フルタイム教授の減少

アメリカの大学ではフルタイムの教授は結構少ない。大学院生はもちろん、学部向けの授業は非常勤の先生(Adjunct Professor)によって教えられることが多い。

Strategy – Faculty – The Case of the Vanishing Full-Time Professor – NYTimes.com

In 1960, 75 percent of college instructors were full-time tenured or tenure-track professors; today only 27 percent are.

このこと自体はよく知られていることがだが、実際の数字はショッキングだ。テニュアないしテニュアトラックの教授は1960年の75%から26%にまで落ちているそうだ。テニュアとは終身雇用のことで、大学はテニュア審査の対象となるポスト(tenure-track; Assistant Professor)を雇い、研究成果を元にそれを与えるかどうかを決めるものだ。テニュア制度の意義については以前説明した(テニュアの経済学)。

“When a tenure-track position is empty,” says Gwendolyn Bradley, director of communications at the American Association of University Professors, “institutions are choosing to hire three part-timers to save money.”

終身雇用を与えることは非常にコストリーなので、不景気になるとパートタイムの先生を使って必要なコマ数を確保することが増える。

フルタイムの教授の減少にはいくつかの問題点がある:

  1. 研究者ポストの削減
  2. 学生への授業外のサポート不足
  3. 講師のリスク負担

しかし、これらはそれほど深刻な問題とは言えない。まず研究者ポストの数についてだが、これはティーチングの数と紐付けされていること自体が適切でない。研究者の数については研究の必要性で判断すればよい。二つ目は制度的な問題だ。オフィススペースやメールボックスを整備したり、IT技術を導入したりすることで対処できる。最後は分野によるだろう。他の仕事がいくらでもある業界ではパートタイムの仕事はリスクにはならない。むしろ収入が分散する。

逆に、非常勤の教員が増えるメリットは多い:

  1. 研究職との分業による効率化
  2. 実社会での経験に基づく授業・産業界へのコネクション
  3. コスト削減

1については大学で授業をとったことがあれば明らかだろう。フルタイムの教授の審査はほぼ完全に研究業績で行われるため、彼らは必ずしも教育に秀でているわけではない。入門コースのように、研究者が受け持ちたがらない授業を非常勤ないし教育に特化した教員が受け持つのは効率的だ。また、学生にとって研究者ではない先生がいることはプラスだ。どの大学であれ卒業生の多くは民間企業に就職する。研究者との接点がなくなるのは問題だが、選択できる限り問題はない。最後に非常勤の教員の給与は低い。これは一見教員にとって悪いことに聞こえるがそうでもない。自分でビジネスを行っている人間にとって大学で教えることは自分の評判・知名度を高めるというブランディングに使える。よって、本来の価格より低い給与でもクラスを受け持ってもらうことが可能だ。これは大学・学生にとっても、教える側にとってもプラスだ。

民間から非常勤講師を招くという傾向はこれからも続くだろうし、日本でも急速に広まるだろう。ただ、その時に教える分野についてきちんとした知識を有していない自称専門家が入り込んでしまわないように注意する必要がある

博士人材活用の攻めの姿勢

民主党の「仕分け」で盛り上がっている博士の人材活用について:

「博士および博士級人材」の能力 – akoblog@はてな

「科学技術と企業家の精神—新しい産業革命のために」という本の紹介だが、次の本文が気になった:

先日のエントリで私が書いたことは、どうも個人的な待ちの姿勢と読まれた方も少なくなかったが、この本は強くお勧めしたいと思う。

本から引用されているのは次の一節だ:

(人材送出側の大学、本人、および企業側の)相互理解の不足問題の本質は、「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることが、社会の共通認識となっていないことである。個別の企業に高度知的人材の活用法を委ねるだけでなく、国策としての方策も併せて検討すべきであ る。(「科学技術と企業家の精神」p184 より)

しかし、これもまた「待ちの姿勢」に過ぎないだろう。逆に考えればわかりやすい。何が博士人材を活用する上での「攻めの姿勢」だろうか

それは、博士人材の問題解決・設定能力が社会に認識されていないうちに彼らを優先的に雇用することで大きな利益をあげることだ(とりあえず博士人材の能力については上の主張が正しいとする)。もし博士号を持っている人間の本当の価値が他の人間に知られていないことが問題の本質であるなら、それに気づいて彼らを雇う会社は優位に立てる。単純な裁定取引に過ぎない。

では何故そういう行動に出る企業が存在しないのか。博士人材の過剰供給が取り沙汰されるようになって以来ずっと誰もこの(裁定)機会に気づかなかったのだろうか。それは俄には信じがたい。企業はパート労働者が割安だと気づけば雇用するし、派遣労働者が人件費削減に資すると分かれば世間から非難されようと大々的に導入する。やはり、単に企業が「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることを知らなかったと考えるのは無理があるだろう。企業はそうだと分かっていながら合理的な判断として博士人材を雇用してこなかったはずだ

問題解決・設定能力が企業活動にとって重要であることは言うまでもないし、そういった人材が余っているという話も聞かない。よって潜在的な需要はあるだろう。ではなぜ企業は博士を雇用しないのか。まず検討すべきなのは情報の非対称だろう

企業からみて博士の人間の能力を判定するのは非常に難しい。問題解決・設定能力はどうやって測るのだろう。言うまでもなく、論文を読んで判断するというのは費用が掛かりすぎる。また、同業者と比べて明らかに学術業績がある人間はほぼ確実にアカデミアに残るため、企業が採用とする人間のプールだけを考えれば素人が見て業績に差があるようなケースもほとんどないだろう。自分がアカデミアにいる人は、違う専攻の博士をどう評価すべきかを考えればすぐに分かるだろう。例えば、他分野のトップジャーナルが何かなんて普通は知らない、ましてやある人がやっているその分野のごく狭い部分で重要なジャーナルが何かなんて業界の人に聞かないと分からないだろう。博士を取ったばかりの人間であれば参考にすべき情報もあまりない。

企業が学生の資質を測るのに苦労しているのは学部の新卒採用でも同じだ。何度も面接を行うのはその現れだ。しかし、面接をうまくこなせる能力や完璧なレジュメを書く能力よりも重要なことがある。それは出身大学だ。企業は学生の資質を測る最も簡単な方法としてどこの大学の学生かという情報を利用している。この場合、一流大学に入るということが能力が低い学生にとって比較的困難なため、シグナリングとして作用している(大学のシグナリングについて)。

こう考えると博士の就職がうまくいかない理由は簡単に分かる。それは大学というシグナリングの装置がうまく働かないからだ。企業は出身大学という情報を使って学生の質を推定することができず、採用をとりやめる。博士の就職問題を解決したいなら、この状況を変えればいい。まず、各大学(特にトップ大学)の定員を削減する必要がある。学部卒で考えれば分かる。誰でも入れる大学の卒業生を雇いたい企業がいるだろうか。その大学にも優秀な人はいるといくらいっても無理な話だ。

これは全体としての大学院の定員を減らせというわけではない。総数が同じであっても内部でランクがつけばよい。中程度の能力ならそうと分かればいいだけの話だ。それによって企業が学生を判断する手がかりが与えられる。学生の選考は難しくなるが、大学教授のほうが博士課程に進む学生の質を判断する能力には秀でている。特に国立大学はシグナリング機能を学生に提供しようという金銭的なインセンティブを持たないので政府の関与が必要だろう。

この場合でも何故学生がこのような状況でも進学するのかという疑問は残るかもしれない。しかし、それは学生がアカデミアに強い選好を持っていることで説明できる。また、実際学生が最適でない行動を取っているとしても、企業が最適でない行動をとっているよりはよっぽど自然なことだ。

シグナリングは社会的な費用になるのではないかという指摘についてはその通りだ。しかし他に効率的な手段がない以上必要だろう。アメリカでは大学院のランク付けは当たり前だ。また個々のプログラムは小規模でランクが上がるほどセレクティブになる。シグナリングはアカデミックな就職市場でも有効だ。業績が殆どない博士の能力を測る手段として大学院のランクが使われる。これには大学内の他の学部に対して採用決定の正当化に役立つという面もあるだろう。

おまけ:

もし自分には見分けがつくというのなら、就職支援・採用支援でビジネスを始められる。これはシグナリングなんていうコストリーな仕組みを使わない分社会的に望ましい。

見分けはつくがそれを信頼できる形で示せないというなら、自らビジネスを始めてできる博士だけを雇えばよい。優秀な問題解決・設定能力を持った人材を比較的低コストで雇えるのだから何をやっても利益を出せるはずだ。

オンライン数学コラボレーション

ブログでの議論が数学の論文が生まれたというニュースがUCLAの学生新聞The Daily Bruinから:

The Daily Bruin | UCLA mathematician Terence Tao’s site has audience of 40,000 via Environmental and Urban Economics

取り上げられているのはフィールズ賞まで受賞しているスター数学者であるテレンス・タオ(Terence Tao)のブログだ。

After six months and more than 1,000 comments from more than 50 mathematicians, a paper titled “A new proof of the density Hales-Jewett theorem” is ready to be submitted under the pseudonym D.H.J. Polymath because of the difficulty in determining how much each person has contributed. The paper is one of the first to be collaborated through a blog.

多くの数学者からのコメントをもとに完成した論文はD. H. J. Polymathという著者名のもとジャーナルに投稿されるそうだ。これはPolymathプロジェクトの一部だ(ポリマスとは博学なひとのことだ)。Polymathプロジェクトで扱われる問題はプロジェクトのブログで公開されている。

プロジェクト自体の構想についてはTim Gowersのポストに詳しい。このプロジェクトの鍵は次の問いにある:

What about the solving of a problem that does not naturally split up into a vast number of subtasks?

自然に分割できないような問題を解く場合に多くの人間が関わることの意味が何かということだ。これはインターネットという複数の人間が同時に作業をする環境が出現したことで生じた問題だ。彼は、この問いに肯定的な回答をする:

(i) Sometimes luck is needed to have the idea that solves a problem. If lots of people think about a problem, then just on probabilistic grounds there is more chance that one of them will have that bit of luck.

まず運という要素があるなら多くの人間が関与した方が望ましい。これは特許制度の設計でも重要だ。ある発明の価値が決まっていて、発明を試みる度に決まった確率で成功するとしよう。すると発明を試みる人間が多ければ多いほうが発明できる確率は上がっていく。

これが社会的に望ましいとは限らないことに注意が必要だ。社会的に望ましいのは発明の確率をできるだけ上げることではなく(何人が参加しても発明確率は100%にはならない)、試行のコストが限界的な試行の価値=発明の価値×発明確率のその試行による上昇分(marginal value)となった時だ。しかし、参加者は試行の費用が平均的な発明の価値=発明の価値×発明確率÷参加人数(inframarginal value)となった場合だ。この時、社会余剰はゼロになり、当然人数が過剰になっている。但し、発明の価値と発明者にとって私的利益は一致しないため必ずしも過剰にはならない。過剰になるか過少になるかは私的利益の割合によるが最適な値になる理由はない。

(ii) Furthermore, we don’t have to confine ourselves to a purely probabilistic argument: different people know different things, so the knowledge that a large group can bring to bear on a problem is significantly greater than the knowledge that one or two individuals will have.

二つ目の利点は分業だ。これについては異論はないだろう。異なる知識や強みをもつ人間の協力は生産性を上昇させる。

(iii) Different people have different characteristics when it comes to research. Some like to throw out ideas, others to criticize them, others to work out details, others to re-explain ideas in a different language, others to formulate different but related problems, others to step back from a big muddle of ideas and fashion some more coherent picture out of them, and so on.

三つ目の利点もまた分業の一種だが、研究の仕方に関するものだ。アイデアを出すのがうまいひともいれば、それを反駁するのが得意な人もいる。

ここから、

In short, if a large group of mathematicians could connect their brains efficiently, they could perhaps solve problems very efficiently as well.

数学者がうまく協力できれば問題を効率的に解いていけると結論付ける。

Why would anyone agree to share their ideas? Surely we work on problems in order to be able to publish solutions and get credit for them. And what if the big collaboration resulted in a very good idea? Isn’t there a danger that somebody would manage to use the idea to solve the problem and rush to (individual) publication?

次の課題は、ではどうやってうまく協力させるかというインセンティブの問題だ。

Here is where the beauty of blogs, wikis, forums etc. comes in: they are completely public, as is their entire history.

ここでブログやWiki、フォーラムの利点が指摘される。それは完全な公開性であり、証拠が残るという特性だ。

Instead of the usual reaction of being afraid to share it in case someone else beat you to the solution, you would be afraid not to share it in case someone beat you to that particular idea

アイデアを公開して他人に先に使われてしまうのを恐れるのではなく、早く共有することで誰かが先にそれを発表してしまうのを防げるという。

この問題も特許制度が抱えている問題と極めて類似している。特許は重要な発明が企業秘密にされてしまうことを防ぐという目的がある。特許があることで発明者は自分の発明を共有するインセンティブを持つ。インターネットは数学の問題を解く場合において部分的な貢献を公開・共有することを可能にした。これはジャーナルによる公開・共有が基本であった時代では不可能なことだ。

しかし、この方法がうまくいくかは数学におけるイノベーションの発生の方法に依存している。これは以前ふれた特許制度の問題とまったく同じだ。よってその弊害も同様に存在する:

  • 研究の途中で公開できるようになると最適な状態にたどり着く前に公開して終わりにしてしまうインセンティブがある
  • 細かい成果が公表されすぎると後続の研究がそれらを言及するための費用が増える

前者は以前のポストにおけるBoldrinとLevineの指摘を数学に適用したものだ。アイデアを得た人が本当なら最後まで頑張って仕上げたものを途中で公開してしまうということだ。これはいろんな学術分野に当てはまるだろう。

経済でいえばアイデアを出し、直感的な説明をするところはまでは楽しい。しかし、それを示す数理モデルを書いて、解いて、実証やシミュレーションを行うのは面倒だ。ジャーナルしか発表の場がなければそこまで頑張ってやるしかないが、ブログなどでさっさと世の中に公表できるなら最初のステップで終わりしてしまうかもしれない。誰かが後半をやっても前半部分は評価されるわけだ(前半のほうがセンスがいる)。Matthew Kahnは何故このような方法が経済でうまくいかないかと問いかけているがこれが答えだろう。経済学はアイデアと直感というセンスを要する部分が最も評価されるため後半を誰もやりたがらない。数学では重要な問題はいくらでもあって解くという後半のステップの比重が高い(そしてそれが好きな人が集まっている)。

後者は金銭支払いのない研究では大きな問題にはならないがそれでもややこしいことには変わらない。何かの定理を証明したとして既に誰かが発表している内容とかぶっていたらそれを引用する必要がある。もし、その定理に関する情報が学術ジャーナル以外の場所にも散在しているとなると、文献調査作業は非常に手間の掛かるものとなる。今までならその分野を研究している先生に聞いて、ジャーナルデータベースでも検索するだけだったが、そうもいかなくなるだろう。

ちなみにテレンス・タオは学術的に成功した天才児(Child Prodigy)としても有名だ。10歳で数学オリンピックに出場し銅メダル、13歳のときには現在に至るまでの最年少で金メダルをとっている。17歳で地元の大学(Flinders University)で修士号、20歳でプリンストン大学でPh.Dを取得し25歳には最年少でUCLAでテニュアを得ている。

http://rionaoki.net/2009/11/1464

何で経済学は難しいのか

アメリカの大学の経済学部からアメリカ人が減っていることに関連して、何故経済学が難しい学問であるのかについて:

Environmental and Urban Economics: The Future of Research Economics

まず実際に経済学部におけるアメリカ人の数は少ない

When I was a graduate student 20 years ago, my entering class was 50% American. Now I believe that at Chicago it is 15%.

ここではシカゴ大学の例が挙げられており、20年前50%ほどだったアメリカ人の割合は現在では15%だという。州立であるバークレーではアメリカ人の割合は比較的多いが、それでも30%程度だ。しかもそのアメリカ人の多くは両方の親が外国生まれであるなど、日本人が持つアメリカ人のイメージとは合致しない。

applied micro has suffered over the last 15 years as top Americans have gone to Wall Street rather than the professor route.

その理由の一つとしてしばしば指摘されるのが、民間におけるエコノミストの給与水準だ。金融機関におけるファイナンス理論の導入、政府部門におけるエコノミストの採用、経済コンサルティングの発達などにより民間からのエコノミストの需要は以前とは比べ物にならない。民間の給与水準は初任給で(アカデミックでは最も高給な)トップランクのビジネススクールを上回ることが多く、しかも経験を積むに連れその差は開くばかりだ。

もちろん民間にいくのはアメリカ人とは限らない。しかし、アメリカのトップスクールを優秀な成績で卒業した学部生にとって大学院にいく相対的なメリットが減少しているだろう。彼らは、優秀な外国人とは異なり、大学院にいかずとも容易に働くことができるからだ。

Unfortunately, I am slightly worried that economics has hit diminishing returns. There is a huge intellectual payoff from starting to know basic economics and statistics but are there increasing returns here?

しかし著者のMatthew Kahnはさらに経済学の学問としての発展に言及している。彼によると、経済学は収穫逓減段階に入っているという。基本的な経済学の研究は大きな価値をもたらすが、既に多くのことは理解されており新しい研究が生み出す価値が減ってきているということだ。

Economics is harder. The agents we are studying form expectations of the future, are highly heterogeneous, their choices are often strategic and some claim that they even make mistakes.

自然科学では収穫逓減が続いているようには思われない。DNAの発見のように大きなブレイクスルーがもたらされることがある。では何故経済学の生産性は減っていくのか。経済学が難しい学問であることが指摘されている。

何故経済学は難しいのか。経済学の対象は人間だ。人間は未来を予測して行動するし、それぞれが異なっているしかも戦略的な行動=他の人が何をやるかを考慮した行動をとるし、時には間違った行動を取る

On top of this, the economies we study are not stationary as they are bombarded with shocks

観察対象が複雑であるだけではない。エコノミストはその観察対象をきちんと観測することができない。現実の経済は多くの外生ショックの影響で動きつづけてている。

ここで指摘されている経済学の難しさはどれもその通りだろう。経済学はよく物理学などと比べて科学的でないとか、予測能力が足りないなどと批判されることがあるが、それは的外れな批判だろう。経済学が扱う対象は人間であり、実験を行うことも困難だ。しかも、経済理論は倫理的判断を避けるためもあり、人間の行動や社会的な価値基準に対してできる限り仮定を行うことを避ける

教養学部でお世話になった先生から彼が経済学を勉強しなかった理由を聞いたことがある。それは、経済学の仮定が余りにもおかしかったというものだ。人間は自分の利益のために行動するといった(注)考えがバカらしいと感じたという。

しかし、経済学のおもしろさはここにあるように思う。そのバカらしく単純な仮定でどれだけ多くの人間行動が説明できてしまうかということだ。人間は多種多様な価値観を持ち人によって異なる方法で外界の情報を取り入れ処理するなどいった考えからスタートしたら、人間の行動に対する理解は進まなかっただろう

(注)個人の選好には他人の効用を含めることもできるので、経済主体が自己の利益のみを追求するという言い方が正しいかどうかは哲学的問題になる。しかし実際の経済モデルが自己利益の追求を想定しているのは事実だ。

民間の研究者

理系では企業の研究所というのは珍しくないが、社会科学においては珍しい。Microsoft Researchに所属するdanah boydのブログから:

apophenia: am I an academic?

研究している分野はソーシャルネットワークで、社会学的な観点からの分析だ。企業での社会科学の研究職と大学での研究職とが対比されている。多くの相違点は理系のそれと変わらない。しかし得に興味深いのはエンジニアとの関わりに関する以下の一節だ。

Still, you have to spend time helping the company directly! Yes, I spend time working with product groups. But I like to think of it as my teaching duty. Rather than teaching Soc 101 to hung-over 18-year-olds who didn’t bother doing the reading, I teach an interactive form of Soc 101 to engineers who are filled with questions that start with “but why?” and “but how?” I have a hard time imagining that my engagement with product groups takes up more of my time than teaching, office hours, and prep. And it’s often quite fun and thought-provoking.

Microsoftはソーシャルネットワークの専門家を抱えることで、他の従業員への啓蒙を行っているわけだ。これは二つの点で合理的である。まず、この仕事は専門家を内部に抱えずに行うのが困難だ。勿論、適時大学の研究者を呼ぶ、コンサルタントを使うなどの方法は可能ではある。しかし、細かな設計に関する問題に対応したり、効果的に知識を吸収させるという意味では外部から人を呼ぶのは効率が悪い。また、全くの新しい分野について一般的なコンサルティングが役に立つとは考え辛い。例えばソーシャルネットワークの使い方について大手のファームが専門性を有しているとは思えないし、それに特化した小規模なファームについてもその知見が信用に値するかは分からない。

二つめの理由としては、専門家を研究者として雇うことにより、専門家のモチベーションを維持しつつ専門性を維持できることが上げられる。仕事上の裁量を大きく取り、研究に従事させることは、特に専門性の高い業務においては有効な雇用戦略でありうる。

同様の研究部門はGoogleやYahoo!にも存在する。民間の研究機関を考慮しているなら一読の価値があるだろう。