教養教育の終わり

学位の価値は落ちる一方だ。授業料の高いアメリカでは、一足先に価格に見合う価値があるのかという疑いが広がっている。

How to manage a college education | Penelope Trunk’s Brazen Careerist

大学の機能は主に二つある。一つは実際の学習、もう一つは能力を示すという意味でのシグナリングだ。

The idea of paying for a liberal arts education is over. It is elitist and a rip off and the Internet has democratized access to information and communication skills to the point that paying $30K a year to get them is insane.

しかし、教養教育を受ける場所としての大学の機能は消滅の瀬戸際だ。いまや多くの学問分野は自学自習が可能だ。インターネットにはリソースが溢れているし、勉強したい者同士集まることも可能だろう(そういう場所をもっと作れればよいとは思う)。そもそも現在の大学生のどれだけが「教養」を身につけているかだって疑わしい。

経済学にしたって社会人として必要なレベルの学習に大学という(機会費用を含めた)莫大な投資が必要だとは到底思えない。本当の専門教育以外、大学で勉強する必要は見つからない。そして、それだけの教育が社会的に必要な人間の数は現在大学に通う学生の数より遥かに少ないのではないだろうか。

これは教養教育の価値を否定するものではない。私自身、教養学部に四年間も在籍したし、文理問わず色々なことを勉強した。しかし、大学がなければ出来ないことではなかったし、大学で他の専攻にいたとしても同時に勉強することは出来ただろう。しかも私は教育の真の社会的費用を負担していたわけではない。国立大学の費用の多くは税金によりカバーされている。本当の費用を負担してなお、教養教育に何年間もかけようという人はどれくらいいるのだろう。

しばらく前にWillyさんが教養教育に関するポストを書かれていた。そこでは次のような一節がある。

これに対するレスは様々だが「教養賛成派」からは、
「意味がないからこそ面白い」
「教養こそが人間の価値」
といった、私からすれば驚愕の意見が並べられている。

教養学部卒の私としては耳の痛い話だが、こういった反論は間違っている。「意味が無いからこそ面白い」、「教養こそが人間の価値」だとしても、それを大学でやらなければならない理由にはならないし、それほど価値があるなら政府の支援は必要ないはずだ。教養がある市民が多いことが社会にとってプラスだという議論は可能だろうが、それなら一部の人間に限られた大学教育ではなく、幅広い教育にお金をかけるべきだ。私は、教養教育の価値が下がっているのは事実であって、それに反対するのは自分の教育の価値が下がることに対する反感に過ぎないと思う。

Ben Casnocha has one of the most thorough, self-examined discussions about the value of college on his blog. He went to college, probably, because so many people told him to.
Ben left college. Early. And he’s fascinating, and he’s educating himself through experience, which is what the Internet does not provide. The Internet provides books and discussion, so why would you need to go to school for those things?

それどころが大学に行くことの価値自体への疑いもある。これは大学へ通う人間のほとんどが「専門」教育を受けるつもりではないことからして明らかだろう。私は上に挙げられているBen Casnochaの本もブログも読んでいるが、非常に洞察に富んでいる。教養が不必要なのではなく、教養のための大学が必要なくなっているのだ。これは「教養学部」や「リベラルアーツ大学」のことだけを指しているのではない。本当の専門教育を受けている学生の少ない(ほぼ全ての)大学に当てはまる。

また、この例は大学のもう一つの機能であるシグナリングもまた崩壊しつつあることを示している。大学入試に簡単になることによる学歴自体のインフレもあるが、もう一つの脅威は他のシグナリングデバイスの登場だ。今の時代、若者が自分の能力を示す方法はいい大学にいく以外にもいくらでもある。事業を自分で始めるのもそのひとつだろうし、様々な話題についてブログを書くこともそうだ。大学のシグナリング効果が一朝一夕になくなることはないだろうが、どれだけの費用・苦労を支払う価値があるかという観点で評価すれば大学の価値は薄らいでいる。

Students today don’t need teachers who don’t know how to write a blog post to teach them how to persuade people. Because the bar for communication is high, and it’s in the blogosphere, and if you can write a blog post that gets a decent conversation started, then you already know how to write a persuasive, engaging argument.

また教養教育の最も重要な要素の一つは論旨の一貫した説得力のある文章を書く能力だが、それはむしろブログを書いて人に読んでもらうことによって大学のクラスよりも効果的に身につく。先生からいい成績をもらう努力をするよりも、実際に読者になってもらう方が余程効率的だ。先生は仕事なのでどんな文章でも読んでくれるが、ネットで長い文章を読んでもらうためには事前にそれなりの価値があるという信用・評判を築く必要がある。どちらが難しいかは明らかだろう。

Twitterでは「つぶやく」な

注意:Twitterの仕組みに関する記事なので利用したことのない人には分かりにくいかもしれません。とても良くできた仕組みなので、ぜひ利用されることをお勧めします。よろしければフォローください

最近、「Twitterを「つぶやき」と翻訳した罪」なんて記事を読んだ。記事中には次のように「つぶやき」という訳の問題が指摘されている:

「140文字限定」、「つぶやき」、「フォロワーにのみ伝える」。こうしたキーワードだけで判断すると、いかにも閉じた空間の自己満足的なツールにしか見えない。

これは確かに残念なことだ。何故ならTwitterがFacebookやMixiのようなSNSと異なる点がまさにその開放性にあるからだ。Twitterも元々はFacebookにおけるステータス更新をSMSで行う仕組みだった(参考:Wikipedia)。Twitterのオフィシャルサイトでの質問が”What are You Doing?”だったことがそれを象徴している。

ではTwitterがFacebookのステータス更新やMixiの日記と違うのは何か。それはTwitterの仕組みの根底にある一方向性だ。従来のSNSでは友達になるためには相手の承認が必要だ。昔の友達を発見したり、最近会った人を見つけたりするのには役立つが、あくまで既存の人間関係を補完するものに過ぎない。見ず知らずの人間が友達リストにたくさんいる人は少ないだろう。それはまさに「友達」リストなのだ。

逆にTwitterにおける「フォロワー」は一方向的な概念だ。相互にフォローすれば「友達」と変わらない状況になるが、最初は常に一方通行で始まる。例え現実に友達同士だったとしてもどちらかがフォローを始めるのには変わりない。この一方的にフォローし始めるのがデフォルトという仕組みがTwitterの革新的なところだ

まず私が誰かをフォローし始める場合を考えよう。これはFacebookやMixiではまずうまくいかないがTwitterではごく自然なことだ(だからTwitterがSNSと何が違うかを知りたければまず一方的にいろんな人をフォローしてみよう)。この状態ではフォローした相手のTweetが自分のタイムライン(TL)に表示されるだけでブログをブックマークしたりRSSで購読しているのと大差ない。しかし、ここから相手に@でメッセージを送ったり、Retweetで相手のTweetにコメントすることが可能だ。意味のあるコメントをすれば相手がフォローし返すこともあり、何の関係もなかった人間と「友達」になることができる。相手は決まっているのでこれは「つぶやき」でも「フォロワーにのみ伝える」でもない。しかしこの特性を生かすためには、できるだけ有益なコメントをする必要がある

逆に自分が誰かほかの人にフォローされるのはどんな場合か。それは自分のTweetに価値がある場合だ。現実の友達であれば朝何を食べたかにだって興味があるかもしれない。しかし、既に有名人でもなければ見ず知らずの人間があなたのごく普通の日常に興味を持っていることはない。他人にフォローしてもらうためには、なるべく有益な情報や興味深い議論を提供する必要がある。しかも、Twitterは多くのネット上のシステム同様にストリーム型のコンテンツであり、紙媒体とは異なりぱっとみて取捨選択するには一工夫(リスト・フィルター・ボットなど)が必要だ。ストリームの価値を上げるにはノイズ比を下げる必要があり、それは大した意味のない「つぶやき」をしないことを意味する

これらの特徴はブログにもそのまま当てはまり、Twitterがミニブログ(microblogging)に区分されるのも頷ける。旧来のブログと異なるのは、情報の送り手・受け手という関係が固定的でないこととリアルタイムであることだ。ブログでもコメント欄などを通じて読者と交流することは可能だが、相手もブログを持っていない限りやりとりは限定的だし、常に非同期な形でしかない。Twitterはその交流を自然な形で拡げることができるという点で、ブログを書いている人にとってコメント欄を代替する必要不可欠なチャンネルになりつつある(TopsyのようなTwitterのアグリゲーターが役に立つ)。

先ほど、MixiやFacebookについて「既存の人間関係を補完するもの」と述べた。これは別の見方をすれば非常に不自然なシステムだ。現実の人間関係は常に新しい可能性へと開かれている。その意味でTwitterは「既存の人間関係の在り方をネット上で再現するもの」と言えるかもしれない

ちなみに、相互にフォローしあっている、つまり「友達」状態の場合には@でやりとりすることで、両者をフォローしている人以外のTLにはTweetが表示されなくなる。これにより、そのやりとりに関係ない人に対しての自分のストリームの価値を下げないで済むし、既存の友達との間のインスタント・メッセンジャーとしての役割も果たせる。

剽窃の検証

Tweetやはてなブックマークお願いします。

問題のエントリーは保存してありますが著作権の問題があるかもしれないので公開していません。以下に引用してあるほぼ丸写しの部分で元記事の八割以上です。

追記:現在までの経緯

  1. 剽窃行為が行われる
  2. アクセス解析で発覚、相手ブログのコメント欄で抗議、本検証記事の執筆
  3. ご本人からコメントあり。参照先の訂正だけが行われるが、相変わらず盗作状態は続く
  4. こちらは、記事の削除ではなく、適切な引用および剽窃行為があったのことの明示を求める(本ブログおよび相手ブログのコメント欄)
  5. 対応がなされないまま一日経過。その間にも相手ブログは更新される
  6. 誠意がみられないので、要求を当該ポストの削除および謝罪の掲示に切り替える
  7. 再びご本人からコメントがあり、当該ポストの削除のみが行われる
  8. 現在:事実関係の説明および謝罪ポストを要求中

最初のコメントでは:

気を悪くされたみたいで申し訳ありませんでした。LINKについては即刻、訂正させていただきました。私は以下の信条でサイトを運営しております。

http://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20091107/1257543330

お気に召さないようでしたら、即刻記事を削除いたします。

追伸:他記事において参考にさせていただいた様々なブログ主様とは記事のリライト等を通じて交流させていただいています。できれば、rionaoki様とも交流を継続していきたいと考えております。厚顔無恥を重ねてお許しください。

とあるが、剽窃行為を自分の信条として正当化、単なる盗作を記事のリライトを通じた交流(!)と称している。二回目のコメントでは、

手前の都合上、返信が遅れてしまいました。思想の違いは乗り越えられそうにありませんので、元記事は削除したいと思います。ご迷惑をおかけしました。そして、当ブログとは今後リンクを貼らないことを約束いたします。まことに申し訳ありませんでした、

剽窃行為の指摘をまたも思想の違いと主張している。剽窃行為は剽窃行為であって、他人の文章をあたかも自分が書いたように見せ掛けることは正当化できないことだ。当該エントリーは削除されているが、既にそれを読んで彼が執筆したと勘違いした読者は多数いると考えられ、引き続き事実関係の明示並びに謝罪の記事掲載を求めていく次第である。

検証

まるで自分が書いたのでは錯覚するほどに、自分のエントリーとそっくりな文章を発見した。事実関係としては、

問題は以下だ:

  • 参照した文章を明示する必要がある(リンクが不適切)
  • 引用であることを明示する必要がある(引用になってない)
  • 改変して自分の文章とすることは許されない

これは学術的には当たり前のことだし、著作権上も黒だろう。検証を行っても新しい文章がこの世に出るわけでもなく時間の無駄であるが剽窃と言わざるをえないのでここで明らかにしたい。悪気はないという可能性もあるが、この程度のことはレポートを一度でも書いたことがあれば分かることだ。

二つの文章を読めば明らかだが、以下、二つの記事がどれほど酷似しているかを順に検証する。当該記事からの引用と私の(リンクされていない)記事からの引用を対比していく。わかりやすいように後者はイタリックとする。

「金儲け=悪」という方程式は成り立つか – keitaro-news

そもそも『金儲け』するためにはいったいどうすればいいのでしょうか。簡単な金儲けの例を挙げますと『お客に商品やサービスを提供して代金を支払ってもらう』ことです。その商品やサービスが1000円だったとすれば、原価を除いた部分に利益がでます。これが儲けになります。別に強制しているわけではないので、これはお客様が望んだことです。お客は商品を手にして満足する。売った方も儲けが出て満足します。誰も損していないのです。

お金を稼ぐとはどういうことだろう。例えば、レストランであればお客さんに食事を提供することだ。客はお金を払って=他の消費を犠牲にして食事を注文している。別に強制しているわけではないのでこれは客にとって望ましいことなはずだ。その食事は1000円だっとする。レストランはそれを1000円で自分から提供しているのだからそれで利益がでるはずだ。二人が自発的に取引を行っているということはそれが二人にとって望ましいということだ。

文章の構成及び内容は同一だ。1000円という数値例も一致している。強制の有無に関する指摘も同じだ。

商売の本質は社会をうまく回すシステムにあります。商品を作ることが出来る人と商品が欲しい人を結びつけるのです。商売は価値を生みだし、それを交換することで成立します。ビジネスが基本的には価値を作り出す=社会を豊かにすることは明らかです。

解消する非効率が全体のパイで、利益はその分け前だ。ないパイは分けられないので、ビジネスが基本的にはパイを作り出す=社会をよくするものなのは明らかだろう。

「パイ」が「価値」に、「よくする」が「豊かにする」になっているだけだ。

金儲けの一番簡単な方法は人々に望まれていることをすること

お金を稼ぐ一番簡単な方法は人々に望まれていることをすること

「お金を稼ぐ」が「金儲け」になっただけだ。

相手を騙して利益を得るようなことがあれば、それは犯罪となります。取引を強制するようなことはほとんどの場合が犯罪となります強制的に物品を奪い取るのは強盗であり、金をだまし取るのは詐欺ですこれらの行為は何も生産しないどころか、その過程で暴力のような価値自体を破壊します。また、社会を崩壊させるような麻薬取引や武器の密売などの商売も同様です。

レストランの話は客が自発的に食事を注文していることが前提だ。もしレストランがぼったくりだったら、悪いことだろう。しかし、ぼったくりが犯罪であるように、取引を強制することはほとんどの場合に犯罪となる。これは偶然ではない。自発的でない取引は一般に望ましくないので、それを犯罪としているのだ。強制的に物品を奪い取るのは強盗であり、金をだまし取るのは詐欺だこれらの行為は何も生産しないどころか、その過程で暴力のようなパイ自体を壊す行動を伴う

取引を強制することが犯罪になるという箇所や、強盗や詐欺への言及、まとめに至るまで「パイ」=「価値」のような言い換えがある程度でほぼ同じだ。

社会的に望ましくない商売は、割に合わないように社会で設計されている(していく)のです。犯罪に至りませんが、社会的に公平を保てない商品やサービスには高い税金が課されています。タバコや酒などは完全に禁止して取り締まるコストを支払うよりも、税金で適当なバランスをとったほうが社会を回すのに効率が良いからです。

だからそれは違法とされており、社会的に望ましくないビジネスは割に合わないように社会は作られている。犯罪にするほどではない場合には税金が課される。例えばタバコを吸うことは本人にとってはプラスなので完全に禁止するよりも税金で適当なバランスをとったほうがいいからだ。

最初の一文は「ビジネス」が「商売」に、「作られている」が「設計されている」になっているだけだ。タバコへの税金の箇所も同じだ。

どうやって毎日ブログを更新するか

最近、TwitterやTumblrを使っていてブログの更新が止まったという人が多い(参考:Twitterとイノベーション)。どうやって毎日ブログを更新すればいいのか、という話もよく聞く。

この問いへの答えは実はとても簡単だ。ブログの更新を違う作業に置き換えてみればすぐに分かる。例えばこうだ:

どうやって毎朝仕事に行けばいいか

そんなことは世の中のほとんど人が毎日ちゃんと達成している。目覚ましを掛ければいいだけだ。毎日20km走るというなら物理制約もあり簡単ではないが、ブログを書くというのはそんなに難しいことではない。

毎日ブログを書こうと思っているのにそれができないのは、目的意識が薄いという問題の一つの帰結に過ぎない。それを解決せずして、頑張って更新頻度を挙げてもろくなことにはならないだろう。全然仕事にやる気がない人が毎日二日酔いで家族に無理やり起こしてもらって仕事へ出かけても誰のためにならないのと同じだ。だから「毎日更新したいんだけど…」とか「書くことがなくて…」とか言っているブログはどれもつまらないのだ。

思ったとおりに運営できていないブログはどれも目的意識がないから内容が薄い。もちろん、目的がはっきりしていればいいのだから毎日でなくても思い通りのペースで更新されているならそれでいい。しかしはっきりとした目標があれば毎日のように更新されていたとしても不思議はない。

逆に面白いポストを見つけると、そのブログは毎日のように更新されていることが多い。どうやってそんなポストを毎日書くのかと思ってしまいがちだが、それは偶然ではない。面白いブログはきちんとした目的を持っているブログで、それゆえに毎日更新されるだけだ目的意識があるがゆえにその内容にも統一性がある。互いに関係のないポストが並んでいるブログは更新が途絶えがちのブログ同様に内容に乏しいことがほとんどだ(注)。

もちろんブログは仕事じゃないという人もいるだろう。

どうやって毎回ヨガのクラスにいけばいいか

この場合、本当の問題は毎回出席できるかどうかではなくて、そもそもそんなクラスに毎回行く必要があるのかということだ。目的がないのなら毎日更新できるか悩む必要はないし、目的があるのならそんなことで悩むこと自体ないはずだどっちつかずだからいけないのだ

(注)芸能人などのブログは一見乱雑でも、目的が本人の生活をコアなファンにみせることなのであり、その点で一貫している。

なぜ誰もあなたのブログを読んでくれないか

もしくはブログとジャーナリズムの違いについて。よくできた例えがあったので紹介しよう:

Why Nobody Cares About Your Blog

If I walked into a crowded mall, went into the food court, stood there in the middle of it and just started talking, what do you think would happen?

混雑しているフードコートの真ん中に立ってしゃべり始める。どうなると思うか?

Most people wouldn’t see me. Then, a few would and they would probably think I was crazy. At the end of the day, I’ll just be that crazy guy they saw at the mall.

誰も自分の方を見ようとはしないし、見たとしても頭のおかしい奴だと思うだけだ。こういう人は大学のキャンパスにもよくいる。東大にもいたしバークレーにはもっといる。何かしゃべってるんだけど誰も聞いていない。

Now, imagine if 90% of the people in the food court did that. They just got up and started talking into space. It would be one big din of noise. Now, all of those people want to feel as if they are famous, so they start competing and trying to out-talk the other people. The volume increases, but few are being listened to. The ones who are listened to are the ones at least saying something useful.

じゃあ、フードコートにいる人間の90%が同じことを始めたとしよう。それぞれが自分は有名だと感じたがっていて、他の人間を打ち負かそうとする。声は大きくなるが誰も耳を傾けはしない。そりゃそうだ。道の真ん中で大声で議論している人がいたら目を合わせずに通り過ぎるに決まってる。立ち止まって話を聞いている人がいるのは何かよっぽど役に立つことを言っているごく少数ぐらいだろう

これは非常によい例えだ。誰もが発言できるということは誰も発言する権利を独占していないことだ。市場に例えれば、旧来のジャーナリズムは独占市場で、ブログは競争市場だ。なぜ新聞社がネットに対応できないのか。それは独占企業にとっての最適戦略は競争的な市場では機能しないからだ。

では独占企業にとっての戦略とは何か。それは値段を上げるために供給を減らすことだ。学生が授業にくるようにプリントには全ての授業内容を載せないことだ。他に聞きにいく場所のない学生はクラスにいくしかない。

しかし、競争がある市場で同じことをしたら自殺行為だ。競争相手が価格を下げてシェアを奪ってしまう。競争的な市場ではいかに必要とされている財を提示し、それに応じたプレミアムをチャージするかが重要だ。単に価格を上げたら客は逃げる。

では企業ならどうするか。市場調査を行い人々が欲しているを調べるだろう。ブログではそれは何に対応するか。

Blogging is a communications platform. Personal human relations still apply. If you just talk to yourself on your blog and hope people listen, it won’t work very well. That’s not communication.

ブログはコミュニケーションのプラットフォームだという指摘がそれだろう。企業がアンケートを実施して新製品への反応を見るように、読者が何を言ってるのかに耳を傾ける必要がある。

旧来のジャーナリズムのように勝手にしゃべって、相手が聞くのを待っていてもだめだ殿様商売は殿様が一人しかいないからうまくいくのだ