今日、仲俣暁生さん(@solar1964)が「そもそも出版文化って、文化なんだろうか」と発言されていた。しかし、出版業界の人間でもない私にとって出版が文化かどうか自体にはあまり興味がない。単に「文化」の定義によって決まるだけの話で、出版業に特別な文化的要素があるのなら銀行にも医療にも、当然アカデミアにもある(そして保護したいようなものでもない)。それなりに閉鎖的な業界ならどこでも「文化」と呼びうるものがあるだろう。消費者にとっては重要なのはその「文化」が何を生み出すかであって、「文化」そのものではない。
では何故今になって出版業界は文化について論じ始めたのか。これは業界を保護してもらう口実だ。それも、「出版」ではなく「業界」であることがポイントだ。「出版」を守るためなら出版「業界」を守る必要はない。日本の農業や林業を守るために既存の業界における「文化」を保護する必要がないのと同じだ。だから、農業・林業保護の議論に株式会社導入は表立って出てこない。
文化そのものである著作物の生産やその流通を政府が支援する理由はいくらでもある。最も大きいのは著作物の公共財的性質であり、著作権は(本来期間を限定された)独占権を与えることで著作者にインセンティブを与え、出版に関わる人々はその権利から生じる利益の一部を得る。しかし、今出版業界に起きているのは競争相手の出現だ。そして著作者にとってはダウンストリームで競争が起きることは取り分が増えるという意味で望ましい(出版社がKindleとiPadが競争するといいと思うのと同じだ)。
一産業が自分たちのやっていることは文化だと言い出す時、その業界は回復の見込みがない程に衰退へと向かっている。重要なのはその産業が担っていた機能が社会に提供されているかであって、以前その機能を果たしていた業界が存続しているかではない。既存企業を保護することは技術変化に対応して新しい価値を提供する新規企業を潰すことでもあり、業界が「文化」と言う言葉を使った時は特別に慎重になる必要がある。
一言一句同意です。
音楽の時はレコードからCDになる時、CDからMP3になる時、
そしてweb配信になる時、節目節目で必ず文化論が噴出しました。
日本は(欧米もかな?)芸術産業の構造上、出版社のような中間層が強い政治力をもっていますので、
中抜きや水平分離の話が出ると「アナログの暖かさ」とか、
「紙の手触り」みたいな意味不明な文化論を展開して必死にロビー活動します。
その時に団体御用達のアーティストが「作り手の保護」を主張するのがお約束になってます。
>日本は(欧米もかな?)芸術産業の構造上、出版社のような中間層が強い政治力をもっていますので、
これは構造的にどこでもそうですが、それが政治力と結びつくとろくなことがないです。
>中抜きや水平分離の話が出ると「アナログの暖かさ」とか、
「紙の手触り」みたいな意味不明な文化論を展開して必死にロビー活動します。
そういうものの価値は消費者それにお金を払うかで決まるので別に保護する必要はないはずです。
>その時に団体御用達のアーティストが「作り手の保護」を主張するのがお約束になってます。
そもそも、既にアーティストになった人を保護するのは主目的ではないのにおかしな話です。
実家のそばがJASRACでその豪華さはなかなかでした。。
「文化としての数学」論に危機感を持っています(笑)。出版業界みたいに「分かっている人」が分かってて言ってる分にはほっとけばいいんですが、ピュアな人たちは本当にそう信じてそうなのが怖いです。
>「文化としての数学」論に危機感を持っています(笑)。
って検索したら本当にあった(驚)。
数学は文化なんて持ち出さなくても面白くて役に立つので、そこら辺をアピールしてほしい。
面白しろかったので、日記に引用させていただいてもよいですか?
もちろん。ご自由にどうぞ。
農業団体が稲作は日本の文化だと言ってコメの輸入に反対していたことを思い出しましたね。
本当に価値のある文化なら市場でも評価されるはずなんですが。。
出版が今ほどアツイ時期もないですね。文化論を持ち出そうが持ち出すまいが、時計の針を戻すことはできなくて、潰れるところが生まれ、必死に生き残るところが生まれ、新たな形の「出版」が生まれる。そんな時代にいることをこの上なく嬉しく思いますね。
>文化論を持ち出そうが持ち出すまいが、時計の針を戻すことはできなくて
まあ結果的にはそうなると思いますが、政治力とくっついてしまうと面倒なことになります。そこだけ注意したいと思います。
文化論を言う人は、もはや化石。
絶滅危惧種。
今や、日本の一家族で、毎月千円ちょっとしか本を買わないのよ。これ、本当。
紙の媒体は、あと十年で豪華な装丁本だけのコレクションアイテムだけになる。
もう少しで、キンドルのような電子教科書が主流になるだろう。それで、おしまい。
紙の媒体によって権益を確保できた状況は既に無い。メディアのバカ高い情報単価も下がるし、ネットで一億総評論家時代になって、論理が研ぎ澄まさされる。
ただ、それは日本のことだけ。
教育水準が、公平に緊密に比較的高いから可能なので、移民社会のアメリカではデジタル弱者がてんこ盛りになって、情報貧富の格差は広まると思う。
それで、ツイッターの動向を見ると、一億総白痴化の傾向もありそうな気がした。せつな的に脊髄反射で言い撒き散らしが散見されるのを見るにつけ、論理的な叙述の能力は、誰しにも与えられていないようです。
ブログの数は、減るか休眠が増えるような気もするなー。
でも、情報を発信できる機会が万人に与えらることは、とても良いことだと思います。
アメリカでも大差ないような気もします。デジタル弱者に該当する人は紙の本であっても読めないので大差ないでしょう。
ブログはある程度残って欲しいと思います。twitterはtwitterなりの良さはありますが、情報伝達としてはかなり効率の悪いメディアだと思います。
イノベーションが大事と言いつつ、文化を盾に新しい目を摘んでいく。
既得権って、このように守れていくんですね。
紙が良いかどうかは、使い手が判断することです。またコンテンツが優れていれば形態は問いませんけど(僕は)。
まったくその通りです。政府が口を出してうまく行くのは余程原因が特定できている場合だけですね。
かなりずれますが、私は格闘技(を見ること)が好きなのですが、大相撲であれだけ強い朝青龍が、文化を理解していないと言う理由で、叩かれ辞めさせられるのは、ほんとに残念です。
大相撲の興行と発展を考えれば、ほんとに愚かな事だと思うのですが、興行収入で食えなくなったら、文化だという理由で国の保護を求めるのでしょう。
(格闘技界の衰退産業である)大相撲と文化の話で、少しかぶりました。
いえいえ、このポストに関連して大相撲の話をされるかたは結構いらっしゃいました。
大相撲も文化を理由に力士を冷遇するようでは、格闘技としてはもう終わりなんだと思います。数十年後には単なる伝統芸能になりそうです。
製造業も同じです。日本型雇用を正当化するとき必ず引っ張り出してくるのが「文化」です。
http://blog.livedoor.jp/nabeodesuyo/archives/50605191.html
いや、全く。何でも文化の差にしてしまうのは分析として最高につまらないものです。
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