好きなことを仕事にするな

追記:同じ題材を外向けの視点で書いた記事があった:「結局は自分の好きなことを貫き通したやつが負け」。Twitterで流れてきたので一応リンクしておきます。

このまえ「いつ専攻を決めるべきか」でちらっと紹介したPenelope Trunkの記事:

Bad career advice: Do what you love | Penelope Trunk’s Brazen Careerist

大分古いエントリーだが、とても気に入っているのでご紹介。お題は以下だ:

One of the worst pieces of career advice that I bet each of you has not only gotten but given is to “do what you love.”

キャリアに関する最低のアドバイスは「好きなことを仕事にするべき」だという。みんな自分の好きなことを仕事をすべきだというのは確かによく聞くし、誰しもこの言葉を使ったことがあると思う。

このアドバイスに問題があるのはまず、好きだからうまくいくとは限らないことだ。運動神経のない野球選手志望の子供から、微分のできないエコノミスト志望の大学生までいろいろあるだろう。

So it’s preposterous that we need to get paid to do what we love because we do that stuff anyway. So you will say, “But look. Now you are getting paid to do what you love. You are so lucky.”

では何でそんなアドバイスがまかり通っているのか。それはもし好きなことが仕事にできればそれ以上のことはないという考えがあるからだ。しかし一見すると非の打ち所のないこの考えにも穴がある:

But it’s not true. We are each multifaceted, multilayered, complicated people, and if you are reading this blog, you probably devote a large part of your life to learning about yourself and you know it’s a process. None us loves just one thing.

それは人間はそれほど単純ではないという事実だ。人生は仕事だけではなく、いろいろな要素でできている。理想の仕事があれば人生解決なんてことはない。上の例でいえば、実際野球選手になった子供が幸せな人生を送っているかということだ。なっているかもしれないし、なっていないかもしれない。ポイントはそれが夢の仕事に就けたか否かでは決まっていないということだ。

これは自分のまわりを見ていても限りなく正しいように思う。例えば、うちの大学の先生は自分の業界における成功者だ。彼らは好きなことをやってお金を貰い、社会的な地位も得ている。しかし、彼らが本当に人生を楽しんでいるかというとそれほど楽しいようには見えない。むしろ普通に企業で働いている友達の方が遥かに人生を謳歌しているように思える。もちろん彼らも自分にあった仕事をしているというのもあるだろうが大学教授に比べれば自由度は低いだろう。

Because career decisions are not decisions about “what do I love most?” Career decisions are about what kind of life do I want to set up for myself?

キャリアを決める際の問いは何が好きかではなくどんな生活を送りたいかということだ。これは的を得たことのように思う。

自分自身、何をやりたいのか長いことを考えてきたように思うが、いつまで経ってもはっきりしない。これかと思っていたら、いつのまにか飽きてくるなんていうのはしょっちゅうだ。

次の一節はコメント欄からの抜粋だ:

I see something similar in tech all the time. “I don’t want to work on that software project because it is written in (insert language you don’t like).

仕事を選ぶ際に何を一番したいかを考えるのは、プログラムを書くときにどの言語が一番適切かについて悩むようなものだ。答えなんてあってないようなものだし、すぐに意見は変わる。そして、最終的にはどうでもいいことだ。

やっぱPythonを勉強すべきかRubyを勉強すべきかと議論している人と何が自分の一番したいことなのかを考えている人は何か同じ雰囲気があるように思う。重要なのはどんなプログラムを作るかであり、どんな人生を送るかだ。

例えば、大抵の町医者がやっていることはコンピュータのカスタマーサポートと大差ない(お医者さんのかた失礼)。違うのは給料だ。この二つの職業でどちらにしようかと考えるのはその給与差と仕事を得るための苦労との兼ね合いだろう。どちらが本当に好きなことなのかなんて問いに意味はない。医療が本当にしたいことならカスタマーサポートだってやりたいことのはずだ。

The pressure we feel to find a perfect career is insane.

好きなことを探してみることは悪くないと言われそうだが、好きなことを仕事にするべきだというアドバイスには大きな問題がある。それは好きなことを仕事にしないといけないという考えがもの凄いプレッシャーになるということだ。いわゆるニートなんて問題はここに由来しているように思う。まるで心から好きなことを仕事にしていなければ人生負けているかのようじゃないか

これがあまり褒められた状況でないのは仕事というものはポジション争いであることが多いのを考えれば一層明白だろう。中堅大学の先生はトップ大学にいないことに悩んでおり、トップ大学の先生はノーベル賞が取れないことに悩んでいるといったような構造だ。これはゼロサムにならないような仕事をすれば緩和されるが、仕事に人生の意味を求めるのは非生産的だ

Here’s some practical advice: Do not what you love; do what you are.

では何をすべきか。それは好きなことを仕事にするのではなく自分にあった仕事をすることだ。自分がどんな人間で、どんなことが得意で、どんな環境で快適に仕事ができるかを考える。そしてそれにあった仕事を選ぶということだ。自分が効率的にできる仕事で、適切な人間関係があり、自分にあった評価基準がある仕事であればいいのではないかそれが自分が本当に好きなことかどうかなんてのはそもそも意味のある問いなのかということだ。

And if you are so overwhelmed that you feel depression coming on, consider that a job might save you. Take one. Doing work and being valued in the community is important. For better or worse, we value people with money. Earn some. Doing work you love is not so important. We value love in relationships. Make some.

最後の一節は、特に印象的だ。仕事をして誰かに評価されることが重要で、憂鬱で仕方ないときは何でもいいから仕事をすべきだという。

このアドバイスは社会的にも望ましい。何をしたらいいのか分からず迷っている人や、自分の好きなことができなくて憂鬱になっている人がたくさんいるというのは不健全だし非効率的だ我々は自分が社会に何らかの貢献をしお金を稼ぎ評価されるということが一番大事だという考えをもっと持つべきではないだろうか

いつ専攻を決めるべきか

学生がいつ専攻を決めたかで将来の職業と大学での専攻との関連性がどう変わるかについて:

News: When to Specialize? – Inside Higher Ed

紹介されているのはOfer MalamudのDiscovering One’s Talent: Learning from Academic Specializationという研究。

To try to answer that question, Malamud compared entering college students in England, who apply for a specific field of university study while in high school, with those in Scotland, who enter a broad “faculty” for their first two years and typically specialize in a single discipline only for the second half of their time at a university.

彼は、大学入学時に専攻を決めるイングランドの大学生と後半になって決めるスコットランドの大学生を比較した。アメリカの大学は一般的に後者だ。進みたい学科が要求している単位・点数を満たした学生が途中で専攻を決める(declare major)。日本は前者の大学が多いが、東大のように最初の二年間は教養教育に当てるところもある。上にあるスコットランドのケースはそれに極めて近い。

In fact, the data showed that students who emerged from the English institutions were about 20 percent more likely than their peers in Scotland to end up in careers that were not aligned with their university majors.

結果は、入学時に専攻を決めるイングランドでは20%ほど専攻とは関係のない仕事に従事する割合が高かったとのことだ。

これは面白い結果だ。早く専攻を決めるということは卒業時により専門化されていることを意味する(はずだ)。よって賃金面で言えば、他の条件が同じなら、専攻に関係する仕事に就くのが望ましくなる。

The students at Scottish institutions, by contrast, seem more likely to have chosen to study fields that successfully aligned with their career interests, says Malamud, success that he attributes to the time and freedom they’re given to experiment with a broad range of fields, and to learn both what they like and what they’re good at.

これについて、スコットランドの学生の方がいろんな分野を試すことで自分がやりたいことや自分が得意なことを発見しているからだと説明している。

もう一つの説明は、専門化を遅らせることでちゃんと仕事が存在する分野を勉強するというものだろう。大体から言って自分が好きなことをすべきというのは最悪のアドバイスだ。そういった変な教育を辞めれば仕事のミスマッチとかいう問題は消えてなくなるような気もする。

テニュアの経済学

最近、アメリカのアカデミックな労働市場についての「ポスドクとは アカデミアに仕事が少ない!編」を読んだ。当事者の目から説明されている良い記事だが、テニュア制度の存在意義についてはちょっと単純化しすぎなので補足したい:

The Economics of Tenure

まずテニュア(Tenure)というのは教授の終身雇用のことだ。ポスドクや助教授(Assistant Professor)は任期付きのポストで、研究実績がたまってきたらテニュアの審査を受ける。うまくいけば終身雇用が約束され、だめなら他の大学に移る。この制度は日本での導入も進んでいる。

元はといえばテニュア制は、学問的にメインストリームでなく、リスキーで過激な主張をする学者さんを、政治的な糾弾、弾劾から守り、学問の自由を保証するために存在した制度です。現在では、かなり形骸化し、雇用の安定を保証する以上あまり存在価値のない制度とも言えます。

ではこの制度はなぜ存在するのか。一つは学問の自由の保証だ。しかし、エコノミストの認識はそうでもない:

The economists who have analyzed tenure have seen it as a solution to the problems created by the special nature of academic employment instead of a protection for academic freedom.

テニュア制度は学問の自由というよりも特別な労働関係に対応するための仕組みだという。いくつかの問題が挙げられているが最も重要なのは以下だろう:

Carmichael (1988) argues that tenure exists within academic environments because worker-professors are called upon to select new members.

テニュア制度は既存の教授が新任の教授を選ぶという仕組みのためにあるという。どういうことか。

When the university has full information about the abilities and alternatives of incumbents and candidates, tenure is not part of the optimal solution. The least productive and most expensive professors will be fired and replaced by new candidates. However, when the university does not have full knowledge and incumbents have better information, the university will have problems getting incumbents to identify the best candidates if it plans to follow an optimal hiring and firing strategy. An incumbent cannot rule out the possibility that he or she will be fired in the future to make room for a candidate. Thus, if the university expects its incumbents to tell it who the good candidates are, the incumbent’s signals about candidates must not affect he incumbent’s probability of being retained.

根底にあるのは、研究者を採用することの難しさだ。例えば数学者を雇うとしてどの候補者を採用するか決めるのは数学者に任せるのが最適だろう。実際、大学教授は大学教授によって選任される。しかし、もし既存の教授の雇用が守られていなければ、彼らに公平な選出を期待するのは難しい優秀な若手を採用すれば自分の雇用が脅かされるからだ

同じことは高度に専門化された他の分野でも当てはまるだろう。例えば弁護士事務所であれば出世するとパートナーになる。弁護士事務所がパートナーシップを利用する理由は法律以外にもいろいろあるだろうが、ベテランに実質的な終身雇用を与えるという機能もあるだろう。

もちろん終身雇用を約束することは、働くインセンティブを失わせるが、そこはトレードオフだろう。インセンティブの低下には、学部全体を解散することでも対応できる。学部全体のパフォーマンスが低い場合に解雇されうることは、優秀な若手を避けることにはつながらない(むしろ採用するだろう)が、仕事をするインセンティブになる。

キリギリスの方が安全な社会

アリとキリギリスの寓話について、アリのように「安心」ばかりを追求することの費用についての指摘:

アリとキリギリスはどちらが幸せか 安心に払うコストを考える – keitaro-news

『安心』は不確実性を排し、変化を忌み嫌うことです。日進月歩で進む環境を無理に安定させようとすれば『安心』のために支払うコストは多大なものになります。

「安心」を過度に求めるアリ的な生き方は割に合わない。みんなが「安心」を求めれば「安心」の価格が上がるからだ。単なる需要と供給の問題だ。

安定や安全に関するコストを計算していますか?。

そして高いものを「買う」ときにはよく調べてからにするべきだ。

しかし、現代人にとって本当の問題は「安心」を求めることではなく、「安心」を買ったつもりになって「リスク」を買ってしまうことだろう。昔は「安心」と言えばアリ的生き方のことだったが、世の中はキリギリス的生き方のほうが「安心」な方向へ向かいつつある。別の言い方をすれば、リスクを避けたいのであれば三十年前に安定と呼ばれていた生き方をしてはいけない。両親に恋愛のアドバイスを求める人がどれ程いるだろうか。就職・転職でも同じだ。

いまや同じ会社で定年まで勤め上げることは難しい。転職をすることはリスクではない転職という困難な作業に対するスキルを上昇させることだ。そしてネットワーキングこそが現代の転職において最も重要なものだ。ひたすらこつこつと働くのではなく、外に出ていろいろな人に知り合い、チャンスがあればそれに乗っていくことが最もリスクの少ない生き方になりつつある。

「安心」のためにいくら払っているかを考えるだけでなく、本当に対価として得ているものが「安心」なのかよく考える必要がある。

博士人材活用の攻めの姿勢

民主党の「仕分け」で盛り上がっている博士の人材活用について:

「博士および博士級人材」の能力 – akoblog@はてな

「科学技術と企業家の精神—新しい産業革命のために」という本の紹介だが、次の本文が気になった:

先日のエントリで私が書いたことは、どうも個人的な待ちの姿勢と読まれた方も少なくなかったが、この本は強くお勧めしたいと思う。

本から引用されているのは次の一節だ:

(人材送出側の大学、本人、および企業側の)相互理解の不足問題の本質は、「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることが、社会の共通認識となっていないことである。個別の企業に高度知的人材の活用法を委ねるだけでなく、国策としての方策も併せて検討すべきであ る。(「科学技術と企業家の精神」p184 より)

しかし、これもまた「待ちの姿勢」に過ぎないだろう。逆に考えればわかりやすい。何が博士人材を活用する上での「攻めの姿勢」だろうか

それは、博士人材の問題解決・設定能力が社会に認識されていないうちに彼らを優先的に雇用することで大きな利益をあげることだ(とりあえず博士人材の能力については上の主張が正しいとする)。もし博士号を持っている人間の本当の価値が他の人間に知られていないことが問題の本質であるなら、それに気づいて彼らを雇う会社は優位に立てる。単純な裁定取引に過ぎない。

では何故そういう行動に出る企業が存在しないのか。博士人材の過剰供給が取り沙汰されるようになって以来ずっと誰もこの(裁定)機会に気づかなかったのだろうか。それは俄には信じがたい。企業はパート労働者が割安だと気づけば雇用するし、派遣労働者が人件費削減に資すると分かれば世間から非難されようと大々的に導入する。やはり、単に企業が「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることを知らなかったと考えるのは無理があるだろう。企業はそうだと分かっていながら合理的な判断として博士人材を雇用してこなかったはずだ

問題解決・設定能力が企業活動にとって重要であることは言うまでもないし、そういった人材が余っているという話も聞かない。よって潜在的な需要はあるだろう。ではなぜ企業は博士を雇用しないのか。まず検討すべきなのは情報の非対称だろう

企業からみて博士の人間の能力を判定するのは非常に難しい。問題解決・設定能力はどうやって測るのだろう。言うまでもなく、論文を読んで判断するというのは費用が掛かりすぎる。また、同業者と比べて明らかに学術業績がある人間はほぼ確実にアカデミアに残るため、企業が採用とする人間のプールだけを考えれば素人が見て業績に差があるようなケースもほとんどないだろう。自分がアカデミアにいる人は、違う専攻の博士をどう評価すべきかを考えればすぐに分かるだろう。例えば、他分野のトップジャーナルが何かなんて普通は知らない、ましてやある人がやっているその分野のごく狭い部分で重要なジャーナルが何かなんて業界の人に聞かないと分からないだろう。博士を取ったばかりの人間であれば参考にすべき情報もあまりない。

企業が学生の資質を測るのに苦労しているのは学部の新卒採用でも同じだ。何度も面接を行うのはその現れだ。しかし、面接をうまくこなせる能力や完璧なレジュメを書く能力よりも重要なことがある。それは出身大学だ。企業は学生の資質を測る最も簡単な方法としてどこの大学の学生かという情報を利用している。この場合、一流大学に入るということが能力が低い学生にとって比較的困難なため、シグナリングとして作用している(大学のシグナリングについて)。

こう考えると博士の就職がうまくいかない理由は簡単に分かる。それは大学というシグナリングの装置がうまく働かないからだ。企業は出身大学という情報を使って学生の質を推定することができず、採用をとりやめる。博士の就職問題を解決したいなら、この状況を変えればいい。まず、各大学(特にトップ大学)の定員を削減する必要がある。学部卒で考えれば分かる。誰でも入れる大学の卒業生を雇いたい企業がいるだろうか。その大学にも優秀な人はいるといくらいっても無理な話だ。

これは全体としての大学院の定員を減らせというわけではない。総数が同じであっても内部でランクがつけばよい。中程度の能力ならそうと分かればいいだけの話だ。それによって企業が学生を判断する手がかりが与えられる。学生の選考は難しくなるが、大学教授のほうが博士課程に進む学生の質を判断する能力には秀でている。特に国立大学はシグナリング機能を学生に提供しようという金銭的なインセンティブを持たないので政府の関与が必要だろう。

この場合でも何故学生がこのような状況でも進学するのかという疑問は残るかもしれない。しかし、それは学生がアカデミアに強い選好を持っていることで説明できる。また、実際学生が最適でない行動を取っているとしても、企業が最適でない行動をとっているよりはよっぽど自然なことだ。

シグナリングは社会的な費用になるのではないかという指摘についてはその通りだ。しかし他に効率的な手段がない以上必要だろう。アメリカでは大学院のランク付けは当たり前だ。また個々のプログラムは小規模でランクが上がるほどセレクティブになる。シグナリングはアカデミックな就職市場でも有効だ。業績が殆どない博士の能力を測る手段として大学院のランクが使われる。これには大学内の他の学部に対して採用決定の正当化に役立つという面もあるだろう。

おまけ:

もし自分には見分けがつくというのなら、就職支援・採用支援でビジネスを始められる。これはシグナリングなんていうコストリーな仕組みを使わない分社会的に望ましい。

見分けはつくがそれを信頼できる形で示せないというなら、自らビジネスを始めてできる博士だけを雇えばよい。優秀な問題解決・設定能力を持った人材を比較的低コストで雇えるのだから何をやっても利益を出せるはずだ。