ベジタリアンはいなくなる?

ベジタリアン思想の根底にある動物の権利については前に書いたけど(参考:どうして鯨漁は無くならないか)、そんな問題はまるっきりなくなっちゃうかもしれない:

Meat grown in laboratory in world first – Telegraph

Researchers in the Netherlands created what was described as soggy pork and are now investigating ways to improve the muscle tissue in the hope that people will one day want to eat it.

SFではお馴染みかもしれないけど、人工の肉が作られたそうだ。

The scientists extracted cells from the muscle of a live pig and then put them in a broth of other animal products. The cells then multiplied and created muscle tissue. They believe that it can be turned into something like steak if they can find a way to artificially “exercise” the muscle.

細胞を培養したものなので、クローンした動物を屠殺するわけではない。

Animal rights group Peta said: “As far as we’re concerned, if meat is no longer a piece of a dead animal there’s no ethical objection.”

PETAですらこうして製造された肉を食用にすることには異存ないようだ。

まだ実際に人間が口にするところまでは辿りついてはいないが、こうした技術が発展し、価格面で通常の畜産を凌駕するのは時間の問題だろう。

肉を生産するためにはの数倍から数十倍の穀物が必要であることや、肥育牛による温暖化ガス(メタン)の発生を考えても望ましい流れかもしれない。

キャリアパス

数日前にDiggのフロントページにあったので既に見た人も多いだろうけど、とても笑えるキャリアパスの構図:

関連ポストはこちら:夢の仕事とクソ会社

Career Path…….Wow! How True! | Fortune Watch

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上の人間が下を見るとshitばかりが見え、下の人間が上を見るとassholeばかりが見える。一番上を目指すも、端っこで避けるも、他の木に飛び移るもいいけれど、やっぱり前回の「好きなことを仕事にするな」よろしく、頑張って大きな組織を支える役割の重要性を社会が認めることが必要でしょう。

価値基準や倫理というものは社会全体の利益に適うようになっていないと誰の得にもならない。じゃあ何が社会にとって望ましいか。それは適材適所であり、それを実現するような価値観だ。

みんなが好きなことばかりやっていたらどうなるか。上の絵で言えば下の鳥がみんな上や端っこを巡って争うか、他の木に飛んでいく。でも多分木の数には限りがあってたくさんの鳥が望みの場所を見つけられずに落ちていくんだろうね。

追記:日本ではむしろ逆の問題のほうが深刻そうだ。つまり、下でくそまみれになりながら仕事するべきという文化が過剰な気がする。

好きなことを仕事にするな

追記:同じ題材を外向けの視点で書いた記事があった:「結局は自分の好きなことを貫き通したやつが負け」。Twitterで流れてきたので一応リンクしておきます。

このまえ「いつ専攻を決めるべきか」でちらっと紹介したPenelope Trunkの記事:

Bad career advice: Do what you love | Penelope Trunk’s Brazen Careerist

大分古いエントリーだが、とても気に入っているのでご紹介。お題は以下だ:

One of the worst pieces of career advice that I bet each of you has not only gotten but given is to “do what you love.”

キャリアに関する最低のアドバイスは「好きなことを仕事にするべき」だという。みんな自分の好きなことを仕事をすべきだというのは確かによく聞くし、誰しもこの言葉を使ったことがあると思う。

このアドバイスに問題があるのはまず、好きだからうまくいくとは限らないことだ。運動神経のない野球選手志望の子供から、微分のできないエコノミスト志望の大学生までいろいろあるだろう。

So it’s preposterous that we need to get paid to do what we love because we do that stuff anyway. So you will say, “But look. Now you are getting paid to do what you love. You are so lucky.”

では何でそんなアドバイスがまかり通っているのか。それはもし好きなことが仕事にできればそれ以上のことはないという考えがあるからだ。しかし一見すると非の打ち所のないこの考えにも穴がある:

But it’s not true. We are each multifaceted, multilayered, complicated people, and if you are reading this blog, you probably devote a large part of your life to learning about yourself and you know it’s a process. None us loves just one thing.

それは人間はそれほど単純ではないという事実だ。人生は仕事だけではなく、いろいろな要素でできている。理想の仕事があれば人生解決なんてことはない。上の例でいえば、実際野球選手になった子供が幸せな人生を送っているかということだ。なっているかもしれないし、なっていないかもしれない。ポイントはそれが夢の仕事に就けたか否かでは決まっていないということだ。

これは自分のまわりを見ていても限りなく正しいように思う。例えば、うちの大学の先生は自分の業界における成功者だ。彼らは好きなことをやってお金を貰い、社会的な地位も得ている。しかし、彼らが本当に人生を楽しんでいるかというとそれほど楽しいようには見えない。むしろ普通に企業で働いている友達の方が遥かに人生を謳歌しているように思える。もちろん彼らも自分にあった仕事をしているというのもあるだろうが大学教授に比べれば自由度は低いだろう。

Because career decisions are not decisions about “what do I love most?” Career decisions are about what kind of life do I want to set up for myself?

キャリアを決める際の問いは何が好きかではなくどんな生活を送りたいかということだ。これは的を得たことのように思う。

自分自身、何をやりたいのか長いことを考えてきたように思うが、いつまで経ってもはっきりしない。これかと思っていたら、いつのまにか飽きてくるなんていうのはしょっちゅうだ。

次の一節はコメント欄からの抜粋だ:

I see something similar in tech all the time. “I don’t want to work on that software project because it is written in (insert language you don’t like).

仕事を選ぶ際に何を一番したいかを考えるのは、プログラムを書くときにどの言語が一番適切かについて悩むようなものだ。答えなんてあってないようなものだし、すぐに意見は変わる。そして、最終的にはどうでもいいことだ。

やっぱPythonを勉強すべきかRubyを勉強すべきかと議論している人と何が自分の一番したいことなのかを考えている人は何か同じ雰囲気があるように思う。重要なのはどんなプログラムを作るかであり、どんな人生を送るかだ。

例えば、大抵の町医者がやっていることはコンピュータのカスタマーサポートと大差ない(お医者さんのかた失礼)。違うのは給料だ。この二つの職業でどちらにしようかと考えるのはその給与差と仕事を得るための苦労との兼ね合いだろう。どちらが本当に好きなことなのかなんて問いに意味はない。医療が本当にしたいことならカスタマーサポートだってやりたいことのはずだ。

The pressure we feel to find a perfect career is insane.

好きなことを探してみることは悪くないと言われそうだが、好きなことを仕事にするべきだというアドバイスには大きな問題がある。それは好きなことを仕事にしないといけないという考えがもの凄いプレッシャーになるということだ。いわゆるニートなんて問題はここに由来しているように思う。まるで心から好きなことを仕事にしていなければ人生負けているかのようじゃないか

これがあまり褒められた状況でないのは仕事というものはポジション争いであることが多いのを考えれば一層明白だろう。中堅大学の先生はトップ大学にいないことに悩んでおり、トップ大学の先生はノーベル賞が取れないことに悩んでいるといったような構造だ。これはゼロサムにならないような仕事をすれば緩和されるが、仕事に人生の意味を求めるのは非生産的だ

Here’s some practical advice: Do not what you love; do what you are.

では何をすべきか。それは好きなことを仕事にするのではなく自分にあった仕事をすることだ。自分がどんな人間で、どんなことが得意で、どんな環境で快適に仕事ができるかを考える。そしてそれにあった仕事を選ぶということだ。自分が効率的にできる仕事で、適切な人間関係があり、自分にあった評価基準がある仕事であればいいのではないかそれが自分が本当に好きなことかどうかなんてのはそもそも意味のある問いなのかということだ。

And if you are so overwhelmed that you feel depression coming on, consider that a job might save you. Take one. Doing work and being valued in the community is important. For better or worse, we value people with money. Earn some. Doing work you love is not so important. We value love in relationships. Make some.

最後の一節は、特に印象的だ。仕事をして誰かに評価されることが重要で、憂鬱で仕方ないときは何でもいいから仕事をすべきだという。

このアドバイスは社会的にも望ましい。何をしたらいいのか分からず迷っている人や、自分の好きなことができなくて憂鬱になっている人がたくさんいるというのは不健全だし非効率的だ我々は自分が社会に何らかの貢献をしお金を稼ぎ評価されるということが一番大事だという考えをもっと持つべきではないだろうか

税金かキャップ&トレードか

温暖化対策は国毎の排出量を決めるキャップ&トレードをベースに進んでいるがそれが望ましい方法なのか:

FT.com / Weekend columnists / Tim Harford – Political ill wind blows a hole in the climate change debate

The incentives provided by the two approaches are similar. Both will lead to a higher carbon price and lower emissions, and both could be tweaked over time to produce much the same trajectory of lower emissions. Either system would work well from an economic perspective.

まず税金による規制と数量規制は大差ない。望ましい水準さえ分かっていれば価格を規制しようが数量を規制しようが構わない。温暖化を抑制するために二酸化炭素がある水準以下である必要があるなら、それを基準にキャップを割り当ててトレードさせようが、そういう水準になるような税金を課しても同じだからだ。

不確実性のありかたによっては優劣があるが、現状ではそのことがキャップ&トレードの根拠としてあげられているということはない。

The trouble with cap-and-trade is that countries must agree how to divide the allocation of permits.

キャップ&トレードの大きな問題はそのキャップをどう決めるかだ。世界全体での排出量に合意がえられたとしてもその配分で合意するのは難しい。他国のために率先して削減するというおめでたい国がたくさんない限りはなかなかうまくいかない。

もちろん税方式ならうまくいくかというとそうでもない。税率を国際的に決めてしまうとそれぞれの国が国内での再分配を一般的な税金を通じて行う必要がある。キャップ&トレードであれば各国で税方式にするか国内でもキャップ&トレードにするかは自分で選択することができる。またそもそも国際的な再配分なしに合意が得られるかという問題もある。個人的には税方式にして国際的な再配分が必要であればそれを明示的に処理するのが望ましいように思う。

バブルとセレブゴシップ

バブルとセレブリティー・ゴシップは同じようものだ:

Aguanomics: Blowing Bubbles

Economist1997Cover

この挿絵は1997年のThe Economist誌からだそうだ。取り上げられている論文(Stock Market Bubbles in the Laboratory)から引用すると、

Rational expectations models do not predict the bubble and crash phenomena found in these experimental markets; such models yield only equilibrium predictions and do not articulate a dynamic process that converges to fundamental value with experience.

バブル現象は均衡状態だけを見るようなモデルでは取り扱えず、経済主体が経験を通じて本当の価値を見つけていくようなプロセスを考える必要があるとのこと。

Finally, bubbles seem to be due to uncertainty about the behavior of others, not to uncertainty about dividends, since making dividends certain does not significantly affect bubble characteristics.

ストックの価値について情報が共有されているような環境で実験しても、やはりバブルは発生し、それが正しい値に収束するには時間がかかるそうだ。これは将来収益に対する不確実性がバブルを起こすのではなくて、他の人々の行動に関する不確実性がバブルを起こすことを示唆している。

最後の例が秀逸だ:

We cannot ban bubbles in the same way as we cannot ban celebrity gossip.

バブルを止められないのはゴシップを止められないのと同じだという。下らないゴシップに無駄な時間を使わないようにするコツはまったく気にしないことだろう。では金融バブルについてはどうだろう。