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経済報道の質

オバマ政権の政策分野でどの分野によりよい報道が必要かについての調査がGallupが公表されたようで、Freakonomics Blogで紹介されている:

Disequilibrium in the Market for Economics Reporting? – Freakonomics Blog – NYTimes.com

経済が40%、医療30%、戦争12%、テロ11%、特になし6%となっている。どうしてこんなに需要が多い状態が続くのか。誰かジャーナリストが出てきて経済記事を提供するはずではないか。この理由として次の五つが紹介されている:

  1. いま景気が悪いから経済が注目されている
  2. 経済について書くのは難しい
  3. 量を増やすのは簡単だが質を上げるのは難しい
  4. 外部から人材を登用することが難しい
  5. 質のいい記事がほしいと「答える」人が多いだけで実際の需要はない

I think number five rings true. I would be interested in data on number one […] Numbers two or three might be part of the story, but each of these only works if the dynamics of number four are part of the story.

これについて著者は5番目が一番それっぽいと述べている。これは基本的に口で言っていることが本当の希望だとは限らないというエコノミストの基本的な考え方を反映している。また1,2,3については4の産業としてのジャーナリズムの硬直性がなければ関係ないと言う。何故なら経済について質の高い記事を書く人間を雇うこと自体は「不可能」ではないはずで、最初の三つが原因であるためには4が必要となるからだ。日本であればアカデミアを含め労働市場が硬直的なので4は深刻だろうし、2,3についてもアメリカにくらべると難しいだろう。

第六の理由をあげるなら、「経済」というトピックの幅の広さと個人の趣向の多様性が挙げられるだろう。人によって「経済」と聞いたときに思い浮かべる分野は違うので誰もがどこかで不満を感じているだろうし、「経済に関するよい報道」が意味するものが余りにもさまざまなので誰もが納得する解はないだろう。例えば、マウスの機能に不満を持つ人はあまりいない。機能が単純で生産者にもつかみやすい。逆にコンピュータ本体や携帯電話であれば人によっていろいろな見方があるので誰もが満足することはなく、みんな何かしら改善の余地があると考えているということだ。

拷問の方がマシ

追記:数字の解釈についてデータ・経験に基づくコメントをいただきました。ご覧ください。

エコノミストの考え方が象徴的なポストがあったのでご紹介。ついでにアメリカの少年拘置所(Youth detention center)の実態も垣間見える。

Overcoming Bias : Torture Kids Instead

一行でリンク先の提案を纏めるなら、非行少年を今の拘置所に入れるぐらいなら拷問したほうがいい、ということだ。エコノミストはこういう一見過激な結論を述べることが多いが、批判する前に待ってほしい。大抵の場合、本人も本当にそれが何らかの絶対的基準に照らして望ましいと信じているわけではないのだ。むしろ、冷静に考えてみたらこういう結論になるのでそれを仕方なく受け入れているというのが正しい。ではこの場合の理屈はどうなっているのか。

The US state is a horrible parent; 12% of its “detained” kids are sexually abused each year, versus 4% of adult prisoners.

アメリカの少年院の実状が明らかにされている。毎年、収容された少年の12%(大人は4%)が性的虐待を受けてそうだ(BJSのソース)。多くの収容所ではその割合が1/3にものぼる。これが現状だ。

But, honestly, torture and execution look pretty good to me when compared with our actual prisons; … Branding or stockades seems less cruel than rape in pretty much any book.

ここに筆者の価値判断として、かなりの確率でレイプされるぐらいなら、焼き印や拘束台(注)に繋がれる方がマシではないかとされている。この価値判断はそれなりに妥当だろう。上の事実とこの判断を認めるなら、今の拘置所よりも拷問のほうがマシだろう、という結論を受け入れざるをえなくなる。それは拷問を肯定することではない。

Compared to prison, punishments like torture, exile, and execution are not only much cheaper, but they can also be monitored more easily, letting citizens better see just how much punishment is actually being imposed.

さらに、拷問は収容に比べて費用がかからず、適切な執行がなされているかをモニターするのも容易である。後者は、収容所・刑務所の問題が管理する人間をうまく管理する方法がないというところにあることを考えれば重要な論点だ。

この結論を受け入れたとして拷問を導入する必要はない。現状の刑務所を改善し、拷問の方がマシだという状況を変えればよい。してはならないのは、結論を批判し、現状に目を背けることだ。例えこの事例が日本に当てはまらずとも、どんな問題についてもまず現状を理解するのが必要なことは変わらない。

(注)Stockade。定訳不明。晒し台(Pillory)の晒さないバージョンのこと。

追記

どうしても理解できない方がいらっしゃるのでまとめると、[latex]A=[/latex]現状の刑務所、[latex]B=[/latex]体罰の方がまし、として[latex]A\Rightarrow B[/latex]だと述べています。これは[latex]B[/latex]を意味しません。なぜなら[latex]A[/latex]が真でなければ[latex]A\Rightarrow B[/latex]でも[latex]B[/latex]は真になりません。

「金儲け=悪」の話を絵で説明してみる

岡島純さんのご指摘により、図表を入れ替えてみました。いかがでしょうか。何がご意見ありましたらコメント欄やTwitterでお願いします。

同じ話ばかり続いてしまうが、「金儲け=悪」の一連の話(ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう「金儲け=悪」の由来)を絵に描いてみた。

最初の状態

orig

社会制度が未発達な段階では望ましいことと儲かることとは一致しない。いわゆる犯罪に該当する行為や公害のように他の人に迷惑をかける行為はお金になるからだ。逆に教育や発明など社会にとって必要なことでも儲けが出せないことも多い。八百屋のように儲かるし望ましいビジネスもあるが、それは儲かることのうちのごく一部にすぎない。よって「金儲け=悪」は近似的には当たっており、そういった思想が残っているのは驚くことではない

理想的状態

optim

しかし強力な警察機構を備えた民主国家は、法律によって何が割に合う=儲けがでるかを操作できる。図でいえば赤い円を移動することができるということだ。よって、われわれはなるべく赤い円を青い円に近づけようとする。そうすれば、儲けようとするだけで社会のためになり、社会のためになることをしていればそのための資金が儲けとして入ってくるようになるからだ。

現実

real

しかし、法律や規制は完璧ではない。現実には、赤い円と青い円は一致しておらず、パッチワーク状態だろう。強盗を犯罪化し、公害は規制し、発明は特許制度で保護し、教育は政府が直接供給するといった具合だ。この段階ではまだ儲かるが社会的には望ましくないことも残っているし、社会的に望ましいのにお金にならず維持できない事業もある。ただ、多くの望ましいことはすでに利益を生み出すことができるようになっているので、とりあえず社会に貢献したいならそういった事業を選べる状況だ

経済学の役割

econ

経済学はこの赤い円と青い円を近づけるということに貢献する。どこまでが望ましいことであり、それゆえに儲かるようにすべきかを決めるのは実際にはとても難しい。例えば特許制度は発明を儲かるものにするが、全ての発明を保護することが社会的に望ましいとは限らない。医薬品の開発には特許制度が不可欠だが、ビジネスモデル特許は弊害が多く指摘されている。経済学は費用便益分析(CBA)や規制影響分析(RIA)でそういった社会制度・法律・規制・事業が社会的にプラスなのかマイナスなのかを判定する。これは図でいえば青い部分を確定して、それに合わせて赤い領域を決めていくことに該当する

おまけ:道徳の役割

実は道徳にも赤い円と青い円とを近づける効果がある。例えば、嘘をついてお金を儲けることは望ましくない。嘘は悪いことだという道徳はそういった行動を抑制するとともに、その道徳を破るものへ社会的なペナルティーを与える。いつも嘘をついている人間に世間は厳しく、割りに合わないということだ。しかし、「金儲け=悪」の例のように道徳は社会の変化に遅れをとる。これは道徳を批判・改定することは道徳的でないという、道徳の根本にある同語反復的な構造を考えれば不思議ではないだろう。

どんな道徳を持つべきかについておおっぴらに語ることができないということは、道徳が社会の流れに歩調を合わせられないだけでなく、基本的に大雑把なルールでしかありえないことも意味する(注)。言葉を通じたコミュニケーションなしに複雑なルールに合意することはできないからだ。例えば独禁法は反競争的な企業行動を規制するが、何が反競争的かは簡単には分からない。このような場合には道徳は問題を解決できないだろう。水平合併は悪、垂直合併なら善みたいな道徳を想像するのは難しい。経済学と道徳は同じ問題に取り組んでいるとも言え、経済学がしばしば道徳的に批判されることも説明できる。

(注)これはごく基礎的と考えられる二つの道徳原理が衝突するようなケースを簡単に想定できることからも明らかだろう。古典的な例では、薬を盗むのは悪いことだが、子供を助けるのはいいことだというようなケースだ。

コメントに関し追記:

maru62さん:

実際は赤い円が青い円を飲み込んで包含しつつある

これは鋭いご指摘です。国が青い円に含まれていないのに儲かることを放置したまま、赤い部分ばかりを広げているというのは日本を含め多くの先進国の現状です。儲かることを増やせば政治力を持った人間がその分け前を手にすることができるためです。

atsushifxさん:

金儲け=正義 となるのは、社会が整備され市民が社会を信じることからはじまる。官僚バッシングが共感されることから見ても日本の社会は信頼されていない

これは経済学の役割のところで説明したように、青い円の位置が簡単には分からないことにより生じると思います。自分たちで調べるのはあまりにもコストリーなので信頼が必要とされます。経済学はここに定式化された計算を持ち込むことで、単純な信頼への依存を減らせると考えます。

unagiameさん:

てか、経済学は功利主義から派生したモラルサイエンスですよ。ケインズ曰く。だから、経済学は道徳の一種と考えるとよく分かる。

アダムスミス以前の「経済学者」は基本的に道徳哲学者ですね。経済学を勉強しようという大学生はギリシャ哲学からメタ倫理学まで、ある程度の倫理学を学んで欲しいと思います。

倫理に関するエコノミストの態度

日本語でブログを書き始めたので、最近経済についての日本語のブログを探している。今回はその中で経済学がどういうものかについて書かれたエントリーについて:

そうか、経済学って世の中のための学問なんだ – WATERMANの外部記憶

「対話でわかる痛快明解 経済学史」という本を読んで感じた経済学についてのイメージについて書かれていてとても興味深い。どの分野でも暫く浸かっていると、世間から自分のやっていることがどう思われているのか分からなくなる。これは先日書いた「何で経済学は難しいのか」というエントリーで頂いたコメントでも痛感した。

このブロガーの方は経済学が世の中のための学問だと感じて頂けたそうだ。それほどサンプルが多いわけではないので確証はないが、個人的な印象ではエコノミストはこの点に関していくつかのタイプに分けられるイメージがある:

  1. 人間の行動を説明することが主目的で規範的な判断を避ける(数理系や実験系など)
  2. 特定の目的の達成のために経済学が最も役に立つと考えている(開発系やファイナンス系など)
  3. 研究対象に倫理的判断が必要ないので深く考えない(マクロ・成長論など)
  4. 経済学が最も妥当な規範を提供していると本気で考えている(応用ミクロ系)

タイプ1はそもそも経済学が倫理的な判断をすると考えていない。自分のやっていることが社会のためにどうかについては考えないし、むしろそれが善悪の判断に使われることを嫌う。理論系であることがほとんどだ。

タイプ2は二種類に分かれる。一つは途上国開発、教育政策、移民支援、ジェンダーなどの問題を解決したい人たちだ。彼女ら(実際に女性の割合が多い)は道徳判断を経済学に準じて行っているというよりは、既に持っている目的を達成する手段として(計量・実験)経済学を使っている印象がある。集団の行動をコントロールするという点において経済学は心理学・社会学より優れているためである。二つ目はファイナンス系の人だ。彼らは一般的道徳と関係のない目標を持っている点で一つ目のパターンと異なるが、経済学を人間の行動を説明する便利な理論としてだけ使っているところはかわらない。

タイプ3は、倫理的判断がそもそも必要ないパターンだ。もともと景気変動や経済成長など文字通りの経済現象に興味がある人が多いように思う。経済を勉強している理由は経済に興味があるからで倫理的なそれとはあまり関係ない。また、景気変動は少ないほうがいいし、成長は早いほうがいいので倫理的判断をする必要があまりない。一応自分のしてることは社会のためだと考えているが、実質的にはタイプ1と大差ない。

タイプ4は、一見倫理的な人間には見えず、しばしば冷たい印象を与える。もともと強い道徳観を持っておらず、それ故に論理的に考えた上で経済学を最も妥当な判断基準として採用しているタイプだ。道徳の外に立っているため個人レベルでは無道徳(amoralであってimmoralなわけではない)だが、社会レベルの判断については最も強い信念を持っている。費用便益分析を持ち出す人はほぼ確実にこのタイプだ。

私はというと、倫理学から経済学にたどり着いた典型的なタイプ4だ。いわゆる経済現象には何も興味がなかったが、社会的にすべきことは何かについて考えていたらそれが経済学の提示する倫理観と一致していた。今では人並みに経済現象にも興味を持っているが、いまだにマクロ金融政策には何も興味がわかない。