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マスキンによる金融危機の解説

メカニズム・デザインで2007年にノーベル賞を受賞しているEric Maskinによる今回の金融危機に関するインタビューがThe Browserにあった。

Economic theory and the financial crisis | Eric Maskin | The Browser

書籍の紹介をするセクションにも関わらず論文が挙げられていて面白い。紹介されているのは、

  1. Bank Runs, Deposit Insurance and Liquidity by Douglas Diamond and Philip Dybvig
  2. Private and Public Supply of Liquidity by Bengt Holmstrom and Jean Tirole
  3. The Prudential Regulation of Banks by Mathias Dewatripont and Jean Tirole
  4. Credit Cycles by Nobuhiro Kiyotaki and John Moore
  5. Leverage Cycles and the Anxious Economy by Ana Fostel and John Geanakoplos

の五つだ。三つ目のThe Prudential Regulation of Banks (MIT Press)以外は全て査読付きジャーナル論文だ(1,2,4がJournal of Political Economy、5がAmerican Economic Review)。当然インタビューも紹介されている文献の解説がメインとなる。

マスキンによる解説は非常にわかりやすいので詳しくは本文を参照して頂きたい。基本的な構図としては、

  • 金融機関は流動的な資産を流動性のない資産に投入する。
  • そのため一度に資産の引き上げや目減りが発生すると破綻する。
  • それを防ぐには何らかの保障が必要となる。
  • しかし保障を与えるとリスクをとるインセンティブが発生する(モラルハザード)。
  • レバレッジなどを通じ金融機関の行動を規制することが必要になる。

ということだ。銀行の取り付けと預金保険との関係がより広い金融機関に当てはまる。

彼の主張は、今回の金融危機は以前から既に理解されている現象であり理論的な対策は既に考案されていたというものだ。エコノミストに対する批判について、

I don’t accept the criticism that economic theory failed to provide a framework for understanding this crisis. Indeed, the papers we’re discussing today show pretty clearly why the crisis occurred and what we can do about it.

と述べている。ただし、市場が全てを解決するといった意見に対しては、

The sort of economics that deserves attack is Alan Greenspan’s idealized world, in which financial markets work perfectly well on their own and don’t require government action. There are, of course, still economists – probably fewer than before – who believe in that world.

グリーンスパンを引き合いに出して批判している。これは上に挙げたように、金融機関が構造上規制を必要とする産業であることを考えれば当然である。もちろん理論を実装する困難についても指摘されている。

A major task now is to devise regulations that will help prevent this kind of crisis from happening again. Theory will inform this undertaking, but translating the theory into simple, effective, enforceable rules is not a trivial undertaking.

オバマ政権がこの仕事をできるかという質問については、

Well, I believe that the economists in the Obama administration probably have a pretty good grasp of the principles we’ve been discussing. So I think that in the US there is a reasonable chance good regulation will be formulated. What I’m not so sure about is what will happen when Congress gets into the act.

楽観的な見方を示している。しかし、議会が絡んでくるとどうなるかは分からないということだ。議会が利益団体に影響されやすいというのはアメリカでよく指摘される事態だ。

アメリカの喫煙率

アメリカの喫煙率を視覚化した地図:

What are the effects of smoking bans? – Statistical Modeling, Causal Inference, and Social Science

殆どの州で25%以下でありカリフォルニアに至っては15%以下だ。バークレーでは喫煙者を見かけることは非常に稀だ。むしろマリファナを吸っている人の方が多い。

Elinor Ostromの講義

今年のノーベル経済学賞は組織の経済学とのことで、Oliver WilliamsonElinor Ostrom受賞した。著名エコノミストの反応はEconomixなどに詳しい。

その中でも触れられているがOstromはPh.D.もUCLAのPolitical Scienceで現在もIndiana, BloomingtonのPolitical Scienceの教授という政治学者だ。エコノミスト一般への知名度は(少なくともノーベル賞受賞者としては)低い。Political Scienceでは過去にHerbert Simonが受賞している。

詳しい業績については先のリンク先の解説や著作(アマゾンで確認できた最新の著作はこちら;今注文した)を読むべきだろうがYoutubeに彼女が共有地の悲劇について説明している映像があったので紹介しておく:

Environmental Economics: Ostrom’s take on the Tragedy of the Commons

ちなみに、周知の事実かもしれないが、ノーベル経済学賞の(英語での)正式名称はSveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobelで正式なノーベル賞ではない。またノーベル賞のなかでも平和賞だけはノルウェイの管轄だ。

Williamsonの業績については広く知られているが、こちらに彼へのインタビューがある(A Golden Bearの足跡より)。

医療は人権か

NYUのWilliam Easterlyによる医療を受ける権利に関する記事:

FT.com / Comment / Opinion – Human rights are the wrong basis for healthcare

The notion of a “right to health” has its origins in the United Nations’ Universal Declaration of Human Rights in 1948

医療を受けることを人権として確立しようとする運動自体はもう半世紀以上に渡って存在しているが、

President Barack Obama recently held a conference call with religious leaders in which he called healthcare “a core ethical and moral obligation”.

最近アメリカでの医療制度改革議論に伴い注目されている。

This moral turn echoes an international debate about the “right to health”. Yet the global campaign to equalise access to healthcare has had a surprising result: it has made global healthcare more unequal.

しかし、医療政策にモラルを持ち込むことは成功しているとは言い難く、むしろ不平等を拡大している。その理由が次の段落で説明されている。

So what is the problem? It is impossible for everyone immediately to attain the “highest attainable standard” of health (as the health rights declaration puts it). So which “rights to health” are realised is a political battle. Political reality is that such a “right” is a trump card to get more resources – and it is rarely the poor who play it most effectively.

端的に言って、最新の治療を社会の構成員全員に提供することは不可能である。よって医療に対する権利の議論は限られた資源を如何に分配するかというよくある政治の問題になってしまう。そして、貧困層は一般にいって政治力がない。

The WHO 2004 report that emphasised the “right to health” did so on behalf of only one specific effort – Aids treatment.

Saving lives in this way is a great cause – except to the extent that it takes resources away from other diseases.

具体例としてWHOによるAIDS対策が上げらている。AIDS対策は最も大きな効果を挙げたが、同時に他の疾病に対する予算を食いつぶした。結論としては、

The lesson is that, while we can never be certain, the “right to health” may have cost more lives than it saved. The pragmatic approach – directing public resources to where they have the most health benefits for a given cost – historically achieved far more than the moral approach.

医療政策を権利の問題と処理するのではなく、一般的な公共政策として単に便益な分野に資源を集中すべきだとされている。

医療政策に関してはこの考えは妥当なように思える。しかしこの議論には弱点がある。一つは、この議論がありとあらゆる政策分野に適用できてしまうことだ。どんな場合には権利の設定が適切で、どんな場合に行政的対応が望ましいかという判断基準が必要だ。例えば、一般的な財の配分は権利による対応が効率的なことは社会主義がうまくいかないことから明らかだ。

二つめは、権利と政策との間には明確な区別がないことだ。例えばプライバシーを権利として認めるか否かは主に取引費用の問題だろう。取引費用がなければコース的な意味で最適なプライバシーが成立するはずだ。しかし、完全なプライバシーへの権利がある場合と全くない場合以外にも特定の条件でプライバシーへの権利を設定することもできる(有名人ならプライバシーへの権利が狭くなるなど)。

個人的にはある程度の医療を権利として保障することは、再配分政策として意味があるように思う。例えば日本では生活保護法で医療扶助が規程されている。生活保護受給者は国民保険から外れるが国民保険同様の治療を無料で受けられる。これは再配分政策の現物支給として捉える事ができる。再配分政策を行う際に、本当に困っている人が誰なのかを特定することは難しい。支給を何にでも使える現金ではなく、医療という現物にすることで不正受給を減らすことができる。

「人間らしい」ということ

巡回先のブログにちょっと変り種があった:

H-Yamaguchi.net: 「人間らしい」ということ

よく使われてて一見当たり前っぽいのだが、よく考えるとあれ?なことばというのがよくある。

[…]

で、今回もそういうことが頭をよぎったわけだ。よく考えると「あれ?」なことばの最たる例の1つ。「人間らしい」について。

一見当たり前に見えて意味のよく分からない単語として「人間らしい」という言葉が取り上げられている。三つの使用例が挙げられている:

  1. 「人間らしい生活」
  2. 「人間らしい労働、働き方」
  3. 「人間らしい生活、くらし」

そして、これらの用法の持つイメージに対し

これって、「人間とは何か」みたいな、けっこう本質的な概念のような?

そんな簡単なコンセプトじゃないんじゃないかと疑問が提起され、「人間らしい」という単語の辞書的定義から始まり、生活保護における支給水準の議論まで分析されている。特に、生活保護に関連して

ある人々が「人間らしい生活」を送れないでいるということは、他の人々の「人間らしい」判断の結果でもあるのだなあ、ということだ。

という下りはまさにその通りだ。

しかし、個人的にはそのような分析ははあまりにも生真面目に過ぎるではないかと思う。ナイーブと言っていい。例えば、

「人間らしい生活」を主張する方々は、皆が「人間らしく」ふるまえば自然と問題は解決に向かう、と無意識に想定してはいないだろうか。

と疑問を呈しているが、私には「人間らしい生活」を主張する人々が、「人間らしさ」の基準は共通で、誰もが「人間らしく」振る舞えば問題は解決し、誰もが「人間らしく」生活できると本当に信じているようには思えない。普通に生活していてそんな信念を合理的に維持するのは不可能だろう(注)。

むしろ、「人間らしい」という言葉は決まった意味があるというよりも、自分の主張を通すためのレトリックとして使われる方が多いように思える。「人間らしい」という修辞を用いることで自らの意見への反論を封じ込める。例えば生活保護で言えばこうだ:

  • 原告(受給者):こんな生活は「人間らしい」生活とは言えない!!!
  • 被告(国):ちり紙が足らなければ新聞紙を使えばよく,頭は丸坊主で十分だ。
  • 原告:それでも人間か!!!

「人間らしい」ことに反対するなんて「人間らしくない」わけだ。もちろん、その論理が成立するためにはまさに「人間らしさ」について合意があり、「人間らしく」あれさえすれば問題が解決するという前提条件が必要だ。でもそんなことは関係ない。「人間らしさ」について論理を持ち出すことが既に「人間らしく」ないのだから。「人間らしさ」を持ち出して何かを要求する人間は信用できない。

(注)人間らしく振る舞う(P)と問題は解決する(Q)という命題P→Qを考える。この命題はPが成り立っているのにQが成り立っていない場合があれば棄却される。みんなが善意で行動していても問題が解決しないケースなんて数多なのでこの信念を維持するのは非常に困難だ。分かりやすい逃げ道はPが完全には成り立っていないと考えることだろう。しかし元記事で指摘されている通り、社会の構成員全員が人間らしく行動することは想定できないので完全にPであればQという命題は反証不可能になる。これは神の存在命題に似ている。神が存在するという命題は、何が存在しないという証拠になるのか自体分からないという意味で反証不能だ。

宗教が子供に対する刷り込みで存続するように「人間らしさ」が全てを解決するという主張も幼少期の刷り込みによって保持できるだろう。そのような人々が「人間らしさ」を議論に持ち出す場合には、それはレトリックではなく真面目な主張と言える。過度に宗教的な人々が大真面目に「神」を議論に持ち出すのと同じだ(むしろこれが「過度に」宗教的かを判断する基準だ)。こちらの対応は同じだ。彼らの議論は無視して、その提案が自分にどんな得をもたらすかだけ尋ねればよい。

追記:生活保護のようなケースではなく、一般的な用法についてコメントがあった。議論の根拠にしない場合、「人間らしい」という言葉の使用に特段の害はないように思えが、かなり曖昧な意味を持つことは変わらないようだ。さらに、曖昧な言葉を使うことで相手の興味を惹くような場合まで考えると特定の単語単独での意味を確定すること自体意味があるのか疑わしい。もちろん議論の根拠となる場合には意味の確定は必要なので上の話に戻ることになる。

誰もが「人間らしく」ふるまうことと、誰もが「人間らしく」生きることは必ずしも同じではない、ということは意識しておいたほうがいいと思う。