中国の大気汚染と情報集約

中国の環境(大気)汚染についてthe Atlanticから:

The Atlantic Online | November 2009 | How I Survived China | James Fallows

著者のジャーナリストJame Fallowsが中国滞在注に体調を崩したのをきっかけに大気汚染の問題について論じている。

The health situation for ordinary Chinese people is obviously no joke. After stalling, the Chinese government recently accepted a World Bank estimate that some 750,000 of its people die prematurely each year just from air pollution. Alarming upsurges in birth defects and cancer rates are reported even in the state-controlled press.

中国の健康問題は実際深刻である。ここでは世銀による推計として年間75万人が大気汚染が原因でなくなっていると指摘されている。奇形やガンも激増しているが国有のメディアはそれを報道しないそうだ。

The Chinese government does not report, and may not even measure, what other countries consider the most dangerous form of air pollution: PM2.5, the smallest particulate matter, tiny enough to work its way deep into the alveoli. Instead, Chinese reports cover only the grosser PM10 particulates, which are less dangerous but more unsightly, because they make the air dark and turn your handkerchief black if you blow your nose. (Spitting on the street: routine in China. Blowing your nose into a handkerchief: something no cultured person would do.)

環境問題は報道されないだけではなく、そもそも測定すらされていない。大気汚染の指標である浮遊粒子状物質の量のうちPM2.5がそれだ。PM2.5は直径2.5μm以下の粒子のことで健康被害が大きいとされている。測定されているのは目に見えるPM10だけだ。非公式な数値がアメリカ政府(大使館)から提供されているが、そのレベルは非常に危険なものとなっている。

この事例は民主主義の情報を集める(aggregate)機能を示している。共産主義におけるメディア規制はよく問題になるが、影響はそこに止まらない情報の流通・利用が妨げられるということはそもそも情報を集めようというインセンティブをなくなるということだ。この例では中国政府は自分に都合の悪い情報、PM2.5、の流通を阻止しているが、そのために政府にとって他の有用な情報が入ってこないこともありうる。政府が自ら必要な情報を秘密裏に集めようというのは非効率どころか不可能だ。

逆にテクノロジーはこの情報収集機能を強化している。一つの例はウェブでありTwitterだろうが、CitySourcedなど新しい取り組みもある。政府と国民の情報の非対称を解決することは社会にとって大きなプラスを生み出す

People seem to feel alive.” That made sense when I heard it—in China I had felt terrible, but alive—and makes me say that foreigners who want to go should not be deterred. They could even work on the environmental problems affecting the billion-plus permanent residents.

このような大気汚染にも関わらず中国は活気づいており、尋ねる価値はある、それどころか外国人が環境問題に取り組むことができると締めている。

しかしこの結論はあまりに楽観的過ぎるように思う。現地の人々が環境問題に気付いていないわけではない。気付いているがそれがビジネスにならないと知っているだけだろう。

IQの高さは何を意味するか

元記事はNew Scientistからこちら

天才馬鹿は何故いるのか?:Why High IQ doesn’t translate into wise decisions

“A high IQ is like height in a basketball player,” says David Perkins, who studies thinking and reasoning skills at Harvard Graduate School of Education in Cambridge, Massachusetts. “It is very important, all other things being equal. But all other things aren’t equal. There’s a lot more to being a good basketball player than being tall, and there’s a lot more to being a good thinker than having a high IQ.”

IQはバスケットボール選手の背の高さだという。全くその通りだ。サッカー選手の足の速さだといってもよい。昔から頭のよさというのは足の速さに似ていると思っている。殆どが生まれつきであり、単独では何の役にも立たない

One is intuitive and spontaneous; the other is deliberative and reasoned. Intuitive processing can serve us well in some areas

人間の情報処理には直感的なものと熟考を要するものに分かれるという。経済をかじったことがあるひとなら、これはゲームの均衡を求めるようなものだと考えればいい。IQテストが測るのはゲームツリーが与えられた時に特定の均衡を全て発見するようなものだ。しかし、ゲーム理論のクラスでいい成績をとるひとが通常のコミュニケーションをうまく運べるわけではない(それどころかむしろ逆だろう)。

The problem with IQ tests is that while they are effective at assessing our deliberative skills, which involve reason and the use of working memory, they are unable to assess our inclination to use them when the situation demands.

IQテストの問題はこの熟考のスキルしか測れないのが問題だそうだ。しかしこの批判は余り意味をなさない。短距離走の記録がサッカーの成績を表さないと文句を言うようなものだ。もしIQテストが一般的な頭のよさを示すと考えているとしたらそれが誤解なのであってIQテストにケチをつけてもしょうがない

そもそも、二つのスキルがあって両方を上げなければならない理由もない。別の言い方をすれば「知性」が高くある必要もない。足の速さだけではサッカー選手にはなれないが陸上選手にはなれる(それの何が悪いのか、「知性」が足りないとでも言うのだろうか)。IQが高くて他がダメでも数学者にはなれるかもしれない。もちろんいろんな才能を組み合わせた方が労働市場では有利だろう(通常の労働は労働者総体としての評価であって特定のスキルではないからだ)。しかし、余りにも能力が偏っている=他の才能を伸ばすのが困難であるなら一つのことに集中するのも理にかなっている。

元記事のタイトルWhy a high IQ doesn’t mean you’re smartへの答えは単純だ。それはIQとsmartの定義が違うからに過ぎない。

It is not enough to say what intelligence is not measuring, you have to propose alternative ways of measuring rationality,” says Kahneman. Stanovich maintains that while developing a universal “rationality-quotient (RQ) test” would require a multimillion-dollar research programme, there is no technical or conceptual reason why it could not be done.

ではもっと広範な知性をどうやって測ればいいかについて論じられているが、これが困難なのは明らかだ。知性に何らかの定義を与えた途端、それは元々の知性とは異なるものになってしまう。それは「サッカー能力」をサッカーの試合での活躍以外の指標、例えばリフティングの回数、なんかで測ろうとするようなものだ。「知性」というものの正しい測定法が決まっていない以上、どの測定法がより存在しない指標を正しく測定しているかを判断することはできない。問題は「知性」という指標を何のために使用するかだ。サッカー選手の得点能力が知りたいのであれば、得点率・チーム間の戦力差などの指標からなにか数値を作れるだろう。高校生における勉強の出来なら模試の点数だ。受験に成功するかが焦点である以上当然だ。目的のない数字には意味がない。

ノーベル賞はどこからくるか

ノーベル賞を受賞した経済学者(性格には経済学賞をとった学者)が何で経済学を選んだのかについての論文が紹介されている:

Why Nobel Economics Laureates chose economics? « Mostly Economics

元になっている論文は、Lessons from the Laureates。結論は以下の一節だ:

Common themes include the importance of real-world events coupled with a desire for rigor and relevance, the critical influence of teachers, the necessity of scholarly interaction, and the role of luck or happenstance. Most of the laureates view their research program not as one planned in advance but one that evolved via the marketplace for ideas.

言うまでもなく彼らは経済学者の代表値ではないので、ここから経済学について一般化することは難しいが経済学の研究をしようと思っている人は目を通してもいいかもしれない(一応、業界の有名人の名前・業績を一致させておくと内輪な話でも便利だ)。

お得な資格

いつもコメント頂いているWillyさんのブログから:

統計学+ε: 米国留学・研究生活  日本で資格は取るな

もともとはこちらのエントリーへのコメントだ。主な主張は次の一節だ:

しかし、日本人には
「資格取得は効率の悪い差別化である」
という視点が余りにも欠落しているように思う。

あまり資格取得に邁進している知り合いがいないので日本人に一般化できるかどうかわからないが、大量の書籍がでることからすればそうなのだろう。

資格が平均的に見て割に合わないのは当然だ。資格をとる理由は主に二つだろう:

  • シグナリング
  • 独占利潤

前者は、資格をとることによって自分の能力ないし学んだことを信頼できる形で労働市場にアピールすることだ。多くの人にとって一流大学へいくことの経済的メリットはこれだ。企業は一流大学にいくことで学生が何かを学んだとは思っていない(少なくとも生産性が上昇するという意味では)。にも関わらず一流大学の学生を優先して雇用するのは、そういう学生の方が平均的にみて出来がいいからだ。

ではなぜそれが分かっているのに、みんな入ろうとしないのか。それは学習能力の低い学生にとって受験でいい成績を残すのが極端に難しいからだ。仮にそうでないとしたらより多くの人間が競争に参入し割に合わなくなるまで難易度は上がる。そしてまさにこれが大学がシグナリングとして有効な理由である。成績が非常にいいのは元々頭がよいか類稀なる努力ができるかどちらか(ないし両方)だ。

後者は、資格が一定の独占業務に結びついている場合に当てはまる。一定の業務につける人間の数が限られているということは、供給曲線が一定の場所で垂直に上がっているということだ。そのため、超過利得が発生する。よく挙げられるのはニューヨークのタクシー免許(メダリオン)だ。数が限られているため、タクシーの料金が上がるためもし保有していれば大きな利益がでる。ただこちらもうまい話はない利益が見込める以上、免許の価格がそれに釣り合うまで上昇する

両者の境界ははっきりしない。例えば弁護士資格を持っていれば頭もあって努力もできると推定されるし、独占業務もあるため独占利潤も発生する。大学であっても極めて入学が困難な場合、ある特定の仕事がそこの卒業生に限定されてしまうことはある。ただはっきりしているのはどちらであれ美味しい話なんてないということだ。広い意味での「資格」が「お得」である可能性は三つしかない。

  1. ある「資格」の取得が他の人に比べて非常に楽である(取得のための直接コストが低い)
  2. 他に出来ることがない(取得のための機会費用が低い)
  3. 他のひとが「資格」の価値に気づいていない(裁定取引)

誰にでもわかりやすい大学受験を使って説明しよう。1はもともと出来がいい場合だ。簡単に入れるなら入らない理由はない。これは「資格」以前に持っている能力という限られた投入要素からのリターンに過ぎない。2は、他に取り柄がない場合だ。逆の例を使えば、サッカーで食っていこうとしている人に大学は必要ない。より効率的な資源の使い道がある。例え、それほど勉強が得意でなくとも、他に使い道がなければ勉強するのは最善の選択肢だ。3はある大学ないしある専攻が将来価値を大きく増すと知っている場合だ。例えば数学オリンピックはこれに当たるかもしれない。数学オリンピックの金賞(これは上位1/12に与えられる賞のこと)はアカデミックな文脈では非常に役に立つ。しかし殆どの高校生はそのことを知らないように思う。このケースは限られた投入要素が「情報」だと解釈できる。一般に知られているような資格はどれも当てはまらない。これはWillyさんの挙げている次の三つに該当する。

・自分の情報のアドバンテージを認識すること
・自分の情報のアドバンテージを活用すること
・他人の努力していないところでこそ努力をすること

重要なことは1,2,3の全てを活用する事だ。情報面でのアドバンテージは単に探しているだけでは見つからない。何故なら、誰でも手に入るような情報ではアドバンテージにならないからだ。例えば、IT技術の利用法をよく知っていてもIT業界では普通のことだ。しかし同じ人間が一定のコミュニティにいけばその知識はアドバンテージになる。そしてアドバンテージが築けるようなコミュニティはしばしば「資格」で閉じられている。100年前の社会ではこれは明白だっただろう。上流階級の子弟はまさに上流階級というコミュニティにいることでアドバンテージを得た。そうでない人間は商売なり、勉強なりでそこに上がることを目指す。

子供がいたとしたら次のようなアドバイスをするだろう。まず、生まれつきの能力(1,2)を生かして普通はなかなか入れないコミュニティに入り、その中で情報的優位を築き(3)、こんどはその集団の中での相対的優位(1,2)を生かす(以下繰り返し)。自分からみて成功している人間はどれもこのサイクルに乗っている(追記:最初から人の入れないコミュニティにいる場合は最初のステップは既にクリアしている)。

この当たり前のサイクルがよく認識されていないのは教育システムの影響だろう。教育過程において、勉強すればよい人生が送れるといった間違ってはいないが正しくもない説法を聞かされ続けるのが一因のように思う。歴史的にみれば、頭のよい人間が社会の上に立てたのはごく最近だけの話だ。石器時代なら肉体的な強度が最重要だった。古代なら軍事能力、中世なら支配者に気に入られる能力といった風にだ。現代に入り頭のよい人間の価値は高まった。しかしこれも技術の発展によるものだ。そしてこの流れは逆に向かっているように思う。情報処理能力の発展は単純な頭のよさの希少価値を下げる。今のうちに特殊なコミュニティにおける人脈を築き、その中での相対的優位を確保することが重要だろう。

P.S. こう考えると自分の人生はあまり効率的ではないね。まあ、あまりにも一つのことに適性が集中してると市場の力に人生支配されちゃうけどね。

ブリダンのロバ

NYTの技術進歩とデーティングの関係に関する記事についてケロッグのSandeep Baligaがおもしろいコメントをしている:

Sexual Promiscuity and the Paradox of Choice « Cheap Talk

コメントがついている部分は次だ:

12:32 p.m. I get three texts. One from each girl. E wants oral sex and tells me she loves me. A wants to go to a concert in Central Park. Y still wants to cook. This simultaneously excites me—three women want me!—and makes me feel odd.

This is a distinct shift in the way we experience the world, introducing the nagging urge to make each thing we do the single most satisfying thing we could possibly be doing at any moment. In the face of this enormous pressure, many of the Diarists stay home and masturbate.

まず、ニューヨークマガジンが運営している匿名のセックスに関する日記からの引用から始まる。一人の男性が三つの(携帯の)テキストメッセージを異なる女性から受信しているが、それぞれの女性は全く異なるものを男性に求めている。

これが可能になったのは社会・技術の変化だ。多くの人々が都市で暮らすようになれば同時に複数の人間と交渉することのペナルティは殆どない。さらに技術がそれを容易にしている。携帯のメールには止まらない。ニューヨークマガジンの記事にはGrindrというiPhoneアプリが紹介されている。Grindrはゲイの男性が相手を探すためのアプリケーションで、ユーザーはプロフィール・写真・興味などの情報を登録する。するとユーザーはiPhoneのGPSを利用して、今近くのどこに他のユーザーがいて、どんな人間かが分かるようになる。

しかし、Sandeep Baligaが注目したのはここではなく、最後の一文だ。日記を書いている匿名の人々の多くは複数の選択が与えられていることに喜びつつも、最も良いものを選ばなければいけないプレッシャーを感じて、結局は家にいて自慰行為に耽ったという。

It is the paradox created by Buridan’s Ass – I should hasten to add that this is an animal not a body part.  The poor Ass, faced with a choice of which of two haystacks to eat, cannot make up its mind and starves to death.

これは哲学におけるブリダンのロバ(Buridan’s Ass)のパラドックスだ(もともとはアリストテレスの「天界について(De Caelo)」からでブリダン自身の発案ではない)。ロバが二つの干し草を見てどちらか決められずに死んでしまうというものだ。

Sen’s point was that the revealed preference paradigm beloved of economists does not fare well in the Buridan’s Ass example.  The Ass through his choice reveals that he prefers starvation over the haystacks and hence an observer should assign higher utility to it than the haystacks.  Sen,  if I remember correctly (grad school was a while ago!), says this interpretation is nonsense and an observer should take non-choice information into account when thinking about the Ass’s welfare.

これについて、アマルティア・センの注釈が紹介されている。経済学における顕示選好(revealed preference)に基づけばロバの選択は、干し草よりも餓死を高く評価している=高い効用を持つとなるがそれは明らかにおかしく、ロバの選好を知るにはロバの選択以外の情報が必要だと言う。

顕示選好の理論は経済主体の行動に一定の合理性ないし無矛盾性を要求しているため、そこから外れた選択を観察するとうまく処理できない。非合理な行動をしているのか、合理的におかしな行動をしているのか判断できないからだ。何度も観察できればどちらかを判定することはできるが、そういう意味でもある一例をだす方法はあまり意味がない。

A second interpretation is offered by Gul and Pesendorfer in their Case for Mindless Economics.  Who are we to say what the Ass truly wants?  To impute our own theory onto the Ass is patronizing.  Maybe the Ass is making a mistake so its choices do not reflect its true welfare.   But we can never truly know its preferences so we should forget about determining its welfare.

Faruk GulとWolfgang Pesendorferによるもう一つの解釈が提示されている。こちらは、センの解釈におけるパターナリスティックな側面を放棄する。ロバは何らかの理由で合理的な行動をとっていないかもしれないが、そうでないかもしれない。

This view is a work in progress with researchers trying to come up with welfare measures that work when decision makers commit errors.

先に上げた通りこれは、意思決定主体がおかしな行動をとる場合にどう評価をするかという問題になる。個人的には、Gul & Pesendorferの考えに賛成だ。このロバの効用について考える必要はない。どんな選択をとったかがすべてであって、それが間違えなのかどうなのかは社会厚生には関係ない。構成員がある状態と他の状態があって前者を選択するのならそれが「正しい」ことだろう。その中の一人が「間違った」行動をとっているかどうかは誰にも分からないという点で意味を持たない。

P.S. Gul & Pesendorferのペーパーを流し読みしがたが非常におもしろい(前にも見たような気がするが)。テクニカルな部分もあるが経済学の道徳的スタンスを知るにはいい読み物だ(個人的にはさらに規範的な主張をするが)。