ウェブでの匿名性

ウェブでの匿名性なんてそもそも存在しないというお話:

IT / ウェブの匿名性はもはや名ばかり ─ 瞬時に明かされるあなたの身元

消費者の名前は得られないが、このデータを住宅保有者や世帯収入、結婚歴、好みのレストランなどの記録と相互参照させる。その後、統計分析を施し、個々のウェブ・サーファーのし好について推測を始める。

企業が消費者のアクセスを追跡し、外部のデータと照合することで嗜好を推定する。外部のデータを使うことがアマゾンなどとは違うという。消費者の名前は得られない、とあるが十分なデータがあれば個人名まで遡れることもできると考えるべきだろう。

個人の嗜好が分かれば人によって異なる価格を提示することで売り手は収益を増やすことができるため、こういったサービスを提供する企業が次々に出てくるのは明らかだ。

このことから二つの問題が生じる

  1. 差別を禁止する規制の有名無実化
  2. プライバシー保護のエンフォースメントの困難化

まず、差別との関係だ。異なる価格を提示する価格差別は一般的に禁止されていない。価格差別が消費者や社会全体にとって必ずしも悪いことではないからだ(むしろプラスであるケースが多い)。

金融サービス業界では、公平な融資に関する法律により人種、肌の色、宗教、出身国、性別、公的支援の受け取りや婚姻暦に基づく差別が禁じられている。

但し、例外として人種などの差別を禁止する法律はある。雇用においても人種による差別は違法だ。しかし、他の情報から最適な価格を設定した結果としてほぼ人種毎に差が生じたとしてもそれを罰することはできないだろう。

もう一つはプライバシー保護のエンフォースメントだ。大抵の企業は情報を集めるときに(特別な理由がなければ)自社でしかデータを利用しないと謳っている。しかし、現実にはこのように多くのデータが参照される。データの出所(とそれを知っていて利用したこと)を立証するのは困難なので実質的にプライバシーを守ることは難しくなる。外部(海外)の企業が分析の結果だけを提供するようなスキームならもはや取り締まりようがないように思える。

個人レベルでは匿名性はないものとして行動する他ないだろうが、政策的な対応も必要だろう。

Openbook

ソーシャルネットワークねたが続きますが、Openbookというのは新世代のオープン型ネットワークではなく、Facebookのパロディだ:

Openbook – Connect and share whether you want to or not

OpenbookはFacebookで全世界に公開されているステータスを検索できるサイトだ。上のスクリーンショットでは「おはよう」を検索してみた(ちなみにRecent Searchesにある日本語は私が入力したものではない)。日本人以外にもなかなか人気の単語であることが分かる。Facebookにしては本人の顔写真が少ないのも特徴だ(日本語が好きな外国人を想像すればわかるが)。

このサイトの目的は別にこうやって遊ぶためではなく、Facebookにおけるプライバシーを啓蒙することだ。「Facebookの使い方」に書いたように、Facebookにはかなり細かいプライバシー設定機能がある。きちんと利用すればかなり思い通りのアクセスコントロールが可能だ。しかし、デフォルトでのプライバシー設定は徐々に甘くなっており、設定を変更しないと相当な情報が世界中に検索可能な形で公開されるので気を付けたい。

レピュテーションとプライバシー

実名・匿名の問題は、名前を売ってレピュテーションを上げることとプライバシーとの兼ね合いだ。実名利用が一般的なアメリカではどのようなバランスがとられているのだろう。

How people monitor their identity and search for others online

  • 57%のネットユーザーが、自分に関する情報を検索してモニターしている
  • 46%が、ソーシャルネットワークにプロフィールを持っている
  • 46%は昔の知り合いを、38%が友達について検索している

どの数字も上昇傾向にあり、ネット上で他人の情報を集めると同時に自分もまたその対象となっていることを認識されている様が見て取れる。

  • 18-29歳の44%はネットに公開する情報を制限している
  • 71%はソーシャルネットワークでのプライバシー設定を変更している

若い世代の話かと思えばそうでもない。18-29歳のの28%はFacebook, MySpace, LinkedInなどのソーシャルネットワークを全く信用しておらず、これは他の世代よりも高い数字だ。プライバシーは若者にも重視されており、情報をオンラインにすると同時にその管理に力を入れている。

  • 31%のネットユーザーは同僚や専門家、競争相手を検索している
  • 16%はデートの相手や交際相手を検索している

このような状況で、自分の情報がどうオンラインで流れているかに慎重になるのは自然なことだろう。ECサイトがSEOに労力を割くのと変わらない。

  • 27%の仕事を持っているユーザーは職場でオンラインでの活動についてルールがあると述べている
  • 12%は業務の一環としてオンライン上で自分を売り出す(market)する必要があると述べている(男性は15%、女性は7%)

さらにオンラインでのあり方が仕事にも繋がり始めている。多くの人は情報を限定的に公開し、その流れを自分でコントロールできるようなプラットフォームを求めているともいえ、Facebookが最大のソーシャルネットワークになったことも頷ける。

「実名・勤務先明記」へ

日本IBMのソーシャル・コンピューティングのガイドラインに関する記事から。

ブログ利用「実名・勤務先明記」を奨励 日本IBM

特に注目されているのは以下の部分だ。

「IBMでの業務に関連してブログ活動をする際には、実名を使い、身元を明らかにし、あなたがIBMに勤務していることを明示するように奨励します」
「一人称で語りましょう。自分自身の意見で、その個性を前面に打ち出し、思っていることを語りましょう」

実名・勤務先の公表を控える人が多い日本では異例の試みと言える(参考:アメリカは実名志向か)。しかし、このガイドラインは時代の流れに適ったものだ。

実名の利用を奨励することの利点は二つある。一つは、質の高い人材を惹きつけることだ。ネットは個人が自分の名前で活動する=レピュテーションを築くのを容易にした。狭いサークルの中で活動しているのであれば従来型の人脈作りで十分だろうが、多くの職業は自分とは全く違う分野の人間と繋がっている(他人が出来ないことを提供することで利益を上げる場合には当然そうだ)。ネットを活用してネットワーキングをしている人にとって、それが出来なくなるのは非常に都合が悪い

個人としてブランドを持っている社員は転職が簡単という意味で企業にとって都合が悪い面もあるが、そういうクリエイティブな人材を持たないで競争するのは難しくなっている。むしろ個人が個人として活動することを認めて、優秀な人材を揃える方が有利だと考えるのは自然だろう。

二つ目の利点は、その質の高い人材が持つブランドを逆に企業が利用することだ。個人がブランドを持たない時代には、企業がブランドとして存在し社員がそれを使って仕事をした。多くの戦略コンサルティング会社はそれに当たるだろう。個人としての技能に期待してるのではなく、会社の名前を元に仕事が発注される。会社はそのブランドを守るために社員を厳選し、社員にとってはその会社にいったことが履歴書上のメリットになる。

しかし、個人がブランドを持つようになればその関係は変わってくる。会社名ではなく個人に仕事が入る。そうなると会社と社員の力関係は逆に傾く。社員に個人としての活動を奨励することで優秀な人材を確保する一方で、その人材が持つブランドを企業が利用できる

「一人称で語る」というのはこの二番目の利点をうまく活かすための工夫だ。構成員が個人として発言し、会社のブランドを高める一方で、会社の意見とは切り離す。

この方法がうまくいくような業界ばかりではないだろうが、他の企業もソーシャルメディアの時代に合わせて社員の対外的な活動に対する認識を改めて行くことが必要だろう。

「ツイッター7つの仮説」について

Twitterの話題で■グロービス堀義人ブログ: ■ツイッター7つの仮説とそれに対する堀さんがtwitterに関する面白い記事を書いてたので突っ込みなど|堀江貴文オフィシャルブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ」が面白かったのでここでも同じフォーマットでやってみよう。

仮説1:ITの進化に伴い、議論の質が下がる。

ニフティの時代から議論の質が下がったという話。私はニフティにあまりアクセスしたことがないので直接の比較はできないことを先に断っておく。質をどう定義するかにもよるが、平均的な「質」は下がるだろう。では堀さんが問題にされているであろうトップレベルでの質はどうか。

これは何についての議論かによるだろう。話題が明確に決まっている場合、その内容によって分けられている空間のほうが優位だ。極端な話、特定の狭い分野で質の高い議論が必要なら、その分野の研究者を集めて会議室にでも閉じ込めておけば良い。Twitterなどという誰が聞いてるかもわからない代物を使う必要はない。逆に話題が設定されていない場合、看板で仕切られた空間は大変都合が悪い。そのようなケースではTwitterが議論の質を上げる(例えばNPOの経営話はNPOの人だけが集まって議論するよりもいろいろな人が目にするTwitterでやったほうが効果的だろう)。

Twitterのハッシュタグはある意味いいとこ取りを狙った仕組みとも言えるが、管理者の不在は多人数での議論を困難にする。ニフティであればシスオペがフォーラムを適切に管理する(金銭を含めた)インセンティブを持っているが、ハッシュタグの場合は何のコントロールもない。通常のTwitter上のやり取りであれば、あくまで人間(アカウント)ベースなのでそこを押さえていれば生産的な議論が可能だが、ハッシュタグの場合はトピックベースなので難しいだろう。

結論としては、技術によってどのような議論が効率的に行えるかは異なるのであって、単純に上がる下がるという話ではないと考えられる。

仮説2:一方では、訴求力・リアルタイム性が抜群に上がる。ツイッター(SNS)、ブログ、動画などの組み合わせにより、よりパワフルな発信力を個人が持つようになる。

発言力は聞いてくれる人がいないと意味がない。大きな発言力を持ちうるようになれば、それを活用するために受け手を増やすインセンティブが増す(どんな頑張ったって10人しか聞いてくれないなら大した努力はしないが、1,000人なら努力するかもしれない)。受け手を増やす一番まっとうな方法は価値を提供することで、これは議論の質の向上につながる。Twitterは日本において実名の利用が広がっているという意味でIDにより個人が特定可能なパソコン通信と似ている。

仮説3:知のインプットの時間が減るので、人々は扇動されやすくなる。

これは間違っていると思う。まず、多くの人は時間を最大限に活用して知のインプットをしているわけではない。Twitterで30分使うとして、その代わりに削られるものが知のインプットとは限らない(そもそも一日30分知のインプットをしていない人なんて山ほどいるだろう)。

次に、Twitterを通じて普段目にしない分野の知識を得ることは多い。私はTwitterを始めるまでBI・BOP・社会起業とかいう言葉とは無縁だった(というと驚かれる)。そもそも聞いたことのない事柄に関してインプットするのは難しい。Twitterを含めたソーシャルメディアは検索エンジンやRSSを代替こそしないが、それに並ぶ新しい情報のアグリゲーターとなっている。これは知のインプットそのものだ。

最後に、知識をインプットだけで身につけるのは非効率的ということが挙げられる。アウトプットとインプットを繰り返すことでより効率的な学習が可能だろう。

普段から周りに多彩な興味を持った人がいて議論することができるのであれば(もしくは幅広い知識が不要なら)Twitterのメリットは少ないかもしれない。しかし、大抵の場合そんなことはないので、やはりTwitterは知のインプットにむしろ貢献するように思われる。

仮説4:パーソナルな情報がマスメディアを凌駕する。

凌駕するというよりも、マスメディアという概念が分解すると言った方がいいだろうか。

今後は、「日経新聞によると」よりも、「○○さんによると」の方が信憑性を持つ時代が来るであろう。

既にオンラインで記事を読むときには、どのサイトで読んでいるかよりも誰が書いているかを調べるようになっている。ちょっと検索すれば良いだけなので簡単だ。流通段階を押さえていない限り、旧来のビジネスモデルは維持出きない。

仮説5:コミュニケーション依存症(ジャンキー)が増え、物理的交流の機会が減る。

これは間違っている(タイガー・ウッズがセックス依存症というのと同じぐらい間違っている)。「Twitterでは「つぶやく」な」で述べたようにTwitterの特徴は新しいコネクションを作ることだ。物理的交流をすることの価値は、交流する相手が増えることで上がる(多くのネットや携帯を通じたコミュニケーションはそもそも物理的交流を増やすために存在している)。もちろん物理的交流なしに同等のコミュニケーションができるなら必要ないかもしれないが、現状ではそうではない。ましてや140文字のTwitterでは無理だ。私はTwitterでやり取りする人と会ってみたいと思う。Twitterがなければ会いようがないのでこれは物理的交流の増加だ。

仮説6:ツイッターのフォロワーは、共感、情報、知恵などの全人格的な面白み(エンターテインメント性)を求める。

YesでありNoだ。Twitterでどのような面白みを提供するかは本人の選択だ。特定のニュースを提供してくれる人は貴重だし、極端な話ボットだって面白いものは面白い。しかし、他のチャンネルに比べて全人格的な面白みを発信するのに向いている面はあり、そのような利用をする・期待する人が多いのも事実だろう。

仮説7:最終的には、ツイッターも駆逐される。

Twitterが本当に生き残るためには、完全にプラットフォーム化する必要があるだろうが、それでも永遠に続くことはない。問題はどのくらい存続するかと最終的に社会や後続の技術にどんな影響を残すかだ。