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教育はペイすべきか

mixiで見かけたのでコメント:

教育のもたらす利益について (内田樹の研究室)

さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。

しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。

公教育の正当化が、自己利益に基づく経済合理性であること批判している(しかしブルジョワなんて単語が使われているのは久しぶりに見た)。ではどう正当化するのか。

教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。

「社会化」のためだそうだ。しかし、では何故「社会化」は必要なのか。「社会化」が必要だと社会を説得するためには結局のところそれが構成員にとって何らかの意味で「得」である主張する必要がある(そうする気がないのならこんな文章を書くはずがない)。それは狭義の「自己利益」に当たらなくても同じことだ。大多数の人間が「社会化」されている社会のほうが大抵の人にとって望ましい=「得」であるだけだ。そしてそれは最もな意見だ。

しかし同時に経済合理性が何らかの形で担保される必要があるのは明白だ。公教育に無限の資源を投じることはできない。「社会化」が目的の一つだと認識した上で最も効率的な投資を行う必要がある。「社会化」という言葉だけでは例えば教育予算をGDP比何パーセントにすべきかだって決めることができない。欧米諸国より少ないから増やそうという意見はあまり説得力がない。

では何故彼は「利益」を通じた経済合理性の適用に反対するのか。これは捕鯨問題と全く同じ倫理(学)的問題だ。教育は(あらゆる社会問題)同様、何らかの経済合理性に基づいて正当化される。しかし教育内部においては、教育が必要な理由が経済合理性であっては困る。経済合理性を個人の立場だけで考えれば、望ましい量の教育を受ける理由は無いからだ。何故自分の時間をさいてまわりの人間のために「社会化」しないといけないのか、ということだ。教育内部での論理を教育の是非といったメタな問題に適用することはできない。

「悪いこと」をしてはいけないのはなぜか子供に教えるとする。「悪いこと」してはいけないのは刑法に反するからだとは言わないだろう。「悪いこと」をしてはいけないのはそれが「悪いこと」だからだと教えるはずだ。しかしこの説得はトートロジーであって何が悪いことであるかを決めるのには何の訳にも立たない。例えばインサイダー取引が悪いかどうかどうやって決めるのか。それが悪いとしてどれだけの罰則を定めるべきか。「悪いこと」は「悪いこと」だと唱える教育者は必要だが、教育の外=政策決定に出張ってこない良識は持つべきだろう。出てこないことが社会の構成員にとって得であるという意味でだ。

確信犯的に政策決定に口を出すことも考えられる。政策決定に携わる人間は経済合理性を担保する必要がある一方で政策内部での論理、例えば教育は経済合理性ではないという意見、を声高に否定することはできない。そこを逆手にとって政策決定を歪めることもできるだろう。