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ワインレーティングなんて無意味

November 17th, 2009

レナード・ムロディナウ(Leonard Mlondinow)によるワイン・レーティングの問題についての記事:

Why Wine Ratings Are Badly Flawed – WSJ.com

世の中には大量のワインがあってどれがどれだか分からないし、いいワインを買うときは値札で選んでいるなんていう人も多いだろう。

It was in this climate that in the 1970s a lawyer-turned-wine-critic named Robert M. Parker Jr. decided to aid consumers by assigning wines a grade on a 100-point scale. Today, critics like Mr. Parker exert enormous influence.

質の分からない財がたくさんあれば、出てくるのがレーティングビジネスだ。

According to a 2001 study of Bordeaux wines, a one-point bump in Robert Parker’s wine ratings averages equates to a 7% increase in price, and the price difference can be much greater at the high end.

Robert Parkerのレーティングが一つ上がると平均7%価格が上がるという。この上昇分はハイエンドのワインのほうがさらに大きくなる。

しかしビジネスのレーティングとして重要になるのは信頼性だ。債権のレーティングが問題になったのも記憶に新しい(参考:格付け機関の失敗レーティングを機能させる方法)。ではワインのテイスティングの信頼はどうだろうか:

In his first study, each year, for four years, Mr. Hodgson served actual panels of California State Fair Wine Competition judges—some 70 judges each year—about 100 wines over a two-day period. He employed the same blind tasting process as the actual competition. In Mr. Hodgson’s study, however, every wine was presented to each judge three different times, each time drawn from the same bottle.

ここではカリフォルニア州のワインコンペにおける実験が紹介されている。70人のジャッジが100種類のものワインを2日間で評価する。そこで同じワインを同じボトルから三回ずつ出したという。

The results astonished Mr. Hodgson. The judges’ wine ratings typically varied by ±4 points on a standard ratings scale running from 80 to 100. A wine rated 91 on one tasting would often be rated an 87 or 95 on the next. Some of the judges did much worse, and only about one in 10 regularly rated the same wine within a range of ±2 points.

すると同じジャッジが同じワインに対して大体±4異なるレーティングを出したという。レーティングの数字が80-100しかないことを考えると随分と大きな誤差だ。

he made a bar graph of the number of wines winning 0, 1, 2, etc. gold medals in those competitions. The graph was nearly identical to the one you’d get if you simply made five flips of a coin weighted to land on heads with a probability of 9%.

さらに多くのコンペのデータから各ワインが金メダルを取る頻度を計算したところどのワインも同じ確率で金メダルを取ると考えたときの分布とほぼ同じだったという。

レーティングの回数・人数を増やしていけばより正確な数字を出すことはできるかもしれないが、現状のワインコンペの結果は信頼できないようだ。

まあとはいえここに出てくるのはコンペに出されるようなワインに限られていることには注意が必要だ。買い物ついでにスーパーで手に取るワインについても当てはまるかはわからない。

P.S. ちなみにレナード・ムロディナウはバークレーでPh.D.を取りカルテックに理論物理学者として就職したが、後にハリウッドでテレビ・映画の脚本家になったり、コンピュータゲームを作ったりしている異色の人物だ。ここ数年は科学に関する啓蒙書を数多く執筆している。スティーブン・ホーキングとの共著が特に有名だが、単著であるThe Drunkard’s Walk: How Randomness Rules our Livesも昨年ベストセラーになった(積みっぱなしでまだ読んでません…)。

なぜ資格試験や教育が必要なのか

November 14th, 2009

大学生は多すぎるのか」というポストに対するコメント欄で、司法試験制度について議論があったので資格制度一般について論じてみる。医師国家試験についてはちょうどこちらで提案がなされている。

何故試験や教育が必要かを考えずにどのような試験や教育が望ましいかを決めることはできない。通常のサービス業において試験や教育に関する制約は存在しない。単に市場での競争に任せておけばいいからだ。では司法サービスや医療サービスを市場へ任せられない理由が何だろうか。

経済学的にはこれらの専門家によるサービスは信用財(credence good)として捉えられる。信用財とはある財の価値が購入してもなお分からないようなケースである。よく挙げられるのは車の修理である。消費者にとって分かるのは車が動くか動かないかだけだ。実際に修理に何が必要でどれだけの費用がかかるかは分からない。そのため修理工は必要のないサービスを勧めたり、過大な請求を行う強いインセンティブをもっている(書いていてWillyさんのアメリカでの自動車修理に関するポストを思い出した)。消費者はこれに対して、社会的に非効率な方法で対応する。修理すれば低費用で直るものを直さなかったり、修理で直るものの全交換を要求したりする。

弁護士や医師のサービスはこの修理工のケースによく似ている。消費者が分かるのは裁判の結果と治療の結果だけで、そのための費用や本当に専門家が努力したのか、そもそも能力のある専門家だったのかについては非常に曖昧な情報しか持っていない。もし消費者が修理工と同じように弁護士や医師のサービスを捉えるなら、サービスの結果だけで報酬を決めるだろう。そしてそのことは社会的に非効率だ。例えばそもそも治りにくい病気に効果のある治療は利益が出ないため、誰も相手にしなくなる。また専門家が努力したとしても運悪く結果が出なかった場合にもそもそも努力しない場合と同じ報酬なので努力するインセンティブ自体が減少する。

では、どのような対策が可能だろうか。その一つの方法が資格を設けることだ。専門家の能力を保証することで、もしサービスが一定の結果をもたらさなかった場合には専門家の努力が足りなかったと推定できる(能力の保証がなければ運が悪くて失敗したのと区別がつかない)。またある程度の能力を持っている人間だけを選別することで、サービスを提供するための費用を抑えられる。能力のない人間にとって能力のある人間と同じだけの結果を出すのは大変だからだ。これは契約締結後に専門家が努力するための(限界)費用を減らすので非効率を抑えられる。また資格取得に投入した費用はあとで取り戻すことができない(サンクする)ため、資格を取得した専門家はその資格を失うような行動を取らないように努力することも効率性上昇に寄与する。修理工や医師のようにサービスの質に関する情報の非対称が時間の経過により判明するものではサービス提供後の保証の提供も役立つ。修理や手術後のアフターケア保証がそれだ。

但し、この議論は必ずしも制度としての資格が必要であることを説明しないことには注意が必要だ。その理由は三つほどある。

  • サービスの購入が頻繁であれば評判によって質は保たれる
  • 資格が必要だったとして政府がそれを提供する必要がない(民間資格)
  • カルテルの危険性
  • 垂直統合

まずこれまでの議論は基本的に静的であったことに注意が必要だ。もしこの状況が繰り返し起きるならこのような問題は起きない。消費者は専門家に関する情報を蓄積するため、評価の悪い専門家には依頼しなくなる。これを知っている専門家は最初から必要な努力を払うようになるし、それだけの結果をそもそももたらせない、ないしもたらすためにコストがかかりすぎる能力のない・低い人は市場から撤退せざるをえない。例えば、大企業であれば弁護士事務所に仕事を依頼することは日常茶飯事だろうから信用財の問題は軽微だろう。この議論は一般消費者には適用できないことには注意が必要だ。普通の人は弁護士サービスを多くて数年に一度しか利用しない。但しこの点はインターネットなど情報の共有を可能にする技術により緩和されつつある。

民間にまかせれば十分なことも考えられる。例えば自動車修理であれば自動車メーカーが修理工の能力を保証することがありえる。修理工がそういった保証を受けるインセンティブがあるだけでなく、メーカーにとっても自社製品の修理市場が効率的になることはメリットだ。効率的な修理が可能な車種は消費者にとって価値が高く、メーカーはその分価格を引き上げることができる。このように業界全体の利益を代表するような組織があれば、こういった資格制度は勝手に提供される

次の問題は前段落の業界組織にも当てはまる。資格制度を提供するインセンティブを持つのは業界を代表する組織だが、彼らは同時に価格を釣り上げる強いインセンティブを持っている。これは二種類の経路で行われる。一つは、資格制度のための組織を通じて直接価格を調整することだ。業界団体が価格や数量に関する情報を集めるのがこれにあたる。こういった情報の共有は共謀による価格つり上げを容易にする。二つ目は資格制度を使った新規参入を制限することだ。供給が減ることで独占利潤が生まれるだけでなく、共謀の結成も容易になる。業界団体の関与を減らせば問題は緩和するが、専門家を評価する能力が専門家以外にはあまりないため実際には困難だ。資格が政府によって制度化されていてもいなくてもこの問題は生じるが前者の場合には複数の資格認定機関による競争がないためより深刻だ(政府が関わってない場合には例えば認定機関が一つでも潜在的な競争がある)。

政府の関与がなくとも垂直統合で解決されるという考えもある。一つの方法はサービス提供側の統合で、自動車メーカー自らが整備サービスを提供するのがそれに当たる。もう一つの方法はサービス購入側の統合で、企業による法務部の立ち上げ、顧問弁護士の雇用などがこれに当たる。インセンティブが合わない問題を統合によって一気に解決するわけだ。但し、垂直統合だと競争・専門化の欠如という問題が生じる。

資格・教育に関する問題を議論する際にはこれらの長所・短所を勘案したうえで資格・教育制度の維持費用と見比べて判断する必要がある。

アメリカは実名志向か

November 13th, 2009

日本人のオンラインでの匿名嗜好は有名だが外国でも実名の仕様は限られているという指摘:

「日本人は匿名志向・外国では実名志向」を疑う – akoblog@はてな via Geekなぺーじ

ブログやYahoo!の掲示板で政治論議が活発に行われているというが、そのほとんどはpseudonym(筆名)とのこと。

掲示板での政治議論は匿名だったり、

Facebookで実名を使う、というのはあり得なくなっています」とのこと。

SNSでの実名の使用が減っているという話から、

ともあれ、「日本人は匿名志向で欧米では実名志向」という思い込みは、きちんと実証して何がどうなっているのかを明らかにした方がよさそうだ。

という結論を出している。

日本は匿名・欧米は実名などという風にはっきりと分かれるわけではないのは(当たり前だが)事実だ。しかし、日本対欧米といった国家・文化的な切り口は非常にいただけない。そういったものを持ち出すのは最後の手段だ。理解の鍵は次の一文だ:

ただし、LinkedInのようなビジネスネットワーキングは実名だとのこと。

何故LinkedInは実名なのか。それは単に実名でなければ何の意味もないからだ。就職活動に偽名を使うわけないし、偽名の知り合いとコネクションを持ちたい人もいない。日本ではどうか。そもそもLinkedInのような組織がない。労働市場が硬直的で転職自体が悪いシグナルを送ってしまう。

この労働市場の違いが匿名・実名に関するインセンティブの違いを説明するだろう。例えばこのブログは実名で書かれている(とはいえ公開鍵を公開しているわけではないので本人か確認できないが)。それはブログの目的の一つがパーソナル・ブランディングでありキャリア上の手段だからだ。だから何か一つのアイデンティティに結びつける必要があり、実名が最も自然な選択だ(一つのハンドルを使いつづけてもいいが、どちらにしろ実質的な匿名性は保たれないだろう)。これは実名でかかれているブログのほとんどに当てはまるだろう。

また政治・宗教に関して匿名が多いのはごく自然なことだ。政治・宗教に関する発言でキャリアを築く人が極めて少数だからだ。単に日本でもアメリカでも都合のよい場合だけ実名を使い、そうでなければ匿名を使うというだけのことだろう

転職が困難な社会においてはこのような行動のメリットは殆どない。実名で発言するということは自分への一種の人的投資であり転職ができないなら過少供給となる(前回のポスト参照)。解雇された場合の困難も比ではないため、できるだけ匿名にしようとするのは当然だ。その心配がない大学教授などは日本でも実名の傾向が高い。

P.S. Facebookで実名を使うのがありえないなんていう話はどこから来ているのだろう。実名じゃない人なんてほとんどみたことがない。というか、実名でなければそもそも相手を見つけられないため、SNSの価値は激減する。実名の弊害はアクセスコントロールと常識で十分対処できるだろう。mixiが匿名だらけなのはこういう問題があっても、日本では労働市場が硬直的なため実名を使うのがあまりにもリスキーなためだろう。

大学生は多すぎるのか

November 11th, 2009

大学に進学する学生は多すぎるんじゃないかということについて様々な専門家が意見を出している:

Are Too Many Students Going to College? – The Chronicle Review – The Chronicle of Higher Education

中でも面白いと思ったのは次の二つだ。

Charles Murray: It has been empirically demonstrated that doing well (B average or better) in a traditional college major in the arts and sciences requires levels of linguistic and logical/mathematical ability that only 10 to 15 percent of the nation’s youth possess. That doesn’t mean that only 10 to 15 percent should get more than a high-school education. It does mean that the four-year residential program leading to a B.A. is the wrong model for a large majority of young people.

実証研究によれば、普通の専攻でそれなりの成績(平均B以上)を取れるだけの言語・論理・数理能力を持っている人間は10-15%に過ぎないという。もしこれが正しければ過半数の若者が大学に進学するのは非常に非効率ということになる。

Bryan Caplan: There are two ways to read this question. One is: “Who gets a good financial and/or personal return from college?” My answer: people in the top 25 percent of academic ability who also have the work ethic to actually finish college. The other way to read this is: “For whom is college attendance socially beneficial?” My answer: no more than 5 percent of high-school graduates, because college is mostly what economists call a “signaling game.” Most college courses teach few useful job skills; their main function is to signal to employers that students are smart, hard-working, and conformist. The upshot: Going to college is a lot like standing up at a concert to see better. Selfishly speaking, it works, but from a social point of view, we shouldn’t encourage it.

こちらは経済学者だ。個人レベルでは大学へ進学することがプラスになるのは25%だという。しかし、大学進学の個人へのリターンの多くがシグナリングに過ぎないことを計算にいれれば社会的な望ましい水準は5%だという。何故なら大学の授業は現実社会で役に立たないからだ。また進学者が少ないほうがシグナリングの効果は高いだろう。

彼は大学進学をコンサートで立ち上がることに例えている。これはとてもわかりやすい例えだ。四分の三の人が立ち上がっていたらもうどうせ前は見えないので立ち上がるのを辞めるだろう(現実進学率<75%)。しかし立ち上がっている人が四分の一なら立ち上がることは個人的にメリットがある(現実進学率>25%)。しかし、社会的に望ましいのは特別に背が低いなどを除き全員座っている状態だ(最適進学率=5%)。

これは日本にも当てはまる。どちらにしろ大学進学率が50%を越えるような水準で大学への資金援助・進学費用の補助などを行うことは正当化しにくいだろう(注)。

(注)教育が民主主義のために必要だと考えることはできるが、大学が学習を強制しない以上あまり有効な批判とは言い難いだろう。

説得力のある批評をする方法

October 25th, 2009

消費者の心理に関する研究が紹介されている:

Drilling Down – Veteran Critics More Persuasive When Uncertain, Study Finds – NYTimes.com

Asked to evaluate the restaurant, the students who read the expert’s review liked it much better when he seemed tentative; the opposite was true of the novice.

四種類のレストランのレビューを被験者(学生)に見せる実験を行ったそうだ。四つのレビューとは、

  • 専門家が完全にお勧め(positive certainty)
  • 専門家が一応お勧め(tentative praise)
  • 素人が完全にお勧め
  • 素人が一応お勧め

結果は専門家の場合は曖昧な評価の方が好まれたのに対し、素人の場合には確信を持って勧められている場合の方が評価されたそうだ。

これは常識とよく合致する。専門家の曖昧な意見はよく考えて評価が行われているように聞こえるが、素人の曖昧な意見は何も考えていないように聞こえる。

また専門家は自分の評判があるので100点満点を出すことはない。逆に満点を出していると専門家としての地位を疑われる。素人にはそのような制約はなく高得点を出しても問題はない。もちろん本当の専門家が満点評価をしているならば一番評価されるだろうが、実験であれば専門家とされているだけに過ぎないため、いわば「自称」専門家の満点は信用されないのだろう。逆にいえばこの実験の問題は本当に信頼されている専門家のケースを扱うことができない点にあるだろう(実際の研究がどうなっているのかは分からないが)。

これは大学院出願における推薦状にも当てはまる。無名の教授(ビジネススクールであれば上司含む)の推薦状は明らかに素晴らしいものでなければ意味がない。むしろ留保点があれば大きなマイナスになる。名の通った人の推薦状であれば二通り考えられる。大学院側が推薦人と個人的な関係を持っているないし過去の推薦に関する履歴を記録している場合にはやはり素晴らしい推薦状の方がよいだろう(例えばいつも学生を送り出している教授の推薦は極端な話お勧めか否かだけで十分だ)。しかし経歴や地位は素晴らしいが信用できる推薦人と確信をもっていない場合には長所短所詳しく書いてある推薦のほうが効果的なように思われる(例えば経済学部宛てに推薦状を書く数学の教授の場合褒めてばかりでは誰にでもそうなのかもと疑うだろう)。

P.S. 著者とジャーナルをキーに実際の論文を探してみたがどれか確定できなかった。ジャーナリストとしては明記すべきだろう。