安楽死の違法性についてのポストだがどうも主張がはっきりしない:
この種の事件があるたびに「殺人罪」という罪名に対して違和感を覚えます。死期を控えた患者の苦しみを見かねた遺族が医師に懇願したケースが、強盗殺人な どの利己的な動機のための殺人と同じ殺人罪で処断されるということに対する違和感です。両者はかなり異質なものに思えます。
「違和感を感じる」というのは、安楽死を合法化する根拠として薄弱に過ぎる(注)。何故違和感が生じるかが問題だ。では何故安楽死と強盗殺人が違うのか。死をもたらした人間の動機が利己的か否かというのはあまりよい切り口ではない。安楽死を行った医師もまた自分の意志で行動しておりそれが利己的なのかというのは哲学的問題だ。
一番大きな差は死んだ人間に合意があったかだ。安楽死においては当事者間に合意があり、強盗殺人においてはない。合意があったということは当事者全員にとって安楽死がプラスということであり、重要な利害関係を持つ人が当事者に含まれている限りそれは社会的にもプラスということだ。
自殺もまた死亡する本人の意志に沿っているという点で安楽死と同じだが、本人以外の利害関係者(家族など)の合意の有無でことなる。この意味で安楽死は自殺よりも強い正当性を持つ。
さらに、安楽死を選択するのは終末医療においてだが、その費用の大部分は健康保険によって賄われている。延命を続けるための費用に補助がでているのにも関わらず延命を止めることをことを選択しているのだから、安楽死の方が延命を続けるよりも大幅に望ましいということだ。意思決定者には考慮されていない終末医療のための保険支払い額まで含めれば費用便益の観点から言って安楽死が社会的にプラスなのは明らかだろう。
では安楽死を認めることの問題は何か。それは当事者全員に合意があるという前提だ。当たり前だが家族であってもそれぞれの利害は一致しない。家族の意見が一致してもそれが本人の意志と一致しているとは限らない。これが特に大きな問題となるのは、既に本人の意志確認が難しくなっている場合だ。
現実的な提案としてはいくつかのパターン分けが望ましいだろう。例えば次のようなものだ:
- 本人の意志確認が可能で家族の合意があれば合法
- 本人が意志を事前に残しており家族の合意があれば合法
- 本人の意志確認ができなくとも第三者が一定の基準で判断したうえで家族の合意があれば合法
- 本人が拒否の意志を示している場合には状況によらず違法
- 強い利害関係の対立がある場合には調査
- 家族に限らず強い反対を表明するものがいる場合には調査
詳細はそれぞれのパターンの生じる確率やルールの執行にかかるコストによって決めるべきだろう。ポイントは本当に全員の合意がとれているか、その確率はどのくらいか、判断が間違ってる場合の費用はどの程度かということだ(理論的には全員の合意がなくとも社会的に差し引きプラスということもあるが、その計算に必要な情報を集めるのは不可能だろう)。安楽死が行われた場合にはそれを取り消すことはできない(これは死刑の是非の問題と似ている)。
また、生命は今後数十年間生きられる命もあれば、あと数時間、数分の場合があります。残り数分の命を縮めても殺人となります。
費用を考えるうえでは生命の価値についての議論も避けて通ることはできないだろう。生命の統計的価値が高齢・不健康になるにつれ減少するのは事実であり、そのことを社会がどのように扱うかを考える必要がある。
(注)当該ポストには「疑問を覚える」「異質なものに思える」「乱暴だと思う」「問題にならないと思う」といったような曖昧な表現が多く言論としては望ましくない。これはこのブログがである調になっている理由の一つだ。
安楽死ですか。
日本人としての私の感覚では、アメリカで回復見込みのない患者さんの延命治療を止め、苦痛を除くためということでモルヒネのような薬剤をふんだんに使う場面に遭遇したとき、これは殺人幇助じゃないのかな、と思いましたが現地の常識ではそうではないようです。
殺意というか、絶命させる意図で手を加えるのでなければ、安楽死にはならないようで、今では苦痛を除く目的が多少生存期間を縮めるにせよ、臨終を苦しみぬいて迎えるよりはよほど平和に、家族も患者の苦しむ姿を見なくて安らかな死を迎えることができてよい、とすっかり慣れてしまいました。
こういう考え方は、キリスト教の影響かなとも思ったのですが、
ウクライナ人の研修医も、臨終にモルヒネ使って苦痛を除くのに躊躇してたので、ダイレクトにキリスト教の思想でもなさそうです。
ちゃんとした議論ののち、延命処置をやめることと、安楽死には明確な違いのあります、すでに実践しているのに違いが明確な線引きの拠り所を知らないでいました。
岡田氏はheroic intervention である気管チューブの除去(喉に管なんか差し込まれたら、まともな状態では耐えられない苦痛、拷問です)と筋弛緩剤を与えるという殺人行為を(もし意識があって、突然息一つ、瞬き一つできなくさせられたら、「楳図かずお」ばりのサイレント絶叫・恐怖を味わいながらの絶命です。筋弛緩剤によっては筋弛緩の前に全身筋の強縮・痙攣というさらなる苦痛が加わります)ごちゃまぜにしています。
褒められた書き方では無い気もしますが,安楽死のニュースを見聞きするたび,現代というのは死ぬのが難しい社会だなと思います。医療の発達によって昔だったら亡くなっているような人でも生きていける社会になって,それはそれで良いことだと思いますが,人間の倫理観が旧態依然というか。もっと積極的に取り組んでいく話題のはずなのに,話す人が少ないという印象もあります(あくまで個人の感覚です)。
ap_09さんコメントありがとうございます。
>アメリカで回復見込みのない患者さんの延命治療を止め、苦痛を除くためということでモルヒネのような薬剤をふんだんに使う場面に遭遇したとき、これは殺人幇助じゃないのかな、と思いました
確かにアメリカだと保険会社が民間企業なので安楽死を進める強烈なインセンティブを持っていて危険ですね。
>今では苦痛を除く目的が多少生存期間を縮めるにせよ、臨終を苦しみぬいて迎えるよりはよほど平和に、家族も患者の苦しむ姿を見なくて安らかな死を迎えることができてよい、とすっかり慣れてしまいました。
これは完全に同意です。
>ダイレクトにキリスト教の思想でもなさそうです。
過度の延命治療を止めるのは思想的背景とは関係なく賛成が得られることだと思います。
線引きは微妙かもしれないですが、延命治療の停止という意味での消極的な安楽死からまず明確に認めていけるといいと思います。
>岡田氏はheroic intervention である気管チューブの除去と筋弛緩剤を与えるという殺人行為をごちゃまぜにしています
具体的にどの処置が苦痛が多いのかというのは医療に携わる人が関わって議論する必要がありますね。なかなか怖いお話です。
miki_tea_ksさん、コメントありがとうございます。
>安楽死のニュースを見聞きするたび,現代というのは死ぬのが難しい社会だなと思います。
そうですね。死ぬ自由もないというのはとても個人的には生きにくい社会かと思います。
>人間の倫理観が旧態依然というか。もっと積極的に取り組んでいく話題のはずなのに,話す人が少ないという印象もあります(あくまで個人の感覚です)。
安楽死の議論が進まないのはまさに倫理が時代に追いついていかないためですね。後でそれについても書きたいと思います。
死という概念自体普遍的ではありえなくなってるから難しい問題かもですね。(元は普遍的だったということでもありませんが。)そんな場合、既存の感覚なら、できれば本人の意思を優先するのが最良なのですね。
これはどちらかといえば脳死関連でしょうが、アメリカだと運転免許証や健康保険だかの取得時に、ドナーになるか、なるならばどの臓器、器官なら提供する意思があるか示すよう求められることがあります。
そういった意志確認を「生前」にしておくことは良いことだと思うのですが、それでも気になるのは、自分なりの生死の境の定義自体は、はっきり示しにくいことです。
脳死の判定みたいなものはガイドラインがあるのでしょうが、他にも色々なポイントで、これこれこういった状態なら自分を安楽死させてもいいです、というような意思を示すために役に立つようなガイドラインが欲しいですね。それを医学関係者が一般人でも分かるように示したりしてくれると、自分の安楽死の可能性を考え、事前に意思を示す上で役に立つかなと思います。まあ全てのケースを事前にカバーできるわけでもないと思うので、難しいかもしれないのですが。
そういった意思を生前に示すことを義務づけるのもありだと思いますが、どうでしょう。
面白いエントリーですね。私はリバタニアニズム的に安楽死はアリと考えていますが、社会的にプラスであるという視点は興味深いです。
では、どのように社会的にプラスなのかという点なのですが、以下の一文が良く分かりませんでした。
>重要な利害関係を持つ人が当事者に含まれている限りそれは社会的にもプラスということだ。
これはどういう意味なのでしょうか?
talamownさん、はじめまして。
>どのように社会的にプラスなのか
社会的にプラスの定義によりますが、関係者が全員が賛成していることが社会的にマイナスだと主張するのは難しいのではないでしょうか。
私はリバタリアニズムもまたこういう観点で支持されるものと思います。
毒之助さん:
>死という概念自体普遍的ではありえなくなってるから難しい問題かもですね
そこで統計的生命価値が登場するわけです。
>、アメリカだと運転免許証や健康保険だかの取得時に、ドナーになるか、なるならばどの臓器、器官なら提供する意思があるか示すよう求められることがあります。
これはいい考えですね。取得時には判断能力があるという前提なのでそういう問題は生じません。
>自分なりの生死の境の定義自体は、はっきり示しにくいことです。
間違って安楽死させるのが一番まずいので保守的な基準を作るしかなさそうです。
>そういった意思を生前に示すことを義務づけるのもありだと思いますが、どうでしょう。
デフォルトの選択肢を与えるのは終末医療への莫大な支出を考えると良さそうです。言われてみれば、延命治療は受けたくないという人は多いように思います。
アメリカの医療費は馬鹿みたいに膨れ上がっているわけですが、命の値段を測るのが難しい以上、本当に総医療費が高すぎるのかは判断しかねます。社会は余剰生産能力の全てを先端医療研究につぎ込み、金持ちは有り金全部治療費につぎ込んで死ぬという社会も、戦争で需要を創出しながら貧富の格差がどんどん拡大する社会に比べればましな気もします。
Willyさん:
>アメリカの医療費は馬鹿みたいに膨れ上がっているわけですが、命の値段を測るのが難しい以上、本当に総医療費が高すぎるのかは判断しかねます。
一応統計的生命価値なら計測は可能ですし、モラルハザードがあるので現状は過大評価になっていると思います。
>社会は余剰生産能力の全てを先端医療研究につぎ込み、金持ちは有り金全部治療費につぎ込んで死ぬという社会も、戦争で需要を創出しながら貧富の格差がどんどん拡大する社会に比べればましな気もします。
まあどちらかといえばそうですがどちらも選ばないようにしたいものです。
>安楽死したい人とさせたい人がいる限り望みが叶うという意味でプラスではないでしょうか?
talamownさんのお考えの代弁にはならないと思いますが、横から失礼します。
その理屈が通るなら、奴隷契約等は(奴隷契約に真に合意していたかの確認が困難であるという点をクリアできるならば)禁止されないはずです。しかし現に禁止されており、禁止することに価値があると考えている人がいるということです。私はこの価値判断に納得できないのですが、例えばカラブレイジなどは、奴隷になっている人を周りの人が見たくないから、自分自身を売ることはできないという不可譲の権利が設定されている(奴隷契約は禁じられている)、と説明していたと記憶しています。
Rionさんはリバタリアンの傾向が強いように見受けられ(そして私もその傾向が強いのでRionさんの考え方に共感するところが大きいのですが)、リバタリアンからすれば奴隷契約を禁止するのはけしからないとなるでしょうが(リバタリアンでなくともパレート効率の考え方からすれば、奴隷契約禁止はけしからないというでしょうが)、しかしそうでない価値判断を持っている人を説得するのはかなり困難です。
仮に論理で相手を負かすことができたとしても、相手を説得することができなければ、民主主義の下では論理的に正しくないという理由だけで覆すことは困難です。一般に説得にあたって論理が最大の武器であると思っていますが、論理が常に有効であるとは限らない、ということです。
奴隷契約の禁止と安楽死の禁止には通ずるものがあるのではないかと予想しています。奴隷になっている人を見たくない、人の死期が人為的に早められるのを見たくない、という価値判断(価値判断の中身は他の人によってもっとうまく説明されるかもしれませんが、自殺幇助を禁ずる今の刑法は、自殺したいという人の効用よりも人の命そのものを法益として重視しているとしか言いようがありません)があるのでしょう。
私はその価値判断を共有しないので、奴隷契約禁止や安楽死禁止は馬鹿げていると思っています。しかし、価値判断が違うなあという相手に対しては、「あなたが信じているその価値は本当に価値があるとお考えですか?」というくらいしかできないかもしれないとも考えています。あたかも「あなたが信じている神様仏様は本当にそんなに大層なものか考えたことがありますか?」と改宗を促すがごとく。
>その理屈が通るなら、奴隷契約等は(奴隷契約に真に合意していたかの確認が困難であるという点をクリアできるならば)禁止されないはずです。
奴隷契約に対する反感=道徳的直感は、それが合意に基づいていないケースがほとんどだという歴史的事実から生じていると思います。
メタなレベルでは技術的な問題がなければ禁止する必要はないでしょう。
ただ、現実に存在する倫理観を前提にすれば功利主義からいっても禁止はやむなしになるでしょうか。
>例えばカラブレイジなどは、奴隷になっている人を周りの人が見たくないから、自分自身を売ることはできないという不可譲の権利が設定されている(奴隷契約は禁じられている)、と説明していたと記憶しています。
これは上の現状の倫理観を前提にした功利主義です。
>リバタリアンからすれば奴隷契約を禁止するのはけしからないとなるでしょうが(リバタリアンでなくともパレート効率の考え方からすれば、奴隷契約禁止はけしからないというでしょうが)、しかしそうでない価値判断を持っている人を説得するのはかなり困難です。
私のメタ倫理学上の立場はヘアの二層理論に近いです。結果として帰結主義的なリバタリアンと同じ価値判断をする傾向があるのかと思います。
異なる価値観を持つ人間が完全な直観主義に基づいて倫理判断を下す場合には説得の方法はありませんが、現実にはそんな人はいないように思います。
>しかし、価値判断が違うなあという相手に対しては、「あなたが信じているその価値は本当に価値があるとお考えですか?」というくらいしかできないかもしれないとも考えています。あたかも「あなたが信じている神様仏様は本当にそんなに大層なものか考えたことがありますか?」と改宗を促すがごとく。
これが直観主義に基づいて倫理判断を行う一種の狂信者です。我々はこのレベルでの対立を避けるために、メタなレベルで帰結・功利主義的な立場で議論を行うべきというのが私の考えです。
たまたま直感が一致しない限り、直感による説得は無意味です。だからこそ、経済学=功利主義による議論が重要となります。
もちろんメタ倫理的な議論もまた、彼らには倫理内部での議論だと捉えられるでしょうがこれは根気良く続けるしかないのではないでしょうか。人間ならいつかは理解できるはずです(正確には私の人間の定義がそれですが)。
>我々はこのレベルでの対立を避けるために、メタなレベルで帰結・功利主義的な立場で議論を行うべきというのが私の考えです。
>人間ならいつかは理解できるはずです(正確には私の人間の定義がそれですが)。
なるほど、「我々」というのは経済学徒だけではなく、民主主義下の主権者全員ということですよね。私は、話が通じないと諦観を抱くことが時々ありますが、Rionさんは前向きですね。
>現実に存在する倫理観を前提にすれば功利主義からいっても禁止はやむなしになるでしょうか。
これは、安楽死や奴隷契約に関する利害関係者の範囲について線引きをしないということですね。そして確かに功利主義なら線引きのしようがないだろうと思います。
私は安楽死や奴隷契約に関して「外野がごちゃごちゃ言うな」として利害関係者の範囲について線引きをし、死にたい人や自分自身を売りたい人の自由を尊重したいと思っています。帰結主義的なリバタリアンにはなりきれないようです。
尤も、線引きの基準を自力で提供することはできません(法学では、利害関係者でない者をはじく時の道具概念として「反射的利益」などの基準があることになっていますが、安楽死禁止や奴隷契約禁止については「反射的利益」ではないということになっている理由も不明です)し、なぜ自分が自由尊重の「狂信者」であるかについて自己分析ができていない(帰結主義等を論破する用意はできていない)、といった弱点は認識しなければならないとも思っています。ひと様のブログで自分語り、失礼しました。
>なるほど、「我々」というのは経済学徒だけではなく、民主主義下の主権者全員ということですよね。
論理の通じる全ての存在です。逆に言えば私は人間以外の動植物は含みません。
>私は、話が通じないと諦観を抱くことが時々ありますが、Rionさんは前向きですね。
全て解決するとは思いませんが、改善はできると考えています。
>これは、安楽死や奴隷契約に関する利害関係者の範囲について線引きをしないということですね。そして確かに功利主義なら線引きのしようがないだろうと思います。
倫理規則について一般化可能性は落とせない条件です。一般化の範囲については倫理からは導き出せませんが、現状では民主主義によって決まっています。
>私は安楽死や奴隷契約に関して「外野がごちゃごちゃ言うな」として利害関係者の範囲について線引きをし、死にたい人や自分自身を売りたい人の自由を尊重したいと思っています
帰結主義的に正当化可能なので問題はないのではないでしょうか。
>尤も、線引きの基準を自力で提供することはできません
功利主義がカウントする範囲(スタンディング)は倫理内部では決定できません。単なる力関係で決まります。
>なぜ自分が自由尊重の「狂信者」であるかについて自己分析ができていない
現在社会において自由を尊重する考えは、最も正当化しやすいものですのでそういう考えを持つようになるのは自然なことではないでしょうか。
>ひと様のブログで自分語り、失礼しました。
いえ、大変参考になりました。経済の話では倫理の議論が蔑ろにされがちです。社会選択に関して結論を出す以上倫理的な判断をしているにも関わらずそれに自覚的でない点はエコノミストの議論を胡散臭く思うひとが多い理由の一つです。