また鯨・イルカ漁とそのバッシングの季節がやってきたようで:
反対派の主張は基本的に鯨(イルカを含める)を殺すのは可哀想だというもの。それに水銀が含まれていて危ないなどのおまけがつく。そして、実際日本人だってほとんど食べないじゃないかと続く。彼らは本当の問題が全く分かっていない。答えは記事の中に書いてあるというのに:
Taiji’s 26 dolphin hunters — a fraction of the town’s 500 fishermen — and their supporters say the culls are necessary to protect squid and fish stocks from ravenous cetaceans. And why, they ask, would they abandon a tradition stretching back 400 years because of outside interference?
“Westerners slaughter cattle and other animals in the most inhumane ways imaginable, but no one says a word,” said one Taiji resident. “Why is it that only Japan gets this kind of treatment?”
ポイントは二つ:
- 何でお前らに文句を言われなければいけないんだ
- お前らだって家畜を凄まじいやり方で殺してるじゃないか
一番が分からない欧米人は非常に多い。確かに大半の日本人は鯨なんて食べないし、別に他の肉と比べて遥に美味しいと思っているわけでもない。ただ外野から文句を言われたくないだけだろう。アメリカだって外国で資産を買い漁っている時は海外からの投資はいいことじゃないかという態度を取るがいざ自国資産が外国に買われると騒ぐわけだ。倫理というのは相互性の原理で動くものであり、それを欠いた「倫理的」指摘が説得力を欠くのは当然だ。「可哀想だ」という指摘が倫理に基づくものであるからこそ、この問題は決定的となる。
二番目のポイントは動物の権利(Animal Rights)運動の根本的な欠陥をついている。確かに知性が高いとされる哺乳類は人間に近く、同様の痛みを感じるのかもしれない。しかし、権利概念は人間であるか否かで規程されているのであって知能や感覚の有無によるものではない。でなければ赤ん坊に人権はないだろう。成熟し知識のある子供が選挙権を持たないのも同様だ。大人というのは年齢で規定されているのであって知性の有無ではない。では何故人間であるかで全てを区別し、人間であれば平等という基準が採用されたのか。歴史をみれば分かるように最初からそうだったのではない。人間がみな平等で生まれ持って権利を持っているというのは後付けの説明だ。単に元からそういうものだったという事に後からなったのだ。
男女同権になったのは男性社会においてやっぱり女性には権利があると「気づいた」からではない。女性の運動によって男性が支配的な制度が打倒されたか、男女同権な社会がそうでない社会を駆逐したかの何れかだ。人種問題も同様だろう。それが倫理的にどうこうという話ではない。倫理的には「よい」ことでしかありえないわけだから善悪の議論をすることの意味は全く存在しない。
人間社会の構成員がみな平等であるというのはその人間社会のためのルールだ。社会の範囲を決めるために使うことはできない。カテゴリーが違う。二人の人間が一緒に仕事をしているときに儲けは半分に分けようというルールを外挿して、平等に分けるのがルールなら他のひとにも分けるべきではないかと主張するようなものだ。「べき」なのかもしれないが、そんなことは何の意味ももたないだろう。もちろんこんなことは実際には起きない。二人という単位を画定しているのは二人は平等というルールではなく、一緒に仕事をしているという事実であり、二人共それを理解しているためだ。
鯨の問題はいい例だ。何で鯨はダメで牛はいいのかなどという議論がそもそも何故生じるのか。それはまさに倫理はその適用対象を画定する機能を持たないからだ。言い方を変えれば、倫理では鯨と牛を区別できないのだ。全オーストラリア人が鯨を含めて牛を含めないと考えていたとしてもそれは偶々に過ぎない。そうでない集団に対しては彼らの意見は説得力を持たない。だから、それはあなたの健康に悪い、などという的外れな理由を提示するのだ。漁師が実際言うように、だったら何か?、と言われればお終いだ。
但し、こう言う問題が起こるのは必然ではある。それは何故人間は平等かという本当の理由を子供に教えないからだ。代わりに人間が平等とされているのは生まれつきそうなんだとか、他人を殴ってはいけないのは相手が痛いからだと教える。それを信じていれば、じゃあ動物だって権利があるんじゃないのかとか殴られたら痛いじゃないかという話になる。でもこれはある程度仕方ない。何で人間は平等なんだとか、他人を殴ってはいけないかを真剣に考えている人間だけの社会よりも何が何でもそうだと思っている人がそれなりに存在する社会のほうが多くの人にとって望ましいからだ。