いい職場って何?

どんな職場がこれからの世代に必要なのか。日本が追いつくのはまだ先だろうがアメリカの状況について丁度とってもわかりやすいエントリーがあったのでご紹介:

Announcing: Brazen Careerist Top 50 Places to Work | Penelope Trunk’s Brazen Careerist

1. Salary negotiations are over.

サラリーの交渉の時代は終わった。

Gen Y doesn’t consider salary to be a huge factor in choosing a place to work because Gen Y knows that salary data is public. The days when a company can screw you by underpaying you are over.

今やサラリーの情報は共有されている。どこの会社がどのポジションにいくら払っているかなんてネット上で調べることができる(注)。情報がオープンで労働者が仕事を選べるのであれば、サラリーは自動的に市場の水準になる。競争市場に近づいている。

日本ではいまだに成果主義の是非を論じている人が多数いるが、時代遅れもいいところだろう。成果主義は流動的な労働市場と組み合わせでなければ機能しないそして流動的な労働市場の行き着く先は市場による労働者の評価だ。「主義」のはいる余地はない。ものを売り買いするときに普通主義主張は登場しない。そういうことだ。日本でもこの方向性は変わらない。

(注)日本ではどこにあるのだろうか。これはビジネスになる。

2. Social entrepreneurship is stupid.

社会起業家なんてものはない。

It’s stupid because you don’t’ need to be calling yourself a social entrepreneur in order to save the world. We no longer divide the world into non-profit people who are do-gooders and for-profit people who are money-grubbers. We are all here to do good. After all, what else is worth living for?

これは最近社会起業家に関する論争「金儲け=悪」の話を絵で説明してみるビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろうなどで繰り返し主張していることだ。営利が悪・非営利が善という時代は終わり(参考:非営利と営利との違い)、誰もが何か社会のためになることをしようとしている。逆に自分たちは社会起業家だと謳うことは、ものの捉え方が古いということだ。新しい優秀な人材を採用したいならやめたほうがいい。

3. Self-reported flexible workplaces are BS.

自称フレキシブルな職場なんて意味ない。

Flexibility is not something that Gen Y wants. It’s something everyone wants. The idea that we are going to run our lives around our work is ridiculous. It doesn’t work. We want to make each aspect of our life work well with the other aspects.

フレキシビリティは新しい世代の特徴ではなく、誰もが必要とするものだ。仕事が人生という生き方はうまくいかない。

In our Top 50 list we judge by how close a company gets to hiring 50% women. This is not scientifically proven, but it is true that while all demographics complain about inflexible hours, women will leave the company over it.

どの会社もフレキシビリティを主張しているのだから、言葉に耳を傾けてもしょうがない(みんなが欲しがっているならチープトークは何の情報も伝えない)。実際の行動をみる必要がある。その簡単な判定方法として女性の比率を挙げている。女性が多いかそれ自体が問題なのではなく、それで職場の環境を判定するのだ。これは非常に経済学的なものの見方だ。

社会起業家に関する論争

数時間ぶりにTwitterを開いたら盛り上がっていた。この論争は「金儲け=悪」の話を絵で説明してみるで描いた絵で説明できそうなのでやってみる。

Days like thankful monologue病児保育のNPO法人フローレンス代表 駒崎弘樹のblog: 東洋経済でサイバーエージェント社長らに社会起業家がおおいに叩かれている件について

いわゆるビジネスエリートな方々が、昨今のアラサー世代の「事業に社会性を求める」ことに対してこんなことを仰っているのが目に飛び込んできました。

このあとに藤田晋、成毛眞、松本大さんの発言が引用されている。

サイバーエージェント社長 藤田晋 氏
「この世代は社会起業家が増えているというが、その前にすべきことがあると思う。ビル・ゲイツのように死ぬほど稼いで社会に貢献するというなら分かるし、自分もいずれそうありたいと考えるが、経営者として事業を大きくすることが今の目標だ。長く経営者として責任とプレッシャーと闘っている私からすれば、社会起業家はそうしたものから逃げているように見えてしまう。」

元マイクロソフト社長 成毛眞 氏
「もし仮に景気がよければ、社会起業家にはならず、今も外資金融やベンチャーに在籍しているはず。本人たちは、社会起業家としての社会的意義や使命について何ら疑うところはないし、心の底からそれを信じているのだろうが、私に言わせれば経済で先行きが見えないから、別の方面に関心が向かっているだけなのだ。」

マネックスグループCEO 松本大 氏
「厳しいことを言えば、自己の満足という点で、それ(マッキンゼー→ボランティアなキャリアの人)は長続きしないと思う。私は有限なリソースを集中して掘っていくべきだという考えで、自分が決めた仕事や業種に徹底的にこだわって、そこで成果を出そうとする。」

それに対し、元記事では:

若きリーダー達は、後輩たちが日本社会のために何とか頑張ろう、と挑戦している姿に対して、「逃げている」とダメだしの言葉を投げかけるようになってしまいました。

とコメントしている。私にはどちらも妥当な発言と思える。ではこの対立はどこから来ているのか。もう飽き飽きしている方には申し訳ないがまた赤い円と青い円で説明してみる。

社会運動家

1

昔の社会運動家は、社会にマイナスなのに儲かることへ規制をかけたり、プラスなのに商売にならないことへ補助金を出したりすることを目指した。儲かる=悪といった考えのもと、悪に立ち向かったのだ。

ベンチャー起業家

2

ここ十年ほどのベンチャー起業家(便宜上そう呼ばせて頂く)の興隆はそうした旧来型の社会運動が一段落してから始まった。そうした運動の結果として、金儲けは悪いことではなくなったのだ。例えば、

ビル・ゲイツのように死ぬほど稼いで社会に貢献するというなら分かるし、自分もいずれそうありたいと考える

という発言には金儲け=社会貢献という前提がある。金儲けは悪という古い思想を捨てて、社会のために事業を起こすという姿勢がある。これは、図で言えば内側への回帰だ。

社会起業家

3

社会起業家という新しい流れは、上の展開への揺り戻しと捉えられる。ベンチャーが社会の表舞台に立つ環境の中で育った新しい経営者が、その手法をまだ解決されていない社会問題へ適用しようとしているのだ。これは上の絵で言えば外側への矢印だ。

社会起業家はそうしたものから逃げているように見えてしまう。

しかし、そうした行動は円の重なった部分でビジネスをすることを是とするベンチャー起業家には矢印通り逃げているように写る。

私は有限なリソースを集中して掘っていくべきだという考えで、自分が決めた仕事や業種に徹底的にこだわって、そこで成果を出そうとする。

これも同じ趣旨だろう。ベンチャー起業家のテーゼは上の赤い円と青い円が重なる部分が重要だというものであり、外側に出て行く動きは前時代的なものに見える

私に言わせれば経済で先行きが見えないから、別の方面に関心が向かっているだけなのだ。

この発言は面白い。社会起業家が外側に向かっていく理由の一つは、内側での競争が激しいからだろう。ベンチャー起業家により内側でのビジネスの重要性が認識されると多くのビジネスがひしめき合うようになる。利益を上げるのは難しくなるし新しい企業が入っていくことの限界的な社会的価値も逓減する。既に何十社もプレーヤーがいる市場に新しい起業がはいっても実質的な競争促進効果はほとんどない。社会貢献を目指す起業家が、内側ではなく外側に目を向けるのも頷ける

しかしこれは悪いことではない。新しい社会起業家は旧来の社会運動家とは異なり、市場の仕組みとインセンティブの重要性を理解している(してないひともいるだろうが)。新しい手法を社会問題に適応することで円の重なりを大きくできる。

またベンチャー起業家は社会起業家をこの点で批判することはできない。彼らもまた、外側を目指した社会運動が進みその限界的な効果が薄れたときに内側に戻ってきたのだ。旧来の社会運動をしていた人間にとっては彼らは同じような批判の的だろう。

社会としてはどちらの運動も必要であり、論争に足を取られることなく、それぞれの事業に邁進してもらいたいところだ。

追記

最初の社会起業家の図の前にはやはり内側に向かう動きがあって、それは今の財閥系起業を興した起業家の人々によって支えられていたのではないか。

どうやって毎日ブログを更新するか

最近、TwitterやTumblrを使っていてブログの更新が止まったという人が多い(参考:Twitterとイノベーション)。どうやって毎日ブログを更新すればいいのか、という話もよく聞く。

この問いへの答えは実はとても簡単だ。ブログの更新を違う作業に置き換えてみればすぐに分かる。例えばこうだ:

どうやって毎朝仕事に行けばいいか

そんなことは世の中のほとんど人が毎日ちゃんと達成している。目覚ましを掛ければいいだけだ。毎日20km走るというなら物理制約もあり簡単ではないが、ブログを書くというのはそんなに難しいことではない。

毎日ブログを書こうと思っているのにそれができないのは、目的意識が薄いという問題の一つの帰結に過ぎない。それを解決せずして、頑張って更新頻度を挙げてもろくなことにはならないだろう。全然仕事にやる気がない人が毎日二日酔いで家族に無理やり起こしてもらって仕事へ出かけても誰のためにならないのと同じだ。だから「毎日更新したいんだけど…」とか「書くことがなくて…」とか言っているブログはどれもつまらないのだ。

思ったとおりに運営できていないブログはどれも目的意識がないから内容が薄い。もちろん、目的がはっきりしていればいいのだから毎日でなくても思い通りのペースで更新されているならそれでいい。しかしはっきりとした目標があれば毎日のように更新されていたとしても不思議はない。

逆に面白いポストを見つけると、そのブログは毎日のように更新されていることが多い。どうやってそんなポストを毎日書くのかと思ってしまいがちだが、それは偶然ではない。面白いブログはきちんとした目的を持っているブログで、それゆえに毎日更新されるだけだ目的意識があるがゆえにその内容にも統一性がある。互いに関係のないポストが並んでいるブログは更新が途絶えがちのブログ同様に内容に乏しいことがほとんどだ(注)。

もちろんブログは仕事じゃないという人もいるだろう。

どうやって毎回ヨガのクラスにいけばいいか

この場合、本当の問題は毎回出席できるかどうかではなくて、そもそもそんなクラスに毎回行く必要があるのかということだ。目的がないのなら毎日更新できるか悩む必要はないし、目的があるのならそんなことで悩むこと自体ないはずだどっちつかずだからいけないのだ

(注)芸能人などのブログは一見乱雑でも、目的が本人の生活をコアなファンにみせることなのであり、その点で一貫している。

移民が必要な本当の理由

少子化に伴い大規模な移民受け入れの是非が日本でも議論されるようになった。長所・短所見極めることが肝要だが、あまりとりあげられないメリットがあるので紹介したい。しばらく前に読んだ記事になかなかいいストーリーがある。

America’s Secret Innovation Weapon: Immigration – GigaOM

Immigrants come to the United States and take menial jobs so that their children have a chance at a better future, he told me. While the jobs they take are below their intrinsic capabilities, they’re focused on giving their children a better life, not personal job satisfaction.

著者は父親から聞いた話を取り上げている。移民は生来の能力に見合わないような卑しい仕事につき、子供のために働く。

Second-generation children, seeing how hard their parents work to give them an opportunity, in turn work hard at school, where, he noted, they often focus on mathematics and science in pursuit of the economic returns promised by careers in engineering and medicine.

二世は親が開いた機会を活用し、工学や医学などを目指す。

Third-generation kids figure the economic return on effort expended is better for business and legal professionals and pursue those professions instead of technical ones.

三世はビジネスや法律関係の仕事の方が技術職より効率的に儲けられると気づきそういった職につくようになる。

By the fourth generation, any immigration-related incentives to work hard are largely nonexistent.

四世にもなると移民という出自に基づく、勤労へのインセンティブはなくなる。

この話はかなり現実に基づいたものだ。「どうして三世の所得が低いか」では次のように書いた:

移住を決意する外国人は平均的に能力が高い。しかし、彼ら自身は移民に伴いそれを完全に生かすことができない。その子供である第二世代はその高い能力を受け継ぐ一方、高度の教育を受け高い所得を得る第三世代になると、遺伝的能力は平均に回帰していくため、集団としてのアドバンテージは消えていく

上のストーリーが基本的に正しいことがわかる。海外の移住を決意する人間はたとえ学歴や資格、既に確立された地位がなくとも平均的にいって能力が高いはずだ。

日本では移民自体ほとんどいないのでこれは実感できないかもしれないが、これは感覚的にも正しいように思う。日本人の永住者を含め、アメリカでの移民の多くに当てはまる。第一世代の移民は文化や言語の問題もあり、あまり社会的な活躍ができないが平均を有意に上回る能力を持っている。

これは大学院に留学してくるような層だけについての話ではない。国境をまたいで渡ってくる人間は自分の能力が高く、それが自国ではいかせないが故に移住するのだ。

さらに軽視すべきではないのでは、単純な能力だけでなくリスクに対する態度だ。たとえ能力が同じ人間であっても自分の故郷から離れ外国に住み着こうとする人間は遥にリスクを受け入れることができる人間だ

日本は特にリスクをとれる人間が足りない。優秀でリスクのとれる人間が少ないと、思い切ってリスクをとった人間に対する目も冷たくなってしまう。新しくビジネスを始める人間が、優秀でリスクのとれる人間と見られるか、他に何もできない社会から外れた人間と見られるかの差だ。

二世に関する議論も妥当だ。親がお金を稼いでいる現場をみて育つことの多い二世は教育を受け、より効率のよいビジネスを目指すことも多いし、逆にお金の関わらない学究の道を歩むことも多い。どちらも社会にとって大きなプラスをもたらす。

移民に関する議論はゼロサムをベースに考えるべきではない。ビジネスを起こす人間、科学や工学の研究に従事する人間は決められたパイを奪っていくのではない。いかにパイの全体を増やしていくかが問題だ。

そしてまた移民を受け入れることで問題が生じるという時それが移民であるがゆえの問題なのかを考えて欲しい。移民は自分や子供の生活をよくするためのたくさんのエネルギーをもった存在だ。それが問題を起こすなら、まずすべきことは自分たちの生活を改善するというごく真っ当な欲求が社会のためになるような仕組み作りだ。これは移民がいなくても同じことだ(参考:「金儲け=悪」の話を絵で説明してみる)。ただし、移民には社会の暗黙の了解や固有の道徳はなかなか通じないので、それらになるべく頼らないような設計を心がけたい

コメントについての追記

clydemenderさんのご指摘のとおり、最後の一文:

ただし、移民には社会の暗黙の了解や固有の道徳はなかなか通じないので、それらになるべく頼らないような設計を心がけたい

は実はこのポストのポイント。自国民ではうまく回っている社会も、それが「社会の暗黙の了解や固有の道徳」に依存している場合には移民を受け入れてもうまくいかない。移民が一般的な国家においては、常識・道徳の類は自然に明文化された法律によって置き換えられている。移民の問題を抜きにしても、社会の変化が激しい状況ではこういった依存から抜け出すべきだろう。

また生永雄輔さんからは以下の指摘があった:

米州では成功している事と、欧州で失敗している事の比較がないのが気になる。多分移民を考えるにあたって、一番比較しやすいのはこの両者じゃないかと。

これももっともな指摘だ。私自身はヨーロッパで暮らしたことが(すごく小さいときを除き)ないので、何も言えないが関心がある。そのうちヨーロッパの人に聞いてみよう。もちろん数字を見ていくことはできるが、クロスカントリーの統計分析になってしまいあまり生産的とは思えない。

自閉症患者が活躍する会社

追記:Twitterを通じてMarkovianさんから

自閉症教育やってる妹に確認取りましたが、「自閉症患者」とは言わないそうです。「自閉症児」「自閉症者」と言うらしい。自閉症は病気ではないというのが基本概念とのことです。

というご指摘をいただきました。「病気」の定義に関わる問題ですが、ごもっともな指摘だと思います。単に修正するよりも多くの方にこの話を知っていただくほうがいいと思うので、本文中の表現は変更しないことにします。

最近、ビジネスをして利益を出すことの意義について書いたが、ちょうどよい具体例があったので取り上げたい:

自閉症患者をソフトウェアのテスターとして育成する試み – スラッシュドット・ジャパン本家/.記事

米国シカゴの非営利企業Aspiritechが、高機能自閉症をソフトウェアのテスターとして育成するプログラムを立ち上げたそうだ。

紹介されているのはAspiritechという企業で、自閉症患者をソフトウェアテスターとし雇用するそうだ。非営利とは言え、単なる慈善事業ではない:

Aspiritechによると自閉症患者は不完全さや欠陥を見つける才能があり、予測可能で変化の少ない仕事を好むという。デンマークの Specialisterneも自閉症患者の就労プログラムを組んでいる企業の一つだそうだ。データ入力や組み立て作業など、他の人であれば退屈に感じる 反復作業などに派遣しているとのことで、データ入力に関しては8倍の正確さであるという。

あくまで自閉症患者の長所をいかして利益を挙げるためのビジネスだ。これがビジネスと成立しており、社会的にも望ましいことは明らかだ。自閉症患者はこの仕事を他の人よりもうまくこなせるのでより多くの賃金を得られる。顧客は相対的に安いサービスを受けられ、これは消費者にもプラスとなる。そしてもちろん企業は利益をあげる。これらのプラスがどのように配分されるかは競争相手の数などによって変わるが、みんな何かしら得をする

ところで何故この企業は非営利企業なのだろうか。非営利企業が慈善団体と異なることについは以前「非営利と営利との違い」で述べた:

どんな場合に非営利団体という形態をとるのか。それは特定の目的を達成する上でそうすることが効果的な場合だ

ではこのケースではどうか。それは障害者を使う=搾取するという世間の嫌悪感(repugnance)を避けるためだろう。障害者の人権が保障されていない状況では、障害者を使うことはしばしば彼らからの搾取を意味したと考えられ、これに対する反感が社会に醸成されるのは不思議ではない。ここでも道徳は社会の変化についていっていない

非営利であれば、搾取により利益を出してもそれを社外に出すのが難しくなる。搾取するインセンティブが減れば、搾取は行われないと考える人が増え、このビジネスはよりスムーズに進むだろう。もちろん非営利であれば政府の支援を受けやすいこともある。

このビジネスが動き始めているのはアメリカだけではない。このストーリーはTwitter経由で見つけたが、それに対して徐勝徹さんからご自身が経営に参加しているKaienという会社を紹介して頂いた

Kaienは3つのことが重ならなければ、私にはとても考えもつかないことでした。

1つ目は、息子が、自閉症と診断されたこと。

2つ目は、起業精神が旺盛なアメリカのビジネススクールで学べたこと。

3つ目は、スペシャリステルネというデンマークの企業を「発見」できたことです。

これは代表者である鈴木慶太さんのメッセージだ。Kaienは株式会社だが、その目的は単純な利益目的ではないことが分かる。こういう言い方はしたくないが、この点を強調することは上記の反感を防ぐ上で重要なことであり、ビジネスとしてうまくいくかを大きく左右する。障害者から搾取を防ぐ道徳感情は、障害者に直接関係する人であればあまり働かないからだ。

社会のためになるビジネスの足を引っ張るような道徳は早くなくなるべきであり、こういったビジネスがちゃんと成功するかどうかは社会の試金石となるだろう。障害者が活躍するビジネスを誰でも堂々と運営できる世の中になってほしい。

コメントについての追記

おたきちさんから次のようなコメントを頂きました:

神戸にある社会福祉法人 プロップステーション が以前からそういう事業をやっていますよ。

こういった事業を手がけている団体が既にあるのは素晴らしいことだと思います。ここに新しい会社が入ってくるのは、競争を通じて消費者も雇用される自閉症者もより大きな利益をあげることにつながります。

また、KaienのようにアメリカのトップMBAプログラムでビジネスを学んだ人々が加わることで、この事業分野のさらなる発展が見込まれます。企業と社会福祉法人との対立という見方ではなく、競争でより社会のためになるという視点が必要です。普通の財・サービスの世界では当たり前のことですが、その当たり前の見方が障害に関する事業においても適用されるようになることが重要でしょう。