ブリダンのロバ

NYTの技術進歩とデーティングの関係に関する記事についてケロッグのSandeep Baligaがおもしろいコメントをしている:

Sexual Promiscuity and the Paradox of Choice « Cheap Talk

コメントがついている部分は次だ:

12:32 p.m. I get three texts. One from each girl. E wants oral sex and tells me she loves me. A wants to go to a concert in Central Park. Y still wants to cook. This simultaneously excites me—three women want me!—and makes me feel odd.

This is a distinct shift in the way we experience the world, introducing the nagging urge to make each thing we do the single most satisfying thing we could possibly be doing at any moment. In the face of this enormous pressure, many of the Diarists stay home and masturbate.

まず、ニューヨークマガジンが運営している匿名のセックスに関する日記からの引用から始まる。一人の男性が三つの(携帯の)テキストメッセージを異なる女性から受信しているが、それぞれの女性は全く異なるものを男性に求めている。

これが可能になったのは社会・技術の変化だ。多くの人々が都市で暮らすようになれば同時に複数の人間と交渉することのペナルティは殆どない。さらに技術がそれを容易にしている。携帯のメールには止まらない。ニューヨークマガジンの記事にはGrindrというiPhoneアプリが紹介されている。Grindrはゲイの男性が相手を探すためのアプリケーションで、ユーザーはプロフィール・写真・興味などの情報を登録する。するとユーザーはiPhoneのGPSを利用して、今近くのどこに他のユーザーがいて、どんな人間かが分かるようになる。

しかし、Sandeep Baligaが注目したのはここではなく、最後の一文だ。日記を書いている匿名の人々の多くは複数の選択が与えられていることに喜びつつも、最も良いものを選ばなければいけないプレッシャーを感じて、結局は家にいて自慰行為に耽ったという。

It is the paradox created by Buridan’s Ass – I should hasten to add that this is an animal not a body part.  The poor Ass, faced with a choice of which of two haystacks to eat, cannot make up its mind and starves to death.

これは哲学におけるブリダンのロバ(Buridan’s Ass)のパラドックスだ(もともとはアリストテレスの「天界について(De Caelo)」からでブリダン自身の発案ではない)。ロバが二つの干し草を見てどちらか決められずに死んでしまうというものだ。

Sen’s point was that the revealed preference paradigm beloved of economists does not fare well in the Buridan’s Ass example.  The Ass through his choice reveals that he prefers starvation over the haystacks and hence an observer should assign higher utility to it than the haystacks.  Sen,  if I remember correctly (grad school was a while ago!), says this interpretation is nonsense and an observer should take non-choice information into account when thinking about the Ass’s welfare.

これについて、アマルティア・センの注釈が紹介されている。経済学における顕示選好(revealed preference)に基づけばロバの選択は、干し草よりも餓死を高く評価している=高い効用を持つとなるがそれは明らかにおかしく、ロバの選好を知るにはロバの選択以外の情報が必要だと言う。

顕示選好の理論は経済主体の行動に一定の合理性ないし無矛盾性を要求しているため、そこから外れた選択を観察するとうまく処理できない。非合理な行動をしているのか、合理的におかしな行動をしているのか判断できないからだ。何度も観察できればどちらかを判定することはできるが、そういう意味でもある一例をだす方法はあまり意味がない。

A second interpretation is offered by Gul and Pesendorfer in their Case for Mindless Economics.  Who are we to say what the Ass truly wants?  To impute our own theory onto the Ass is patronizing.  Maybe the Ass is making a mistake so its choices do not reflect its true welfare.   But we can never truly know its preferences so we should forget about determining its welfare.

Faruk GulとWolfgang Pesendorferによるもう一つの解釈が提示されている。こちらは、センの解釈におけるパターナリスティックな側面を放棄する。ロバは何らかの理由で合理的な行動をとっていないかもしれないが、そうでないかもしれない。

This view is a work in progress with researchers trying to come up with welfare measures that work when decision makers commit errors.

先に上げた通りこれは、意思決定主体がおかしな行動をとる場合にどう評価をするかという問題になる。個人的には、Gul & Pesendorferの考えに賛成だ。このロバの効用について考える必要はない。どんな選択をとったかがすべてであって、それが間違えなのかどうなのかは社会厚生には関係ない。構成員がある状態と他の状態があって前者を選択するのならそれが「正しい」ことだろう。その中の一人が「間違った」行動をとっているかどうかは誰にも分からないという点で意味を持たない。

P.S. Gul & Pesendorferのペーパーを流し読みしがたが非常におもしろい(前にも見たような気がするが)。テクニカルな部分もあるが経済学の道徳的スタンスを知るにはいい読み物だ(個人的にはさらに規範的な主張をするが)。

医療は人権か

NYUのWilliam Easterlyによる医療を受ける権利に関する記事:

FT.com / Comment / Opinion – Human rights are the wrong basis for healthcare

The notion of a “right to health” has its origins in the United Nations’ Universal Declaration of Human Rights in 1948

医療を受けることを人権として確立しようとする運動自体はもう半世紀以上に渡って存在しているが、

President Barack Obama recently held a conference call with religious leaders in which he called healthcare “a core ethical and moral obligation”.

最近アメリカでの医療制度改革議論に伴い注目されている。

This moral turn echoes an international debate about the “right to health”. Yet the global campaign to equalise access to healthcare has had a surprising result: it has made global healthcare more unequal.

しかし、医療政策にモラルを持ち込むことは成功しているとは言い難く、むしろ不平等を拡大している。その理由が次の段落で説明されている。

So what is the problem? It is impossible for everyone immediately to attain the “highest attainable standard” of health (as the health rights declaration puts it). So which “rights to health” are realised is a political battle. Political reality is that such a “right” is a trump card to get more resources – and it is rarely the poor who play it most effectively.

端的に言って、最新の治療を社会の構成員全員に提供することは不可能である。よって医療に対する権利の議論は限られた資源を如何に分配するかというよくある政治の問題になってしまう。そして、貧困層は一般にいって政治力がない。

The WHO 2004 report that emphasised the “right to health” did so on behalf of only one specific effort – Aids treatment.

Saving lives in this way is a great cause – except to the extent that it takes resources away from other diseases.

具体例としてWHOによるAIDS対策が上げらている。AIDS対策は最も大きな効果を挙げたが、同時に他の疾病に対する予算を食いつぶした。結論としては、

The lesson is that, while we can never be certain, the “right to health” may have cost more lives than it saved. The pragmatic approach – directing public resources to where they have the most health benefits for a given cost – historically achieved far more than the moral approach.

医療政策を権利の問題と処理するのではなく、一般的な公共政策として単に便益な分野に資源を集中すべきだとされている。

医療政策に関してはこの考えは妥当なように思える。しかしこの議論には弱点がある。一つは、この議論がありとあらゆる政策分野に適用できてしまうことだ。どんな場合には権利の設定が適切で、どんな場合に行政的対応が望ましいかという判断基準が必要だ。例えば、一般的な財の配分は権利による対応が効率的なことは社会主義がうまくいかないことから明らかだ。

二つめは、権利と政策との間には明確な区別がないことだ。例えばプライバシーを権利として認めるか否かは主に取引費用の問題だろう。取引費用がなければコース的な意味で最適なプライバシーが成立するはずだ。しかし、完全なプライバシーへの権利がある場合と全くない場合以外にも特定の条件でプライバシーへの権利を設定することもできる(有名人ならプライバシーへの権利が狭くなるなど)。

個人的にはある程度の医療を権利として保障することは、再配分政策として意味があるように思う。例えば日本では生活保護法で医療扶助が規程されている。生活保護受給者は国民保険から外れるが国民保険同様の治療を無料で受けられる。これは再配分政策の現物支給として捉える事ができる。再配分政策を行う際に、本当に困っている人が誰なのかを特定することは難しい。支給を何にでも使える現金ではなく、医療という現物にすることで不正受給を減らすことができる。

勉強ドラッグ

More Students Turning Illegally To ‘Smart’ Drugs : NPR via Freakonomics

アメリカの大学で試験前にアンフェタミン(アデラル)やメチルフェニデート(リタリン)が使用されることが問題になっているそうだ。

Students say Adderall and its cousin Ritalin are easy to get — bought and sold in the library, the cafeteria, the dorm, pretty much anywhere on campus. The going rate, they say, is typically $5 a pill. Unless it’s exam week. Then, supply and demand kicks in and the price can shoot up to $25 a pill.

They say the main source for the drugs are students who have prescriptions to treat their attention-deficit disorder.

もとはADHDやナルコレプシーの学生に処方されたものが一般の学生の間で売り買いされている。これはアメリカにおけるADHDの認識の高さと学生間での各種薬物流通の(ひどい)現状による。試験前になると明らかに価格が上昇するというのは学生の計画性のなさを表しているのだろうか。

Amphetamine-2D-skeletal

倫理以前に中毒症状の問題がある。

Although Adderall and Ritalin might sound like wonder drugs that can help students study for hours, the drugs are amphetamine-based.

共にアンフェタミン系の覚醒剤の一種であり、中毒症状がある。

Methylphenidate-2D-skeletal共に処方箋なしでの服用は違法なので対策は他の処方薬同様で構わないだろう。発見した場合には法律で対処すると同時に組織的な市場取引を困難にすればよい。大学構内での見回り、インターネット上のサイトの摘発などで十分だ。そもそも処方薬を本人が服用したかを本当に確認する方法はないのである程度の流通は防ぎようがない。

Farah describes a college survey in which as many as 25 percent of students on some college campuses have used these study drugs in the past year.

大学生の1/4がこの一年でこれらの薬を摂取したとされている。こうなると最大の問題はアメリカにおいて薬物流通経路が大学や高校において確立してしまっている点だろう。多くの学生は薬物について大っぴらにしゃべっているし、誰かがそれを取り締まるという危機感は全くない(だから調査をすると使ったことがあると答えるわけだ)。

何故嘘は犯罪ではないか

嘘をつくことが何故法律で規制されないのかについて:

Overcoming Bias : Allowed Lies

We now empower the legal system to punish folks for “fraud” in misrepresenting themselves in contracts, and for certain other sorts of lies known as “slander” and “libel.”  Which makes sense because we think such lies hurt us overall. But beyond these cases the legal system isn’t much empowered to punish lies.  Why?

詐欺や名誉毀損などは規制されているが一般的な嘘は規制されていない。理由はいくつか挙げられている:

there are many areas in which it is not very clear what exactly is a lie

there are also many other areas, such as in flattery, where we are well aware that most folks lie most of the time

一つには嘘を定義するのが難しいケースがあること、もう一つは真実とは異なることを述べるが当たり前のケースがあることだ。

we could voluntarily choose to bond ourselves to a private agency that would keep some deposited cash if we were ever caught in a lie.

さらに規制されていないだけではなく民間企業が嘘をつかないことを保証する仕組みを提供していないと指摘している。

一番大きな問題は嘘が定義しやすいかどうかというより嘘をついたことを確定する手段がないことだろう。著者のRobin Hansonは、既婚者が独身を装って女性に声を掛けるケースを挙げている:

For example, consider the case where a married man lies about whether he is married when trying to attract a single woman into a relationship.  Single women typically insist they do not want such lies, and it would be easy to determine if the man is in fact married.  So why do we not use the legal system to discourage such lies?

もちろんこの場合嘘をつく本人は意図的に嘘をついているので民間企業が信頼を担保することはありえない。彼は、

the costs to reliably determine if a lie happened could be low

嘘をついていたかを判定するコストは低いといっているがそんなことはないだろう。言ったか言ってないかという話は常に確認は困難だ。結婚しているかいないかを話のネタにすることも考えられる。

また、この例でいえば行動の帰結が規制されているため行動それ自体を規制する必要はあまりないし、本当に未婚か否かを知りたいのであれば比較的小さな費用で調べることが可能だ。

言論の自由との兼ね合いがあるので「嘘」を規制するのはそれが正確に定義でき、有無が正確に決定でき、帰結を規制するのでは足りず、情報を提供するのでも間に合わない場合に限るべきだ。そしてその数少ない例外が詐欺・名誉毀損の類だろう。

ちなみに著者はジョージ・メイソン大学の経済学者であるが、このエントリーには経済学者らしからぬ部分がある。

Single women typically insist they do not want such lies

それは嘘をつかれたいかどうかと聞かれれば嫌だと言うだろう。いい人とそうじゃない人どっちが好みかと聞かれたらいい人だと答えるようなものだ。一般に言って、あるものが欲しいと発言することとそれが本当に欲しいこととは別のことだ。

“Everything is worth what its purchaser will pay for it.” – Publius Syrius

単に質問してもしょうがない。相手の行動とその行動を取るための費用を観察することが必要だ。

教育はペイすべきか

mixiで見かけたのでコメント:

教育のもたらす利益について (内田樹の研究室)

さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。

しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。

公教育の正当化が、自己利益に基づく経済合理性であること批判している(しかしブルジョワなんて単語が使われているのは久しぶりに見た)。ではどう正当化するのか。

教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。

「社会化」のためだそうだ。しかし、では何故「社会化」は必要なのか。「社会化」が必要だと社会を説得するためには結局のところそれが構成員にとって何らかの意味で「得」である主張する必要がある(そうする気がないのならこんな文章を書くはずがない)。それは狭義の「自己利益」に当たらなくても同じことだ。大多数の人間が「社会化」されている社会のほうが大抵の人にとって望ましい=「得」であるだけだ。そしてそれは最もな意見だ。

しかし同時に経済合理性が何らかの形で担保される必要があるのは明白だ。公教育に無限の資源を投じることはできない。「社会化」が目的の一つだと認識した上で最も効率的な投資を行う必要がある。「社会化」という言葉だけでは例えば教育予算をGDP比何パーセントにすべきかだって決めることができない。欧米諸国より少ないから増やそうという意見はあまり説得力がない。

では何故彼は「利益」を通じた経済合理性の適用に反対するのか。これは捕鯨問題と全く同じ倫理(学)的問題だ。教育は(あらゆる社会問題)同様、何らかの経済合理性に基づいて正当化される。しかし教育内部においては、教育が必要な理由が経済合理性であっては困る。経済合理性を個人の立場だけで考えれば、望ましい量の教育を受ける理由は無いからだ。何故自分の時間をさいてまわりの人間のために「社会化」しないといけないのか、ということだ。教育内部での論理を教育の是非といったメタな問題に適用することはできない。

「悪いこと」をしてはいけないのはなぜか子供に教えるとする。「悪いこと」してはいけないのは刑法に反するからだとは言わないだろう。「悪いこと」をしてはいけないのはそれが「悪いこと」だからだと教えるはずだ。しかしこの説得はトートロジーであって何が悪いことであるかを決めるのには何の訳にも立たない。例えばインサイダー取引が悪いかどうかどうやって決めるのか。それが悪いとしてどれだけの罰則を定めるべきか。「悪いこと」は「悪いこと」だと唱える教育者は必要だが、教育の外=政策決定に出張ってこない良識は持つべきだろう。出てこないことが社会の構成員にとって得であるという意味でだ。

確信犯的に政策決定に口を出すことも考えられる。政策決定に携わる人間は経済合理性を担保する必要がある一方で政策内部での論理、例えば教育は経済合理性ではないという意見、を声高に否定することはできない。そこを逆手にとって政策決定を歪めることもできるだろう。