元記事はNew Scientistからこちら。
天才馬鹿は何故いるのか?:Why High IQ doesn’t translate into wise decisions
“A high IQ is like height in a basketball player,” says David Perkins, who studies thinking and reasoning skills at Harvard Graduate School of Education in Cambridge, Massachusetts. “It is very important, all other things being equal. But all other things aren’t equal. There’s a lot more to being a good basketball player than being tall, and there’s a lot more to being a good thinker than having a high IQ.”
IQはバスケットボール選手の背の高さだという。全くその通りだ。サッカー選手の足の速さだといってもよい。昔から頭のよさというのは足の速さに似ていると思っている。殆どが生まれつきであり、単独では何の役にも立たない。
One is intuitive and spontaneous; the other is deliberative and reasoned. Intuitive processing can serve us well in some areas
人間の情報処理には直感的なものと熟考を要するものに分かれるという。経済をかじったことがあるひとなら、これはゲームの均衡を求めるようなものだと考えればいい。IQテストが測るのはゲームツリーが与えられた時に特定の均衡を全て発見するようなものだ。しかし、ゲーム理論のクラスでいい成績をとるひとが通常のコミュニケーションをうまく運べるわけではない(それどころかむしろ逆だろう)。
The problem with IQ tests is that while they are effective at assessing our deliberative skills, which involve reason and the use of working memory, they are unable to assess our inclination to use them when the situation demands.
IQテストの問題はこの熟考のスキルしか測れないのが問題だそうだ。しかしこの批判は余り意味をなさない。短距離走の記録がサッカーの成績を表さないと文句を言うようなものだ。もしIQテストが一般的な頭のよさを示すと考えているとしたらそれが誤解なのであってIQテストにケチをつけてもしょうがない。
そもそも、二つのスキルがあって両方を上げなければならない理由もない。別の言い方をすれば「知性」が高くある必要もない。足の速さだけではサッカー選手にはなれないが陸上選手にはなれる(それの何が悪いのか、「知性」が足りないとでも言うのだろうか)。IQが高くて他がダメでも数学者にはなれるかもしれない。もちろんいろんな才能を組み合わせた方が労働市場では有利だろう(通常の労働は労働者総体としての評価であって特定のスキルではないからだ)。しかし、余りにも能力が偏っている=他の才能を伸ばすのが困難であるなら一つのことに集中するのも理にかなっている。
元記事のタイトルWhy a high IQ doesn’t mean you’re smartへの答えは単純だ。それはIQとsmartの定義が違うからに過ぎない。
It is not enough to say what intelligence is not measuring, you have to propose alternative ways of measuring rationality,” says Kahneman. Stanovich maintains that while developing a universal “rationality-quotient (RQ) test” would require a multimillion-dollar research programme, there is no technical or conceptual reason why it could not be done.
ではもっと広範な知性をどうやって測ればいいかについて論じられているが、これが困難なのは明らかだ。知性に何らかの定義を与えた途端、それは元々の知性とは異なるものになってしまう。それは「サッカー能力」をサッカーの試合での活躍以外の指標、例えばリフティングの回数、なんかで測ろうとするようなものだ。「知性」というものの正しい測定法が決まっていない以上、どの測定法がより存在しない指標を正しく測定しているかを判断することはできない。問題は「知性」という指標を何のために使用するかだ。サッカー選手の得点能力が知りたいのであれば、得点率・チーム間の戦力差などの指標からなにか数値を作れるだろう。高校生における勉強の出来なら模試の点数だ。受験に成功するかが焦点である以上当然だ。目的のない数字には意味がない。