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都知事の反同性愛発言

石原慎太郎都知事の反同性愛発言が物議を醸しているそうで。

痛いニュース(ノ∀`) : 「テレビなんかにも同性愛者が平気で出る」…都知事、アニメ漫画規制に意欲

石原慎太郎知事は「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」と応じた。

しかも、都青少年健全育成条例改正案という同性愛とは関係ない件に関連した発言だそうで。政治的には実に巧妙だ:

  1. 同性愛という意見の分かれやすいトピックで反対勢力を分断する
  2. ゲイが嫌いか好きかという話題になれば、反対派は条例改正案に対しても好き嫌いで反対しているように見える
  3. そもそも同性愛者がテレビにでることと改正案の内容は関係ないので話題がずらせる

反対派に対して本当の議題よりも一段と不適切な発言を投げかけることで注目を逸らしている。

この記事を読んでいたらつい最近みた次のビデオを思い出した。同性愛的傾向が個人の選択か(Is Homosexuality a Choice?)というトピックについてのビデオだ。これはアメリカでは定期的に話題になる。

この問いが重視されるのは、ゲイであることが自由意志によるものでなければ罪に問えないという哲学的な問題に基づいている。しかし、よく考えると個人の選択かどうかは重要ではない。自由意志かどうかが問題になるのは、同性愛であることないし同性愛に基づく行動を取ることが非道徳的という前提が成立している場合だけだ(コーヒーとお茶どちらが好きかというのが自由意志に基づいているかどうかを議論する人はいない)。

しかし、同性愛である事自体を罪とすることは出来ないし(思想・良心の自由)、同性愛的な行動が特別に本人ないし他人に害を及ぼしているようにも思えない。もちろん同性愛者による犯罪も当然存在するが、性的傾向との因果性は確立されておらず区別して考える理由はない(※)。同性愛が自由意志に基づいているかという話題に持ち込むことで、同性愛はよくないという前提を作り出す仕組みになっている(よって、自由意志かどうかは関係ないと返すのが正しい)。

(※)反同性愛の立場を取る論者はよく同性愛者の方が性病・精神病・ドラッグ使用が多いという統計から同性愛は望ましくないと結論付けるが、これは相関と因果の取り違えに過ぎない。社会が反同性愛的であるがゆえに同性愛者が問題を抱えている可能性もあるし、同性愛を認める人の多くが都市生活者というだけかもしれない。

P.S. ビデオを紹介するために記事を書いたと言っても過言ではないので是非御覧ください。笑えます。

ストーリーによる説得

何かを示したり、相手を説得したりするときに、ストーリーを語る人と統計を使う人がいるけどのこの違いは何かという記事(前読んだと思ったら少し前の記事だった)。

Stories vs. Statistics – NYTimes.com

In listening to stories we tend to suspend disbelief in order to be entertained, whereas in evaluating statistics we generally have an opposite inclination to suspend belief in order not to be beguiled.

気になったのはこの一節。ストーリーを聞く場合には疑うのを止めて楽しもうとする一方で、統計を読むときには逆に信じるを止めるという。しかし、ストーリーの場合に疑わないのは”entertained”が目的ではない。

あるストーリーが説得的かどうかを決めるのはそれが内部的にコヒーレントかどうかだ。ストーリーは世界の状態を記述するものだが、ありうる状態は無数にある。例えば、「道を歩いているサラリーマンに通りすがりの女子高生が飛び蹴りをして蹴られたサラリーマンが突如バク転した」というのも、こうして記述できるという意味でありうる状態だ。

だがそんなストーリーを信じる人はいない。サラリーマンが歩いているだけで女子高生に蹴られるというのはありえなさそうだし、蹴られてバク転する人は見たことがない。しかし、不整合に気づくためにはとりあえずは正しいと仮定して聞く必要がある。パーツ毎に疑っていては整合性まで辿りつかない。

a.) Linda is a bank teller.

b.) Linda is a bank teller and is active in the feminist movement.

これは我々が確率計算が苦手というのを示す時によく使われる例だ。「リンダがバンクテラーである」という状態は「リンダがバンクテラーでかつフェミニストだ」という状態を包含しているのでどちらである確率が高いかといえば前者だ。しかし、多くの人は後者がよりありそう(likely)と答える。

しかし、これは確率計算を間違っているというよりも質問者と回答者の意図がかみ合っていないと捉えるべきだろう。「この商品は最高です」という宣伝文句と「この商品は最高で最高金賞受賞です」という宣伝文句があったとしてどちらがありえそうか。後者だろう。回答者は、aとbの確率を比較しているというよりも、aとbの発言どちらが信用できるかを判断していると言える。

ある事象に対する記述は無数にあるが、長ければ長いほどどこかで整合性を失いやすくなる。真実は確実に整合的なので、説明が長くて整合性が取れているほど説得力がますという仕組みだ

統計で言えば、仮説をとりあえず信じてサンプル数を増やすと検定力が上がるのと同じことだろう。

反知性主義の広がり

面白いと思ったけど紹介していなかった記事:

Op-Ed Columnist – The Tea Party Teens – NYTimes.com

The public is not only shifting from left to right. Every single idea associated with the educated class has grown more unpopular over the past year.

アメリカでは将来見通しが暗くなり、現政権そして政府一般への信頼が揺らいでいるが、さらには教育水準の高い層に関連付けられる考えが一様に支持を失っているようだ。

The educated class believes in global warming, so public skepticism about global warming is on the rise. The educated class supports abortion rights, so public opinion is shifting against them. The educated class supports gun control, so opposition to gun control is mounting.

例として温暖化、中絶権、銃規制などが挙げられている。どれも教育水準の高い層では支持されているが、一般からの支持は落ちる一方だ外交に関しても同様で孤立主義が台頭してきていることが指摘されている。

The tea party movement is a large, fractious confederation of Americans who are defined by what they are against. They are against the concentrated power of the educated class. They believe big government, big business, big media and the affluent professionals are merging to form self-serving oligarchy — with bloated government, unsustainable deficits, high taxes and intrusive regulation.

これを象徴するのはTea Partyだ。ボストンのそれにちなんだティーパーティー運動に関して日本でどれほど報道されているか分からないが、大きな政府、大企業、巨大メディア・裕福な専門家が国を支配することへの反対運動だ。金融安定化法に端を発するティーパーティー運動への国民の支持は高く、二大政党をも上回る勢いのようだ。

The Obama administration is premised on the conviction that pragmatic federal leaders with professional expertise should have the power to implement programs to solve the country’s problems. Many Americans do not have faith in that sort of centralized expertise or in the political class generally.

オバマ政権は政府の抱える問題を現実感覚のある専門家の手に委ねるべきだとしているが、アメリカ人がそういった中央集権的な専門家へ寄せる信頼は揺らいでいるという。

これは一般にAnti-Intellectualismと呼ばれる現象で、反知性主義と訳される。その反対が「国家」におけるプラトンの哲人政治だろう。

… either philosophers become kings in our states or those whom we now call our kings and rulers take to the pursuit of philosophy seriously and adequately, and there is a conjunction of these two things, political power and philosophic intelligence, while the motley horde of the natures who at present pursue either apart from the other are compulsorily excluded, there can be no cessation of troubles, dear Glaucon, for our states, nor, I fancy, for the human race either.   (Republic, 473c-d)

哲人政治では、哲人という全てを修めたような人間が為政者になることで社会がよくなる。ただこれは共産主義と同じで、その哲人のインセンティブと能力の問題を無視している。プラトンなら哲人はイデアを見ているので能力には問題なく、私有財産の禁止と幼少期からの教育によってインセンティブの問題は解決できると言うのだろうが、現実にはそうはいかないのは共産主義の失敗からも明らかだ。だからこそ民主主義という政治形態がその多くの欠陥にも関わらず、世界中で支配的になった(言うまでもなく民主主義が生き残ったのはそれが「正しい」からではない)。

政治家や政策に関わる専門家はこのことを常に頭の隅に置いておく必要がある。どれだけ正しいことを言っていても市民の支持が得られなければ通らないし、そのシステムにはそれなりの合理性がある。反知性主義が起こるのは、市民の不信が限度を超えたときだ。どれだけバカバカしくとも、そのシグナルに耳を傾けなければ、単なるポピュリストが権力を握る危険がある。

http://fukui.livedoor.biz/archives/2130436.htmleither philosophers become kings

クリアに考えること

深いことを言ってるような雰囲気で、実際によく読んでみると何を言ってるのか分からない文章は多い。一々突っ込んでいても埒があかないし、そんな時間もないので、次のニコラ・テスラの言葉を送りたい(磁束密度の単位に使われているテスラだ)。

The scientists of today think deeply instead of clearly. One must be sane to think clearly, but one can think deeply and be quite insane. (Nikola Tesla, Modern Mechanics and Inventions. July, 1934)

どんな文脈で出てきたのか知らないがいい言葉だと思う。科学者に宛てられているが、これは数学を用いない学問にこそ当てはまる。数学は複雑な対象を明晰に考えるための補助輪のようなものだ。そのレールに乗っている限り仮定から論理的に導けないことは主張できない(注)。逆に言えば、数学が使えないような分野でこそ論理的な思考の重要性は増す(だから論理的思考云々というビジネス書が売れるのだろう)。数理モデルがないような主張をする時には気を引き締めたい。その意味で、数学ができないから文系なんていうのは実におかしなことだろう

(注)これが義務教育で数学を教える本当の理由だろう。数学ではどれだけ明らかに見えることも証明できなければ意味がない。当たり前だと泣き叫ぼうがいくら具体例を挙げようが、数学のプロトコルに沿って順序立てて説明する必要がある。これは子供に社会にはルールがあることを教え、幼児的全能感から抜け出させる一つのステップになる(だから数学が抜きん出てできる人は子供っぽいことが多い)。