なぜ開発援助に成果主義の導入が進まないのかについての明察:
Linking aid to results: why are some development workers anxious?
Linking aid more closely to results is attractive from many different perspectives. My own view is that linking aid directly to results will help to change the politics of aid for donors.
成果主義の導入は何よりも援助国が開発援助を政治的に正当化するのに役立つという。
I think donors will be freed from many of the political pressures they currently face to deliver aid badly; and it would be politically easier to defend large increases in aid budgets.
成果がきちんと観測できるのであれば、直接指示を与える必要もないので効率的だし、納税者も納得する。営業のように結果の見えやすい部署が成果主義に近い形で運営されているのと同じだ。
But there is one group of people for whom these ideas seem to be quite unsettling: development professionals in aid agencies and NGOs.
しかし、開発に関わる専門家やNGOはこれに反対しているという。何故だろうか。
The “risks” identified in the CAFOD brief are not primarily about the consequences for development but rather risks to the privileged position enjoyed by professional staff in aid agencies and NGOs.
それは援助の効果の問題ではなく、成果主義の導入が彼ら専門家やNGOが占めている特権的な地位を脅かすからだ。これは少し考えれば明らかだ。成果主義が導入されれば、今まで業務を細かく指示してきた管理職は必要なくなる。次の政治家との対比は切れ味がよい:
Politicians are, of course, at their most dangerous when they can no longer distinguish their own interests from the interests of the people they are meant to serve. Similarly we should be concerned when we hear development professionals identifying themselves as speaking for the poor, and arguing that they must retain influence (i.e. power) – purchased by the relative wealth of their country – to promote strategies which the country would not pursue on its own.
政治家は正しい意図を持って政治のキャリアに入るが、いつのまにか政治的な力を手にすることが自己目的化する。これはあらゆる職業にあてはまる。自分の判断は一番正しいという考えが内面化された時に力を得ることは常に正しいことになる。開発援助の専門家であれば、援助される側に任せるのではなく、自分が指示するのが最も望ましいという信念を抱いたとき、自分が援助の内容を管理する力を保持することは望ましいことになる。自分が正しいと信じていないと何も変えることはできないが、それが飯のたねになったときその正しさへの信念を捨てるのは難しい。
うーん、アメリカはNGOが強いのでそうかもしれませんが、日本はNGOが弱いですね。
>営業のように結果の見えやすい部署が成果主義に近い形で運営されている
の通りで、ダムなり道路なりインフラ系はばっと作れば、はい、おしまい、で成果が比較的短期的に見えますが、公衆衛生分野や環境分野など成果がすぐに出ないものもあるので、それらを同一に成果主義で論じれば、ハコモノだらけになると思います。
まあ極論だから場合によるますね。
ただ外部、特に納税者、からみて結果が見えない分野への援助がどう正当化されるのかは気になります。
政府機関だったり非営利団体だったりという制度的なもので担保しているのだろうけど、やっぱ規模には限界があります。
あと成果主義はといっても別に社会余剰計算までもっていかなくても何らかのベンチマークの達成を義務付けることはできそうです。まあ変なインセンティブが生じるかもですが。
個人的にはインフラように結果が遠隔地の支援者にも観測できる部分に集中して援助するのが効率的かと思う。
>インフラように結果が遠隔地の支援者にも観測できる部分に集中して援助するのが効率的
ということで要請主義の日本の援助はインフラばかりやってきたわけですね。さらにひも付きにして、直接投資にもつないで。アジア重視で。
いずれにせよ残念ながらそもそもこの分野は定量的に評価するということが始まったばかりです。予算が単年度主義なので長期的なものがなかなかできないというのも非効率の元の一つと言われています。
>いずれにせよ残念ながらそもそもこの分野は定量的に評価するということが始まったばかりです。
まあ国内の政策でもようやく定量的評価がなされるようになってきたところですからねー。
私は、開発に関わる専門家ですが、成果主義の導入に反対していません。専門家やNGOの中には、反対している人もいるのですね。
ご存知と思いますが、かなり前から、日本のODAには体系的な評価システムが導入されており、大金をかけて、普通の民間企業や役所以上に詳細な業務評価を実施しています。
専門家さん:
>私は、開発に関わる専門家ですが、成果主義の導入に反対していません。専門家やNGOの中には、反対している人もいるのですね。
他の同等の仕事がなければ無意識であっても反対してしまうものだと思います。
>日本のODAには体系的な評価システムが導入されており、大金をかけて、普通の民間企業や役所以上に詳細な業務評価を実施しています。
これはある意味当然の流れだと思います。民間企業は自分のお金ですし、役所の国内業務であればメディアの目もあります。構造的に目が届かない開発援助に徹底した業務評価を導入することは納税者にとって望ましいであり、さらなる援助への指示を取り付けるためには必要なことだと思います。
>なぜ開発援助に成果主義の導入が進まないのか
これは multi task 下において incomplete contract を導入する理由がそのまま当てはまると思います。
成果主義のもとで観察可能なtaskと観察できないtaskを同時に行う場合、観察可能なtaskのみに資源を投資して、結果的に前より非効率になることがあり得るというストーリーです(例えば病院を作る場合、建設数だけで評価すると質が最低以下のものになってしまい作らない方がマシになる、とか)。
成果が簡単に観測できない分野だと、事前に投資の妥当性を議論する方が成果主義の導入よりも効率的な場合があり得ると思うのですが、どうでしょうか。
蛇足ですが、「成果が簡単に観測できない場合」も、明確かつ客観的な投資の目標(例えば病院を建てる理由は、~病による死者を一人でも多く減らすとか)を議論・設定する意義はもちろんあります。
投資の目的を明確化することによって、効率が上がることは大いにありえると思います。…というか開発援助や教育の非効率性は、かなりの部分が「投資の目的がそもそも明確でない」ことから来ている気もしますが。
これらの分野については完全に門外漢なので、もし私の勘違いに気づいた方がいましたら、どなたでもご指摘頂けると嬉しいです。
>成果主義のもとで観察可能なtaskと観察できないtaskを同時に行う場合、観察可能なtaskのみに資源を投資して、結果的に前より非効率になることがあり得るというストーリーです
要するに目に見える結果を優先してしまうことは当然あるでしょうが、それで適切な効果測定ができないようなそもそもやる必要がないのでは。。。
>成果が簡単に観測できない分野だと、事前に投資の妥当性を議論する方が成果主義の導入よりも効率的な場合があり得ると思うのですが、どうでしょうか。
どうも開発援助なので頑張って全部をカバーをする必要自体が見えません。他国の援助ではコントロールが難しい分野は自国でやればいいように思います。
>…というか開発援助や教育の非効率性は、かなりの部分が「投資の目的がそもそも明確でない」ことから来ている気もしますが。
これはその通りでしょう。でもじゃあ目的が何なのかを自国で議論すると、あれそもそもこれ無駄じゃない?とかなるので誰も議論したがらないんじゃ。。。
>適切な効果測定ができないようなそもそもやる必要がないのでは
必要性と効果の観測可能性とは一般に別なのでは。
まあ大半の開発援助の場合は、以下の理由のためその通りかもと思います。
>どうも開発援助なので頑張って全部をカバーをする必要自体が見えません。
確かに、開発援助の多くは(主に現地政治家・官僚などの)corruptionとの戦いだと聞いたことがありますので、その意味で「観測可能性」は非常に重要ですね。
>他国の援助ではコントロールが難しい分野は自国でやればいいように思います。
北朝鮮など「自国で必要なことを政治家がやらない」ケースを考えると、一概にはそうは言えない気がします。
まあそういった国こそcorruptionが激しいはずなので、「観測可能」なものから援助を始めることが良い戦略かもしれませんね。
>でもじゃあ目的が何なのかを自国で議論すると、あれそもそもこれ無駄じゃない?とかなるので誰も議論したがらないんじゃ。。。
自国の政治家も人気固めおよびrent-seekingがあるので、成果が出やすい・流行りの方針を追いかけることは普通にあると思います。「全く無駄な事業(benefitがゼロ以下)」というのはほぼ無いですし、一度既得権益を得てしまうと削減に反対するインセンティブがあるので、観測可能性が無い分野は難しいところですね…。
ここら辺もdevelopmentというよりはpolicical economicsの問題ですね。institution design系の話と絡めればpolitical economicsはやるべきことがまだまだあるかもという気がしているので、来年あたりにしっかり学んでみたいです。
まあそもそも開発援助の費用便益を考える上での誰がスタンディングを持っているのかというのが根本的な問題ではないかと思います。
開発援助を受ける国の国民なのか、援助をする国民なのか。実際に援助を携わる人は前者だと考えていますが、援助する国の国内政治としては国益のためなはずです。私としては後者が重要だと考えているので多くの開発援助は費用便益をパスしないように思います。