知的財産権はうまくいかない?

RIETI(独立行政法人経済産業研究所)の経済論文を紹介シリーズに知的財産権が取り上げられている。特許や著作権に関する日本語の解説は珍しい:

第12回「知的財産権の強化は、知識の創造や蓄積を阻害する??」 小林慶一郎のちょっと気になる経済論文 RIETI 経済産業研究所

とりあえげらているのは、特許制度自体の廃止を訴えているMichele BoldrinとDavid Levineの次の論文だ:

Michele Boldrin and David K. Levine “A Model of Discovery,” American Economic Review: Paper and Proceedings 2009: 99(2): 337—42

内容についてはリンク先の解説を読めば分かる。いくつかポイントを挙げる。

しかし、筆者らによると、現実のデータに基づくこれまでの実証研究からは、知的財産権の強化は、ほとんどまったく知的革新を促していない、という結果が得 られるのだそうです。この実証結果は、知的財産権保護に関する通念的な理論と相反しているという意味で、大きなパズル(なぞ)です。

この説明は若干不正確だろう。原文では以下のようになっている。

It is true that standard models of capital ladders such as Scotchmer [1991], Boldrin and Levine [2004], and Llanes and Trento [2007] allow for the possibility of patent discouraging innovation. However this can only be a long-run consequence: innovation is discouraged when so many patents have been created that additional innovation becomes dependent on them.

知的財産に関する現在のモデルでも知的財産権の強化がイノベーションに貢献しないこと自体は説明されている。違うのは、現在のモデルは、新しい特許が既存の特許の上に成り立つ場合の問題に焦点を当てていることだ。この場合には既存の特許に関する独占権が新しい発明を妨げてしまう。しかし、新しい発明ばかりを重視すると基礎となる発明へ十分なインセンティブを与えることができない。

BoldrinとLevineは、通念的理論が採用しているのは、発明者・発見者が 「ユーレカ(分かった)」と言った瞬間に完全な形の新知識が生み出されるという仮説だ、と批判しています。現実の知的発見や発明の作業は、もっと連続的な 努力によって徐々に知識が「形成される」ものだ、というのがBoldrinたちの考えです。

知的財産権に関する経済学の問題はアイデアの実現に対して適切なインセンティブを与えることだ。よって、まずアイデアがどのように社会で生成されるかという創造的環境に関する仮定が必要になる。一つは既知の課題への解を見つけるというモデル、もう一つはアイデア自体が希少な場合だ。もちろんはこれらは両極端で実際には様々な程度がある。

ここで通念的理論とされているのは後者だ。アイデアが希少なモデルでは通常ここのアイデアを社会的価値と費用の組であらわす。知的財産権の目的は、社会的価値が費用よりも高いアイデア全てを実行させることとなる。このようなモデルにおいては累積的なイノベーションが起こる場合、新しい段階のイノベーションは前の段階とは異なる主体によってなされるため、知的財産権の設定は微妙なバランスが要求される。

それに対し、ここで提案されているのはアイデア自体は豊富にありどうやってそれを推進するかという創造的環境だ。こちらのパターンでは知識は一定の投入によって生産される(知識の生産関数モデル)。アイデアは希少ではなく、投入資源が希少なのでコーディネーションの問題は発生しない(そもそも仮定からどんなイノベーションも資源を投入しさえすれば発明されるという問題がある)。知的財産権の目的は最適なイノベーション速度を選択することになる。

どちらが正しいかは、どちらの創造的環境がよりよく現実を説明するかだ。彼らが最初に挙げたパラドックスを取り上げているのはそのためだ。生産関数モデルがパラドックスを説明するのであればアイデアが豊富なモデルの方が適切なだという根拠になる。

ただ、創造的環境というのは全てのイノベーションに同じように当てはまるわけではない。ある分野のイノベーションはアイデアが希少な環境にあり、ある分野ではそうではないという方が自然だろう。

また、(非常に読みにくい)当該論文を流し読みしたが、方法論的な問題があるように思う。ベースラインモデルは、代表的消費者の効用の現在割引価値[latex]\int_{0}^{\infty}e^{-\rho t}\left[u\left(x_{t}\right)-w\ell_{t}\right]dt[/latex]を知識生産関数に基づく運動方程式[latex]\dot{k}_{t}=A\left(k_{ot}^{\alpha}+\eta\right)\ell_{t}^{\beta}+B\left(k_{t}-x_{t}-k_{ot}\right)[/latex]と適当な制約のもとで最大化しているようだ。しかし、知的財産権がなければ発明家個人と消費者全体の利害は一致しないので、効用が最大化されるというのは不思議な仮定だろう(自分で発明して自分で使うなら分かる)。知的財産権をモデルに加える際には消費者の効用の代わりに独占権を持つ主体が自分の利潤を最大化するとしている。モデル上では単純に効用関数[latex]u\left(x_{t}\right)[/latex]を独占利潤[latex]u’\left(x_{t}\right)x_{t}[/latex]に入れ替えるだけだ。目的関数を消費者余剰から独占利潤に変えたわけだからこれが厚生にマイナスの影響を与えるのは当たり前だ

One way to think of this is in terms of the “public-private partnership” under which universities are encouraged to patent ideas developed using government funding. By awarding a monopoly we would expect less actual research to be done at universities, but the results of the research that did take place would be made available to industry sooner. It is claimed that the “public-private partnership” has been a great success because of the latter. In this model, that is unambiguously bad, as scientific resources ([latex]k_t[/latex]) are misallocated to industrial applications when it would be better, from a social point of view, to use them in producing more original research that would, optimally, be brought to industrial fruition somewhat later.

彼らの議論が当てはまる例として産学連携(public-private partnership)が挙げられている。産学連携によって大学での研究成果で特許を取得することが奨励されると、実際の研究成果は減るが成果が産業界へ公開されるのは早くなる。そのような特許政策をやめれば研究成果が中途半端に応用されることがなくなり社会的に望ましいとされている。

しかしこの説明はむしろ彼らのモデルの問題を示しているだろう。知的財産権がなければ大学の研究がより効率的になると言えるのは研究予算が国から支給されているからだ。これが民間企業であれば知的財産権がなくなるとそもそも研究開発投資を行えなくなる(自社で製品化して利益を出すことはできるが)。

では何故、大学での研究に国家予算が当てられるか。それは政府が大学で研究される既に確立された学術分野の価値を理解しているからだ。しかしこの方法では例えばiPhoneは発明されない。政府はそもそもiPhoneのようなデバイスの社会的価値を事前に把握できない。

そもそも特許制度の目的はこのような政府にとってその価値が事前に把握できないような発明にインセンティブを与えることなのだから、アイデア自体は豊富にありどうやってそれを推進するかという創造的環境において特許制度が望ましくないといったところであまり意味はないだろう。

Chorussの実態

Choruss(コーラス)というのはワーナーによって進められている実験的音楽ライセンスプロジェクトだ。数ヶ月前に報道されて以来、その実態は明らかにされていなかった。今回はその仕組みについてかなり詳しい記事がThe Chronicle of Higher Educationで紹介されている:

Music Industry Changes Tune of New Program to Fight File Sharing – Technology – The Chronicle of Higher Education

On the basis of those initial talks, the colleges would pay the music industry a blanket licensing fee, similar to what radio stations pay to air popular songs.

コーラスの一つの特徴はブランケットフィーだ。これはJASRACのような著作権団体がラジオ局などに対し行っているライセンス方法である。音楽のような限界費用がゼロに近い財の場合、このような純バンドリング(pure bundling)が取引費用まで考慮すれば有効なことは多い。

For instance, when asked about the “covenant not to sue,” Mr. Griffin said, “We’d initially considered the idea but have now decided to use a traditional license approach.”

また、単に訴訟を起こさないというだけの契約(covenant not to sue)として批判されていたが、従来通りのライセンス形態になっているようだ。

Another substantial change from the early days of the proj ect is that the licenses now would be with individual students rather than with colleges

契約主体も大学キャンパスから学生個人へと変更されている。

The most unusual feature of Choruss is that users would be able to download any song in the collection to their own computers, with no restrictions.

さらに契約期間中にダウンロードされた楽曲は半永久的に利用が許可されるというのは新しい。聴き放題式の音楽サービスでは契約期間が過ぎれば再生できなくなるのが普通だ。

どれも音楽レーベルや著作権管理団体を批判する人々にとっては望ましい方向性だろう。

Users would install software that would count every time they played a song, for the purpose of distributing royalties to the musicians.

ミュージシャンへの報酬分配目的のソフトウェアインストールは問題となりうるが、課金ではなく統計的処理が目的である以上利用者全員に強制する必要はないのである程度は緩和されるだろう。

そういえばアメリカに比べると音楽の不正コピー問題を日本のメディアで聞くことは少ないが何か理由があるのだろうか。それとも単に私が気付いていないだけなのだろうか。

ナッシュ均衡は本当に見つかるのか

ゲーム理論とコンピュータサイエンスとの関わりについて:

What computer science can teach economics

ゲーム理論はビジネススクールでも教えられる程、現代社会では重要な分野となっている。しかし、ゲーム理論の課題の一つに、均衡が存在するとしてそれを本当に経済主体がそれを発見できるのかという問題がある。これに対しMITのConstantinos Daskalakisによる研究が紹介されている(BerkeleyでのPh.D. Dissertationだ)。

ナッシュ均衡自体については説明は必要ないだろう。非協力ゲームのおいて、他のプレーヤーの戦略を所与としたときにどのプレーヤーも自分の戦略を変更することで利得を増やすことができないような戦略の組である。

In soccer, a penalty kick gives the offensive player a shot on goal with only the goalie defending. The goalie has so little reaction time that she has to guess which half of the goal to protect just as the ball is struck; the shooter tries to go the opposite way. In the game-theory version, the goalie always wins if both players pick the same half of the goal, and the shooter wins if they pick different halves. So each player has two strategies — go left or go right — and there are two outcomes — kicker wins or goalie wins.

It’s probably obvious that the best strategy for both players is to randomly go left or right with equal probability; that way, both will win about half the time. And indeed, that pair of strategies is what’s called the “Nash equilibrium” for the game.

記事中ではサッカーのペナルティーキックが上げられている。キッカーとキーパーは右と左の二つの選択肢しか持っていない。キーパーはキッカーの動きを見てから行動する暇がないのでこれは実質的に二人の行動は同時に起きていると考えられる。この時、最適な戦略は右と左を同じ確率で選択することだ。相手がそういしているならこちらが確率を変えても結果は同じだ。これがペナルティーキックというゲームのナッシュ均衡になっている。

Of course, most games are more complicated than the penalty-kick game, and their Nash equilibria are more difficult to calculate. But the reason the Nash equilibrium is associated with Nash’s name  — and not the names of other mathematicians who, over the preceding century, had described Nash equilibria for particular games — is that Nash was the first to prove that every game must have a Nash equilibrium.

大抵のゲームはペナルティーキックよりも複雑であり、ナッシュ均衡もまた計算が困難だ。ジョン・ナッシュが素晴らしいのは、均衡概念を定義した点ではなく、どんなゲームもナッシュ均衡を持つことを証明四タテんである。

Many economists assume that, while the Nash equilibrium for a particular market may be hard to find, once found, it will accurately describe the market’s behavior.

そしてエコノミストの多くはナッシュ均衡を実際に見つけるのが困難であっても、一度見つかれば市場の行動を性格に記述すると仮定している。

Daskalakis, working with Christos Papadimitriou of the University of California, Berkeley, and the University of Liverpool’s Paul Goldberg, has shown that for some games, the Nash equilibrium is so hard to calculate that all the computers in the world couldn’t find it in the lifetime of the universe.

紹介されている論文は、このようなエコノミストの仮定に疑問を投げかけるものだ。それによれば、いくつかのゲームにおいて(存在することは証明されている)ナッシュ均衡を見つけるのは極めて困難で、全世界のコンピュータを世界が終わるまで使いつづけても見つからないという。

The argument has some empirical support. Approximations of the Nash equilibrium for two-player poker have been calculated, and professional poker players tend to adhere to it — particularly if they’ve read any of the many books or articles on game theory’s implications for poker. The Nash equilibrium for three-player poker, however, is intractably hard to calculate, and professional poker players don’t seem to have found it.

このことは実証面でも支持されている。二人ポーカーのナッシュ均衡は計算されているし、実際のプレーヤーの行動もそれに近い。しかし三人ポーカーのナッシュ均衡は計算が困難でプロプレーヤーもそれを発見しているようには思われない。

Daskalakis’s thesis showed that the Nash equilibrium belongs to a set of problems that is well studied in computer science: those whose solutions may be hard to find but are always relatively easy to verify.

DaskalakisはこれをコンピュータサイエンスにおけるP/NP問題として捉える。ナッシュ均衡の計算は、解を得るのが難しいが確認するのは簡単なNP問題の一種だと証明した。

これに対し彼は三つの方向性を提示している:

One is to say, We know that there exist games that are hard, but maybe most of them are not hard.”

一つは、計算が簡単なナッシュ均衡の集合を確定すること、

The second route, Daskalakis says, is to find mathematical models other than Nash equilibria to characterize markets — models that describe transition states on the way to equilibrium, for example, or other types of equilibria that aren’t so hard to calculate.

二つ目はナッシュ均衡とは異なる概念を用いること、

Finally, he says, it may be that where the Nash equilibrium is hard to calculate, some approximation of it — where the players’ strategies are almost the best responses to their opponents’ strategies — might not be.

三つ目は近似的な解を見つけることだ。

応用分野であればそもそも解の計算が非常に困難なモデルを避けるのが普通だから三つ目の対策にあたるだろうか。

新自由主義って何

最近ブログ界隈で盛り上がってるようなのでコメントしてみよう:

「小さな政府」「規制緩和!」とか言ってる人は日本から出て行けばいいのに – シートン俗物記

よくいますよね。「小さな政府を!」「規制をどんどん緩和しろ」「自由な競争こそが世の中を良くする」「そうしなければ経済成長は望めない」「日本は取り残される、沈没する」とか騒いでいる人達。

小さい政府・規制緩和・自由競争などを推し進める人を批判しているらしい。

新自由主義、とやらで、“企業活動を制約する規制をどんどん撤廃・緩和して、企業活動が活発になり自由競争が行われれば経済成長する。その結果、競争に負けたり付いていけなかったりする人が出ても、それは自己責任だ、保護や救済など必要ない。経済が成長すればおこぼれでそれなりに豊かになれる”みたいなビジョンを描いているようですけど

そしてそれらの人々は新自由主義者とやらで、自由競争が経済成長を起こして競争に負けた人も豊になる、という意見を持っているとのことだ。

さすがに日本では、そんな甘い?話に釣られる人は減ったようで、「弱者保護」と「再配分」を掲げた現政権が一応選挙で勝利を納め、新自由主義者(ネオリベ)が相手にされるケースはめっきり少なくなりました。

政権交代はそのような新自由主義が間違っていることを示した、よってタイトル通り、

「小さな政府」「規制緩和!」とか言ってる人は日本から出て行けばいいのに

という主張に繋がるようだ。

しかしいくらなんでもこの展開には無理があるだろう。まず、国民がある政策を拒否したことからそれが間違っているとか、支持したからそれが正しいという推論はできない。選挙である政策が支持されるというのは、その政策を掲げた政党・政治家が支持されたというだけのことでそれ以上ではない。間違った政策が支持されることは当然ある。

また、適切な競争が経済にとってプラスではあるのは周知の事実である競争が長期的経済的成長に及ぼす影響もプラスだというのがコンセンサスだろう(実証面ではそこまでクリアではないについてはPhilippe Aghion & Rachel Griffith, Competition and Growthなど参照)。

もちろん競争は適切に管理される必要があり、完全な自由競争が妥当である市場は限られている。どの市場にどのような規制が必要かというのは競争政策上の各論となる。

競争に負けた人を保護・救済すべきかは、政治的に決定すべき問題だろう。モラルハザードの問題はあるが、子供の機会の平等の確保などある程度の再分配を行うことは多くの立場の論者に支持されるだろう。

コメント欄での応酬は、ここでの新自由主義は本当の新自由主義じゃないから批判は当たらないという意見と、実際の新自由主義はこう使われているのだから批判が適当だという非生産なものとなっている。最大の問題は「新自由主義」という単語が明確に定義されずに利用されていることだろう

では新自由主義とは何か。英語のneoliberalismから来ているようだがあまり耳にしたことがない。Wikipediaのエントリーを見ても何のことやらはっきりしない:

Neoliberalism, or neo-classical liberalism is a product of classical economic liberalism. The term was coined in 1938 at the Colloque Walter Lippmann by the German sociologist and economist Alexander Rüstow, one of the fathers of Social market economy. The label is referring to a redefinition of classical liberalism, influenced by the neoclassical theories of economics. Today, the term “neoliberalism” is mostly used as a pejorative by opponents.

古典的リベラリズムと新古典派の経済理論を組み合わせたものだというが議論の対象にできるほど明確に定義されていない。しかしここでは経済的な現象に対して使われているので新古典派経済理論のことを指しているはずだ。新古典派の経済学は定義はあるが、そんなことをする必要もない。新自由主義が経済理論の集合であるなら、その批判は理論の是非を判断すればいいだけだ。ラベルは必要ない。

しかし、ここで日本語のWikipediaを見てみたら面白いことが書いてある:

市場原理主義の経済思想に基づく、小さな政府推進、均衡財政・福祉・および公共サービスの縮小、公営事業の民営化、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系。競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済体制をいう

同じ単語を説明しているようには全く思えない。neoliberalismを経済政策のパッケージとしてみるのはWashington Consensusのことを指しているのだろう。しかしWashington Consensusはまさに経済政策の集まりに過ぎず、それが正しいかどうかは実証的に決まる。

むしろ注目すべきは市場原理主義の経済思想という部分だろう。そんなフレーズは英語のエントリーに出てこない。いつから経済学は思想になったのだろう。競争志向の合理的経済人という言葉も何を意味しているのか分からない。では市場原理主義が何を指しているかもみてみよう

市場原理主義(しじょうげんりしゅぎ、英: Market fundamentalism)は、小さな政府を推進し、市場による競争を重視することが公平と繁栄をもたらすとする思想的立場。 また発言者の経済哲学によって批判的に軽蔑語として使われることもある。

これは思想的立場なのだろうか。市場による競争の重視が公平と繁栄をもたらすか否かは検証可能な事柄だろう。経済哲学という言葉が何を意味するかも分からない。さらには日本における市場原理主義者(?)の動向についての記述などが続いている。一体何が起きているのだろう。ここでまた英語のエントリーに戻ってみた:

Market fundamentalism (also known as free market fundamentalism) is an exaggerated faith in the ability of unfettered laissez-faire or free market economic views or policies to solve economic and social problems.

市場原理主義とは完全な放任政策や自由市場が経済・社会問題を解決できるという妄想(exaggerated faith)とある。もちろん妄想を引き合いにだして間違っていると批判しても何の意味もない。

一体この日本語と英語との間の差は何なのだろうかと検索してみたら次のような記述を発見した:

日本の一部の人々にとっては、経済危機によって「新自由主義」が終わったのだそうだが、そういう人に限って自分が何をいっているのか理解していない。

[…]

西山氏が1970年代からlibertarianismの訳語として使っていた「新自由主義」を、その20年以上後になってneoliberalismの訳語として使うのは混乱のもとだ。まして後者が「普通」で前者が間違いだと主張するのは主客転倒である。拙著に も書いたが、欧米でも「自由主義」をさす言葉には複雑な歴史があり、誤解をきらったハイエクはliberalismやlibertarianismという 言葉を使わなかった。彼の思想は「新」自由主義ではなく、ヒュームやスミス以来の古典的自由主義であり、不況とともに消えるような底の浅い思想ではない。

どうもneoliberalismとlibertarianismとの間で混同が存在するようだ。リバタリアニズムであればそれは思想上の立場だろう。今度は経済理論とは直接関係がなくなる。

言葉の定義に関して大きく脱線したが、重要なことを明確な定義をしていない事柄の是非を議論してもしょうがないということだ。問題が経済政策であるならそれを包括する思想的背景について考える必要はなく、個別の政策の是非を問えばいいだけだ(仮に「新自由主義」とやらが間違っていたとしてもそれは「新自由主義」に含まれる政策が間違っていることを意味しないのだから)。

結論は簡単だろう。完全な自由競争で経済問題は解決しない。ましてや社会問題は解決しない。しかしそれは自由競争・規制緩和が間違っていることも意味しない。単に市場の管理はある程度必要であり、何でも規制緩和すべきというわけではないということだ。「新自由主義」は間違っているか、そもそもそれは何かなんて話を持ち出す必要自体全くない。

以上のようなことは欧米の知識人には常識であり、経済学者も(学派を問わず)スミスの経済的自由主義を大前提として議論しているのである。自由主義の伝統がない日本でそれが理解されていないのは仕方ないが、そういう無知をブログで公言して「新自由主義は終わった」などと繰り返すのはいい加減にしてほしいものだ。

という指摘がまさによく当てはまる。

ちなみに、

経済的合理性を超える価値が、日本で暮らすことにあるのだ、と考えているんですよ。

「経済的合理性」という単語も定義されておらず何を意味しているのか分からない。どうも金銭的な損得を指しているようだが、それは経済学のいう合理性とは関係ない。

とりあえず「新自由主義」という単語(レッテル)の使用を取りやめるべきだろう。

非営利と営利との違い

最近、日本語の経済ブログを探して歩いている。今回はついさっきみつけたMediaSaborというサイトから:

「非営利が営利より上」なんて誰が決めた | 専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】

タイトルに関してはよく分からない。「非営利が営利より上」だと主張している人に(幸い)会ったことはない。

就職についての希望を聞くと、「ボランティア団体」と答える学生がいる。[…]人の役に立ちたいという真摯な願いは尊いと思う。ただ、どうもこうした学生の少なからぬ一部が、「非営利団体で働くことは営利企業で働くことよりも価値がある」と考えているように思われて、懸念している。

しかし、大学の先生がそういっているのだからそういう大学生は多数いるのだろう。私が大学の面接官だったら非営利団体と営利団体どちらで働きたいか是非聞いてみたい。「非営利です」と答えたら不合格。「営利です」と答えたら不合格だ。そんな頭のネジの外れた学生はいらない。

なぜこの二つの回答、よって質問が、不適当なのか(*)。それは非営利・営利の区別は単に組織が計上した利益を出資者に分配するかという差だからだ(**)。その組織が何を目的として活動しているかとは直接関係しない。もちろん政府が非営利団体を優遇する関係上、非営利団体の活動内容が何らかの視点からみて公益に適うものであることが多いがそれは本質的ではない。創業者・出資者・社員がみな社会のためを目指して活動しながらそれが効率的であるという理由で営利形態を取ることは可能だ(それどころか利益を出せば多くの税金を収める)。正しい返答は、「非営利であっても営利であっても、世の中を変えてみたい」といったものだ。

ではどんな場合に非営利団体という形態をとるのか。それは特定の目的を達成する上でそうすることが効果的な場合だ。特定の目的が社会的に望ましい場合にはそれを推奨するために税金上の優遇もあるかもしれないが、個人・一組織の立場としてはそれを考慮したうえで最善の組織(法人)形態を取ればよい(法人を設立する必要さえないこともある)。

非営利団体は利益を分配しないという所有者=残余請求者(residual claimant)の存在しない特殊な組織形態だ。通常の組織においては意思決定を行うものと、最終的な利益を受け取る人間が多くの場合一致することが望ましい。自分の利益が掛かっていれば望ましい意思決定を行うと考えられるからだ(個人事業主など)。しかし、複数の出資者が存在する場合にはその誰かが全員を代表するのは困難になる。複数の人間が意思決定に関わることも可能だ(パートナーシップ)。しかし、これは出資者の数が比較的少なく、出資者同士の利害対立がない場合にしかうまくいかない。よって大規模な組織では出資者は経営にあまり口出しをせず、専門の経営者を労働契約でコントロールする(株式会社)。

では何故非営利団体なんてものが存在するのか。それを説明する前に生活協同組合の構造を見るとわかりやすい。生協は実態はともあれ、市民=顧客が組織の意思決定ならびに出資を行う。これは別にそれほど驚くべきことではない。株式会社では外部の専門家が意思決定を行うわけで、組織の事業と大きな関係を持つ顧客が組織を所有するのは自然だ。これが通常行われないのは、顧客という集団の利害はあまり一致しておらず、しかも人数が多くなりがちなためだ。民主主義的な制度で意思決定を行うことの非効率は政治をみれば明らかだろう。

残余請求者のいない非営利団体はこの延長で理解できる。非営利団体とは、残余請求者が存在することが事業の推進に支障をきたすような組織だ。典型的な例は寄付によって成り立つ途上国支援団体だ。これを営利形態で行うことも原理的には可能だ。単に人を雇って寄付を募り、それを支援に使い、寄付者に報告すればいい。しかしこのビジネスはうまくいかない。何故ならば寄付をした人々=顧客は支援が適切に実行されたかを確認する手段を持たないからだ。支援額を減らせば簡単に利益を上げられる。

非営利という法律上の制度を使えばこの問題を解決できる。残余請求者がいないということは企業が会計上の利益を上げたとしてもそれを組織の外に出すことができないということだ。よって留保金はいつか定款の定める事業目的に使われるし、そもそも過剰に留保を出すインセンティブがない。よって非営利団体は同じ事業を行う営利団体よりも多くの顧客=寄付を集め、よりよく目的を達成できる。この結果には非営利団体が営利団体よりも崇高な目的を持っているという仮定は必要はない。営利団体の運営者・出資者が横領紛いの行動を全くする気がなくても結果は同じだ。

では何故もっと多くの組織が非営利ではないか。それは議論の流れから簡単に分かるだろう。利益を上げてもそれを受け取れる人間が存在しないということは、事業を効率的に推進するもっとも簡単なインセンティブを持つ人間が組織に存在しないということだ。非営利が有利なのは上に述べたようなメカニズムの有用性がデメリットを上回るほどに高い場合だけだ。多くの営利企業はこのような問題が存在しない分野=非営利であるメリットのほとんどない分野で社会のためになる事業を効率的に推進して莫大な貢献をしている。絶対的な貢献ではこちらの遥に大きい。非営利を選ぶのは、それが優位であるごく限られた分野・事業での貢献をしたい場合だけだ。

より詳細な説明・具体例についてはHenry Hansmannの著作などを参照されたい。

(*)もともと利害が対立する人間同士のやりとりは明確な答えのないものばかりだろう。

(**)非営利団体を狭義のNPOとして解釈すれば、特定非営利活動促進法における特定非営利活動法人と捉えることもできるが、非営利・営利と対比されている以上その解釈は当たらないのは明らかだろう。