大量情報時代になって、多くの情報を効率的に吸収してものに出来る人と(頭の良い人)、そうでない人の差(能力及び市場価値)はどんどん大きくなっているように感じています。
コメントありがとうございます。
>資格ですが、現実的には資格を取ろうと決める時点で、資格の価値に気がつくというのは難しい場合が多いのでしょうね。
これはその通りだと思います。資格の価値を考えていると、そもそも勉強にならないということもあります。何も考えずにとにかく取るんだと信じている方が効率がよさそうです。
同じような現象は経営者についても言えます。経営者は経済の原理を学ぶべきではありますが、本を読んで勉強するのを好むひとはそもそも経営者に向いていません。だからコンサルティングなんていう産業があるのかもしれません。
>弁護士資格や公認会計士資格の価値はここ10年でかなり変わっているでしょう。他方で、東大卒という価値は余り変わっていないかもしれませんが。
前者は独占業務からの利潤が大きいので制度が変われば大きく影響されます。後者はシグナリングなので、難易度さえ変わらなければ変わりません。
>個人的には、大量情報時代になって、多くの情報を効率的に吸収してものに出来る人と(頭の良い人)、そうでない人の差(能力及び市場価値)はどんどん大きくなっているように感じています。
ここでの「単純な頭のよさ」というのは大学教育が必要かというような基準を考えています。コンピュータがなければ数値計算・会計・データベース管理などの業務には莫大な人員が必要ですが、コンピュータがあればごく少数の人間で十分対応できます。
一般にある産業が非常に効率化されるにつれてその産業で必要とされる人間の数は減っていきます。農業技術の進歩によって、農業従事者は1,2%まで減りましたし、製造業も先進国では10-20%程度です。
よって将来的には現在のホワイトカラー的職業は少なくなり、人手が必要な産業へシフトしていくことが考えられます。
ただこの議論はコモディティ的な頭のよさについてしか当てはまりません。そうでない特別な頭のよさについては価値が大きく高まるはずです。ちょっと長くなりそうなので、近いうちに新しいポストとして投稿します。
早速ありがとうございます。お返事も早いですねえ。。
当方は経済学の素養は全くないですが、(このブログを見ていると)ずばずばと断じて議論していくのは面白いですね。
法律学の場合は、利益衡量(Balancing)というものが出てきて、どうも議論がスローで切れ味のないものになってしまいます。他方で、(実務経験によるものですが)切れ味の良すぎる議論に対しては、(どこか間違っているのではないか)という警戒感が芽生えてしまいます(これは日本の裁判所にも言えるかも知れません)。
とはいえ経済学的思考の重要性はかなり認識されていると思いますので、このブログとかで勉強していきたいと思います。
>当方は経済学の素養は全くないですが、(このブログを見ていると)ずばずばと断じて議論していくのは面白いですね
間違っていても仮定がおかしいことが分かるだけなのでずばずばと議論できます(論理展開がおかしいこともありそうですが。。。)。
>法律学の場合は、利益衡量(Balancing)というものが出てきて、どうも議論がスローで切れ味のないものになってしまいます。
こちらから見ると、その利益衡量が事前の行動にどんな影響を与えるかが気になります。
>他方で、(実務経験によるものですが)切れ味の良すぎる議論に対しては、(どこか間違っているのではないか)という警戒感が芽生えてしまいます(これは日本の裁判所にも言えるかも知れません)。
これは経済学でもそうです。一般にシカゴ学派と呼ばれるエコノミストは非常に美しい議論をしますが結構穴があります。それでもはっきりと議論すればどこかがおかしいかが分かるので理解が深まるのでいいことだと思います。
>とはいえ経済学的思考の重要性はかなり認識されていると思いますので、このブログとかで勉強していきたいと思います。
ご覧いただきありがとうございます。これがこのブログの目的なので頑張っていきたいと思います。