バークレーを含めカリフォルニア大学の各キャンパスで授業料値上げに対するデモ行進などが起こっている。一つの主張は、授業料が上がると誰もが大学教育受けるという機会が失われるというものだ。しかし、なぜ大学の学費を政府が援助する必要があるのだろうか:
UC Tuition: The Revolt of the Will-Haves, David Henderson | EconLog | Library of Economics and Liberty
大学教育への政府支出に対する最も有名な批判はフリードマン(Milton Friedman)のそれだろう:
Milton Friedman used to remark that the California government, with its state funding of higher education, taxed the residents of Watts to pay for the residents of Beverly Hills.
カリフォルニア政府は大学に財政支出を行うことで貧しい人々から豊かな人々へ再配分をしているというものだ。日本なら総合大学で最も親の平均所得が高いのは東大だろう(外れ値にもよるので実際どうだかは知らない)。仮に教育費の問題がなくとも、遺伝で説明できる(東大生の親は東大生という奴だ)。東大の学費を政府が補助することはみんなから集めたお金をお金を持っている家の子供に還元することになる。
Even though the California’s tax system relies heavily on sales taxes, which probably makes the state tax system on net somewhat regressive, it’s still the case that a given Beverly Hills family pays much more in taxes than a given family in Watts.
もちろん裕福な家庭の方が多くの税金を払っていることを考えれば一概に逆進的な所得の再配分が行われているとは言えないが、そういう傾向があるのは確かだろう。
アルキアン(Armen Alchian)はさらに家庭の所得ではなく個人の潜在的な所得獲得能力に注目した:
All college calibre students are rich in both a monetary and non-monetary sense. Their inherited superior mental talent–human capital–is great wealth.
大学の学費を援助することの逆進的な再配分を説明するのに家庭を持ち出す必要はない。大学へ進学する人間というのは、将来多くの所得を稼ぐことのできる、潜在的には裕福な人間だからだ。
また東大の例を出せば東大の卒業生が平均的に高所得なのは明らかだ。例え家が貧しかったとしても結論は変わらない。学生の本当の豊かさというのは潜在的な所得獲得能力で決まる。現在の稼ぎ、親の稼ぎ、将来実際に稼ぐかとも関係ない。
College calibre students with low current earnings are not poor. Subsidized higher education, whether by zero tuition, scholarships, or zero interest loans, grants the college student a second windfall–a subsidy to exploit his initial windfall inheritance of talent. This is equivalent to subsidizing drilling costs for owners of oil-bearing lands in Texas.
ここでは油田の開発と比べられている。学生というのは油田地域の保有者のようなものだ。教育というのはその採掘だ。学費の支援は油田採掘へ補助金を出すことだ。
Nothing in the provision of full educational opportunity implies that students who are financed during college should not later repay out of their enhanced earnings those who financed that education.
教育機会の平等というのは、誰もが自分の油田を開発できる環境を提供することだ。そのために必要なのは採掘費用を貸し出すことであって、費用をみんなが負担することではない。
では大学への政府支出が必要ないのかというとそんなことはない。油田の開発を考えれば分かる。油田の存在が国家にとって必要なら税金を使って開発するのは理にかなっている。また例えば大油田が日本のある場所に眠っているとして、その土地の持ち主が政府に採掘費援助を要求しても不思議はないだろう。土地であれば国が接収したり、開発を強制したりもできるが、人間の能力ではそれは無理だ。
また人間は油田とは異なり国際的に移動できる。もしある国が教育費を補助しなければ優秀な人間がさっさと国外に移動することは十分に考えられる。大学レベルでも同じだ。大学が授業料を免除したり、奨学金をだしたりするのは機会の平等のためではなく優秀な学生を捕まえるためだ。だから大学経営が商業的なアメリカのほうが授業料免除や奨学金は遥に多い。
政府は、大学教育への補助を機会の平等のためだと主張するのを止めるべきだ。機会の平等には学費の貸与で対応し、社会のために必要な補助に関してはそうと明らかにした上で適切に行っていく必要がある。
追加:FreakonomicsにもBlogにも関連記事がでている。ポイントは授業料が高いことではない。お金がない学生に対する奨学金が足りないことだ。大学の高い授業料と奨学金は価格差別の一種だ:
Financial aid is, at its core, a price-discrimination scheme. Consumers pay different prices (net of financial aid) for the same service. Higher education is the very rare market where the seller says “Tell me in detail about your ability to pay, and I’ll tell you what your (net) price will be.”
そして価格差別によって、それなくしてはその財を購入できない消費者の手に財が提供されるなら、価格差別は社会的に望ましい。