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マンガ輸出振興はやめよう

よく日本独自の文化としてマンガを新しい輸出産業にしようって話があるけど、本気なんだろうか:

日本発ポップ・カルチャーのすすめ〜日本の電子書籍市場

リンク先の基本的主張を要約すれば次のようなものだ:

  • 電子書籍分野で日本は進んでいる
  • その規模は464億円
  • そのほとんどは携帯向け
  • 携帯コミックは成熟した日本から生み出された新しい書籍文化
  • 携帯音楽市場は1000億円規模で世界一
  • 携帯コミックは次のコンテンツ市場
  • 海外展開も始まっている
  • 製造業は限界なのでコミックのような新しい産業を育てる必要
  • コミックに加え“カワイイ”文化やアニメ・映画

四つほど論点を上げたい。

  • 日本の携帯書籍市場が大きいのは日本独自の理由
  • 製造業は限界ではない・輸出だけ振興してもしょうがない
  • 産業育成は必要ない
  • 本気でポップカルチャーが一大輸出産業になると思ってるの?

日本の携帯書籍市場が大きいのは日本独自の理由

では何故日本の携帯電話上で書籍の販売が盛んなのか。それは日本では携帯プラットフォームが非常にクローズドだからだろう。寡占的なキャリアは端末メーカーと協力して比較的強いDRMと簡単な支払い手段を用意した。これにより、著作権管理の強固な携帯プラットフォームでのコンテンツ提供が広まったが、逆に言えば、それが市場が大きな理由であって日本の携帯向け書籍・マンガが特に魅力的だからではない。同じものを海外にもっていったからといって成功する根拠にはならない。通勤時間が異常に長いという日本固有の影響もあるだろう。

製造業は限界ではない・輸出だけ振興してもしょうがない

製造業ベースの国際競争力では、今後、輸出関連産業が飛躍的に大きく伸びる可能性は小さく、これまで、ハイテク化や高付加価値化によって 立つという図式を日本の産業界は追求して来ましたが、このモデルだけでは限界があると思います。

ハイテク化・高付加価値化がどうして限界があるのかよく分からない。自動車産業はうまくやっているように見えるし、海外に目を向けても半導体や携帯など製造業が輸出の柱となっている国は多い。金融サービスや映画などのコンテンツを大々的に輸出しているのはアメリカだけではないだろうか。また輸出を行うのは輸入をするためであって、限界(?)を越える必要なんてない。海外で資産を買い占めたいのだろうか。

産業育成は必要ない

コミックのような成熟社会の文化に根ざしたコンテンツ配信をビジネスモデル化し、産業として育てていく途を加える必要があります。[…]産業育成として、コミック に加えて、東京発の“カワイイ”文化や世界で受賞相次ぐアニメや映画まで含めて配信ビジネスとして仕組んでいくことが、新しい日本の発展を支えるのではな いかと思っています。

産業育成一般に当てはまる話だが、政府に輸出産業を予知する能力はない。日本のポップ・カルチャーがそんなに素晴らしいなら、ほっとけばいい話であってどうにか振興しようというのは余計なことだ

本気でポップカルチャーが一大輸出産業になると思ってるの?

では日本のポップカルチャーが製造業に代わり外貨を稼いでくるようになるのか。

文字と比べて、ビジュアル系のコンテンツは映画を含めて、他文化の人達にも理解され易く、日本発のポップ・カルチャーとしての情報発信は十分可能です。

確かにマンガのようにビジュアルなものは文字だけのコンテンツに比べれば他文化の人にも理解されやすいかもしれないが、食料や自動車のようにはいかないだろう。

アジアを中心に、更に最近では欧米においても、コミック、アニメや“カワイイ”ファッションなど、日本発のポップ・カルチャーは注目を集めています。

変わったものとして注目を集めるのと輸出産業になるというのは全く違うことだ。いくらか輸出できるだろうけど、製造業のあとをつぐなんて不可能だろう。海外で一番大きなビジネスになっている日本文化は寿司だろうがそれだって普通の料理だと考えているのはごく一部だし、海外で出されるのは(多くの場合現地の人が)現地向けにアレンジしたものだ。海外に寿司レストランがたくさんできて日本に外貨が流れ込んできているという話も聞かない。

そもそも文化的なものは輸出するのが難しい(参照:日本でFacebookは生まれない)。日本にあるものをそのまま海外に持ち出しても一部のマニアに受けるのが関の山だ。本当に産業として成立するためには、海外の人たちがどんな日本風コミック・アニメ・ファッションを欲しているのか知る必要がある。だが、これは日本人が日本にいるだけでは非常に難しい。誰がスパイシー・ツナ・ロールやレインボー・ロールを作ったかという話だ

むしろ日本に独自性があって海外でも受けるというコンテンツで言えば、こちらの「マカオで“大人”の展示会、日系が海外攻勢」のほうが見込みがあるのではないだろうか:

インドから来たバイヤーは「日本のアダルト産業は世界的にも評価が高い。日本の商品をインドで売りたい」と興味がある様子。また一般客として来場した香港人男性は「今まで見たことがない商品があって面白い」と話した。

少子化とハンバーガー

追記:ハンバーガーの例えがメインな気がしてきたので題名変更。Topsyのほうが変わってません。

昨夜に引き続き日本のニュースに軽いツッコミを:

4割が「子ども必要ない」20〜30歳代は6割−内閣府調査 (1/2ページ) – MSN産経ニュース

結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はないと考える人が42・8%に上ることが5日、内閣府がまとめた男女共同参画に関する世論調査で分かった。

男女共同参画社会に関する世論調査のことだろう。過去の調査結果は内閣府男女共同参画局にある。ここで報じられている最新の調査結果はまだウェブで公開されていないのだが、新聞各社にだけ一定期間独占的に供給しているのかと疑ってしまう(まあ出所をリンクしないのは日本の新聞ではいつものことだが)。

子どもを持つ必要はないとした人は、男性が38・7%、女性が46・4%だった。年齢別では20歳代が63・0%、30歳代が59・0%と高く、若い世代ほど子どもを持つことにこだわらない傾向が顕著になった。

確かに二十代では「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」と考えている人が六割いるが、「子ども必要ない」と意味が全然違うような気がするのは私だけだろうか。私は子供をを持つ必要はないと考える人間の一人だが、個人として子供がいらないと言っているわけではない。

結婚についても「結婚は個人の自由であるから,結婚してもしなくてもどちらでもよいか」という質問になっており、

少子化の背景に、国民の家庭に対する意識の変化があることを示した結果と言え、内閣府の担当者は「個人の生き方の多様化が進んでいる」としている。

内閣府の担当者が言う通り、日本人が結婚・出産についてリベラルになってきているということだろう。

しかし、これを「少子化の背景に、国民の家庭に対する意識の変化があることを示した」と結論づけるのは早急だ。前述のように、結婚・子供が必要かと実際に結婚するか・子供をつくるかとは別のことだからだ。「ハンバーガーは必要か」と聞かれたら、そりゃ別に必要はないという人がほとんどだが、それはハンバーガーの消費量とはあまり関係ない

晩婚化や少子化といった現象はかなりの部分が経済学的に説明できる(参考:結婚と市場)。もちろん価値観・意識の変化もあるだろうが、それらを政府が変えるというのは難しいし、そもそも政府にそんな権限があるとは思えない。また価値観・意識の変化自体が技術進歩からくる経済状況の変化によって内生的に生じている部分もある。

ハンバーガーの消費が増えるのが心配なら、アメリカ文化に対する日本人の意識の変化なんか考えるよりもハンバーガーの価格を見たほうがいい。安いから消費は増えるのだ。もちろんみんながアメリカ文化が好きならハンバーガー消費も増えるが、それに文句をつけてもしょうがないし、安いハンバーガーを食べてるうちにアメリカの食事が好きになっただけかもしれない。

日本のウェブが残念なのは当然

Twitterがメインの記事だが、もっと広い文脈に該当する:

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) – コンテンツ編 – マぜンタとシアん

この記事は「日本のTwitterは残念だったのか?」という問いから始まりました。この「残念」という言い回しは、梅田望夫さんの岡田有花記者によるインタビュー記事のタイトル、「日本のwebは残念」から取ったものです。そこで、まず、「なぜこの記事で、日本のwebは『残念』と呼ばれているのか」について確認しておきましょう。

この日本のウェブが残念だというのは面白い。

クラスタ」の感触は、いうなれば「マイミク」のイメージに近いのでしょう。話題が通じる内部での安心感と閉鎖性、これはイラン大統領選でのTwitterのイメージとは正反対です。「日本のTwitter」もまた、mixi的なもの、ひいては日本文化的なものから袂を分つことができずにいるのです。

さしあたって「日本のTwitterは残念なのか」という命題には、首肯せずにはいられないでしょう。

最近日本語のウェブサイトを見始めたのでこの感覚はよく分かる。しかし、何故残念なのかという問いへの答えが何なのか示されていないように思う(元記事はその後日本のTwitterにおける出来事とコンテントについて解説している)。

ウェブの「クラスタ」感、内部での安心感と閉鎖性といった日本文化的なものを見ると「日本のTwitterが残念である」ということが分かるというが、これは前に「アメリカは実名志向か」で取り上げた「日本人は匿名志向・外国では実名志向」を疑うと同様あまり意味のある考えではない。あることが日本と海外と違う理由を文化の差に求めるのは非生産的だ([latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とで[latex]z[/latex]が違うのは[latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とが違うからだというようなものだ)。

では実際、日本のウェブが残念なのは何故か?これは「アメリカは実名志向か」で指摘した何故アメリカでは実名の使用が多く、日本では匿名が多いのかという理由と全く同じだろう。その時はLinkedInが実名である理由を次のように説明した:

何故LinkedInは実名なのか。それは単に実名でなければ何の意味もないからだ。就職活動に偽名を使うわけないし、偽名の知り合いとコネクションを持 ちたい人もいない。日本ではどうか。そもそもLinkedInのような組織がない。労働市場が硬直的で転職自体が悪いシグナルを送ってしまう。

実名の使用は労働市場が流動的か硬直的かに大きく影響される。流動的な市場においては社内で有名な○○さんになるメリットがない。どうせ一つの会社にいるのはいいとこ3,4年という社会では、社内でコネを作ってもあまり意味がない。逆に重要なのは社外に向けて自分のブランドを売り出すことだ。業界のいろんな場所に名前を売ることだ。フリーランスが多いこともこれに拍車をかける。

しかし、実名を所々で使用するだけでは大したメリットもない。名刺をただ配っているようなものだ。それだけではあまり意味がない。だって知らない人の名刺なんて読まないだろう。では誰の名刺ならローデックスに入れておこうかと思うか。それは重要そうな人だ。名刺を配ることに意味があるためにはそこにある名前に意味がなければならない

これはウェブ上で言えば、自分が重要であることを示すことであり、その一番簡単な方法が他人にはできない有益な活動をすることだ。例えば、オープンソースのソフトウェア開発に参加することは誰にでもできるわけではないので、プログラミングの能力を示すいいシグナルになる。ブログを書くこともそうだろう。

はてなについて、

はてな界隈」での論争に漂う内輪感、閉鎖性はしばしば批判の的となっています。流行りの言葉を使えば「ブログ論壇(笑)」になり果ててしまっている「はてな界隈」を揶揄する言葉が「はてな村」です。

その閉鎖性が問題となっているが、そのようなことはアメリカではほとんど問題にならないことも簡単に説明できる。論争に貢献する人間は自分のプロモーションとしてそうしている場合が多数なため、オーディエンスを限定しようという考えがないからだ。ジャーナリストが内輪にしか受けない記事を書くことはないだろう。

逆に、梅田さんがよいインターネットとしている

ウェブ進化論の中では「総表現社会」という言葉を使っている。高校の50人クラスに2人や3人、ものすごく優れた人がいるよね。そういう人がWebを通じて表に出てくれば、知がいろんなところで共有できるよね、というところまでは書いている。

もまた理想郷ではない。アメリカでは多くの人々が自己を表現しているのは確かだ。しかし、それは別にお花畑のような世界ではなく、単なる自分の市場価値を高めるための仕事だ。

とはいえこういうことをする人がウェブ上にたくさんいるかどうかがウェブが「残念」になるかならないかという点で極めて重要であることは言うまでもないだろう。梅田さんの「日本のwebは残念」で言えば、

今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合。「アルファブロガー」的なものも、最初のうちにぽーんと 飛び出した人からそんなに変わってないじゃないですか。それが100倍、1000倍になり、すごく厚みをもって、という進展の仕方と違う訳じゃない。

こういった活動が「アルファブロガー」を作る。そしてここでいう「インセンティブ」とは自己表現のそれではなく労働市場の価値を高めるという経済的インセンティブにすぎない

Twitterはいい例だ。アメリカのブロガーであればTwitterを使う最大の理由は読者とのコネクションだ。これはデパートがお客様アンケートを配るのと同じことでカスタマーサポートの一種だ。多くの著名職業ブロガーが人を雇ってTwitterを更新していることを考えればその同質性は明らかではないだろうか。

この解釈は、何故日本のTwitterが「クラスタ」化するのかをも説明する。アメリカでは自分を売り込むためにTwitterを利用していて、別に他人の声を聞いてどうこうしようと思っているわけではない参加者が多いのだ。そういった環境ではほとんどの人に興味のない情報がどんどんTwitterに流され一部の人が散発的に反応する

最後にmixiに関する次の箇所について:

SNS」は「mixi」という、既存の人間関係を効率的に管理するだけのシステムに置き代わりました。

mixiが既存の人間関係を効率的に管理するシステムのいうのは間違いだ。多くの参加者が匿名のmixiは驚くほど非効率なSNSだ。

アメリカの地域別世帯収入

アメリカの地域別(county)の世帯収入の中間値があった:

Many Eyes: Income and Poverty, by County via Economix

BerkeleyのあるAlameda Countyでは$70,217となっている。Economixの記事によれば貧困が最も多いのがサウス・ダコタのZiebachで$25,592である。最も高そうなのはバージニアのLoudonで$111,582だ。もちろん地域内での格差のほうが大きいのでこれを一般化して何かを主張するのは難しいが、日本に比べると大きな差のように思える。

ちなみに平成18年度東京都福祉保健基礎調査によると東京都の世帯所得分布は以下の通りだ:

tokyo

500万円以下ので50.9%を占めているので中間値は500万円弱といったところだろう。

スーパーコンピューターが必要か

スーパーコンピュータ開発の是非について非常に頂けない(が他分野でもよく見られる)意見があったので紹介:

アゴラ : スーパーコンピューターを復活してほしい – 西 和彦

筆者はスーパーコンピュータ業界の民間人として、日本のスーパーコンピュータの歴史をひも解いている。しかし、肝心の「何故、日本政府が世界一のスーパーコンピュータ開発に税金を投入すべきなのか」とう問いへの答えは極めて貧弱だ:

日本のために世界一を取るのではなく、世界の競争のために、日本も世界一を取るのだ。

これ以外に世界一を取るべき根拠が挙げられているようには見えないが、これは果たして根拠になっているのだろうか。

日本という国に対して、何かをすべきという議論を行うにはそれが最終的に日本全体のため(国益)になると主張せざるを得ない(これは国だけでなくあらゆる社会について当てはまることだ)。何らかの偶然で価値観の一致が見られない限りこれを避けることはできない。そして、スーパーコンピュータ開発においてそういった一致がないのは明らかだ。

さらに、テレビ報道に出てきた国会議員を批判する箇所は救いようがない。

1967年生まれの蓮舫議員は1995年に台湾からの帰化日本人である。1997年に双子の子供を生んだときには、日本の国籍になったにも拘わらず、中国 風の名前をお付けになっている。家庭的には感覚は中国のひとなのであろう。私はそうは思わないけど、日本のスーパーコンピューターをつぶすために、蓮舫議 員のバックは誰で、その生まれた国の意向があるのかなあと思う人もいる。もし、そうだったらビックリだけど・・・。

件の蓮舫議員の言動が問題になることは分かる。しかし、「私はそうは思わないけど」などという留保つければ、(どんな背景があるかはともかく)正式に日本国籍を取得して、民主選挙で選ばれた国会議員を憶測で非難することが正当化されるわけではない

帰化日本人が議員になることを許容しているのはこれもまた民主主義により正当化されている日本の法律だ。アメリカの外国系の帰化人との比較も行われているが、アメリカで帰化人が子供に自国風の名前をつけることを批判したら人種差別問題だ

記事の冒頭に戻ろう。

蓮舫参議院議員が鬼のような顔をして、「スパコンで世界一になる意味はあるのか?」と仕分けしていたからである。仕分けされているときに、それに反論して いる文部科学省の役人を有り難いと思った。日本のスパコンのために頑張ってくれている!官僚をこんなに有り難いと思ったのは久しぶりだ。

世界一のスーパーコンピュータ開発が必要だと思うなら、すべきことは、

「スパコンで世界一になる意味はあるのか?」

という問いに真摯に答えることだ。繰り返しになるが、選挙で選ばれた議員の質問に答えるのは民主主義を支持するなら必要なことだ。議論において、発言内容それ自体(「スパコンで世界一になる意味はあるのか?」)に反論するのではなく、発言者(蓮舫参議院議員)の物言い・出自を批判するというのは極めて不健全なことだ

ちなみに、

それに反論して いる文部科学省の役人を有り難いと思った。日本のスパコンのために頑張ってくれている!

反論している文部科学省の役人は「日本のスパコンのために頑張ってくれている」のではない。役人は日本の国益のためにスパコン開発が重要だと考えているからそう主張しているだけだ。