Twitterとイノベーション

はてなブックマークの人気エントリーページがリファラにあったので見に行ってみたら、最近書いた記事複数に関連するエントリーがあった:

小野和俊のブログ:Twitterの危険性

はてなの伊藤さんがTwitterを使っていない挙げた理由の一つが取り上げられている:

私も含めて、Twitterを始めてからブログの更新頻度が激減した、という人はかなり多いのではないかと思うが、こうした現象がなぜ起こるのかを考える と、感情が蓄積し、ある程度の時間をかけてブログのエントリを起こそうというところまでたどり着く前に、Twitterで思ったことをポロッとつぶやい て、同調したり、同情したり、コメントをくれたりする人がポツポツと現れたりしている過程で、蓄積しつつあった感情が心の蛇口から漏れてしまう、というの が最大の原因であるように思える。

これは先週書いた次の二つのポストと共通する問題だ:

前者は経済学者が特許制度に書いた学術論文が題材で、後者は数学者がウェブ上で協力して研究を行うことが題材だった。これとTwitterの危険性とがどうからむのか。

先の論文においてBoldrinとLevineはこう述べている:

In this model, that is unambiguously bad, as scientific resources  are misallocated to industrial applications when it would be better, from a social point of view, to use them in producing more original research that would, optimally, be brought to industrial fruition somewhat later.

特許が存在するために、本当ならより深く掘り進めてから最終的な成果を発表すべき研究が早すぎる段階で公表されてしまうと言う。これは、うまく特許制度を設計することで累積的なイノベーションの各段階に適切なインセンティブを与えようという一般的な文献とは相反する考え方だ。そしてこの違いがどこからくるかについて以下のように書いた:

知的財産権に関する経済学の問題はアイデアの実現に対して適切なインセンティブを与えることだ。よって、まずアイデアがどのように社会で生成されるかという創造的環境に関する仮定が必要になる。一つは既知の課題への解を見つけるというモデル、もう一つはアイデア自体が希少な場合だ。もちろんはこれらは両極端で実際には様々な程度がある。

これは経済的問題だけにとどまらない。根底にはアイデアがどのように生まれてくるかについての二つの考え方がある:

  • アイデアは希少で、いかにそれを公開させるかが課題
  • アイデアは豊富で、いかにそれを実現させるかが課題

ブレインストーミングは前者を前提にしたテクニックだ。いいアイデアを思いついた人はその場でそれを口にする。そのアイデアがよければ瞬時にまわりの人間から同調や建設的発展という心理的報酬を得る。先に引用したTwitterでつぶやくことによる感情の蓄積からの開放はこれに近い。例えば、輸入品のネット販売をしている会社が新しい商品分野の開拓を考えているとしよう。この場合社員にブレインストーミングをさせるのは適切な方法だ。商品が決まればどういう風に輸入して売るかというのは決まってくる。アイデアを出す段階でそこまで考える必要はないし、売り方を知らない人がアイデアを出しても構わない。それよりも早く公開させることで他の人が別のアイデアを思いつく材料になるかもしれない。

逆に建築のコンペは後者に立脚したメカニズムだ(ビジネスに関するコンペでもよい)。例えば、家族のコミュニケーションの流れを壁のスリットを使って表現した建築というアイデアがあったとしてもそれ単独ではあまり価値はない。本当に難しいのはそのアイデアをどう実現するかであってアイデアそれ自体ではない。そもそもアイデアの価値自体がそれがどう具現化されるかによって決定されるといってもよい(スリット云々は私がたった今でっちあげたものだ)。このような状況では、早い段階から参加者に討論をさせても生産的ではないだろう。そこでいくら議論を深めても最終的な形=価値が見えないからだ。もちろんある程度のやりとりは重要だろうがその場合でも言葉ではなく例えばデッサンによるものになるだろう。

Twitterの危険性は本来後者が有効なタイプのイノベーションについて前者のような方法が取られてしまうことの問題点と理解できる。これはオンラインで共同研究をやるときの注意点と同じだ。研究の場合の課題は手間のかかる論文の生産を避けて遥かに簡単なブログ記事の執筆で終わってしまうことだが、ブログとTwitterの関係も程度の差こそあれ本質的には同じ問題だ。

しかし、オンラインでの研究・Twitterと特許制度の問題との間に重要な質的な差が存在することには注意が必要だろう。特許制度においては前者が適切な場合に後者を適用したり、後者が適切な場合に前者を適用したりすることが問題となる。だが、どちらが適切かを考えて適用するのは制度設計者だ。後者が適当だと考えているのに前者を適用してしまったなどという問題は起きようがない。これは先のブレインストーミングやコンペの場合でも同じだ。ブレインストーミングをするか、企画書の提出を要求するかを決めるのは経営者だ。経営者はより適切な方法を選択する。同様にコンペにするか特定の設計事務所に相談にいくかを決めるのは建築主だ。つい間違った方法を選んでしまう人はいない。ではTwitterや研究の場合にはなぜ「危険」が存在するのか。

二つの原因がある。一つはTwitterや研究の場合にはアイデアを思いつき実行する主体が、そのアイデアによって長期的な利益をでる人間と一致することだ。上の輸入業者や設計事務所の例ではアイデアを出す人間は経営者や建築主によって雇われており、彼らが最適な方法を選択する。しかし、個人が思いついたことをTwitterに書くべきかブログに書くべきかを指示してくれる外部の人間は通常存在しない。もう一つの原因は技術進歩だ。Twitterが存在しなければTwitterとブログで迷うことなどありえない。インターネットがなければ研究についてブログに書くか、論文を完成させるかなどという問題は生じない。これはTwitterや研究に限らない。例えば、VoIP技術の発展は海を跨いだブレインストーミングを可能にした。しかし、企業はブレインストーミングが不適切な状況でビデオ会議はしない。「危険」は上の二つが同時に当てはまる場合にのみ顕在化する

この問題への対策は二通りだ。一つはどういう風にアイデアを公開すべきかをよく考えて慎重になることだ。リンク先の、

Twitterでもときどきやる気や意気込みを宣言している人を見かけるが、これはTwitter + やる気宣言のあわせ技で、相当量の感情がこぼれ出てしまっていると思われるので、よく注意しながら宣言することをお勧めしたい

という助言がそれだ。ある目標を達成しようとする自分とアイデアを出し実行する自分とを分けて考えることによって一つ目の原因を解消する。それなりの地位にある人間であればネット上での発言を管理する人間を雇うのもよいだろう。

もう一つの方法は当然二つ目の原因を解消することだ。これははてなの伊藤さんがTwitterを利用していないというのに該当する。そもそも利用しないことで「技術進歩」をなかったことにする(一つ目の対策の極端な場合と捉えることもできる)。

どちらにせよ、技術進歩が生み出した新しい問題に自分の状況に合った対応をすることが必要だ。自分が書く題材はアイデアが重要なのか、実行することが重要なのかを判断し、その上で自分をどの程度コントロールできるかを考える必要があるだろう(もちろん人を雇える場合はそれでもよい)。アイデアが重要なのであればどんどん公開すればよい。実行が重要なのに自分をコントロールできないなら利用しないのも手だ。

P.S. 長期的な利益を得る人間と行動する人間とかが異なる場合ではなく、同じ場合にこそ問題が生じるというのは面白い現象だ。多くの人間は自分の長期的利害と短期的な利害を調整するよりも、他人の長期的利害を調整するほうが得意なようだ。これは経済学的には不思議だが実感には一致するように思う。

体育会系優遇って何?

いつもコメントいただいているWillyさんのブログから(もとはこちらへのコメント):

統計学+ε: 米国留学・研究生活  「体育会系優遇」は優遇ではない

就職したことのない私がコメントするのもなんだが、「体育会系優遇」というのはどの程度真実なのだろう。発端となった記事によると、

同じ大学でも体育会の学生とそうでない学生では印象が違ってくることもあり、ある意味で、体育会というのは資格に近いと思います。

とある。しかし、これは「体育会学生の就職支援を行っているアスリートプランニング(東京都千代田区)」の担当者が言っているだけだ。

体育会学生採用の意向を知らせてきたのは、三井住友銀行、ソニー、パナソニック、伊藤忠商事、JR東日本、同西日本、JTB、富士フイルム、ジョンソン・ エンド・ジョンソン、資生堂、カネボウ化粧品、博報堂といった大企業。中小ベンチャーにも多い。採用の結果、文系総合職の半数以上を体育会学生が占めたと いう企業も複数あるそうだ。

客観的な情報はこれしかない(それでも上記就職支援会社の報告だが)。しかし体育会系の学生に一定の特徴があるなら適材適所という意味で採用しようと思うのは当然だろう。これは別に上に挙げられている企業が体育会系を優先しているということではない。もちろん文系総合職の半数が体育会系だということも体育会系の優位を説明しない。Willyさんの指摘するとおり:

「適性を活かした職種」として
不条理で根性主義の営業等をやらされるだけだ。

単なる最適な配置だろう。

「体育会系優遇」という「常識」は古典的なシンプソンのパラドックスにみえる。Wikipediaの数値例をそのまま利用させて頂くと次のような表で表される:

職種 \ 学生 体育会系 非体育会系
営業など 500人応募250人合格(50%) 10人応募9人合格(90%)
研究など 10人応募1人合格(10%) 500人応募100人合格(20%)
合計 510人応募251人合格(49.2%合格) 510人応募109人合格(21.4%合格)

この例では非体育会系の学生の方がどちらの職種においても合格率が高いにも関わらず、合計だけ見ると合格率が低いように見える。このような現象をシンプソンのパラドックスという。もちろん実際には矛盾でもなんでもない。単に、体育会系の方が合格率の高い職種を受験しているだけだ。合格率を受験者数で重み付けして平均を取っているためにこういう現象が起きる。よく考えればおかしな話だというのは分かるだろう。

とはいえ、

職種より勤務先が賃金の決定要因になる日本企業
では金銭的には優遇されてきた。

仕事よりも会社が重視されるのであれば確かに上の数値例であっても体育会系の学生が得をしていると言うことはできるかもしれない。しかしこのような不均衡は将来的には続かない平均的に優秀な学生にそうでない学生と同じ待遇をしていると、他の会社が優秀な学生だけを引き抜いたり学生が自ら正当な評価を得られる職場を求めたりするからだ。これが

今後、人材が流動化すれば職種による賃金格差が拡大し
体育会系の社員が賃金面で優遇されることはなくなっていくだろう。

という結論に当たる。逆に体育会系の社員が賃金面で(相対的に)優遇される状況がなくなれば、体育会系の人が有名企業に入りやすいという傾向は安定的なものになる。賃金面での不均衡さえなければ上の表にある状況は別に何の矛盾もないからだ。

こんなことを世の中の人がずっと信じているなんてことがありうるかという問いに関しては十分にありうるとというのが答えだ。Wikipediaにもあるがバークレーは実際にこの問題(誤解)で訴えられたことがある。大学院の選考が男女差別的だという訴訟だ。

Applicants % admitted
Men 8442 44%
Women 4321 35%

この表はWikipediaから取ってきたものだが、男女の合格率(1973年)に差があることが分かる。しかし、学部別の統計をみるとだいぶ様子が異なる:

Department Men Women
Applicants % admitted Applicants % admitted
A 825 62% 108 82%
B 560 63% 25 68%
C 325 37% 593 34%
D 417 33% 375 35%
E 191 28% 393 24%
F 272 6% 341 7%

多くの学部では実際に女性のほうが合格率が高い。単に女性のほうが合格率の低い学科に出願する傾向が高いというだけのはなしだ。

ここでの議論は、体育会系にメリットがあることを否定するものではないし、上に挙げた数値例には何の根拠もないしかし、よく聞く「体育会系優遇」という学生の「常識」が実際には何を意味しているのかに注意する必要がある

法律の不確定性命題

UIUCの法学者であるLawrence Solumのポストから:

Legal Theory Blog: Legal Theory Lexicon: Indeterminacy

取り上げられているのは法律の不確定性命題(The Indeterminancy Thesis)だ。その内容は次の一節にまとめられている:

Let’s call the claim that the laws (broadly defined to include cases, regulations, statutes, constitutional provisions, and other legal materials) do not determine legal outcomes the indeterminacy thesis.

不確定性命題とは、法律が法的な結論を決定しないという命題だという。

  • The law is determinate with respect to a given case if and only if the set of legally acceptable outcomes contains one and only one member.
  • The law is underdeterminate with respect to a given case if and only if the set of legally acceptable outcomes is a nonidentical subset of the set of all possible results.
  • The law is indeterminate with respect to a given case if the set of legally acceptable outcomes is identical with the set of all possible results.

さらに三つのケースが挙げられている:

  • あるケースにおいて法的に正しい答えが一つだれば確定されている=確定 (determinate)
  • あるケースにおいて法的に正しい答えの集合が可能な解答の部分集合になっている=不確定(underdeterminate)
  • あるケースにおいて法的に正しい答えの集合が可能な解答の集合と一致=非確定(indeterminate)

どうせなら数学記号を使ったわかりやすい気がするので書いてみよう。ありうるケースの集合を[latex]X[/latex]としてその要素を[latex]x\in X[/latex]、判決によってありうる結果の集合を[latex]A[/latex]、その要素を[latex]a\in A\neq \emptyset [/latex]としよう。法律はケースを与えられたときに正しい答えの集合を与える集合値関数[latex]f (\cdot):X\rightarrow A[/latex]と表されるはずだ。すると先の定義は次のように書ける:

  • [latex]f[/latex] is determinate for [latex]x\in X[/latex] iff [latex]|f(x)|=1[/latex]
  • [latex]f[/latex] is underdeterminate for [latex]x\in X[/latex] iff [latex]|f(x)|\neq 1[/latex]
  • [latex]f[/latex] is indeterminate for [latex]x\in X[/latex] iff [latex]f(x)=A[/latex]

法律を完全な体系にしたいのであれば目標は[latex]\forall x \in X, |f(x)|=1[/latex]となるだろうか。数字遊びは程々に本文へ戻ると:

The strongest (the most ambitious) claim about the indeterminacy of law is the claim that in every possible case, any possible outcome is legally correct.

強い不確定性命題はどんなケースにおいてもあらゆる結果が正当かできることだという:[latex]\forall x \in X, \forall a \in A, a \in f(x)[/latex] [latex]\Leftrightarrow \forall x \in X, f(x)=A[/latex]。

To falsify the strong indeterminacy thesis one needs to establish that there is at least one possible case in which at least one possible outcome is legally incorrect.

当然この命題を示すには反証を一つ上げればよい:[latex]\neg \forall x \in X, f(x)=A[/latex] [latex] \Leftrightarrow \exists x \in X, \exists a \in A, a \in f(x)[/latex]。実際に反証が存在するかどうかを論じているがそんな必要はないだろう。信号無視で無期懲役になる人はいない。そもそも無期懲役が可能な判決の集合に入っていないと主張するかもしれないが、それを決めているのは法律だ。こんな主張をしている人間がいるとしたらそれは非常におかしなことだし、それを取り上げて批判しているのも意味不明だろう。次にもっと穏当なindeternateな場合が取り上げられている。

in most (or almost all) of the cases that are actually litigated, the outcome is underdetermined by the law.

実際に訴訟されるケースの多くはindeterminateだという命題だ。筆者はこの命題は正しいと信じる根拠があるという:

Litigants will rarely have an incentive to settle easy cases.

それは判決が簡単なケースは裁判所に持ち込まれないからだ。これも当たり前だろう。結果が一つに確定しているようなケースを裁判所にもちこむインセンティブがない。民事であれば示談になる。本当の問題は法律をどれだけ確定的なものにするかということだ。またその時のキーとなるとは、法律が何を目的とするか、どんな情報の非対称が当事者間そして裁判所との間にあるか、そして確率論的な視点だろう。法律が確定的か不確定かなどという議論をしていても世の中はよくならない(よさをどう定義するかはさておき)。

To falsify the strong indeterminacy thesis one needs to establish that there is at least one possible case in which at least one possible outcome is legally incorrect.

なぜ資格試験や教育が必要なのか

大学生は多すぎるのか」というポストに対するコメント欄で、司法試験制度について議論があったので資格制度一般について論じてみる。医師国家試験についてはちょうどこちらで提案がなされている。

何故試験や教育が必要かを考えずにどのような試験や教育が望ましいかを決めることはできない。通常のサービス業において試験や教育に関する制約は存在しない。単に市場での競争に任せておけばいいからだ。では司法サービスや医療サービスを市場へ任せられない理由が何だろうか。

経済学的にはこれらの専門家によるサービスは信用財(credence good)として捉えられる。信用財とはある財の価値が購入してもなお分からないようなケースである。よく挙げられるのは車の修理である。消費者にとって分かるのは車が動くか動かないかだけだ。実際に修理に何が必要でどれだけの費用がかかるかは分からない。そのため修理工は必要のないサービスを勧めたり、過大な請求を行う強いインセンティブをもっている(書いていてWillyさんのアメリカでの自動車修理に関するポストを思い出した)。消費者はこれに対して、社会的に非効率な方法で対応する。修理すれば低費用で直るものを直さなかったり、修理で直るものの全交換を要求したりする。

弁護士や医師のサービスはこの修理工のケースによく似ている。消費者が分かるのは裁判の結果と治療の結果だけで、そのための費用や本当に専門家が努力したのか、そもそも能力のある専門家だったのかについては非常に曖昧な情報しか持っていない。もし消費者が修理工と同じように弁護士や医師のサービスを捉えるなら、サービスの結果だけで報酬を決めるだろう。そしてそのことは社会的に非効率だ。例えばそもそも治りにくい病気に効果のある治療は利益が出ないため、誰も相手にしなくなる。また専門家が努力したとしても運悪く結果が出なかった場合にもそもそも努力しない場合と同じ報酬なので努力するインセンティブ自体が減少する。

では、どのような対策が可能だろうか。その一つの方法が資格を設けることだ。専門家の能力を保証することで、もしサービスが一定の結果をもたらさなかった場合には専門家の努力が足りなかったと推定できる(能力の保証がなければ運が悪くて失敗したのと区別がつかない)。またある程度の能力を持っている人間だけを選別することで、サービスを提供するための費用を抑えられる。能力のない人間にとって能力のある人間と同じだけの結果を出すのは大変だからだ。これは契約締結後に専門家が努力するための(限界)費用を減らすので非効率を抑えられる。また資格取得に投入した費用はあとで取り戻すことができない(サンクする)ため、資格を取得した専門家はその資格を失うような行動を取らないように努力することも効率性上昇に寄与する。修理工や医師のようにサービスの質に関する情報の非対称が時間の経過により判明するものではサービス提供後の保証の提供も役立つ。修理や手術後のアフターケア保証がそれだ。

但し、この議論は必ずしも制度としての資格が必要であることを説明しないことには注意が必要だ。その理由は三つほどある。

  • サービスの購入が頻繁であれば評判によって質は保たれる
  • 資格が必要だったとして政府がそれを提供する必要がない(民間資格)
  • カルテルの危険性
  • 垂直統合

まずこれまでの議論は基本的に静的であったことに注意が必要だ。もしこの状況が繰り返し起きるならこのような問題は起きない。消費者は専門家に関する情報を蓄積するため、評価の悪い専門家には依頼しなくなる。これを知っている専門家は最初から必要な努力を払うようになるし、それだけの結果をそもそももたらせない、ないしもたらすためにコストがかかりすぎる能力のない・低い人は市場から撤退せざるをえない。例えば、大企業であれば弁護士事務所に仕事を依頼することは日常茶飯事だろうから信用財の問題は軽微だろう。この議論は一般消費者には適用できないことには注意が必要だ。普通の人は弁護士サービスを多くて数年に一度しか利用しない。但しこの点はインターネットなど情報の共有を可能にする技術により緩和されつつある。

民間にまかせれば十分なことも考えられる。例えば自動車修理であれば自動車メーカーが修理工の能力を保証することがありえる。修理工がそういった保証を受けるインセンティブがあるだけでなく、メーカーにとっても自社製品の修理市場が効率的になることはメリットだ。効率的な修理が可能な車種は消費者にとって価値が高く、メーカーはその分価格を引き上げることができる。このように業界全体の利益を代表するような組織があれば、こういった資格制度は勝手に提供される

次の問題は前段落の業界組織にも当てはまる。資格制度を提供するインセンティブを持つのは業界を代表する組織だが、彼らは同時に価格を釣り上げる強いインセンティブを持っている。これは二種類の経路で行われる。一つは、資格制度のための組織を通じて直接価格を調整することだ。業界団体が価格や数量に関する情報を集めるのがこれにあたる。こういった情報の共有は共謀による価格つり上げを容易にする。二つ目は資格制度を使った新規参入を制限することだ。供給が減ることで独占利潤が生まれるだけでなく、共謀の結成も容易になる。業界団体の関与を減らせば問題は緩和するが、専門家を評価する能力が専門家以外にはあまりないため実際には困難だ。資格が政府によって制度化されていてもいなくてもこの問題は生じるが前者の場合には複数の資格認定機関による競争がないためより深刻だ(政府が関わってない場合には例えば認定機関が一つでも潜在的な競争がある)。

政府の関与がなくとも垂直統合で解決されるという考えもある。一つの方法はサービス提供側の統合で、自動車メーカー自らが整備サービスを提供するのがそれに当たる。もう一つの方法はサービス購入側の統合で、企業による法務部の立ち上げ、顧問弁護士の雇用などがこれに当たる。インセンティブが合わない問題を統合によって一気に解決するわけだ。但し、垂直統合だと競争・専門化の欠如という問題が生じる。

資格・教育に関する問題を議論する際にはこれらの長所・短所を勘案したうえで資格・教育制度の維持費用と見比べて判断する必要がある。

オンライン数学コラボレーション

ブログでの議論が数学の論文が生まれたというニュースがUCLAの学生新聞The Daily Bruinから:

The Daily Bruin | UCLA mathematician Terence Tao’s site has audience of 40,000 via Environmental and Urban Economics

取り上げられているのはフィールズ賞まで受賞しているスター数学者であるテレンス・タオ(Terence Tao)のブログだ。

After six months and more than 1,000 comments from more than 50 mathematicians, a paper titled “A new proof of the density Hales-Jewett theorem” is ready to be submitted under the pseudonym D.H.J. Polymath because of the difficulty in determining how much each person has contributed. The paper is one of the first to be collaborated through a blog.

多くの数学者からのコメントをもとに完成した論文はD. H. J. Polymathという著者名のもとジャーナルに投稿されるそうだ。これはPolymathプロジェクトの一部だ(ポリマスとは博学なひとのことだ)。Polymathプロジェクトで扱われる問題はプロジェクトのブログで公開されている。

プロジェクト自体の構想についてはTim Gowersのポストに詳しい。このプロジェクトの鍵は次の問いにある:

What about the solving of a problem that does not naturally split up into a vast number of subtasks?

自然に分割できないような問題を解く場合に多くの人間が関わることの意味が何かということだ。これはインターネットという複数の人間が同時に作業をする環境が出現したことで生じた問題だ。彼は、この問いに肯定的な回答をする:

(i) Sometimes luck is needed to have the idea that solves a problem. If lots of people think about a problem, then just on probabilistic grounds there is more chance that one of them will have that bit of luck.

まず運という要素があるなら多くの人間が関与した方が望ましい。これは特許制度の設計でも重要だ。ある発明の価値が決まっていて、発明を試みる度に決まった確率で成功するとしよう。すると発明を試みる人間が多ければ多いほうが発明できる確率は上がっていく。

これが社会的に望ましいとは限らないことに注意が必要だ。社会的に望ましいのは発明の確率をできるだけ上げることではなく(何人が参加しても発明確率は100%にはならない)、試行のコストが限界的な試行の価値=発明の価値×発明確率のその試行による上昇分(marginal value)となった時だ。しかし、参加者は試行の費用が平均的な発明の価値=発明の価値×発明確率÷参加人数(inframarginal value)となった場合だ。この時、社会余剰はゼロになり、当然人数が過剰になっている。但し、発明の価値と発明者にとって私的利益は一致しないため必ずしも過剰にはならない。過剰になるか過少になるかは私的利益の割合によるが最適な値になる理由はない。

(ii) Furthermore, we don’t have to confine ourselves to a purely probabilistic argument: different people know different things, so the knowledge that a large group can bring to bear on a problem is significantly greater than the knowledge that one or two individuals will have.

二つ目の利点は分業だ。これについては異論はないだろう。異なる知識や強みをもつ人間の協力は生産性を上昇させる。

(iii) Different people have different characteristics when it comes to research. Some like to throw out ideas, others to criticize them, others to work out details, others to re-explain ideas in a different language, others to formulate different but related problems, others to step back from a big muddle of ideas and fashion some more coherent picture out of them, and so on.

三つ目の利点もまた分業の一種だが、研究の仕方に関するものだ。アイデアを出すのがうまいひともいれば、それを反駁するのが得意な人もいる。

ここから、

In short, if a large group of mathematicians could connect their brains efficiently, they could perhaps solve problems very efficiently as well.

数学者がうまく協力できれば問題を効率的に解いていけると結論付ける。

Why would anyone agree to share their ideas? Surely we work on problems in order to be able to publish solutions and get credit for them. And what if the big collaboration resulted in a very good idea? Isn’t there a danger that somebody would manage to use the idea to solve the problem and rush to (individual) publication?

次の課題は、ではどうやってうまく協力させるかというインセンティブの問題だ。

Here is where the beauty of blogs, wikis, forums etc. comes in: they are completely public, as is their entire history.

ここでブログやWiki、フォーラムの利点が指摘される。それは完全な公開性であり、証拠が残るという特性だ。

Instead of the usual reaction of being afraid to share it in case someone else beat you to the solution, you would be afraid not to share it in case someone beat you to that particular idea

アイデアを公開して他人に先に使われてしまうのを恐れるのではなく、早く共有することで誰かが先にそれを発表してしまうのを防げるという。

この問題も特許制度が抱えている問題と極めて類似している。特許は重要な発明が企業秘密にされてしまうことを防ぐという目的がある。特許があることで発明者は自分の発明を共有するインセンティブを持つ。インターネットは数学の問題を解く場合において部分的な貢献を公開・共有することを可能にした。これはジャーナルによる公開・共有が基本であった時代では不可能なことだ。

しかし、この方法がうまくいくかは数学におけるイノベーションの発生の方法に依存している。これは以前ふれた特許制度の問題とまったく同じだ。よってその弊害も同様に存在する:

  • 研究の途中で公開できるようになると最適な状態にたどり着く前に公開して終わりにしてしまうインセンティブがある
  • 細かい成果が公表されすぎると後続の研究がそれらを言及するための費用が増える

前者は以前のポストにおけるBoldrinとLevineの指摘を数学に適用したものだ。アイデアを得た人が本当なら最後まで頑張って仕上げたものを途中で公開してしまうということだ。これはいろんな学術分野に当てはまるだろう。

経済でいえばアイデアを出し、直感的な説明をするところはまでは楽しい。しかし、それを示す数理モデルを書いて、解いて、実証やシミュレーションを行うのは面倒だ。ジャーナルしか発表の場がなければそこまで頑張ってやるしかないが、ブログなどでさっさと世の中に公表できるなら最初のステップで終わりしてしまうかもしれない。誰かが後半をやっても前半部分は評価されるわけだ(前半のほうがセンスがいる)。Matthew Kahnは何故このような方法が経済でうまくいかないかと問いかけているがこれが答えだろう。経済学はアイデアと直感というセンスを要する部分が最も評価されるため後半を誰もやりたがらない。数学では重要な問題はいくらでもあって解くという後半のステップの比重が高い(そしてそれが好きな人が集まっている)。

後者は金銭支払いのない研究では大きな問題にはならないがそれでもややこしいことには変わらない。何かの定理を証明したとして既に誰かが発表している内容とかぶっていたらそれを引用する必要がある。もし、その定理に関する情報が学術ジャーナル以外の場所にも散在しているとなると、文献調査作業は非常に手間の掛かるものとなる。今までならその分野を研究している先生に聞いて、ジャーナルデータベースでも検索するだけだったが、そうもいかなくなるだろう。

ちなみにテレンス・タオは学術的に成功した天才児(Child Prodigy)としても有名だ。10歳で数学オリンピックに出場し銅メダル、13歳のときには現在に至るまでの最年少で金メダルをとっている。17歳で地元の大学(Flinders University)で修士号、20歳でプリンストン大学でPh.Dを取得し25歳には最年少でUCLAでテニュアを得ている。

http://rionaoki.net/2009/11/1464