エスニシティ別所得ギャップ

アメリカのエスニシティ別の所得の推移を示した綺麗なグラフ:

The US Income Gap | MintLife Blog | Personal Finance News & Advice

内容自体は極めて常識的で、白人およびアジア系の所得が高く、女性の所得は低い。但し、このことから直接結論を出すのは難しい。このグラフはむしろ単純なグラフを読む上での落とし穴を考えるのにいい。ぱっと思いつくだけでも以下のような問題点がある:

  • 平均所得であってメジアン所得ではないので、外れ値に大きく影響される
  • 労働時間で調整されていない;アジア系の所得が高いのは労働時間が長いためでもあるし、女性が低いのも労働時間が短い部分が大きいだろう
  • 推移だけを見るとギャップが開いているように見えるが、片対数グラフではないし、インフレが調整されていないように見える
  • 教育水準などで条件付されていないので、エスニシティ別の所得を見ているつもりで学歴別の所得を見ているだけかもしれない

最近アメリカではグラフを含めた視覚化を行うサイトが相当数あるが日本でも似たような試みがあると面白い。

「自分が悪い」の何が悪いのか

どうも最近首を傾げるような記事が増えていて残念なアゴラから:

アゴラ : 自分が悪い 助けてといわない若者 – 原淳二郎(ジャーナリスト)

自分が悪いと考えてしまう若者が増えているという問題(?)が取り上げられている。20代後半の私も「若者」に含まれるだろう(しかしいつから「三十代の若者」などという概念が登場したのだろう)。

現在の不遇な環境、不幸は社会の責任ではないし、まして親の責任でもない。だからいくら困窮しても助けてといえないのだそうだ。30代の若者の現象らしい のだが、日ごろ学生を見ていて同じように感じることがある。

実際、問題に直面する原因の最も大きなものは自分の行動だろう。また、他人のせいにしたところで問題が解決するわけではないので、そういう考え方を持たない方が本人にとってもいいはずだ。

心優しいのか、誰が悪い、社会が悪い、教師が悪いなどといわない。毎日の生活に被害者意識が薄 い。

そしてそれは「心が優しい」からではない。単に、頑張ればもっといい状況にできたという事実認識と、被害者意識を持つより自分のせいだと考えた方が生産的だと知っているだけだろう。このような認識の何が問題なのかよくわからない。

毎日の生活に被害者意識が薄い。私の子どものころは、毎日食うものに困り、親からは家業にこき使われ、何もいいことがなかった。なぜこんなに自分は不幸な のか、と思うと同時に、自分が悪いから不幸なわけではない、周りが悪いのだと考えた。事実社会はまだ貧しかった。家業は二度も倒産した。社会への関心政治 への関心はそのころから生まれた。

確かに、貧しい社会でそういう育ちかたをすれば、社会や親が悪いと考えるのは分かる。しかし、現代の社会はそこまで貧しくないし、そういう環境で育つ人は昔に比べて相当減ったはずだ。

だからテレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。

現代社会において、多くの人の成功は自分の努力にかかっている。他の要因もあるが、自分が一番重要な要素だと多くの人が認識しているだけだろう。そしてその認識は基本的に正しい。

もうデモやストだけが社会的表現手段だった時代ではない。ネットなどでいくらでも表現できる。

まさにその通りで、不況でもストライキやデモのような非生産的な行動はしない。そんなことをしなくても「ネットでぶつぶつ不平をつぶやく」だけで、不平を世間に知らせることができるのだから当たり前だろう。不平が社会に流れていくチャンネルが変わったのだ。

日本には彼らが貧しいのは自己責任だという風潮がある。いつからこんな風潮が広まったのかは知らないが、不当に弱者に追いやられた人々が不満の声をあげられない社会をわれわれはいつの間にか作り上げてしまった。

これは風潮というよりも、時代が変わっただけのことだ。個人の努力ではどうにでもならない貧困がはびこる社会では貧しいことは主に社会の問題だが、努力すれば成功できる社会においては貧しいことが一義的には個人の問題となる。日本は大方前者から後者へと移行した。そしてそれは喜ぶべきことだろう。ご自身で指摘されているように、「不満の声」はネットを利用して簡単にあげられる。

もちろん、このことはより個人が努力によって成功できるように仕組みを改善していくことを妨げるものでは全くない。しかし何でもかんでも親のせい、社会のせいと言っている社会には未来がない。勉強ができないのは親や環境のせいだと文句をいっていた子供が成功しているだろうか。

追記:困っている人がそのことを社会に伝えるのは重要だが、本人が自分の問題だと認識していなければ援助しても効果がないとも言えるか。

P.S.

母親から毎月1500万円も贈られながら「知らなかった」人には、貧しくて声もあげられない人たちの心情などとても想像できないことだろう。

結局この一文を言いたかっただけのような気もする。しかしそういう政治家を選んだのは有権者であることも事実だ。

過剰タクシーって何?

追記:タクシー市場は複雑な構造をしていますが、単純な数量規制をするのはおかしいというのがこのエントリーの趣旨です。いろいろな政策が考えられるとは思いますが、数量規制にはならないということです。

またおかしなニュースをTwitter経由で(ohuzakさんどうも):

中日新聞:過剰タクシー調整へ 松本交通圏協議会が初会合:長野(CHUNICHI Web)

松本市役所で開かれた。国土交通省北陸信越運輸局は、同地域のタクシー台数が40〜110台過剰と指摘。本年度中に同協議会で、台数を抑制する地域計画を策定する見込みだ。

タクシーが過剰だというが、一体その数字はどうやってはかるのだろう。市場の失敗がない限り、適正な供給量は市場で決定される。タクシーに関してどのような市場の失敗があるのだろう(注)。サービスの供給が減り、価格が上がれば消費者にとっては確実にマイナスだ。何か理由がない限りタクシーの台数を下げるという政策の正当化は難しい。

タクシー業界は2002年の規制緩和を契機に都市圏で過当競争に陥り、厳しい経済環境も重なって、運転手の過酷な労働条件などが問題になっている。

タクシー運転手は他人に迷惑を掛ける可能性があるので、過酷過ぎる労働条件は是正する必要がある。しかし、それは労働条件を規制すればいいだけだ。労働者のコストが増えるので結果として供給は減るだろう。不の外部経済の内部化だ。

逆にタクシーの数に制限をつけても需要が減るわけではない。むしろタクシー当たりの仕事が増える。一台当たりの運転手を増やすインセンティブもないだろうから労働条件は悪化するだろう

また台数の過剰などが原因で、県内のタクシー運転手の年間所得は、県内全産業平均より200万円少ないことも示された。

労働者の収入が少ないことは市場の失敗ではない。収入は需要と供給によって決まる。タクシー運転手の所得が低いのは、景気が悪いこととタクシーの運転をできる人が多いためだ。単純な所得が問題なら社会保障で対応すべきであってタクシー市場を歪めるべきではない。

またタクシーの数を制限してタクシーの価格が上がったとしても運転手の所得が伸びるわけではない。運転手になりたい労働者が減るわけではないので、タクシー会社は従業員たる運転手の給料をあげる必要はない。タクシーの供給を制限することで利益をあげるのはタクシー会社であり、そのタクシー会社から利益を供与される人々だ。

(注)ネットワーク効果はあるだろうが、数量制限は逆効果になる。情報の非対称についても数量制限は関係ない。

郵政で高齢者配慮は必要か

わざわざ取り上げる程のものでもないと思うけど、よくある話なので:

asahi.com(朝日新聞社):日本郵政、高知で地方公聴会 「高齢者に配慮を」 – ビジネス・経済 via ohuzak@Twitter

郵便、貯金、保険の3事業を一体で運用し、高齢者らの使い勝手をよくするよう求める意見が相次いだ。

サービスの質は改善されるべきだが、それは他のサービスでも変わらない。違うのは、その要求が市場を通じて行われるか、政治を通じて行われるかということだ。市場を通す場合には、その改善で消費者がどれだけ得をするかとそのためにどれだけの費用がかかるかが比較される。それに対し、政治では票の数に応じて決まる。どちらが望ましいかは明らかではないだろうか。

「分社化で郵便配達人に貯金の出し入れを頼めなくなった」「電子メールやネットを使えない高齢者は多い。高齢者に優しい郵便局を目指してほしい」といった声が出た。

確かに不便な点あるかもしれない。しかし問題はその不便さを解消するための費用が便益に見合うかどうかだ。そしてある人が不満を述べるかどうかでそれを知ることはできない不満を表明すること自体には費用がかからないからだ。

二つの応答が考えられる。一つは過疎化だ。人口密度が減ることで採算が取れなくなる。しかし、採算が取れないということは概ね社会的な観点からみて費用の方が便益よりも大きいということなのでこれはサービスを維持する理由にはならない。高齢者は移動できないため過疎によって悪影響を受けるという議論は可能だが、それをサービスの維持で解消するというのは望ましくない。貧しい高齢者は他にもいるので過疎地の高齢者だけの対策で市場を歪めるよりも、再配分政策・社会保障政策で一元的に扱うべきだ

もう一つの可能性は、市場が競争的ではないというものだ。これは過疎地には当てはまるだろう。しかし、日本の郵便局が過疎地でだけ価格を釣り上げているという話は聞かない。また、過疎地における自然独占が問題なら消費者による事業の所有で対処できる。消費者が独占事業を垂直統合することで両者は一体化し、独占により消費者を搾取するという現象自体がなくなるからだ。これにはアメリカの過疎地で電力会社が消費者組合となっている例がある。

公聴会は作家で社外取締役の曽野綾子氏がまとめ役。来年1月には京都府、愛知県、新潟県で開く。

ミニスカの話(ミニスカートが悪いのかレイプのパターンを考える)でも出てきた曽根綾子氏だが、どうして郵政事業の必要性に彼女が登場するのだろう。経済の分かる人材を登用していただきたい。

レイプのパターンを考える

小額クーポン

メール・イン・リベートに引き続き、日本では見られないアメリカの価格戦略としてクーポンを見てみよう。

これはドラッグストア(でいいのかな?)のWalgreensのクーポンだ。チラシにこういった割引情報が乗っていて、店の中や郵便ポストを見ると大抵見つかる。ここまでは日本と変わらない。

しかし、上の画像には点線の枠とバーコードがあるのに注目して欲しい。そう、この値引きはそのチラシにハサミを入れて切り取り、購入時にスーパーに持っていかなければ有効ではないのだ。日本でいえばマクドナルドのクーポンと同じだが、それがそこら中のスーパーに存在する。

ファーストフードのそれとは異なりこれはお得情報ということですらない。まず第一にクーポンが含まれるチラシは店の入り口に山積みされており、別に誰でもその場で手に取れる。また、割引額もかなりしょぼいことが多く、50¢割引でしかないクーポンもざらだ。それを切り取って、レジに持っていき、しかも時間がかかるので店員や他の客から若干冷たい視線を浴びることを考えるとなんのためにあるんだ、これ??と思うのも無理はない代物だ(注)。

ではなぜ、こんなシステムがあるのか。これもまた価格戦略の一つだクーポンを切り取って、わざわざレジにもっていって店員に説明するという行動を取る人にだけ割引を提供する手段なのだ。わざわざクーポンにせずに割引するのでは割引前の価格を払ってもいい客にまで割引を提供してしまうからこういうことをする。

日本でこれがあまりないのは、MIRの場合と同様、教育・所得水準の格差が比較的小さいためだろう。クーポンは利用者の手間を増やすし、レジの進みを遅くするので、効果が薄ければわりに合わない。しかし、格差が開いていくのであればこういった販売手法を導入する企業が出てきても不思議ではない。

(注)ちなみにアメリカのサービスの質は想像を絶する低さなので自分が不器用なのにいらいらして客を睨んでいるレジ係なんて珍しくもない。そもそもレジのスピードは日本の三分の一以下だ。