人種差別の現実

巡回させて頂いているブログアメリカにおける人種差別の話について書かれていたので、前に読んでとても感心した黒人と白人の関係に関するエントリーを紹介(是非全文読んでいただきたい):

My Race Essay: What Whites Say Behind Blacks’ Backs « Colin Blog

著者は黒人が支配的なセントルイス出身で自らの経験から何故黒人に対する「差別」がなくならないのかについて論じている。まず現状については次のように述べている。

One such uncle of mine noted […] America is generally an “equal opportunity country.” I wouldn’t go that far, but this is how most white people feel and I think the truth is somewhere in the middle.

基本的に機会は平等に近づいている。これは私の感覚にも一致する。アファーマティブアクションが議論になるよう、教育などにおいて明らかな差別はない。

In my school, there was no systematic exclusion of the black students from excelling in academics. Most of the black students excluded themselves.

学校教育において、黒人が差別を受けているという事実はなく、むしろ彼らが勝手に勉強から離れていくとかかれている。その例として、黒人がほとんどの高校で微積分を取る黒人がいなかったこと、高校を卒業しているのに字が読めない歌手が挙げられている(アメリカの識字率の現実については前に書いた)。実際大学において黒人の比率は非常に低い(うちの大学は特に低いため時折批判に会う)。また白人と黒人は社会的にも早いうちに分離する:

But somewhere along the line, 5th or 6th grade, the white and black students started to segregate themselves.

これは大学になっても続いている。多くの大学生は自分の人種のグループから出ようとしない。小学校あたりで既に分かれているのならその傾向も不思議はない。

では何故「差別」はなくならないのか。これについて著者は自らがレストランでサーバーとして働いた時の経験から説明している。少し長いがまとめて引用しよう:

I have a theory to explain why blacks often suffer discriminatory treatment in society. From my experience in the restaurant service industry, servers and bartenders will tell you that black people don’t tip. This is bullshit. I used to argue that the average gratuity percentage of all black customers, while certainly lower, is not much lower than the average percentage from all white customers. The difference is negligible given low gratuities from rural white people and elderly white people.

But those ghetto white people aren’t such a pain in the ass. They’re in and out. Servers don’t remember them. Nor do servers remember the nice black family that was easy to take care of and left 20%. They remember the ghetto black table that sent back their food for trivial reasons, asked for free samples, complained to a manager, or were a major pain in the ass in some other way while not leaving a tip. The treatment I have gotten from ghetto black tables is simply unconscionable. You don’t get that from any other kind of people. Only black ghetto. Even black servers don’t want to wait on black tables. I was the guy that used to argue that waiting on blacks is not as bad as people make it out to be. And even I would get a feeling in my stomach when I saw a black table sit down in my section. Just the chance that this black table could be a black ghetto table could completely ruin my night.

掻い摘んで説明しよう。黒人客のチップが他の(同じような社会経済的ステータスの)グループに比べすくないわけではない。しかし、チップを払わない客のほとんどは単に食事してさっさと帰るだけなのに対し、一部の黒人客は大した理由もなく食事を突き返し、無料サンプルを要求し、マネージャーに文句を言うなど非常に面倒なことをした挙句チップを置かずに帰る。この体験が余りにも酷いのでサーバーは黒人の客が来ただけでもしかしたらその客がそういう客なのではないかと思ってしまう。

That feeling is uncontrollable. You can’t teach someone not to feel what has been conditioned into their system through experience, like a dog getting its face rubbed in shit after pooping in the house.

そしてこれが繰り替えされると、人間は自分の感情をコントロールできなくなってしまう。

My theory is that discriminatory treatment stems from people trying to thwart or discourage the triflin’ behavior of the ghetto segment. Imagine how police officers, whose exposure to black ghetto must be much higher, could come to treat all black people. Unfortunately, non-ghetto black people are often subject to the backlash against ghetto black people when they are not to blame. They are being treated unfairly. In my view, one third of the black population is fucking it up for everybody.

黒人の一部が余りにも酷いため、多くの人はそれに対策を講じる。ある路地に黒人が集まっていればそれなりの確率でそれが犯罪に結びつくかもしれないので避ける。これは極めて合理的な行動だ。観察できない情報(危険かどうか)が分からないのでそれと相関している他の観察可能な情報(黒人である)を利用しているに過ぎない。そしておそらく人間は単に相関している出来事にも恐怖感といった感情を持つようにできているのだろう(いちいち考えているよりも生存に有利だ)。だがこれは他の心理的問題とは異なる。なぜなら頭で考えたとしてもこの行動は(本人の利得を最大化するという意味で)正しいからだ。

しかも是非はともかく正そうとしても難しい。学歴「差別」を表面上禁止するのは簡単だ。単に求職者に学歴を聞くのを禁止すればよい。学歴はシグナルなので禁止するのは非効率的だろうし、実際に執行するのは困難だろうが理論上は可能だ。しかし黒人に対する「差別」を禁止するのは非常に難しい。肌の色は見れば分かるのでその情報を利用しないように強制することはできない。実際、黒人に多い名前を書いた履歴書を企業に送るとごく標準的な名前で同じ履歴書を送った場合よりも企業から反応がある可能性が有意に低いことが知られている。企業は少しでも観察不可能な情報と相関している情報を意思決定に利用する。

I can’t think of how normal, mainstream black people can disassociate themselves with the ghetto segment in order to receive normal treatment. The black ghetto segment is so triflin’ that the mere presence of a black person can cause worry in worrisome types.

ではまともな黒人はどうやってこの構造が抜け出すのかという疑問が掲げられている。これはそういう黒人を観察していれば分かる。多くの、ここでいうghettoでtriflin’な、黒人は大きなTシャツにダブダブのジーパンを腰ばきし、キャップやフッディー、指輪・ネックレスなどを着ている。それに対してまともな黒人はそれと限りなく反対の着こなしをする。Tシャツはほとんど着ないし、着てもサイズをきちんと合わせる。大抵はYシャツ。ジーパンもぴっちりとしたものを履くし、チノパンであることも多い。シャツはタックインしてしばしば上にはジャケットだ。スーツを着ている人も多い(これはカリフォルニアでは非常に珍しい姿だ)。しゃべり方もまったく異なる。アメリカの多くの黒人は特徴的なしゃべり方をすることが多くなかなか聞き取れないのに対し、彼らは他の人種よりもわかりやすいしゃべり方をする。オバマの演説なんかがいい例だ。

ではこの問題はどうやったら解決するのだろうか。「差別」が黒人であるという情報に基づいて異なる行動をとることを意味するなら上述のように極めて困難だ。「差別」的な行動により不利な扱いを受ける黒人に対する補償が目的であればアファーマティブアクションが該当するだろう。しかしこれは「差別」自体をなくすのには役に立たない。また、他にも観測不可能な情報と相関する特性を持っているがゆえに不利な扱いを受けているグループは存在する。

根本的な解決には、「差別」自体に対処するのではなく、通常の福祉政策・教育政策・再配分政策によって問題となっている層を何とかするのが唯一の対策だろう。人種によって明らかな優劣は存在しない以上、これらの政策によりいつかは人種との相関は消えていくはずだ(逆に言えば本質的な違いが存在しているタイプの「差別」に関してはこの方策は効果がない)。

スクルージノミクス

面白そうな本がいつも読んでいるブログで紹介されていたの注文してみた。本の名前はScroogenomicsだ。

Game Theorist: Scrooge is an economist

スクルージ(Scrooge)というのはディケンズの小説クリスマスキャロルの主人公で極めつけの守銭奴として描かれている。

Scroogeonomics is an aptly titled 170 odd page presentation of the case against Christmas but more generally against gift giving.

この本は贈り物をする習慣に反対する内容だそうだ。他人にプレゼントを贈るのがあまり「効率のよい」行動でないのは明らかだろう。第一に相手が何を欲しがっているのかが分からない。実際、

Actually, he does better than that, he calculates it. It is around $12 billion per year made up of the money value of the total difference between what a gift is worth to someone versus just having the money.

お金をそのまま渡すのに比べて年間120億ドルの無駄が生じているそうだ(そしてプレゼントを選ぶのに悩む時間費用もだ)。だからといって現金を人に上げるのは難しい。アメリカでは冠婚葬祭でも現金がやりとりされることはほとんどない。現金が望ましくないとされている社会では、ある個人がそれを変えることはできない。

とはいえこういう風習はだんだんなくなってきているように思う。親戚が子供に物を買って与えることは少なくなってきている(うちでは子供のころから現金だったような気がする)し、カタログや金券も増えている。百億ドル単位での無駄があるのならこの流れは当然だろう。むしろプレゼントを渡すという習慣がどのように発生したのかのほうが興味深い。ほぼ全世界共通ともいえる習慣であり単なる偶然なはずはない。この本がその辺を解き明かしてくれると期待してみよう。

マスキンによる金融危機の解説

メカニズム・デザインで2007年にノーベル賞を受賞しているEric Maskinによる今回の金融危機に関するインタビューがThe Browserにあった。

Economic theory and the financial crisis | Eric Maskin | The Browser

書籍の紹介をするセクションにも関わらず論文が挙げられていて面白い。紹介されているのは、

  1. Bank Runs, Deposit Insurance and Liquidity by Douglas Diamond and Philip Dybvig
  2. Private and Public Supply of Liquidity by Bengt Holmstrom and Jean Tirole
  3. The Prudential Regulation of Banks by Mathias Dewatripont and Jean Tirole
  4. Credit Cycles by Nobuhiro Kiyotaki and John Moore
  5. Leverage Cycles and the Anxious Economy by Ana Fostel and John Geanakoplos

の五つだ。三つ目のThe Prudential Regulation of Banks (MIT Press)以外は全て査読付きジャーナル論文だ(1,2,4がJournal of Political Economy、5がAmerican Economic Review)。当然インタビューも紹介されている文献の解説がメインとなる。

マスキンによる解説は非常にわかりやすいので詳しくは本文を参照して頂きたい。基本的な構図としては、

  • 金融機関は流動的な資産を流動性のない資産に投入する。
  • そのため一度に資産の引き上げや目減りが発生すると破綻する。
  • それを防ぐには何らかの保障が必要となる。
  • しかし保障を与えるとリスクをとるインセンティブが発生する(モラルハザード)。
  • レバレッジなどを通じ金融機関の行動を規制することが必要になる。

ということだ。銀行の取り付けと預金保険との関係がより広い金融機関に当てはまる。

彼の主張は、今回の金融危機は以前から既に理解されている現象であり理論的な対策は既に考案されていたというものだ。エコノミストに対する批判について、

I don’t accept the criticism that economic theory failed to provide a framework for understanding this crisis. Indeed, the papers we’re discussing today show pretty clearly why the crisis occurred and what we can do about it.

と述べている。ただし、市場が全てを解決するといった意見に対しては、

The sort of economics that deserves attack is Alan Greenspan’s idealized world, in which financial markets work perfectly well on their own and don’t require government action. There are, of course, still economists – probably fewer than before – who believe in that world.

グリーンスパンを引き合いに出して批判している。これは上に挙げたように、金融機関が構造上規制を必要とする産業であることを考えれば当然である。もちろん理論を実装する困難についても指摘されている。

A major task now is to devise regulations that will help prevent this kind of crisis from happening again. Theory will inform this undertaking, but translating the theory into simple, effective, enforceable rules is not a trivial undertaking.

オバマ政権がこの仕事をできるかという質問については、

Well, I believe that the economists in the Obama administration probably have a pretty good grasp of the principles we’ve been discussing. So I think that in the US there is a reasonable chance good regulation will be formulated. What I’m not so sure about is what will happen when Congress gets into the act.

楽観的な見方を示している。しかし、議会が絡んでくるとどうなるかは分からないということだ。議会が利益団体に影響されやすいというのはアメリカでよく指摘される事態だ。

何故嘘は犯罪ではないか

嘘をつくことが何故法律で規制されないのかについて:

Overcoming Bias : Allowed Lies

We now empower the legal system to punish folks for “fraud” in misrepresenting themselves in contracts, and for certain other sorts of lies known as “slander” and “libel.”  Which makes sense because we think such lies hurt us overall. But beyond these cases the legal system isn’t much empowered to punish lies.  Why?

詐欺や名誉毀損などは規制されているが一般的な嘘は規制されていない。理由はいくつか挙げられている:

there are many areas in which it is not very clear what exactly is a lie

there are also many other areas, such as in flattery, where we are well aware that most folks lie most of the time

一つには嘘を定義するのが難しいケースがあること、もう一つは真実とは異なることを述べるが当たり前のケースがあることだ。

we could voluntarily choose to bond ourselves to a private agency that would keep some deposited cash if we were ever caught in a lie.

さらに規制されていないだけではなく民間企業が嘘をつかないことを保証する仕組みを提供していないと指摘している。

一番大きな問題は嘘が定義しやすいかどうかというより嘘をついたことを確定する手段がないことだろう。著者のRobin Hansonは、既婚者が独身を装って女性に声を掛けるケースを挙げている:

For example, consider the case where a married man lies about whether he is married when trying to attract a single woman into a relationship.  Single women typically insist they do not want such lies, and it would be easy to determine if the man is in fact married.  So why do we not use the legal system to discourage such lies?

もちろんこの場合嘘をつく本人は意図的に嘘をついているので民間企業が信頼を担保することはありえない。彼は、

the costs to reliably determine if a lie happened could be low

嘘をついていたかを判定するコストは低いといっているがそんなことはないだろう。言ったか言ってないかという話は常に確認は困難だ。結婚しているかいないかを話のネタにすることも考えられる。

また、この例でいえば行動の帰結が規制されているため行動それ自体を規制する必要はあまりないし、本当に未婚か否かを知りたいのであれば比較的小さな費用で調べることが可能だ。

言論の自由との兼ね合いがあるので「嘘」を規制するのはそれが正確に定義でき、有無が正確に決定でき、帰結を規制するのでは足りず、情報を提供するのでも間に合わない場合に限るべきだ。そしてその数少ない例外が詐欺・名誉毀損の類だろう。

ちなみに著者はジョージ・メイソン大学の経済学者であるが、このエントリーには経済学者らしからぬ部分がある。

Single women typically insist they do not want such lies

それは嘘をつかれたいかどうかと聞かれれば嫌だと言うだろう。いい人とそうじゃない人どっちが好みかと聞かれたらいい人だと答えるようなものだ。一般に言って、あるものが欲しいと発言することとそれが本当に欲しいこととは別のことだ。

“Everything is worth what its purchaser will pay for it.” – Publius Syrius

単に質問してもしょうがない。相手の行動とその行動を取るための費用を観察することが必要だ。

クリーピー

アメリカでおそらく最も有名なオンラインコミックxkcdから:

xkcd – A Webcomic – Creepy

電車で気になる女性を見つけた男性が声を掛けようとするが、一人で最悪の事態を想定して何もしない。でも女性も実は興味を持ってるというプロット。

ここの四コマは割合いつも面白い。今回は二点ほど考えることがある。一つはこの場合の男女マッチングがうまくいかない理由は情報が不完全であるためだということ。この場合両者が興味を明らかにすれば共に得するはずだ。しかし、均衡において情報は隠れたままだ。登場人物の男性は失敗した場合の損失=恐怖が大きすぎるので相手から明らかなシグナルがなければ声を掛けない。それに対して女性から明らかなシグナルを送ることは相手が女性のことを軽い女だと誤解してしまう(ないし知ってしまう)可能性がある。よって両者ともに何もしないことが均衡になる。この問題については、複数回の接触による情報のやりとり、お見合いのようなシステムが解決策になる。しかしこれらはどれも現代社会では役に立たない。見知らぬ人間が出会いをし続けるという状況自体がごく近代の産物であるためだ。

それに加え進化心理学的な問題がある。上のような解決策はどれも両者の選好を所与としたうえで情報問題をどのようなメカニズムで解決するかということだが、冷静に考えればそもそも両者の選好はあまり合理的とは言えない。例えば男性が声を掛けて失敗することを恐れるのは合理的なのか。現実には、この四コマに出てくるようにfacebookを通じて失敗が知れ渡ることはない。最悪彼女の友達のネタになってもそれ以上の何かがあることではない。よって男性が失敗それ自体を恐れるのはあまり賢いようには思われない。

これは進化論的に説明できる。人間は通常のリスク(特に非常に小さな確率で生じる現象)についてはしばしばリスク愛好的であるのに対し、社会的なリスクについては極めてリスク回避的である。猿が自分の遺伝子を広めるためには子孫が繁栄する必要がある。ある猿にとって森を離れて歩き出すことはその猿自身にとって期待値に言えば自殺行為だが、成功した場合には子孫が繁栄する。その猿の人生にとってはマイナスでも進化論的には非常に適切な行動なのだ。そして我々はみなそういう猿の末裔である。これにより人間が極めて小さな確率を過大評価すること、例えば期待値が価格の半分でも宝くじを買うという行動、が説明できる。それに対し、社会的なリスクは猿にとって致命的だ。二十匹の群れにおいて村八分にされることは個体の死を意味する。そのため社会的行動においては非常に慎重になるのが望ましい。

しかしこれらは何れも現代社会においては当てはまらない。宝くじが自分だけ当たるかもしれないと思うことも、アイドルをみて自分もなれるんじゃないかと思うことも本人の人生にとって期待値的にプラスにはならない(大抵の人が家庭を持って子孫を残せる世の中では進化論的にさえ有利でない)。同じように社会関係における過剰なリスク回避行動も本人の得にならない。この四コマの場合であれば男性が失敗を気にするのは不合理だ。失敗してもまたその女性と会うことはおそらくない。バーであれば次のバーに行けばいいだけだ。最悪違う街にでも引っ越せば何も分かりはしない。

女性にとって同様だ。噂が広まらずほぼ確実に避妊が可能な社会において女性が実際に貞淑であろうとするインセンティブはない。但し、男性には、少なくとも長期的な関係においては、そういう女性を望む強い選好がある点だけは多少違う。男性は子供が本当に自分の遺伝子を引いているかを確認できないからだ。そのため女性は貞淑である必要はないが、そうである振りをする必要がある。具体的には、会話が始まっても簡単に関心を明らかにせず、時間を掛けるということになる。それに対し男性は相手に合わせて待つか、時間を掛けずとも身持ちが悪いということにはならないと説得することになる。この構造は子供に対するDNA鑑定が一般化し、そのことに適合した制度ができれば多少変わるだろうが当分はこのままだろう。