日本では教員養成課程の六年化が取り沙汰されているようだが、アメリカでも教員の質が取り沙汰されている:
Duncan to ed schools: End ‘mediocre’ training – Class Struggle – Jay Mathews on Education
Education Secretary Arne Duncan, in prepared remarks circulating in advance of a speech Thursday, accuses many of the nation’s schools of education of doing “a mediocre job of preparing teachers for the realities of the 21st-century classroom.”
Duncan’s speech points out two major deficiencies in education school teaching with which most critics would agree: They do a bad job teaching students how to manage disruptive classrooms, particularly in low-income neighborhoods, and they don’t offer much in the way of training new teachers how to use data to improve their classroom results.
教育長官のスピーチ原稿で、大学における教員養成教育の問題が指摘されているそうだ。特に教室の秩序を守る方法やデータを使う方法を教えていない点が批判されている。
ちなみにArne Duncanの経歴をチェックしたところシカゴ大学付属のUniversity of Chicago Laboratory Schools(ちなみに高校に当たるGrades9-12で学費だけで$23,671だ)からハーバード大学を社会学で卒業している。自分が教師であったことはないそうだ。まあむしろロースクール出てないことのほうが驚きかもしれないが。
大学が教員養成に力を入れていないのは事実だが、それを指摘するだけでは問題は解決しないだろう。根本的な原因は教員養成課程を卒業した後の労働市場にある。ロースクールやビジネススクールであれば大学のランキングやネットワークがものを言うので、大学は魅力あるカリキュラムを立てる。しかし教員を採用する側は大学で何を学んだかを余りみないので市場が働かない。アメリカではそもそも教員の給与水準が低いという問題もある。
日本の教員養成の問題も同様だ。教育機関の競争が余りなく、採用プロセスが不明瞭だ。何を学んだら将来、特に就職に役立つか分からない(ないし関係ないということが分かっている)のだからカリキュラムが改善される理由がない。
もちろんカリキュラムの内容を政府が指定してしまえば大学がどうやってカリキュラムを組むかという問題は解決する。これが教員免許更新制度とそのための講習義務付けが目指していた方向性だろう。もちろん政府が何故ましなカリキュラムを提供できるのかという疑問は残るが筋は通っている(教員養成が市場よりも一種の計画経済的政策と相性がいいというのは疑わしい)。
教員養成六年化計画はそれに比べると理念が見えない。最後の二年を政府が提供するというなら分かるが単に長くしたところで問題は悪化するばかりだろう。免許更新・義務講習を避けたい教員の政治的意図ばかりが透けて見える。