メール・イン・リベート

チェック廃止の話が在米の方々を中心に好評だったので、もう一つの消えてなくなって欲しいものであるメール・イン・リベート(MIR)を取り上げる。

まず、馴染みのない人にMIRが何かを説明しよう。MIRとは割引の一種で、商品を購入したときにレシートやバーコードと所定の書類を郵送すると忘れたころに(運がよければ)小切手(!)が送り返されてくるというものだ。実店舗でもネットでもよくみかけるが、便利なのでneweggから一例とってきた:

mir赤く囲った部分がMIRだ。10ドルの小切手が送ってくるということを意味する。ちょっと考えればこれが恐ろしく非効率なことが分かるだろう。客はリベートの申請書類を郵送する必要があるし、企業側はそれを処理して(正規の購入者かを確認する必要がある)、さらに小切手を郵送しなければならない。10ドルの割引をするのになんでこんな手間を掛けるのか。そのまま値引きすればいいじゃないかという話だ。

これは、典型的な価格差別戦略だ価格差別とは同じ製品・サービスを相手によって違う値段でうることだ。たくさん支払う気のある客には高値で売って、そうでない客には割引して売ることだ。こういうと当然のように思えるが実際にやるのは結構難しい。対面で値段交渉をするなら簡単だろうが、量販店の棚に並ぶような製品では特別な仕組みがないとできない。同じものが違う値段で並んでいれば誰でも安い方を買うからだ。

ではこのMIRはどうやってそれをクリアするか。リベートの申請に手間がかかるようにすることで、時間のない人には実質割引をせず、暇な人には割引を適用するのだ。通常忙しい人の方がお金も持っているし、いろいろ比較して製品を買うこともない。こういった人は比較的多めのお金を払えるのでこの方法で利益が上がる可能性がある。

もちろん、この方法には大きな無駄があるのでうまくいくとは限らない。無駄というのは、リベートを送るための費用だ。なるべくリベートを受け取るのを難しくするため、電話して催促しないと小切手を送ってこないなんてケースもざらだ。

リベートを使わない人がリベートが存在するがゆえにその商品を購入しないこともある。アメリカでもMIRには反感が強く、事務費用などの負担もあり量販店ではMIRを撤廃しているところもある。

また、そもそも人によって時間の価値に大きな差がなければ機能しない。日本でMIRを見かけない理由の一つはここにあるだろう。所得格差が広がればこういったリベートも普及する可能性がある。

ガラパゴス携帯市場

日本の携帯は世界一だという人もいればガラパゴスだという人もいる。残念ながら(やはりとも言うが)後者が正しいことを示唆するポストをArsTechnicaから:

iPhone blowing up worldwide, big in Japan after all

iphone

Japan has seen the biggest increase—over 300 percent—which may help explain why the iPhone commanded nearly half of the Japanese smartphone market in 2009.

Admobのデータよると、日本でのiPhoneの増加率は世界最大で年間300%にものぼったそうだ。計測方法の詳細は分からないが、大きな伸びであるのは間違いない。元々ほぼ存在しなかったスマートフォン市場の半分近くがiPhoneということだ。

n fact, data from market research firm Impress R&D shows that the iPhone is the number one smartphone in Japan by a huge margin—the iPhone commands 46 percent of the smartphone market, while its nearest competitor has just under 15 percent and the nearest Android phone slight more than 2 percent.

iPhoneにつぐスマートフォンメーカーは12パーセントしかない。これは日本の携帯キャリア・メーカーのプラットフォーム戦略の失敗を意味するだろう。日本のキャリアは独自のネットワークを構築し、マイクロペイメントを容易にすることで多くのサービスを呼び込んだ。着うたなどの成功を見るにこの作戦自体はそれなりにうまくいったとは言える。

しかし、通常のインターネットと融和し、世界中の市場をカバーするiPhoneにはサービスの面で競争できない。もし日本がこのまま戦略を転換することができなければ、現在2%強と言われるAndroidがiPhoneに次ぐシェアを持つようになる日も近そうだ。

開発援助の成果主義

なぜ開発援助に成果主義の導入が進まないのかについての明察:

Linking aid to results: why are some development workers anxious?

Linking aid more closely to results is attractive from many different perspectives.  My own view is that linking aid directly to results will help to change the politics of aid for donors.

成果主義の導入は何よりも援助国が開発援助を政治的に正当化するのに役立つという。

I think donors will be freed from many of the political pressures they currently face to deliver aid badly; and it would be politically easier to defend large increases in aid budgets.

成果がきちんと観測できるのであれば、直接指示を与える必要もないので効率的だし、納税者も納得する。営業のように結果の見えやすい部署が成果主義に近い形で運営されているのと同じだ。

But there is one group of people for whom these ideas seem to be quite unsettling: development professionals in aid agencies and NGOs.

しかし、開発に関わる専門家やNGOはこれに反対しているという。何故だろうか。

The “risks” identified in the CAFOD brief are not primarily about the consequences for development but rather risks to the privileged position enjoyed by professional staff in aid agencies and NGOs.

それは援助の効果の問題ではなく、成果主義の導入が彼ら専門家やNGOが占めている特権的な地位を脅かすからだ。これは少し考えれば明らかだ。成果主義が導入されれば、今まで業務を細かく指示してきた管理職は必要なくなる。次の政治家との対比は切れ味がよい:

Politicians are, of course, at their most dangerous when they can no longer distinguish their own interests from the interests of the people they are meant to serve.  Similarly we should be concerned when we hear development professionals identifying themselves as speaking for the poor, and arguing that they must retain influence (i.e. power) – purchased by the relative wealth of their country – to promote strategies which the country would not pursue on its own.

政治家は正しい意図を持って政治のキャリアに入るが、いつのまにか政治的な力を手にすることが自己目的化する。これはあらゆる職業にあてはまる。自分の判断は一番正しいという考えが内面化された時に力を得ることは常に正しいことになる。開発援助の専門家であれば、援助される側に任せるのではなく、自分が指示するのが最も望ましいという信念を抱いたとき、自分が援助の内容を管理する力を保持することは望ましいことになる。自分が正しいと信じていないと何も変えることはできないが、それが飯のたねになったときその正しさへの信念を捨てるのは難しい

チェック廃止

大したニュースではございませんが、アメリカ在住者としては取り上げたい:

Britain bounces checks after 300 years – Yahoo! News

The board of the UK Payments Council, the body for setting payment strategy in Britain, agreed on Wednesday to set a target date of October 31, 2018 for winding up the check clearing system. The board is largely made up of Britain’s leading banks.

イギリスでついにチェックを廃止する目処がついたそうだ。チェックというのは小切手のことで、基本的には金額と宛名を書いてサインすると銀行でお金を動かせるものだ。日本では個人向けだとほぼ存在しないが、アメリカでは誰もが使っており、家賃なんかはほぼみんなこれを使う。銀行振込でいい?とかいうと頭のおかしなひとを見るような目で、普通にチェックにしろとか言われる。ネット振込が普通のところから来ると、慣れないサインを書きながら、どんだけ古いんだよ、とか愚痴りたくなること請け合いだ。

But while many UK supermarkets, high street retailers and petrol stations have stopped accepting checks, they are still a popular form of payment among elderly people, many of whom find the idea of using automated cash machines intimidating.

当たり前だがチェックの処理には費用がかかる。お店ならスキャンして銀行に送るだろうし、人間なら銀行まで足を運ぶ必要がある。ちなみにアメリカのATMの預け入れは備え付けの封筒にチェック・現金を入れて放り込むだけ(数えない)という衝撃のシステムだ。

ではなぜいまだにチェックが使われているのか。アメリカでは(イギリスでもそうだろうが)、クレジット・デビットカードの利用が非常に進んでいる。現金は基本的にもっていないのでどこにいってもカードで払う。財布に10ドルもなくびっくりすることもよくある(1ドルでもお札なので気づかないっていう話だが私だけだろうか)。

それにも関わらずチェックの廃止が進まないのは高齢者のため(=せい)だ。カードはお店で使うだけで、使いたくないひとは使わなくてよい。高齢者は現金と小切手の世界で生きている人が多いのだろう。

ではなぜそもそもチェックが使われているのか:

“Without checks, we are very concerned people will be forced to keep large amounts of cash in their home, leaving them vulnerable to theft and financial abuse.”

これは犯罪との関係だ。多額の現金を持ち歩いたり、家に置いておくのは危ないので昔からチェックを利用する。日本では現金を数万円持っているからといって危ないとは言われないが(使ってしまう危険の方が大きい!)、アメリカやヨーロッパでは違う。高額紙幣が使えなかったり、そんなもの持ち歩くなと説教されたりする(昔500ユーロ札に扱いに困った)。逆にこういった状況はカードの利用を促した。小売店はレジスターにキャッシュを保持したくないからだ。アメリカでも早く消えてなくなってほしいものだ。

どうして開発援助がうまくいかないか

開発援助についてのいい例えがあったのでご紹介:

Beneath the appeal: modestly saving lives | openDemocracy via Chris Blattman

The economist Jeff Sachs compares the current situation in Africa to a forest fire: if we try to put out the fire with one hose, and the fire continues to rage, do we conclude that fighting fires is hopeless? Do we conclude that water is not effective at putting out fires?  Or do we conclude that we have not yet applied enough water and that we do not have enough firefighters and hoses?

援助は山火事と戦う消防士のようなものだという。ホース一本で山火事に立ち向かっているときに火の勢いが衰えなかったらどう思うか。水を掛けるので火事を消せないと考えるか、水が足りないと考えるかという選択肢がある。

しかし、本当の問題はこれを見て「水を掛けるのは無駄」と考える人が多いことではなく、みんな「そんなのどっちでもいい」と思っていることだろう。山火事の例でいえばこの山火事はLAで起きているのではなく、アフリカで起きているのだ。

アフリカで貧困問題が深まっても、先進国への影響は軽微だ。海・砂漠・イスラム圏で隔離されていて難民の心配も比較的小さいし、もとから貧しすぎるので市場としての価値はほとんどない。さらにはみな陸続きなので部分的な改善があっても人の流入で打ち消されるし、HIVが猛威をふるっている。

もちろんこれが問題なのかどうかもよく分からない。人間が自分に近い人間を優先するのは倫理的にも責められることではない。結局のところ倫理は社会に属しているので、現在の枠組みで海外支援が劇的に増加することはありえない。個人的には(限界)費用のかからない知識の伝播ぐらいしか解決策はないように感じる。