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アメリカは実名志向か

日本人のオンラインでの匿名嗜好は有名だが外国でも実名の仕様は限られているという指摘:

「日本人は匿名志向・外国では実名志向」を疑う – akoblog@はてな via Geekなぺーじ

ブログやYahoo!の掲示板で政治論議が活発に行われているというが、そのほとんどはpseudonym(筆名)とのこと。

掲示板での政治議論は匿名だったり、

Facebookで実名を使う、というのはあり得なくなっています」とのこと。

SNSでの実名の使用が減っているという話から、

ともあれ、「日本人は匿名志向で欧米では実名志向」という思い込みは、きちんと実証して何がどうなっているのかを明らかにした方がよさそうだ。

という結論を出している。

日本は匿名・欧米は実名などという風にはっきりと分かれるわけではないのは(当たり前だが)事実だ。しかし、日本対欧米といった国家・文化的な切り口は非常にいただけない。そういったものを持ち出すのは最後の手段だ。理解の鍵は次の一文だ:

ただし、LinkedInのようなビジネスネットワーキングは実名だとのこと。

何故LinkedInは実名なのか。それは単に実名でなければ何の意味もないからだ。就職活動に偽名を使うわけないし、偽名の知り合いとコネクションを持ちたい人もいない。日本ではどうか。そもそもLinkedInのような組織がない。労働市場が硬直的で転職自体が悪いシグナルを送ってしまう。

この労働市場の違いが匿名・実名に関するインセンティブの違いを説明するだろう。例えばこのブログは実名で書かれている(とはいえ公開鍵を公開しているわけではないので本人か確認できないが)。それはブログの目的の一つがパーソナル・ブランディングでありキャリア上の手段だからだ。だから何か一つのアイデンティティに結びつける必要があり、実名が最も自然な選択だ(一つのハンドルを使いつづけてもいいが、どちらにしろ実質的な匿名性は保たれないだろう)。これは実名でかかれているブログのほとんどに当てはまるだろう。

また政治・宗教に関して匿名が多いのはごく自然なことだ。政治・宗教に関する発言でキャリアを築く人が極めて少数だからだ。単に日本でもアメリカでも都合のよい場合だけ実名を使い、そうでなければ匿名を使うというだけのことだろう

転職が困難な社会においてはこのような行動のメリットは殆どない。実名で発言するということは自分への一種の人的投資であり転職ができないなら過少供給となる(前回のポスト参照)。解雇された場合の困難も比ではないため、できるだけ匿名にしようとするのは当然だ。その心配がない大学教授などは日本でも実名の傾向が高い。

P.S. Facebookで実名を使うのがありえないなんていう話はどこから来ているのだろう。実名じゃない人なんてほとんどみたことがない。というか、実名でなければそもそも相手を見つけられないため、SNSの価値は激減する。実名の弊害はアクセスコントロールと常識で十分対処できるだろう。mixiが匿名だらけなのはこういう問題があっても、日本では労働市場が硬直的なため実名を使うのがあまりにもリスキーなためだろう。

大学生は多すぎるのか

大学に進学する学生は多すぎるんじゃないかということについて様々な専門家が意見を出している:

Are Too Many Students Going to College? – The Chronicle Review – The Chronicle of Higher Education

中でも面白いと思ったのは次の二つだ。

Charles Murray: It has been empirically demonstrated that doing well (B average or better) in a traditional college major in the arts and sciences requires levels of linguistic and logical/mathematical ability that only 10 to 15 percent of the nation’s youth possess. That doesn’t mean that only 10 to 15 percent should get more than a high-school education. It does mean that the four-year residential program leading to a B.A. is the wrong model for a large majority of young people.

実証研究によれば、普通の専攻でそれなりの成績(平均B以上)を取れるだけの言語・論理・数理能力を持っている人間は10-15%に過ぎないという。もしこれが正しければ過半数の若者が大学に進学するのは非常に非効率ということになる。

Bryan Caplan: There are two ways to read this question. One is: “Who gets a good financial and/or personal return from college?” My answer: people in the top 25 percent of academic ability who also have the work ethic to actually finish college. The other way to read this is: “For whom is college attendance socially beneficial?” My answer: no more than 5 percent of high-school graduates, because college is mostly what economists call a “signaling game.” Most college courses teach few useful job skills; their main function is to signal to employers that students are smart, hard-working, and conformist. The upshot: Going to college is a lot like standing up at a concert to see better. Selfishly speaking, it works, but from a social point of view, we shouldn’t encourage it.

こちらは経済学者だ。個人レベルでは大学へ進学することがプラスになるのは25%だという。しかし、大学進学の個人へのリターンの多くがシグナリングに過ぎないことを計算にいれれば社会的な望ましい水準は5%だという。何故なら大学の授業は現実社会で役に立たないからだ。また進学者が少ないほうがシグナリングの効果は高いだろう。

彼は大学進学をコンサートで立ち上がることに例えている。これはとてもわかりやすい例えだ。四分の三の人が立ち上がっていたらもうどうせ前は見えないので立ち上がるのを辞めるだろう(現実進学率<75%)。しかし立ち上がっている人が四分の一なら立ち上がることは個人的にメリットがある(現実進学率>25%)。しかし、社会的に望ましいのは特別に背が低いなどを除き全員座っている状態だ(最適進学率=5%)。

これは日本にも当てはまる。どちらにしろ大学進学率が50%を越えるような水準で大学への資金援助・進学費用の補助などを行うことは正当化しにくいだろう(注)。

(注)教育が民主主義のために必要だと考えることはできるが、大学が学習を強制しない以上あまり有効な批判とは言い難いだろう。

説得力のある批評をする方法

消費者の心理に関する研究が紹介されている:

Drilling Down – Veteran Critics More Persuasive When Uncertain, Study Finds – NYTimes.com

Asked to evaluate the restaurant, the students who read the expert’s review liked it much better when he seemed tentative; the opposite was true of the novice.

四種類のレストランのレビューを被験者(学生)に見せる実験を行ったそうだ。四つのレビューとは、

  • 専門家が完全にお勧め(positive certainty)
  • 専門家が一応お勧め(tentative praise)
  • 素人が完全にお勧め
  • 素人が一応お勧め

結果は専門家の場合は曖昧な評価の方が好まれたのに対し、素人の場合には確信を持って勧められている場合の方が評価されたそうだ。

これは常識とよく合致する。専門家の曖昧な意見はよく考えて評価が行われているように聞こえるが、素人の曖昧な意見は何も考えていないように聞こえる。

また専門家は自分の評判があるので100点満点を出すことはない。逆に満点を出していると専門家としての地位を疑われる。素人にはそのような制約はなく高得点を出しても問題はない。もちろん本当の専門家が満点評価をしているならば一番評価されるだろうが、実験であれば専門家とされているだけに過ぎないため、いわば「自称」専門家の満点は信用されないのだろう。逆にいえばこの実験の問題は本当に信頼されている専門家のケースを扱うことができない点にあるだろう(実際の研究がどうなっているのかは分からないが)。

これは大学院出願における推薦状にも当てはまる。無名の教授(ビジネススクールであれば上司含む)の推薦状は明らかに素晴らしいものでなければ意味がない。むしろ留保点があれば大きなマイナスになる。名の通った人の推薦状であれば二通り考えられる。大学院側が推薦人と個人的な関係を持っているないし過去の推薦に関する履歴を記録している場合にはやはり素晴らしい推薦状の方がよいだろう(例えばいつも学生を送り出している教授の推薦は極端な話お勧めか否かだけで十分だ)。しかし経歴や地位は素晴らしいが信用できる推薦人と確信をもっていない場合には長所短所詳しく書いてある推薦のほうが効果的なように思われる(例えば経済学部宛てに推薦状を書く数学の教授の場合褒めてばかりでは誰にでもそうなのかもと疑うだろう)。

P.S. 著者とジャーナルをキーに実際の論文を探してみたがどれか確定できなかった。ジャーナリストとしては明記すべきだろう。

SuperFreakonomicsまとめ

最近、悪い意味で話題になっているSuperFreakonomicsに関する著名人の反応がよくまとまっているページがあった:

Language Log » Freakonomics: the intellectual’s Glenn Beck? via Cheap Talk

正直評判が悪いので読むまいかとも思ったが一応注文した(同じく悪い話題を提供したリチャード・ポスナーとゲイリー・ベッカーの本も頼んでおいた)。とりあえず前評判をまとめると:

  • 前作はレヴィット個人の研究に基づいていたが今回は様々な話題を取り扱っている。
  • そのため、記事の質に疑問がある。
  • その代わり、取り上げられている話題は社会的にも重要なものが多い(相撲よりは温暖化のほうが重要だろう)。
  • しかし、面白さを優先するあまり奇抜さを狙い過ぎている。

最後の点はContrarian(逆張りをする人のこと)と形容されている。

[Email from Andrew Gelman: “Things get interesting when a scholar steps over the line and moves into pundit territory.  All of a sudden the scholarly caution disappears.  Search my blog for John Yoo or Greg Mankiw, for example…”

何故学者が専門内においては(世間から見ると)異常なまでに慎重になるのに、専門外だと突如何の注意も払わなくなるのは何故かという疑問も呈されており面白い。

さらに職業柄か何故奇抜な行動を取る人が多いかについても説明されている。

We might call this the Pundit’s Dilemma — a game, like the Prisoner’s Dilemma, in which the player’s best move always seems to be to take the low road, and in which the aggregate welfare of the community always seems fated to fall. And this isn’t just a game for pundits. Scientists face similar choices every day, in deciding whether to over-sell their results, or for that matter to manufacture results for optimal appeal.

In the end, scientists usually over-interpret only a little, and rarely cheat, because the penalties for being caught are extreme.  As a result, in an iterated version of the game, it’s generally better to play it fairly straight.  Pundits (and regular journalists) also play an iterated version of this game — but empirical observation suggests that the penalties for many forms of bad behavior are too small and uncertain to have much effect. Certainly, the reputational effects of mere sensationalism and exaggeration seem to be negligible.

物事を誇張したり、奇抜さを売ったりすることをゲームとして説明している。一種の囚人のジレンマで、全ての人が正確性を重視するのが最適だが、他の人が正確性を重視している場合には奇抜さを狙うことが利益になる。よってゲームが一回しかプレイされないなら誰もが奇抜な方をとり、パレート非効率な結末になる。

では何故科学者は正確に成果を発表するのかについては、ゲームが繰り返しだからということになる。アカデミックな世界では間違ったことを書いた場合のペナルティが大きいのでみんな気をつけるということになる。じゃあジャーナリズムなどでも同じ議論が成立するのでは、ということになるが現実にはそうではないようだ。繰り返しゲームお決まりの何でも説明できるけど、どれになるかは全然予測できないという問題にぶちあたる。

おまけ:内輪ネタだけど、このポストへのリンクがあったCheap Talkのポストの次の段落には爆笑した:

Aside on the game name game:  when I was a first-year PhD student at Berkeley, Matthew Rabin taught us game theory. As if to remove all illusion that what we were studying was connected to reality, every game we analyzed in class was given a name according to his system of “stochastic lexicography.”  Stochastic lexicography means randomly picking two words out of the dictionary and using them as the name of the game under study.  So, for example, instead of studying “job market signaling” we studied something like “rusty succotash.” I wonder if any of our readers remember some of the game names from that class.

格付け機関の失敗

今回の金融危機において、格付け機関がいかに間違ったシグナルを送ったかについて:

How Moody’s sold its ratings – and sold out investors | McClatchy

A McClatchy investigation has found that Moody’s punished executives who questioned why the company was risking its reputation by putting its profits ahead of providing trustworthy ratings for investment offerings.

Moody’sの例が挙げられている。格付けの信頼性と機関の評判を重視した社員が如何に追いやられていったかについて多くのインタビューを交え詳細に記されている。

原因の一つには格付け機関の収益構造がある。

To promote competition, in the 1970s ratings agencies were allowed to switch from having investors pay for ratings to having the issuers of debt pay for them.

格付け機関は投資家ではなく債権の発行者から収益を得るようになった。そのため格付け機関は利益を得るために格付けを発行者の意向に沿う形に歪めるインセンティブを持った。

Moody’s was spun off from Dun & Bradstreet in 2000, and the first company shares began trading on Oct. 31 that year at $12.57. Executives set out to erase a conservative corporate culture.

When Moody’s went public in 2000, mid-level executives were given stock options. That gave them an incentive to consider not just the accuracy of their ratings, but the effect they’d have on Moody’s — and their own — bottom lines.

さらにMoody’sは2000年に株式市場へ上場し、広範な社員にストックオプションの支給を始めた。これは社員に格付けの正確性ではなく、会社の利益をまず考えるインセンティブを与えた。

格付け機関が正しい格付けを行うインセンティブは基本的に評判を維持するためだ。しかし金融市場において格付けが正しかったかが判明するのは数年に一度、不景気になったときだけだ。景気のよいときにはほとんどの株は上昇するし、債権もデフォルトを起こすことはほぼない。レストランのように商品の質がすぐに判明する業種とは評判がプレーヤーに与える影響は大きく異なる。さらに格付け自体は単なる意見に過ぎないため法的責任は生じない。仮に生じたとしてもそれを確認する方法がない(注)。

しかし格付け機関のような組織がここの投資家の代わりに情報を集め処理することは社会的にプラスだろう。格付け機関を機能させるには、投資家が現在の格付け機関が問題のあるインセンティブ構造を持っていることを認識する必要がある。そうすれば、問題のある所有形態の機関は信用されず市場から排除されるだろう。

(注)リスキーな債権を特定のCDOに混ぜることで発行会社が利益をあげられること、それにより安全なトランシェでもデフォルトする可能性があること、投資家がそのようなCBOを発見できないこと、そしてデフォルトした場合でも債権の分布がランダムでないことを証明できないことを示した最近の論文についてこちら