体育会系優遇って何?

いつもコメントいただいているWillyさんのブログから(もとはこちらへのコメント):

統計学+ε: 米国留学・研究生活  「体育会系優遇」は優遇ではない

就職したことのない私がコメントするのもなんだが、「体育会系優遇」というのはどの程度真実なのだろう。発端となった記事によると、

同じ大学でも体育会の学生とそうでない学生では印象が違ってくることもあり、ある意味で、体育会というのは資格に近いと思います。

とある。しかし、これは「体育会学生の就職支援を行っているアスリートプランニング(東京都千代田区)」の担当者が言っているだけだ。

体育会学生採用の意向を知らせてきたのは、三井住友銀行、ソニー、パナソニック、伊藤忠商事、JR東日本、同西日本、JTB、富士フイルム、ジョンソン・ エンド・ジョンソン、資生堂、カネボウ化粧品、博報堂といった大企業。中小ベンチャーにも多い。採用の結果、文系総合職の半数以上を体育会学生が占めたと いう企業も複数あるそうだ。

客観的な情報はこれしかない(それでも上記就職支援会社の報告だが)。しかし体育会系の学生に一定の特徴があるなら適材適所という意味で採用しようと思うのは当然だろう。これは別に上に挙げられている企業が体育会系を優先しているということではない。もちろん文系総合職の半数が体育会系だということも体育会系の優位を説明しない。Willyさんの指摘するとおり:

「適性を活かした職種」として
不条理で根性主義の営業等をやらされるだけだ。

単なる最適な配置だろう。

「体育会系優遇」という「常識」は古典的なシンプソンのパラドックスにみえる。Wikipediaの数値例をそのまま利用させて頂くと次のような表で表される:

職種 \ 学生 体育会系 非体育会系
営業など 500人応募250人合格(50%) 10人応募9人合格(90%)
研究など 10人応募1人合格(10%) 500人応募100人合格(20%)
合計 510人応募251人合格(49.2%合格) 510人応募109人合格(21.4%合格)

この例では非体育会系の学生の方がどちらの職種においても合格率が高いにも関わらず、合計だけ見ると合格率が低いように見える。このような現象をシンプソンのパラドックスという。もちろん実際には矛盾でもなんでもない。単に、体育会系の方が合格率の高い職種を受験しているだけだ。合格率を受験者数で重み付けして平均を取っているためにこういう現象が起きる。よく考えればおかしな話だというのは分かるだろう。

とはいえ、

職種より勤務先が賃金の決定要因になる日本企業
では金銭的には優遇されてきた。

仕事よりも会社が重視されるのであれば確かに上の数値例であっても体育会系の学生が得をしていると言うことはできるかもしれない。しかしこのような不均衡は将来的には続かない平均的に優秀な学生にそうでない学生と同じ待遇をしていると、他の会社が優秀な学生だけを引き抜いたり学生が自ら正当な評価を得られる職場を求めたりするからだ。これが

今後、人材が流動化すれば職種による賃金格差が拡大し
体育会系の社員が賃金面で優遇されることはなくなっていくだろう。

という結論に当たる。逆に体育会系の社員が賃金面で(相対的に)優遇される状況がなくなれば、体育会系の人が有名企業に入りやすいという傾向は安定的なものになる。賃金面での不均衡さえなければ上の表にある状況は別に何の矛盾もないからだ。

こんなことを世の中の人がずっと信じているなんてことがありうるかという問いに関しては十分にありうるとというのが答えだ。Wikipediaにもあるがバークレーは実際にこの問題(誤解)で訴えられたことがある。大学院の選考が男女差別的だという訴訟だ。

Applicants % admitted
Men 8442 44%
Women 4321 35%

この表はWikipediaから取ってきたものだが、男女の合格率(1973年)に差があることが分かる。しかし、学部別の統計をみるとだいぶ様子が異なる:

Department Men Women
Applicants % admitted Applicants % admitted
A 825 62% 108 82%
B 560 63% 25 68%
C 325 37% 593 34%
D 417 33% 375 35%
E 191 28% 393 24%
F 272 6% 341 7%

多くの学部では実際に女性のほうが合格率が高い。単に女性のほうが合格率の低い学科に出願する傾向が高いというだけのはなしだ。

ここでの議論は、体育会系にメリットがあることを否定するものではないし、上に挙げた数値例には何の根拠もないしかし、よく聞く「体育会系優遇」という学生の「常識」が実際には何を意味しているのかに注意する必要がある

アメリカでの資格

この前、資格についてコメントさせて頂きましたが、その続編を書かれているので再コメントコメントさせていただきます。前回のポストについてはこちらのご紹介も頂きました。

統計学+ε: 米国留学・研究生活  アメリカでは資格を取れ

このうち、
アメリカでは「シグナリング」が果たす役割が
日本と比べて非常に大きい
という印象を私は持っている。

アメリカで「シグナリング」が大きな役割を持っているというのはその通りだ(逆に独占業務の方については思想的背景から限定的で、しかも外国人には法的に・実質的につけないものも多い)。

その理由は二つだ:

  • 労働者の質のばらつきが激しい(サポートが広い)
  • 教育課程でのシグナリングは不十分

前者に関しては、アメリカで生活したことがあればすぐに分かる。何の情報もなしに労働者を取ってきて何かを期待するというのは非常に分が悪い。別の言い方をすれば言葉は悪いが下に限りがない識字率すら問題になる)。何らかの方法で自分がある程度の能力があると示すことは極めて重要だ。

後者はアメリカの学校制度による。アメリカでは出身大学によるシグナリングがあまり効果的ではない。入学に筆記試験がないし(SATはあるが簡単なので尺度にならない)、授業料が高いためトップ校に優秀な学生が集中することもない。これはほぼ筆記試験のみで選抜し、学費の安い日本の国立大学とは全く異なる。例えばハーバードの学部の入学率(matriculation rate)は八割に届かない。博士課程の進学者を見てもトップ私立大学の学生はそれほど多くない。学費の安い出身地の州立大学の中でもっともレベルの高いキャンパス(フラッグシップ校)に進学し、大学院で所謂トップ大学に進むというというパターンがよく見られる(こちらは授業料を払うことは基本的にない)。

この影響は大学生の学力を見れば分かる。バークレーの学部生は州立の大学としてはトップのはずだが(もちろん大学院もだが)、その内実はかなりお粗末だ(現役生・卒業生の方々怒らないように)。近年、東大生のレベルの低下が嘆く向きがある。昔と比べてどうかはよく分からないが、正直胸を張れたものではない。しかし、アメリカの大学生の学力、特にばらつきは、日本の大学と比べると想像を絶している

出来のいい学生は確かにとてもよくできる。卒業後トップレベルの大学院へと進学する人がいるわけだから当然ではある。しかし、平均的な学生の出来がいいとはとても言えない。成績が重要なためよく勉強はするがそういう学生に限って意味不明な質問をすることも多い。さらに平均以下の層は驚くほど基礎ができていない。関数電卓がないとちょっとした式変形もできないし、ちょっとしたグラフも描けない(例えば[latex]x+\frac{1}{x}[/latex])。もちろん私が相手にしているのが経済学部の学生というバイアスはあるだろうが、日本ではそんな学生はいなかった。大学院で経済を専攻する学生が最低でも学部のうちに実解析程度は履修していることを考えれば、授業を成立させるのが困難なほど学生のばらつき具合だ

ではアメリカの学生はどうやって自分を他の学生から差別化しているのか。基本的には二種類だ。

  • ネットワーキング(インターンシップ)
  • 大学院や資格など

前者はコネクションを作ることだ。主にインターンシップやフラタニティを通じて行われるようだ。後者が資格である。ただアメリカでは職になる資格(弁護士・医師など)は大学院への進学が必要である。よってそれを目指す学生は成績維持・ボランティア・課外活動などに精を出す。

日本人ならどうか。前者はかなり難しい。言葉の問題がなかったとしてもコネクションが少ないし、永住権・市民権がなければ企業にとっては余計な負担になる。また労働ビザ(H1)の発給数には限りがあるので単にアメリカで大学を卒業しただけでは苦しい。

よってアメリカに済むなら後者を選択することになるだろう。労働ビザの発行数は院卒だと別枠になる(研究職ならそもそも上限はない)。ロースクールは語学から、メディカルスクールは国籍から困難であるため所謂理系の大学院に進むのが一般的には理にかなっているだろう。ビジネススクールもよいが語学の壁があるのは否めない。言うまでもないが、ここでの語学の壁というのは会話ができるできないのレベルではない。

二種類の方向性がある。一つはテクニカルな学位を取得し仕事を得ることだ。語学の壁はほとんど問題にならない(=普段流暢に会話し、こちらの話を聞く気が最初からある相手にプレゼンできる「程度」でよい)。比較優位があるばかりでなく、そのような仕事への報酬はアメリカの方が格段によいだろう。

もう一つは逆に日本語を生かす方法だ。日本の経済規模・人口は世界有数であり、また英語がロクに話せないことにかけても先進国トップではなかろうか。そのため日本人が稀有な業界であれば日本語を役に立てることもできるだろう。程度の差はあるが、会計・証券販売・司法などがこれにあたる。但し一つ目の道に比べると語学の壁は高い。日本語・日本とのコネクションを強みにするにしてもアメリカ人との競争を避けることはできない(メディアもこれに当たるだろうがアメリカ人との競争は余りにも厳しいだろう)。

もちろん二つにさっぱり分かれるわけでもない。非常にテクニカルな面で優れた会計士もあり得るし、日本の企業や特許制度をよく理解したエンジニアもあり得るだろう。どちらにより大きな強みがあるかを認識した上でそれを足がかりに両者を共に利用したいところだ

IQの高さは何を意味するか

元記事はNew Scientistからこちら

天才馬鹿は何故いるのか?:Why High IQ doesn’t translate into wise decisions

“A high IQ is like height in a basketball player,” says David Perkins, who studies thinking and reasoning skills at Harvard Graduate School of Education in Cambridge, Massachusetts. “It is very important, all other things being equal. But all other things aren’t equal. There’s a lot more to being a good basketball player than being tall, and there’s a lot more to being a good thinker than having a high IQ.”

IQはバスケットボール選手の背の高さだという。全くその通りだ。サッカー選手の足の速さだといってもよい。昔から頭のよさというのは足の速さに似ていると思っている。殆どが生まれつきであり、単独では何の役にも立たない

One is intuitive and spontaneous; the other is deliberative and reasoned. Intuitive processing can serve us well in some areas

人間の情報処理には直感的なものと熟考を要するものに分かれるという。経済をかじったことがあるひとなら、これはゲームの均衡を求めるようなものだと考えればいい。IQテストが測るのはゲームツリーが与えられた時に特定の均衡を全て発見するようなものだ。しかし、ゲーム理論のクラスでいい成績をとるひとが通常のコミュニケーションをうまく運べるわけではない(それどころかむしろ逆だろう)。

The problem with IQ tests is that while they are effective at assessing our deliberative skills, which involve reason and the use of working memory, they are unable to assess our inclination to use them when the situation demands.

IQテストの問題はこの熟考のスキルしか測れないのが問題だそうだ。しかしこの批判は余り意味をなさない。短距離走の記録がサッカーの成績を表さないと文句を言うようなものだ。もしIQテストが一般的な頭のよさを示すと考えているとしたらそれが誤解なのであってIQテストにケチをつけてもしょうがない

そもそも、二つのスキルがあって両方を上げなければならない理由もない。別の言い方をすれば「知性」が高くある必要もない。足の速さだけではサッカー選手にはなれないが陸上選手にはなれる(それの何が悪いのか、「知性」が足りないとでも言うのだろうか)。IQが高くて他がダメでも数学者にはなれるかもしれない。もちろんいろんな才能を組み合わせた方が労働市場では有利だろう(通常の労働は労働者総体としての評価であって特定のスキルではないからだ)。しかし、余りにも能力が偏っている=他の才能を伸ばすのが困難であるなら一つのことに集中するのも理にかなっている。

元記事のタイトルWhy a high IQ doesn’t mean you’re smartへの答えは単純だ。それはIQとsmartの定義が違うからに過ぎない。

It is not enough to say what intelligence is not measuring, you have to propose alternative ways of measuring rationality,” says Kahneman. Stanovich maintains that while developing a universal “rationality-quotient (RQ) test” would require a multimillion-dollar research programme, there is no technical or conceptual reason why it could not be done.

ではもっと広範な知性をどうやって測ればいいかについて論じられているが、これが困難なのは明らかだ。知性に何らかの定義を与えた途端、それは元々の知性とは異なるものになってしまう。それは「サッカー能力」をサッカーの試合での活躍以外の指標、例えばリフティングの回数、なんかで測ろうとするようなものだ。「知性」というものの正しい測定法が決まっていない以上、どの測定法がより存在しない指標を正しく測定しているかを判断することはできない。問題は「知性」という指標を何のために使用するかだ。サッカー選手の得点能力が知りたいのであれば、得点率・チーム間の戦力差などの指標からなにか数値を作れるだろう。高校生における勉強の出来なら模試の点数だ。受験に成功するかが焦点である以上当然だ。目的のない数字には意味がない。

ファイナンス業界と給与水準

ウォールストリートの報酬問題に関してThomas PhilipponとAriell Reshefのペーパーが取り上げられている。

Matthew Yglesias » The Real Problem With High Wall Street Pay

金融危機以来、ウォールストリートのサラリーには多くの批判が寄せられている。しかし、主な焦点となっているのは給与体系が過剰なリスクを助長するようになっているのではないかというインセンティブ上の問題である。しかし上のグラフから違う視点が見えてくる。ファイナンス業界における給与水準は労働者の教育水準とかなり近い動きをしていることが分かる。これは近年の給与水準上昇が何らかのインセンティブの歪みではなく、単により優れた労働者の流入によるものである可能性を示している。

しかしこのことは問題がないことを意味しない。むしろ、直感的には明らかな問題を浮き彫りにしている。それはファイナンス業界が優秀な人材を過剰に引き寄せているのではないかということだ。これは経済・数学・統計・物理などの分野では明らかだ。近年、高度な数学を学んだ人はファイナンス業界に行くことで他の就職先を遥かに上回る給与を受け取ることができた。別に研究者になることが社会的に最適だといっているのではないが(むしろ平均的にはマイナスだろう)、ファイナンスが特別に(給与差程には)社会的に望ましいとは思えない。

インセンティブの問題でいえば、成功時の報酬を制限する必要性はないが、全体的な給与水準を抑えることは国全体としてプラスである可能性はある。

民間の研究者

理系では企業の研究所というのは珍しくないが、社会科学においては珍しい。Microsoft Researchに所属するdanah boydのブログから:

apophenia: am I an academic?

研究している分野はソーシャルネットワークで、社会学的な観点からの分析だ。企業での社会科学の研究職と大学での研究職とが対比されている。多くの相違点は理系のそれと変わらない。しかし得に興味深いのはエンジニアとの関わりに関する以下の一節だ。

Still, you have to spend time helping the company directly! Yes, I spend time working with product groups. But I like to think of it as my teaching duty. Rather than teaching Soc 101 to hung-over 18-year-olds who didn’t bother doing the reading, I teach an interactive form of Soc 101 to engineers who are filled with questions that start with “but why?” and “but how?” I have a hard time imagining that my engagement with product groups takes up more of my time than teaching, office hours, and prep. And it’s often quite fun and thought-provoking.

Microsoftはソーシャルネットワークの専門家を抱えることで、他の従業員への啓蒙を行っているわけだ。これは二つの点で合理的である。まず、この仕事は専門家を内部に抱えずに行うのが困難だ。勿論、適時大学の研究者を呼ぶ、コンサルタントを使うなどの方法は可能ではある。しかし、細かな設計に関する問題に対応したり、効果的に知識を吸収させるという意味では外部から人を呼ぶのは効率が悪い。また、全くの新しい分野について一般的なコンサルティングが役に立つとは考え辛い。例えばソーシャルネットワークの使い方について大手のファームが専門性を有しているとは思えないし、それに特化した小規模なファームについてもその知見が信用に値するかは分からない。

二つめの理由としては、専門家を研究者として雇うことにより、専門家のモチベーションを維持しつつ専門性を維持できることが上げられる。仕事上の裁量を大きく取り、研究に従事させることは、特に専門性の高い業務においては有効な雇用戦略でありうる。

同様の研究部門はGoogleやYahoo!にも存在する。民間の研究機関を考慮しているなら一読の価値があるだろう。