https://leaderpharma.co.uk/ dogwalkinginlondon.co.uk

ダラー・オークション

しばらく前からSweepoでお馴染みのダラー・オークションが実際にどう儲かるのかをよく示したビデオがある:

Aguanomics: The Political Economy of Lobbying

ダラー・オークションでは主催者が$1をオークションする。最も高い入札を行った参加者が$1を獲得するが、入札者はそれぞれ自分が最終的に提示した額を主催者に支払う。最適な行動はそもそもオークションに参加しないことだが実際には上記のビデオのように主催者がオークションにかけた物品以上の収益を挙げることが多い。参加者同士が手を組めば逆に参加者が大きな利益を得られるが参加が自由なら儲かると思って入ってくる人が出てしまう。

Swoopoというオークションはこのダラー・オークションに入札フィーを加えたビジネスモデルを展開している。繰り返し参加すればこのオークションに参加することが利益にならないことは分かるだろうが、新しい客が入ってくる限り(そして違法化されない限り)は続くのだろうか。

客は嘘をつく

以前にも取り上げた起業家のBen Casnochaのブログで、RedditのIamAシリーズが取り上げられている:

Ben Casnocha: The Blog: Your Customers Lie to You

Our customers want mediocre food cheap. Every time we release a higher priced but higher quality product, the people who said they would pay for it… never do.

You say you want more fruits, salads, organic, all natural, etc. well then start buying that stuff and stop buying double cheeseburgers. Our best selling stuff is always whatever we can make taste good, at rock bottom prices.

We’ve actually learned not to listen to our customers when it comes to a lot of things. Health nuts won’t come into McDonald’s to eat even when we give them what they want.

自分は○○だ名乗る人間が質問に答えるIamAシリーズの今回のお題はマクドナルドの重役だ。その中で彼がおもしろいと思ったのが上の一節だ。要約すると:

客は少し高くても健康なメニューを作れというが、実際に作ると誰も買わない。売れるのは何でできているかはともかく美味しくすることができてひたすらに安いものだ。もはや客の声に耳を傾けるなんてことはやめた。

といったところか。これは実際のビジネスでも重要な事実であると同時にエコノミストの考え方を端的に表している。

Instead of asking customers how much they would pay for a hypothetical product, ask them how much they’re currently paying for however it is they’re solving the problem that you are trying to solve.

いくら払うかを聞くのではなく今いくら払っているかを聞くべきだし、

it can work to ask a direct question but discount the words that come out of their mouth and pay attention to body language.

聞きたいことを直接尋ねるよりは体の動きに注意すべきだ。

この根底にあるのはいつも通りのインセンティブだ。ある人に特定の行動をとらせるためには適切なインセンティブを与える必要がある。それは「正直に答える」という行動についてもあてはまる。

「正直に答える」インセンティブを与える仕組みについて考えることもできるがもっと簡単な方法がある。それは実際の行動を見ることだ。健康なメニューの価値を知りたいならアンケートを配るよりも、客が健康なメニューにどれだけのプレミアムを払ってるかをみればよい。命の価値が知りたいなら、死の危険を避けるたにどれだけ払ってるかをみればよい。無限大と答えられるよりはよっぽど正確な値が計算できる(無限大はそもそも数ではないし、比較できないので使い道がない)。

体の動きを見るのは逆にインセンティブによって変化しない反応を見るという作戦だろう。解釈が難しく、特定の状況でしか利用できないし、対策しうるという弱点もあるが、これもしばしば有効な戦略だ。実際の行動を観察することと合わせて用いることで、日常の人間関係においてもよりよく情報を集めることができる。

猿の経済学

NPRから猿が経済学的に合理的な行動をとっている研究について:

Scientist Monkeys Around With The Economy : NPR

We were trying to answer questions about whether monkeys are able to behave in an economic way.

研究のテーマは、猿が経済的な行動をとれるのかということだそうだ。

what would happen if you trained a low-ranking vervet monkey to do things that other vervet monkeys, even high-ranking monkeys, couldn’t do?

これを調べるために、社会的地位の低い猿に特殊なスキルを習得させた場合に、その猿の地位がどう変化するかを調べた。

Roughly an hour after she’d open the container for everyone, she was getting groomed a lot more, as much as a high-ranking monkey, and she no longer had to do hardly any grooming herself. But that was not the most spectacular finding.

猿は貨幣を持っていないが、代わりに毛繕いに関する行動を調べた結果、スキルを持った猿の地位の向上が確認された。

So what then did, is we got a second low-ranking female, trained her to open a second container with apples in it, and then we saw that the value of the first provider dropped, more or less, to the half of what she had before. So now we had a competition between two animals. Both of them could provide this good, these apples, and so the value of the first one dropped down again. And of the second one who was very low at the beginning of the experiment, she went up. And they ended up both in the middle, so to speak.

さらにもう一匹同じような猿に同じスキルを習得させている。この場合にもスキルをもった猿の地位は上昇するが、その上昇は限られる。これはより貴重なスキルを持っている人のほうが競争が少なく大きな利得を得られるという標準的な経済学の結論に対応している。

Animals that cannot form binding contracts, animals that cannot talk about what they want to do or cannot offer verbally or anything – they nevertheless are quite accurate in adapting their behavior to what the market gives them.

monkeys arrive at these economic outcomes not through sitting down and negotiation, but through feeling and emotion.

そしてこの現象には契約も言葉も必要ではない。感情によってそういう風に行動しただけだという。

計算された暴力

Science Dailyでドメスティック・バイオレンス(DV)に関する研究が紹介されている:
Violence Between Couples Is Usually Calculated, And Does Not Result From Loss Of Control, Study Suggests

Violence between couples is usually the result of a calculated decision-making process and the partner inflicting violence will do so only as long as the price to be paid is not too high.

多くの場合、カップル間(但しDVはカップル間のそれである必要はない)の暴力は計算された意思決定の結果だということだ。

The violent partner might conceive his or her behavior as a ‘loss of control’, but the same individual, unsurprisingly, would not lose control in this way with a boss or friends

本人は衝動的にやってしまったと主張するが、同じ人間が上司や友人の前で同じように「衝動的」な行動をとることはないそうだ。DVを暴力をふるう側のほとんどが精神病だとする向きもあるようだが、病気だと考えるよりも合理的な行動として解釈する方が方法論的に健全かつ生産的だろう。

上の主張についていえば、上司や友人の前では暴力的でないが身内に暴力的なタイプの精神病だと言うことはできるが、それは過剰な拡大解釈だ。全てを病気だと解釈することは一種の反証不可能仮説だ。何でも説明できるだろうが予測力がない。

記事によれば、DVは理性的な意思決定の結果(the result of a calculated decision-making process)とされているが、そのように解釈できることは必ずしも行為者が理性的でよく考えて行動していることを意味しないことにも注意が必要だろう。単に、理性的な意思決定の結果として理解できるのであれば主観の解釈は必要ない。もちろん本人が自分の行動をどう説明するかも関係ない。

Neither of the couple sits down and plans when he or she will swear or lash out at the other, but there is a sort of silent agreement standing between the two on what limits of violent behavior are ‘ok’, where the red line is drawn, and where behavior beyond that could be dangerous

この発言は暴力を伴う人間関係が一種の均衡になっていることを如実にしめしている。許容される暴力の限度についての同意(agreement)があるように見えるそうだ。

when speaking of one-sided physical violence, most often carried out by men, the violent side understands that for a slap, say, he will not pay a very heavy price, but for harsher violence that is not included in the ‘normative’ dynamic between them, he might well have to pay a higher price and will therefore keep himself from such behavior.

一定限度内の暴力は許容されるが、一線を越えた場合に別離や外部への通報というペナルティが発生するため暴力をふるう側もそこで止まるとのこと。

この状況は一種のゲームの(パレート)非効率な解として理解できる。両者にとって暴力を伴わない関係が望ましいにも関わらず、暴力を伴う均衡が選択されているためだ。

解決策としては刑罰などでペナルティを大きくすることが考えられるだろう。しかしこの方法が効果的かは疑わしい。ペナルティが暴力をふるう側の行動に影響を及ぼすためには、ペナルティに訴える可能性が現実的でなければならない。しかし、ペナルティが加害者への罰則に過ぎなければこれはうまくいかない。いくら加害者が損をしても、被害者が得するわけではない。むしろ、両者が関係を続けていることから、被害者にとってその関係は一応プラスの利得を持っていると推定できるためペナルティによって別れるのであれば被害者にとってマイナスだ。最終的に被害者がペナルティに訴えないと分かっているかぎり、加害者へのペナルティの大きさは加害者の行動に影響しない。通報した場合に被害者に報酬を与えればいいが、虚偽の通報などより大きな問題が発生するだろう。

もう一つの方法は二人で話合うか第三者が相談にのりコーディネーションを行う=均衡を選択することだ。この方法にも大きな課題がある。それは、暴力のない状態が必ずしも暴力を伴う状態にくらべ(パレート)改善とは限らないことだ。暴力をふるう側にとって暴力を伴う状態のほうがない状態よりも望ましいなら、さあ暴力をなくそうといっても合意は得られない。通常の交渉であればこれは補償により解決される。両者にとっての余剰の和が大きければそれを暴力をふるう側に配分することで合意が得られるからだ(そして「暴力をふるう」側は結果的に暴力をふるわない)。しかし現代社会であからさまに不平等の存在する男女関係は許容されないためこのような交渉は成立しないだろう。

P.S. 逆に言えば、フェミニズム以前の社会においてはパートナー間の不平等は存在したが、実際に暴力が発生する可能性は低かったかもしれない(実際の数字は分からないが、最初から亭主関白な家庭において妻への暴力が多いとは思えない)。

追記:亭主関白な家庭でもDVはあるという指摘があった。これは結婚しない場合の女性の利得=アウトサイドオプションが非常に低い場合にはありうる。この場合、不平等な関係であっても女性には、最悪の場合とくらべて、余剰が残っているので交渉力の関係によっては暴力がない関係にならないことが考えられる。これは女性のアウトサイドオプションが大きくなるにつれ解消される(男性は最低でもそれだけの利得を女性に割り当てなければ交渉が成立しない)。また、現実にはパートナーの暴力に対する選好に関して不確実性が存在するため、期待値的に大丈夫だと思って結婚したがそこから抜けられないというパターンもありうる。

SuperFreakonomicsまとめ

最近、悪い意味で話題になっているSuperFreakonomicsに関する著名人の反応がよくまとまっているページがあった:

Language Log » Freakonomics: the intellectual’s Glenn Beck? via Cheap Talk

正直評判が悪いので読むまいかとも思ったが一応注文した(同じく悪い話題を提供したリチャード・ポスナーとゲイリー・ベッカーの本も頼んでおいた)。とりあえず前評判をまとめると:

  • 前作はレヴィット個人の研究に基づいていたが今回は様々な話題を取り扱っている。
  • そのため、記事の質に疑問がある。
  • その代わり、取り上げられている話題は社会的にも重要なものが多い(相撲よりは温暖化のほうが重要だろう)。
  • しかし、面白さを優先するあまり奇抜さを狙い過ぎている。

最後の点はContrarian(逆張りをする人のこと)と形容されている。

[Email from Andrew Gelman: “Things get interesting when a scholar steps over the line and moves into pundit territory.  All of a sudden the scholarly caution disappears.  Search my blog for John Yoo or Greg Mankiw, for example…”

何故学者が専門内においては(世間から見ると)異常なまでに慎重になるのに、専門外だと突如何の注意も払わなくなるのは何故かという疑問も呈されており面白い。

さらに職業柄か何故奇抜な行動を取る人が多いかについても説明されている。

We might call this the Pundit’s Dilemma — a game, like the Prisoner’s Dilemma, in which the player’s best move always seems to be to take the low road, and in which the aggregate welfare of the community always seems fated to fall. And this isn’t just a game for pundits. Scientists face similar choices every day, in deciding whether to over-sell their results, or for that matter to manufacture results for optimal appeal.

In the end, scientists usually over-interpret only a little, and rarely cheat, because the penalties for being caught are extreme.  As a result, in an iterated version of the game, it’s generally better to play it fairly straight.  Pundits (and regular journalists) also play an iterated version of this game — but empirical observation suggests that the penalties for many forms of bad behavior are too small and uncertain to have much effect. Certainly, the reputational effects of mere sensationalism and exaggeration seem to be negligible.

物事を誇張したり、奇抜さを売ったりすることをゲームとして説明している。一種の囚人のジレンマで、全ての人が正確性を重視するのが最適だが、他の人が正確性を重視している場合には奇抜さを狙うことが利益になる。よってゲームが一回しかプレイされないなら誰もが奇抜な方をとり、パレート非効率な結末になる。

では何故科学者は正確に成果を発表するのかについては、ゲームが繰り返しだからということになる。アカデミックな世界では間違ったことを書いた場合のペナルティが大きいのでみんな気をつけるということになる。じゃあジャーナリズムなどでも同じ議論が成立するのでは、ということになるが現実にはそうではないようだ。繰り返しゲームお決まりの何でも説明できるけど、どれになるかは全然予測できないという問題にぶちあたる。

おまけ:内輪ネタだけど、このポストへのリンクがあったCheap Talkのポストの次の段落には爆笑した:

Aside on the game name game:  when I was a first-year PhD student at Berkeley, Matthew Rabin taught us game theory. As if to remove all illusion that what we were studying was connected to reality, every game we analyzed in class was given a name according to his system of “stochastic lexicography.”  Stochastic lexicography means randomly picking two words out of the dictionary and using them as the name of the game under study.  So, for example, instead of studying “job market signaling” we studied something like “rusty succotash.” I wonder if any of our readers remember some of the game names from that class.