子どものDNA鑑定

父親が子どもの生物学上の親である割合についてのニュースがあったが(参考:DNA鑑定と親子関係)、関連ニュース:

How DNA Testing Is Changing Fatherhood – NYTimes.com

DNA鑑定で生物学上の親ではないと分かった父親のストーリーがいくつか挙げられている。基本的流れは次のような感じだ:

  1. 子どもがそれなりに育ってから何らかの機会(浮気の発覚、養育費の割増要求)などで疑念を抱く
  2. DNA鑑定で遺伝的なつながりがないことが発覚
  3. 婚姻中であれば離婚
  4. (A)完全に親子関係を絶つ、(B)親子関係を維持する=養育費を払う
  5. 元妻が子どもの生物学上の父親と再婚ないし同棲
  6. (B) なら元夫が親子関係の不存在を求めて訴訟して負ける

問題は6だ。4で親子関係を維持している場合(B)、法律上の父親は元夫であるため養育権(custody)がなくとも養育費(child support)を支払う義務が生じる。この場合元夫は生物学上の家族へ養育費を支払うという非常に不自然な形になる。

そもそも(B)を選択しているのは何故か。それは養育費を支払う義務を免れるには遺伝上のつながりがないと判明した時点で親子関係を完全に解消しなければ(A)ならないからだ。そこまで踏みきれない男性が多い。

このような複雑な制度が作られているのは、子どもと親との利害関係を調整するためだ。親子関係を解消するのであれば早い方が子どもにとって望ましいという理由から(A)を選択しない限り法律上の親子関係は固定される。

Several suggested that DNA paternity tests should be routine at birth, or at least before every paternity acknowledgment is signed and every default order entered.

この問題を簡単に解決する方法はDNA鑑定を義務付けることだ。DNA鑑定のコストは下がっており、法律で導入を進めればさらに安価になるのは間違いない。

Mandatory DNA testing for everyone would be a radical, not to mention costly, shift in policy. Some advocates propose a somewhat more practical solution: that men who waive the DNA test at a child’s birth should be informed quite clearly that refusing the test will prohibit them from challenging paternity later.

鑑定のための費用を削減するために、義務付けるのではなく、鑑定を行わなかった場合には後で親子関係の不存在を訴えることを認めないという案もある。しかし、子どもとの生物学的つながりに自信を持つ父親でさえ2%は実際にはつながりがないという調査結果を考えれば、それなりに裕福な国では義務付けも止むないだろう。後で問題が発覚した場合の被害は父親・子ども両者ともに甚大だ。いくら法律で親子関係を義務付けても、発覚してしまえば被害は避けられない。

鑑定によって遺伝的つながりがないと判定された場合の子どもの扶養を問題にする指摘もあるが、遺伝上の父親を同様の鑑定によって発見するのは容易い。また片親の家庭はこういったケースに限られるわけではなく、通常の福祉政策によってカバーできる。

P.S. しかし女性が子どもが男性のものだと欺いているわけだから単なる詐欺として処理すればうまく回るような気がするんだけど。。。子どもは善意の第三者ってことでいいし。

DNA鑑定と親子関係

DNA鑑定に関する技術の発展は、避妊技術がそうであったように、社会の仕組みを変えていく可能性がある:

Who’s Your Daddy? Global Nonpaternity Rates. | Psychology Today

The threat of being cuckolded is one of the most evolutionarily important threats faced by men especially in light of the fact that humans are a bi-parental species (i.e., children require great parental care from both parents).

二親性(biparental)の種にとって、他人の子供を育ててしまうことは進化論的な自殺だ。不貞(cuckoldry)に対する男性の反感 はこれにより説明される。

ここでは、DNA鑑定によって父親が子供の生物学的父親ではない割合のサーベイ(メタアナリシス)が紹介されている。

The standard nonpaternity rate that is most commonly mentioned across cultural settings is 10%.

その割合は一割ほどだ。これが多いと感じるかは人によるだろう。さらに、父親が生物学上の親子関係に持っている場合とそうでない場合に関する比較も行われている:

北米 ヨーロッパ その他
自信あり 1.9 1.6 2.9
自信なし 29.4 29.8 30.5

地域・文化によらず、前者の場合は2%前後、後者の場合には30%前後となっている。もしDNA鑑定が早期に可能であった場合に、他人の子供を育てる男性はどの程度存在するのだろう。

人間の心理は生物学的に固定されている部分があるので、親子関係を確定できる世の中になっても社会規範が完全に変わることはない。しかし、大きな影響があるのは確実であるし、法律面でも技術発展への対応が必要だ。

現状では父親の親子関係の認定は非常に複雑な制度になっている。嫡出・非嫡出の区別、婚姻関係による推定、内縁関係による嫡出扱い、非嫡出児の認知などいろんなケースがあるし、父親が自分の子でないと主張する方法も嫡出否認と親子関係不存在があり婚姻関係による推定を受けるか否かできまる。

しかし、父子関係の推定規定は親子関係を確定できないという物理的な制約からきたものだ。技術進歩により確定ができるようになった以上これを変える必要がある。

例えば、推定嫡子に対する嫡子否認が一年間に制限されていることの立法趣旨は家族・親子関係の安定だろう。できちゃった婚のように推定はされないが嫡子扱いのケースで、親子関係不存在を期限なく訴えられるのはこれと反する。なぜなら親子関係不存在はもともと利害関係にある第三者(相続人など)を想定して作られている。よって誰でも訴えることができ、期限が制限がない。新しい現実に対応できていないのは明らかだろう。

代理出産の問題も根は同じだ。今まで単に技術的に不可能であるから法律で規定されていなかったことについて(起きもしないことに規定を作る必要はない)、社会としての立場を法律という形で明らかにする必要がだろう

結婚と市場

以前、「認知能力の重要性と社会の変化」というポストでBetsey StevensonとJustin Wolfersによる結婚と市場との関係についての議論に触れた。今回は、その議論を紹介してみる。

ちなみにこのブログにおける、その他の結婚に関するポストはこちらでタグされている。ジェンダーに関するポストはこちらだ。

Cato Unbound » Blog Archive » Marriage and the Market

恋愛や結婚を市場の取引に例えることは今や何も珍しいことではない。希少な財が取引されているという意味では自然なことだ。分析は二つの段階に分けて行われる:

  1. 異性から何が評価されるのかを示す
  2. それをもとに恋愛・結婚に関する現象を説明する

しかし、多くの分析は1の段階であまり説得力を持たない。それは評価される基準についてそれが何故評価されるかについて事実としてそうだということ以上の説明をしないためだ。ここで紹介する議論は、結婚市場において評価される性質を結婚という社会制度の役割を通じて明らかにする。恋愛市場での価値基準については進化論的な説明が適切だろう(こちらのポスト参照)。結婚相手を探す際にはもちろん恋愛相手としての価値が重要な部分を占めるがここでは結婚に特有な要素を扱う。

Stephanie Coontzの著作の紹介から始まる:

While Coontz describes the variety of forms of family life through history, the commonality uniting them is particularly significant: families have always played a role in “filling in” where incomplete market institutions would otherwise have hindered economic development.

人類史を通じて、様々な形の結婚が存在したがその全てに共通するのは、家族というものは市場の不完全性を埋め合わせてきたことだという。

For example, even in the absence of well-functioning contract law, families found ways to enforce agreements among kin.

その一つ例が契約の執行だ。法制度・警察制度が未発達な社会においては、社会的に望ましい契約が成立しない。しかし血縁は契約法の成立以前からその代わりを果たしてきた。

This naturally gave the family a role as an organizing device for economic activity, and the limits of the firm often coincided with the limits of the family.

これは家族経営の会社が多かったことを説明する。契約を簡単に結べるのが家族内に限られるため、それが経済活動の仕切りとなるのは自然なことだ。

Similarly, prior to the expansion of the welfare state, the family had been a key provider of insurance, as spouses agreed not only to support each other “through richer, through poorer, in sickness and in health,” but also extended this guarantee to parents, children, and siblings.

また社会保障制度のない時代、血縁関係が保険の役割を果たしてきた。

A number of goods and services, such as freshly-cooked meals, or childcare, were historically not sold in the market sector. Thus, the family became the firm producing these household services.

食事や子供の世話もまた市場では取引されていなかった時代には全て家族内で供給された。その供給においては家族内での分業が効率的であり、性に基づく役割分担がなされる。

この結婚が市場の不完備を埋める存在であるという考え方を受け入れるならば、市場経済の発達により結婚の存在意義が変わっていくことが分かるだろう。

The forces shaping family life have changed with the development of the market economy. An increasingly sophisticated system of contract law has made possible enormous economic benefits, but in the process the modern corporation has come to supplant the family firm as the key unit of production. The development of social insurance has spread greater security to many but has reduced the role of the family as a provider of insurance. Most recently, technological, social, and legal changes have reduced the value of specialization within households.

契約法が完備されることにより、家族経営の必要性はなくなる。社会保険の発達は保険提供者としての家族の役割を小さくする。市場取引の拡大や技術発展は家庭内での分業の価値を減らす。

While the political emancipation of women is surely a key factor in their movement from the home to the market, deeper economic forces are also at play.

女性の社会的地位の変化は、家族内での分業の価値低減から説明できる。食事も衣服も家庭内で生産する必要はなく、家事労働もまた技術発展により大きく軽減された。

While the benefits of one member of a family specializing in the home have fallen, the costs of being such a specialist have risen.

逆に、女性が家事労働に特化する機会費用は大きくなった。避妊技術の発展で女性への人的投資の効率が上がり、労働市場における女性の給与水準も高まった。

Rising life expectancy also reduces the centrality of children to married life, as couples now expect to live together for decades after children have left the nest. […] Only 41% of married couples currently have their own children present in their household (down from 75% in 1880).

また平均寿命の上昇は結婚生活にとっての子供の占める割合を減らした。現在、子供のいる夫婦は41%に過ぎないそうだ。

では、契約執行・保険・社会保障・家事に関する専門化・子育てという伝統的な結婚・家族の役割が失われる中、結婚の意味はどうかわったのだろう。次の一節がこの問いへの回答だ:

So what drives modern marriage? We believe that the answer lies in a shift from the family as a forum for shared production, to shared consumption.

家族の中心的機能は共同生産から共同消費に移ったという。

Most things in life are simply better shared with another person: this ranges from the simple pleasures such as enjoying a movie or a hobby together, to shared social ties such as attending the same church, and finally, to the joint project of bringing up children.

共同消費というのは、一緒に映画を見たり、趣味に興じたり、教会にいったり、子供を育てたりすることを指す。

Returning to the language of economics, the key today is consumption complementarities — activities that are not only enjoyable, but are more enjoyable when shared with a spouse.

経済学の用語を使えば、現代の結婚においては補完的な消費活動が重要な意味を占めるということだ。

Today, it is more important that we share similar values, enjoy similar activities, and find each other intellectually stimulating. Hedonic marriage leads people to be more likely to marry someone of their similar age, educational background, and even occupation.

共同消費が重要になると当然、結婚において価値観が近く、趣味が合い、面白い相手を選ぶ傾向が生まれる。これは年齢・学歴・職業などが近いカップルが増えることを意味する。

Yet the high divorce rates among those marrying in the 1970s reflected a transition, as many married the right partner for the old specialization model of marriage, only to find that pairing hopelessly inadequate in the modern hedonic marriage.

これは離婚率の推移も説明する。離婚率は一時急激に上昇したがこの三十年ほどは下がる傾向にある。これは、結婚の機能が変わったことによる影響と捉えられる。

男女の労働比

アメリカでは男女の労働比がほぼ1:1になっているがそれを示すちょうどいいグラフがEconomixに:

Women Still Not Quite Half of Work Force – Economix Blog – NYTimes.com

genderbreakdown

とはいえここのところの急激な格差縮小は景気後退によるものだ。男性の方が景気に影響されやすい製造業や建設行についている割合が高いため、不景気になると失業率が大きく増えるからだ。

ちなみに2009年度8月の統計局の資料によれば日本における15歳以上の労働者数は男性3853万人、女性2803万人となっている。女性の割合は42.1%ほどだ。測定方法の違いがあるので一概に比較できないが、大きな差があるのが分かる。

男女労働比をどう解釈するかは読み手次第だ。性差が存在する以上、男女労働比が1:1に収束する理由はない(性差の存在自体をなくそうというのであれば別だが)。そもそも自由に働けるかと働かなくては生活が維持できないかとは違うことだ。以前であれば夫が高所得であった場合妻の労働率は低かったが、同等の社会経済水準内での結婚が増えその傾向はなくなってきている。これは高所得カップルが(仕事をやめる機会費用が高すぎるので)共働きし、低所得カップルが(生活のために)共働きするという現象を生む

男女比自体に注目するよりもという個別の指標ではなくより大きな政策目標(社会余剰・格差改善など)からそれらの数字を分析する必要がある。

ブリダンのロバ

NYTの技術進歩とデーティングの関係に関する記事についてケロッグのSandeep Baligaがおもしろいコメントをしている:

Sexual Promiscuity and the Paradox of Choice « Cheap Talk

コメントがついている部分は次だ:

12:32 p.m. I get three texts. One from each girl. E wants oral sex and tells me she loves me. A wants to go to a concert in Central Park. Y still wants to cook. This simultaneously excites me—three women want me!—and makes me feel odd.

This is a distinct shift in the way we experience the world, introducing the nagging urge to make each thing we do the single most satisfying thing we could possibly be doing at any moment. In the face of this enormous pressure, many of the Diarists stay home and masturbate.

まず、ニューヨークマガジンが運営している匿名のセックスに関する日記からの引用から始まる。一人の男性が三つの(携帯の)テキストメッセージを異なる女性から受信しているが、それぞれの女性は全く異なるものを男性に求めている。

これが可能になったのは社会・技術の変化だ。多くの人々が都市で暮らすようになれば同時に複数の人間と交渉することのペナルティは殆どない。さらに技術がそれを容易にしている。携帯のメールには止まらない。ニューヨークマガジンの記事にはGrindrというiPhoneアプリが紹介されている。Grindrはゲイの男性が相手を探すためのアプリケーションで、ユーザーはプロフィール・写真・興味などの情報を登録する。するとユーザーはiPhoneのGPSを利用して、今近くのどこに他のユーザーがいて、どんな人間かが分かるようになる。

しかし、Sandeep Baligaが注目したのはここではなく、最後の一文だ。日記を書いている匿名の人々の多くは複数の選択が与えられていることに喜びつつも、最も良いものを選ばなければいけないプレッシャーを感じて、結局は家にいて自慰行為に耽ったという。

It is the paradox created by Buridan’s Ass – I should hasten to add that this is an animal not a body part.  The poor Ass, faced with a choice of which of two haystacks to eat, cannot make up its mind and starves to death.

これは哲学におけるブリダンのロバ(Buridan’s Ass)のパラドックスだ(もともとはアリストテレスの「天界について(De Caelo)」からでブリダン自身の発案ではない)。ロバが二つの干し草を見てどちらか決められずに死んでしまうというものだ。

Sen’s point was that the revealed preference paradigm beloved of economists does not fare well in the Buridan’s Ass example.  The Ass through his choice reveals that he prefers starvation over the haystacks and hence an observer should assign higher utility to it than the haystacks.  Sen,  if I remember correctly (grad school was a while ago!), says this interpretation is nonsense and an observer should take non-choice information into account when thinking about the Ass’s welfare.

これについて、アマルティア・センの注釈が紹介されている。経済学における顕示選好(revealed preference)に基づけばロバの選択は、干し草よりも餓死を高く評価している=高い効用を持つとなるがそれは明らかにおかしく、ロバの選好を知るにはロバの選択以外の情報が必要だと言う。

顕示選好の理論は経済主体の行動に一定の合理性ないし無矛盾性を要求しているため、そこから外れた選択を観察するとうまく処理できない。非合理な行動をしているのか、合理的におかしな行動をしているのか判断できないからだ。何度も観察できればどちらかを判定することはできるが、そういう意味でもある一例をだす方法はあまり意味がない。

A second interpretation is offered by Gul and Pesendorfer in their Case for Mindless Economics.  Who are we to say what the Ass truly wants?  To impute our own theory onto the Ass is patronizing.  Maybe the Ass is making a mistake so its choices do not reflect its true welfare.   But we can never truly know its preferences so we should forget about determining its welfare.

Faruk GulとWolfgang Pesendorferによるもう一つの解釈が提示されている。こちらは、センの解釈におけるパターナリスティックな側面を放棄する。ロバは何らかの理由で合理的な行動をとっていないかもしれないが、そうでないかもしれない。

This view is a work in progress with researchers trying to come up with welfare measures that work when decision makers commit errors.

先に上げた通りこれは、意思決定主体がおかしな行動をとる場合にどう評価をするかという問題になる。個人的には、Gul & Pesendorferの考えに賛成だ。このロバの効用について考える必要はない。どんな選択をとったかがすべてであって、それが間違えなのかどうなのかは社会厚生には関係ない。構成員がある状態と他の状態があって前者を選択するのならそれが「正しい」ことだろう。その中の一人が「間違った」行動をとっているかどうかは誰にも分からないという点で意味を持たない。

P.S. Gul & Pesendorferのペーパーを流し読みしがたが非常におもしろい(前にも見たような気がするが)。テクニカルな部分もあるが経済学の道徳的スタンスを知るにはいい読み物だ(個人的にはさらに規範的な主張をするが)。