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薬の価格差

何とも緩い記事が目に入ったので軽くツッコミ。

貧困と闇を生む抗生物質 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

例えばウガンダの患者がブランド薬品を買ったとすると、一日1ドル25セント未満で暮らす貧困人口が34%増加する。中所得国のインドネシアでさえ、人口の39%が新たに貧困層入りするという。

抗生物質のせいで住民が貧しくなっているかのようなタイトルだがそんなわけはない。薬品を除いた所得が減るのは薬品を買えば当然で、購入したということは購入しないよりも本人にとっていいことなはずだ。

これは、中低所得国では所得水準に対する医薬品の価格が先進国より高くなっているからだ。

あくまで「所得水準に対する」価格が高いだけで、中低所得国のほうが価格自体は安い。製薬会社は国によって価格差別を行っている。それでも中低所得国の価格が高すぎるとすれば、転売によって価格差別が不完全なためだ。

アフリカでは寄付された薬を横流しして儲ける産業が生まれており、例えばマラリアの治療薬は6.5%が政府に届かず闇市場に流れているという。

しかし、横流しを規制するなど製薬会社による価格差別が徹底されれば先進国における価格は上昇する。これを(おそらくこの記事の主な読者である)先進国の人々は支持しないがどう展開するのだろう。

多くの国の消費者にとって薬は高価すぎる。だからこそ闇で薬を買おうとするニーズがある。

問題は価格差だったはずがいつのまにか薬はどこでも高いという話になっている。闇で薬を買おうとするのは価格差があるからで、絶対水準が高いからではない。どこでも価格が同じなら闇市場自体成立しない。

偽物の薬もそうだ。薬を手に入れようと必死の患者は、安いといわれると誘惑に負けやすい。たとえそれが偽物かもしれないと思っていても。

そして最後に突如偽物の薬に話が移っているが、もはや何を言いたいのか分からない。

利益率の規制

健康保険をどうするかで盛り上がるアメリカで大きな規制が話題になっている。

New Premium Rules Could Be Game Changer for Health Insurers

The medical-loss ratio measures how much of premiums insurers pay out for medical care versus administrative costs. The new law requires that insurers use at least 80% of the premiums from individuals and small businesses to pay for medical care and profit-taking, and 85% of premiums from larger employers.

規制の対象となっているのはmedical-loss ratioという指標で、保険料収入のうちどのくらいの割合が保険金の支払いに宛てられているかを測るものだ。新しい法律はこの割合を80%以上(大規模な雇用主については85%以上)にすることを要求しており、基準を満たさない場合には契約者へのリベートが必要なる模様だ。

Health insurers are waiting for regulators to clarify how companies must account for the numbers—whether they can average the MLRs of their subsidiaries, for instance.

明確な指標のようにも見えるがそうでもない。例えばこの指標を測る単位を広くとれば、部分的には数値が低くても全体では基準値を上回ることもありうるし、逆に、極端な話、病気になっていない人だけについてこの指標を取れば0%になる。

That process is already happening, though. American National Insurance Co., of Texas stopped marketing individual policies last month. A spokesman for the company said it operates its plans at about a 60% MLR, and didn’t want to retool its business model to meet the new requirements.

そして、もちろん最大の問題は一種の利益率の上限を定めることによって、規制対象となって財が提供されなくなることだ。この場合、経費の割合の多い個人向けが提供されなくなったり、商品説明にかける費用を減らすという懸念もある。

どういう経緯でこんな法律ができたのかは分からないが指標の公開を義務付けるというような穏当な規制の方が好ましいように思える。

消費者による差別

本当の人種差別は雇用主ではなく消費者にあるという研究(ht @ecohis):

Decomposition of the Black-White Wage Differential in the Physician Market

Hence, a firm that has a “taste for discrimination” would not pay a worker of a different race a wage commensurate to that worker’s productivity.

雇用における人種差別は二つに区別できる。一つは雇用主が被差別人種を雇いたくないという人種差別で、これは特定の人種の給与が生産性に比して低いという形で現れる。

if consumers are unwilling to purchase goods and services produced by minorities, then minority workers would not be as valuable to all firms and minority workers would receive lower wages than majority workers as a result.

もう一つの差別は消費者が特定の人種からのサービス提供を嫌うという種類の差別だ。消費者がこの種の選好を持っているなら、雇い主にが人種に対して無差別であったとしても被差別人種の労働者を雇うことによる便益が低いため給与も低くなる。

In general, if the number of nondiscriminating employers is large relative to the number of minority workers, or if the nondiscriminating firms have constant or increasing returns to scale technologies, then minority workers may not be affected by discrimination at all.

しかし前者の雇用側の差別は、差別的な雇用主の数が比較的小さい限り給与水準へ大きな影響を与えない。非差別的な雇用主が被差別人種の労働者を雇うために競争するためだ。そういった雇用主が多ければほぼ全ての被差別人種労働者が非差別的な労働者のもとで働くことになるし、その給与も生産性に見合う水準まで競り上がる。

それに対して、後者の消費者による差別は全ての被差別人種労働者の収益性を下げる(消費者がサービス提供者の人種を選択できない限り;これは雇用主に比べて消費者で困難だ)。また消費者の人種に関する選好を直接規制・是正することは倫理面・費用面で困難だ。

Since those who are self-employed would not encounter firm discrimination, any discrimination that is experienced by self-employed workers must have originated from consumers. Salaried workers, on the other hand, may face discrimination that is both employer- and consumer-based. Based on this intuition, we make two claims.

この二つの効果を分離するために、元ペーパーでは自営の労働者と雇用されている労働者の給与を比較している。自営の場合には雇用主による差別はないからだ。

The survey contains information on a wide range of variables—such as physician specialty, board certification status, and waiting time for patients—that would enable us to control for consumer demand and worker productivity, thereby effectively isolating the effects of different types of discrimination in the physician market.

もちろん自営の人と給与を貰っている人とではそもそも同じ母集団でないため、その差を計算に入れる必要がある。ここでは若手の医者に関するデータが利用されている。個々の医師についての詳細な情報を利用するためだ。

At most, discrimination lowers the hourly wages of black physicians by 3.3%. The decompositions show that consumer discrimination accounts for all of the potential discrimination in the physician market and that the effect of firm discrimination is actually in favor of black physicians.

結果、白人と黒人との間の給与差は僅か3.3%でその殆どは消費者によるものだということが分かったそうだ。もちろんこれは医療という業界の特殊性かもしれないし、自営と給与所得者との差異のコントロールがあまりうまくいっていない可能性もあるが、直感的な結果だ。但し、雇用主の差別が給与差に影響を与えていないのは差別的な雇用主が比較的少ないというだけで、差別がないということではないことには注意する必要がある。

インフォームド・コンセントと日本

開業医の方が書かれたインフォームド・コンセントについての記事だ。読んでいて何か違和感を感じたが、数日忘れたまま放っておいたらふと一貫した説明がついたのでご紹介:

自己決定とパターナリズムのあいだ – Dr.Poohの日記

総合診療誌JIM1月号に掲載されていた内田樹氏と岩田健太郎氏の対談を読みました。冒頭から「インフォームド・コンセントはダメである」と断言してしまうあたり,医学雑誌としてはかなり刺激的です。内田氏によればインフォームド・コンセントという概念そのものがきわめてアメリカ的であって,日本では受け入れられるのかどうか疑問を呈しています。

内田樹さんの文章については以前もとりあげたが(人間も労働も特別じゃない)、今回も否定的にならざるをえない。何度か指摘しているが(例えば、アメリカは実名志向か)、日本的かアメリカ的かという切り口はあまり意味がない。アメリカ的だから日本では受け入れられないというのは結論を仮定しているようなものだ

次の引用文も頂けない:

僕には,どちらかというと,医師と患者のあいだには知の非対称性があったほうがいいと思っているんです。自分の状 態については医師のほうがよく知っているのだから,「この人にすべて委ねよう」と思ったほうが治療のパフォーマンスは上がる。たぶん日本人の大多数はそう だと思うんです。文化論的に言っても,外部に権威があって,それに対して自分は無防備で受け身の状態にいるほうが,日本人は心理的にも安定するんです。

学ぶ力と癒す力: JIM vol.20 No.1 2010-1 p60

この箇所だけから全体を判断することはできないが、それにしてもよくない。自分の状態について医師のほうがよく知っている場合に医師に委ねてパフォーマンスが上がるのは自分と医師の間に利害対立がないときだけだ。知識の豊富な保険販売員にすべてを委ねることはできない。文化論で「日本人」の心理を説明するのも説得力がない。仮にそういう傾向が日本人全体にあったとしてそれが肯定すべきものとはならない。

本題に戻ろう。

この対談でパターナリズムという言葉は出てきませんが,この文脈で言及しているのはまさにそれでしょう。

確かに議論の的となっているのはパターナリズムの是非だ。

当方が医師になった頃には,パターナリズムというのは従来患者さんの自己決定権を損なってきたものであり,本来患者さんに必要十分な情報を提供することで自己決定を支援しなければならない,という教育がされていました。

しかも日本の医療業界ではインフォームド・コンセントがパターナリズムの問題として扱われているようだ。

違和感を感じたのはここだ。インフォームド・コンセントが問題となるのは、患者と医師との間に情報の非対称があるからだが、情報の非対称による最大の問題は患者と医師の利害対立(プリンシパル・エージェント関係)であってパターナリズムではない。患者は適切な情報を有しないため、医師はどの治療を選択するかについてのアドバイスと治療サービスの提供を同時に行う。患者の利得とサービス生産者としての医師の利得は一般に一致しないため非効率が発生するわけだ。必要のない治療を行い収入を増やすような行為がこれに該当する。

インフォームド・コンセントは医師が十分な情報を伝えなかったり、不正確な情報を教えたりした場合にペナルティを与えることで、患者と医師との情報の非対称による問題を軽減する(注1)。セカンド・オピニオンとして他の医師の意見を仰ぐことも、アドバイザーとサービス提供者を分離することでこれに貢献する。

ではなぜ、日本ではインフォームド・コンセントがパターナリズムの問題として捉えられるのかそれは上に説明した情報の非対称に由来する問題がもとから軽微であるためだと考えられる。情報の非対称は存在する。しかし、利害の対立が小さいので深刻な問題にはならないということだ。

元記事においても、医師が自分の利益のために治療を選択するという状況は想定されていない。私が日本で医者にかかるときも、いらない薬だしてるかもとか薬の日数を少なくして通院回数を増やそうとしているんじゃないかとは思うが、それ以上の問題が起きるとはほとんど考えていない。これはアメリカでは当てはまらない。医療が非常に高く、保険は人によって異なるなど、医師を取り巻くインセンティブは日本より遥かに複雑だ。

例えば私はアメリカでLASIKの手術を受けたが、どの医師が技術的に望ましいかは経歴ぐらいからしか分からなかったし、具体的な処置についての知識もなかった。基本的な事項は調べたが、分野は違えど専門的な勉強している身としてウェブで調べれば分かる程度のことで正しい判断が行えるとは思えない。医学論文を読むこともできたが、内容を理解するのは困難かつ、研究と現実に必要な対策との一般的な乖離を考えれば論文を頼りにすることはできない(注2)。

そこで判断基準となるのはインセンティブ構造だ。ある程度の技術・知識がある場合に望ましくない結果となるのは医師のインセンティブが自分のそれとずれている場合だ。LASIKで言えば、適性がないのに医師が手術を進めてしまう危険性だ(問題が起きたとしてそれは事前には不確実なので責任を確定するのは難しいし、取り返しがつかない可能性がある)。私は結局、複数の医師が関わり、かつ医師にとって評判が重要で報酬の仕組みも保守的だと考えられる大学の病院を利用した。大学だから技術が高いと思ったのではなく、おかしなことをするインセンティブが少ないと考えたからだ

ひとつには必要十分な情報といっても過密な勤務のなかでそれを説明している時間がとれないということもありますが,何とか時間を作って説明したとしても,患者さんはかえって迷い,悩みを深めることもあるのです。

インフォームド・コンセントが積極的に支持されないという現状は、逆にこういったインセンティブ問題が軽微であることを示している。患者と医師との間の利害対立がなければ問題は生じず、説明のためのコストや多くの情報を与えられることによる戸惑いの方が目につくのも自然だ。現状ではアメリカ並のインフォームド・コンセントの徹底は非効率な結果になるだろう(勿論、程度の問題で必要ではあるだろう)。

(注1)この時の情報はどの治療法がどういう理由でどんな影響をもたらすかではない。必要なのはどの治療法がどんな確率でどんな影響をもたらすかだ。それさえ分かっていれば適切な判断は下せる。LASIKでいえば何%の確率で視力がいくつになるかや感染症が発生する確率が説明された(理由も多少は説明されるが)。ここで医師が嘘をついたことが判明すれば大問題になるが医師には大したメリットがないので、この情報を疑う必要はなかった。

(注2)もちろん程度にはよる。LASIKは成功率の極めて高い手術であるため費用的に見合わないという理由はある。これが生死に関わる難病の治療であれば、医学部生が読む教科書から勉強するだろう。

追記

コメント欄でWillyさんから重要な指摘がありました:

一般的にaccountabilityにはコストがかかります。それは単に説明する時間のような物理的なものだけではなくて「最善な選択肢よりも、論理的な言い訳(ないし直感的に分かりやすい説明)や相手が納得しやすい判断を優先する」ことによりロスが発生するのです。

これはその通りで、情報提供を強制することは提供自体の費用が生じるだけでなく、その費用を減らすというインセンティブを与え、行動を歪めます。事後的な説明責任においても同じで、ある特定の患者の場合にはこの治療法が効くと考え説明しても、うまくいかなかった場合それを正当化するのが困難なので最初から提示しないということがありえます。

水資源ビジネス

最近twitterで水資源についての話題があったので、前に読んだ記事をご紹介:

Pricing Water For The Poor – Forbes.com

日本では最近水資源ビジネスを支援しようという動きがある

経済産業省は18日、水質浄化や上下水道の運営を手掛ける「水資源ビジネス」を本格的に支援する方針を固めた。欧州の巨大企業は発展途上国などの上下水道を運営し「水メジャー」と呼ばれている。同省は水資源ビジネスを成長分野と位置付け、海外の水道事業への参入や水処理プラントの建設などを後押しする。

しかし、和製石油メジャーを作ろうという政策がどれだけの便益をもたらしたかは定かではないし、水不足は石油不足とは異なる性質がある。それは、適切な価格付けがなされていないという需要の問題だ。要するに、水が安すぎるため過剰に・不適切に使用されているということだ。こちらを放置したたまま、単なる利権・無駄遣いにつながるおそれのある、資源確保にばかり積極的に出るのは頂けない。

では本題の最初のリンクに戻ろう。これはもともと「ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう」で紹介しようと思った記事だ。

Biswas, 70, runs his own think tank, the Third World Center for Water Management, in Mexico City. The center gets its revenue from contracts to advise governments on water management as well as contributions from foundations and aid agencies.

紹介されているAsit Biswasさんは水資源管理のシンクタンクを運営している。彼のビジネスは水を効率よく利用するためのアドバイスをすることだ。水不足が叫ばれ始めて久しいが、彼によれば水資源は問題ではない:

“There is enough water until 2060,” he says. “Water isn’t like oil in that once you use it it breaks up and can’t be reused.” Water can be reused umpteen times. […] The main problem, he says, is that water management in most countries is abysmally poor.

総量の決まっている原油とは異なり、水の再利用や淡水化に関する技術は発展している。水不足最大の問題は、水資源の管理が極めて杜撰なことだという。

Governments, however, are not in the habit of attributing shortages to their own ineptitude. They are more likely to describe the problem in apocalyptic terms.

しかし政府は自分たちの管理が問題だとは認めず、水資源の枯渇を叫ぶ。その方が彼らには都合がよい。

“There’s a lobby that says water is a human right [and hence it should be free], and that’s baloney,” says Biswas. “Food has been declared a human right, and people still pay for it. So why shouldn’t they pay for water?”

反対側からは水の利用は人権でありゆえに無料であるべきだという意見もあるが、それについても食料との比較で切り捨てる。食料は人権だが無料ではない。これは医療を人権だと称するのと同じ間違いだ(参考:医療は人権か)。人権かどうかと無料であるかは違うことだし、タダである量を供与することとタダで好きなだけ使わせることは違うことだ

Ideally, water, or any scarce good, should be priced at its marginal cost. If the last gallon supplied costs a penny to acquire and deliver, then every gallon should be priced at a penny, even if some of the supply can be had for free.

そしてその価格は教科書通り、限界費用であるのが望ましい。消費者は社会的な費用を負担することで、社会的に望ましい利用を行う。なぜならそうすることが消費者自身にとって望ましいからだ。

“The universal access to clean water will never be realized if water supply is free or heavily subsidized,” he says.

水の価格がゼロだったり大量の補助を受けていたりする限り、清潔な水へのアクセスは実現されないのだ。