客は嘘をつく

以前にも取り上げた起業家のBen Casnochaのブログで、RedditのIamAシリーズが取り上げられている:

Ben Casnocha: The Blog: Your Customers Lie to You

Our customers want mediocre food cheap. Every time we release a higher priced but higher quality product, the people who said they would pay for it… never do.

You say you want more fruits, salads, organic, all natural, etc. well then start buying that stuff and stop buying double cheeseburgers. Our best selling stuff is always whatever we can make taste good, at rock bottom prices.

We’ve actually learned not to listen to our customers when it comes to a lot of things. Health nuts won’t come into McDonald’s to eat even when we give them what they want.

自分は○○だ名乗る人間が質問に答えるIamAシリーズの今回のお題はマクドナルドの重役だ。その中で彼がおもしろいと思ったのが上の一節だ。要約すると:

客は少し高くても健康なメニューを作れというが、実際に作ると誰も買わない。売れるのは何でできているかはともかく美味しくすることができてひたすらに安いものだ。もはや客の声に耳を傾けるなんてことはやめた。

といったところか。これは実際のビジネスでも重要な事実であると同時にエコノミストの考え方を端的に表している。

Instead of asking customers how much they would pay for a hypothetical product, ask them how much they’re currently paying for however it is they’re solving the problem that you are trying to solve.

いくら払うかを聞くのではなく今いくら払っているかを聞くべきだし、

it can work to ask a direct question but discount the words that come out of their mouth and pay attention to body language.

聞きたいことを直接尋ねるよりは体の動きに注意すべきだ。

この根底にあるのはいつも通りのインセンティブだ。ある人に特定の行動をとらせるためには適切なインセンティブを与える必要がある。それは「正直に答える」という行動についてもあてはまる。

「正直に答える」インセンティブを与える仕組みについて考えることもできるがもっと簡単な方法がある。それは実際の行動を見ることだ。健康なメニューの価値を知りたいならアンケートを配るよりも、客が健康なメニューにどれだけのプレミアムを払ってるかをみればよい。命の価値が知りたいなら、死の危険を避けるたにどれだけ払ってるかをみればよい。無限大と答えられるよりはよっぽど正確な値が計算できる(無限大はそもそも数ではないし、比較できないので使い道がない)。

体の動きを見るのは逆にインセンティブによって変化しない反応を見るという作戦だろう。解釈が難しく、特定の状況でしか利用できないし、対策しうるという弱点もあるが、これもしばしば有効な戦略だ。実際の行動を観察することと合わせて用いることで、日常の人間関係においてもよりよく情報を集めることができる。

世界的少子化

日本では少子化を食い止めるかということに莫大な予算を投じようとしているが、世界的にも少子化は進んでいる。違うのは、別にそれほど悪いことだとは思われていないことだ。

Fertility and living standards: Go forth and multiply a lot less | The Economist

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あと2、3年のうちの世界の半数の国で(合計特殊)出生率が2.1を切ろうとしている。2.1というのは人口を維持していくのに必要な数値だ。上のグラフは各国の一人あたりGDPを出生率に対し片対数プロットしたものである。ここのプロットの大きさは人口を表している。この傾向は先進国だけにとどまらない:

Between 1950 and 2000 the average fertility rate in developing countries fell by half from six to three—three fewer children in each family in just 50 years.

半世紀の間に発展途上途上国の出生率は半分に減った。これが世界全体の平均出生率に大きな影響を与えるのは言うまでもない。次の段落は、どうして出生率が減ったのかについてバランスのとれた見方を示している:

Now imagine you are a bit richer. You may have moved to a town, or your village may have grown. Schools, markets and factories are within reach. And suddenly, the incentives change. A tractor can gather the harvest better than children. Your wife may get a factory job—and now her lost wages must be set against the benefits of another baby. Education, thrift and a stake in the future become more important, and these middle-class virtues go hand in hand with smaller families. Education costs money, so you may not be able to afford a large family. Perhaps the state provides a pension and you no longer need children to look after you. And perhaps your wife is no longer willing to bear endless offspring. Higher living standards, better communications and more education enable you to rely on markets and public services, not just yourself and your family.

市場の発達は出産に係るインセンティブの構造を大きく変えた。子供の労働への需要の減少、女性の労働市場参入による育児の(機会)費用増大、教育費の増加、社会保障の充実などは何れも子供を作るインセンティブを減らす。少子化を食い止めたいのであればこれらの要素を打ち消すような政策を採ればよい。

  • 子供が行っていた仕事を肩代わりする財・サービスの規制
  • 女性の労働市場参加に対する制限
  • 育児費用の補助
  • 教育費の補助ないし教育の制限
  • 社会保障の削減

しかし、これらの多くは社会的に受け入れられるものではなく、実際に選択されるのは育児費用・教育費用の補助だけになるだろう。少子化が進む原因の一部しか対策が打てない以上、少子化対策が困難なのは当然である。ではそもそも少子化対策は必要なのだろうか。

少子化を含めある現象が社会的に望ましくないかないかは以下の二点できまるだろう:

  • インセンティブに基づいて最適な行動がとれていない場合
  • 正しいインセンティブが与えられていない場合

しかし、この二つの観点から少子化を見ると何れも少子化は望ましい現象であるように思われる。

The link between wealth and fertility does not explain everything. In some countries, poor women have the same number of children as rich ones. This suggests that other factors are at work. The most obvious is that many people in poor countries want fewer children, and family planning helps them get their wish.

貧しい国において、多くの人はもともとあまり多くの子供を欲しておらず、避妊技術がそれを可能にしたと述べられている。これは一点目の議論だ。避妊技術がない場合、冷静に考えれば子供がもう必要ではないにも関わらず妊娠・出産に至るということは十分にありえる。

記事においては、調査によると欲しいと思う子供の数は実際の子供の数よりも多く、またアフリカでは避妊をしたいと考えていてもできないと答えている女性が多いと述べられている。もちろん、調査での答えと実際の行動とは一致するわけではないが、少子化の原因の一つは女性が自分の思う通りに出産をコントロールできるようになったことであるのは確実だ。避妊技術の普及と女性の教育水準向上がこれを可能にした。そしてこれは望ましい変化だろう。

では、女性の出産へのコントロールが増したとして少子化が社会的に望ましくない根拠は何だろう。それは出産に関するインセンティブが社会の利益と一致していない場合になる。しかしこちらに関しても少子化が社会的に望ましくないと主張するのは難しい。それどころかいくつもの利点が挙げられている:

Cutting the fertility rate from six to two can help an economy in several ways. First, as fertility falls it changes the structure of the population, increasing the size of the workforce relative to the numbers of children and old people.

一つ目は人口構成の変化だ。発展途上国であれば少子化は労働人口の増加を意味する。これは日本のような先進国にはあてはまらないが、世界の多くの国で成り立つ。

By making it easier for women to work, it boosts the size of the labour force.

育児負担軽減は女性の労働市場への進出を促す。確かに高齢化が進めば、働く世代の総数は減っていくが、女性の労働がそれを打ち消すように働く。

Because there are fewer dependent children and old people, households have more money left for savings, which can be ploughed into investment.

さらに労働人口の相対的増加は貯蓄率の上昇とそれに伴う投資の増大を呼び起こす。高齢化が進む日本では貯蓄率は減少しているが次の点は日本にあてはまる:

Lastly, low fertility makes possible a more rapid accumulation of capital per head.

最後は一人当たり資本の増加だ。特に土地のように供給が固定的(で減価しない)な財がこれにあたる。

政治家は少子化対策をどうするか叫ぶ前にそもそも少子化の何が問題なのか、そして出生率のコントロールがその問題に対する適切な答えなのかを論じるべきだ。個人的には少子化にまつわる問題は過大評価されいるし、出生率を上昇させる試みはポイントを外している思う。

認知能力の重要性と社会の変化

Arnold Klingによる、この三十年間の社会変化の分析がおもしろい:

The State of the Economy, I, Arnold Kling | EconLog | Library of Economics and Liberty

I think that perhaps the most important trend of the past thirty years is the increased importance of cognitive skills relative to physical labor.

彼が指摘する、この三十年間で最も重要な変化は肉体労働に対する認知的能力(cognitive skill)の上昇だ。具体的に「認知的能力」が何を意味するかについては説明されていないが、文字通り解釈するなら情報処理能力のことだろうか。

1. It changed the role of women. Their comparative advantage went from housework to market work.

認知能力が重要になることで、女性の労働市場での価値が相対的に上昇した。男女の認知能力の比較ついては各論あるだろうが、女性が肉体労働よりも認知能力を必要とする仕事を得意とするのは明らかだろう。

ただ、この因果関係は一方的ではないだろう。女性の労働市場への参加が進むことで、男性にとっての認知能力の価値も上がる

何故認知能力が重要になったのか、女性の労働市場への参加が進んだのかということについては技術の変化が最も大きな貢献をしたと考えられる。前者の場合は製造業の生産性上昇に伴うサービス産業へのシフト、後者の場合は家事労働を軽減する家電の発達がある。

フェミニズムのような思想の発展の寄与も無視できないが、それは根本的な原因というよりも結果に近いだろう。もし思想的に労働市場で働くという考え方が浸透したとしても、女性の労働市場での生産性上昇・(家事の軽減による)機会費用の減少がなければ、その流れが定着することはない。雇う側は生産性に見合った給料しか出せないし、家事労働は誰かが負担する必要があるため経済的に持続しないからだ。

2. This in turn, as Wolfers and Stevenson have pointed out, changed the nature of marriage. Men and women look for complementarity in consumption rather than in production.

女性の所得向上は、結婚において生産面での補完性ではなく、消費における補完性を求める傾向につながる。Betsey StevensonとJustin Wolfersの議論についてはそのうち紹介するとして、概要を述べよう。女性の50年前、結婚の最大の機能は分業であって。男性が市場で外貨を獲得し、女性が家事・育児を行うというものだった。しかし家事労働の減少と女性の労働市場の地位向上はこのアレンジメントの必要性を激減させた。育児についてはその手間は家事ほどには軽減されていないが、育児には消費という側面もある。また、平均寿命の増進により育児の結婚における重要性は減った。

代わりに、重要となるのが消費の補完性である。これは男女が同時に行った方が効用の高い消費行動があるためだ。生産面での分業が必要なければ結婚の意味は協調的な消費に移る。例えば、現代社会において男女が個別に食費を稼ぐのは容易だ、しかしこれは個別に食事を採ることが望ましいことを意味しない。さらにわかりやすいのは消費としてのセックスだろう。医療の発展による避妊技術の普及は性行為から生殖としての意味を取り除いた。

3. This in turn leads to more assortive mating, with achievement-oriented men looking for interesting mates rather than for good maids.

この補完性の変化により、男性の相手探しは家事能力の有無から興味を惹かれるかどうかということに焦点が移った。書かれていないが女性であれば所得獲得能力からということになろうだろう。

このことは未婚率の上昇にもつながるだろう。五十年前、生産面での補完性は程度の差はあれ多くの男女のペアについて成立した。女性の労働市場での所得獲得能力がない以上、働ける男性との組み合わせはほぼ常にプラスだ。それに比べて消費面での補完性は普遍性がない。例えば、財政について考えない場合、女性が望ましいと思う男性の割合は100%よりもかなり低いだろう。男性には同様の傾向がないとすればこの割合が結婚率に近くなるはずだ。

4. This in turn leads to greater inequality across households. It also fosters greater inequality among children. The children of two affluent parents are likely to have much better genetic and environmental endowments than the children of two (likely unmarried) low-income parents.

結婚のあり方の変化は家計所得の不平等に繋がる。消費の補完性は社会経済的なステータスが近いほうが高いと考えられ、高所得カップルと低所得カップルといった分離が進む。当然この傾向は遺伝的・環境的に次の世代にも引き継がれる。

5. Inequality is exacerbated by globalization and technological change. If your comparative advantage is basic physical labor, you have to compete with machines as well is with workers from the Third World.

肉体労働の価値の低下は結婚市場を通じて不平等を進めるだけでなく、そによって生じた低所得の家計の所得を一段と減らしていくことを意味する。

The net result is an economy that has improved considerably for people with high cognitive skills, but which has improved only somewhat for people with relatively low cognitive skills.

結果は認知能力の高い人々にとっては大きな改善となるがそうでない人には改善が見られないことになる。

認知的能力という言葉はこれから大きなキーワードになっていくかもしれない。

ネットワーク中立性vs価格差別

ネットワーク中立性がない世界ならISPのプランはどうなるかという思考実験がPacket Lifeから:

Why network neutrality is a big deal – Packet Life

without_net_neutrality

この図は、ネットワーク中立性の議論がミクロ経済学の教科書にある第二種価格差別(second-degree price discrimination)を規制すべきか否かという問題であることを示している。

例えば、二種類の潜在的顧客がいるとする。顧客Aはインターネットでショッピングをしたいのに対し、顧客Bはショッピングするつもりはないとしよう。Aは$40払うつもりがあり、Bは$20しか払うつもりがない。Bの顧客の割合がAにくらべ極端に少なくない限り、全員に$20課金するのが最も大きな利益になる。

ネット上でのショッピングには暗号化通信が必要だ。ISPは例えばこのことを利用して二種類の顧客に別々の料金を支払わせる(第二種価格差別)ことができる。誰がAで誰がBかを知っている必要はない。単に暗号化プロトコル(https)をブロックするプランを$20、ブロックしないプロトコルを$40で提供すればよい。Aは後者を選択肢、Bは前者を選択するためISPは利益を劇的に増やすことができる。

しかしこの様なことは実際には起こっていない。なぜならこの様な価格差別はISP間で競争が存在する場合には導入するのが困難だからだ。上の例でいえば競争相手はAに$40よりも安い価格を提供すればよい。競争の度合いにもよるが日本のようにISP間の競争が激しい場合にはまず無理だろう。これがネットワーク中立性問題がアメリカでだけ取り沙汰される理由である。

だがネットワーク中立性が必ずしも望ましいわけでないことには注意が必要だ。例えばある街ではAとBがともに1000人存在するとしよう。この街全体ではインターネットに対して最大[latex]\$ 40 \times 1000 + \$ 20 \times 1000=\$ 60,000[/latex]支払ってもよい=それだけの価値を認めていることになる。しかしネットワーク中立性が義務付けられていた場合、ISPの最大収入は[latex]\$ 20\times 2000=\$ 40,000[/latex]にしかならず、接続を提供するための費用が$40,000を越えているが$60,000を下回っている場合には社会的に望ましい投資が行われないことになる。

もちろんISPにとっては価格差別が行えることはプラスなので、常に上記のような問題が存在すると主張するだろうからどちらが望ましいかについての判断は慎重に行わなければならない。判断に必要な費用についての情報をISP側が持っていることにも注意する必要がある。

何で経済学は難しいのか

アメリカの大学の経済学部からアメリカ人が減っていることに関連して、何故経済学が難しい学問であるのかについて:

Environmental and Urban Economics: The Future of Research Economics

まず実際に経済学部におけるアメリカ人の数は少ない

When I was a graduate student 20 years ago, my entering class was 50% American. Now I believe that at Chicago it is 15%.

ここではシカゴ大学の例が挙げられており、20年前50%ほどだったアメリカ人の割合は現在では15%だという。州立であるバークレーではアメリカ人の割合は比較的多いが、それでも30%程度だ。しかもそのアメリカ人の多くは両方の親が外国生まれであるなど、日本人が持つアメリカ人のイメージとは合致しない。

applied micro has suffered over the last 15 years as top Americans have gone to Wall Street rather than the professor route.

その理由の一つとしてしばしば指摘されるのが、民間におけるエコノミストの給与水準だ。金融機関におけるファイナンス理論の導入、政府部門におけるエコノミストの採用、経済コンサルティングの発達などにより民間からのエコノミストの需要は以前とは比べ物にならない。民間の給与水準は初任給で(アカデミックでは最も高給な)トップランクのビジネススクールを上回ることが多く、しかも経験を積むに連れその差は開くばかりだ。

もちろん民間にいくのはアメリカ人とは限らない。しかし、アメリカのトップスクールを優秀な成績で卒業した学部生にとって大学院にいく相対的なメリットが減少しているだろう。彼らは、優秀な外国人とは異なり、大学院にいかずとも容易に働くことができるからだ。

Unfortunately, I am slightly worried that economics has hit diminishing returns. There is a huge intellectual payoff from starting to know basic economics and statistics but are there increasing returns here?

しかし著者のMatthew Kahnはさらに経済学の学問としての発展に言及している。彼によると、経済学は収穫逓減段階に入っているという。基本的な経済学の研究は大きな価値をもたらすが、既に多くのことは理解されており新しい研究が生み出す価値が減ってきているということだ。

Economics is harder. The agents we are studying form expectations of the future, are highly heterogeneous, their choices are often strategic and some claim that they even make mistakes.

自然科学では収穫逓減が続いているようには思われない。DNAの発見のように大きなブレイクスルーがもたらされることがある。では何故経済学の生産性は減っていくのか。経済学が難しい学問であることが指摘されている。

何故経済学は難しいのか。経済学の対象は人間だ。人間は未来を予測して行動するし、それぞれが異なっているしかも戦略的な行動=他の人が何をやるかを考慮した行動をとるし、時には間違った行動を取る

On top of this, the economies we study are not stationary as they are bombarded with shocks

観察対象が複雑であるだけではない。エコノミストはその観察対象をきちんと観測することができない。現実の経済は多くの外生ショックの影響で動きつづけてている。

ここで指摘されている経済学の難しさはどれもその通りだろう。経済学はよく物理学などと比べて科学的でないとか、予測能力が足りないなどと批判されることがあるが、それは的外れな批判だろう。経済学が扱う対象は人間であり、実験を行うことも困難だ。しかも、経済理論は倫理的判断を避けるためもあり、人間の行動や社会的な価値基準に対してできる限り仮定を行うことを避ける

教養学部でお世話になった先生から彼が経済学を勉強しなかった理由を聞いたことがある。それは、経済学の仮定が余りにもおかしかったというものだ。人間は自分の利益のために行動するといった(注)考えがバカらしいと感じたという。

しかし、経済学のおもしろさはここにあるように思う。そのバカらしく単純な仮定でどれだけ多くの人間行動が説明できてしまうかということだ。人間は多種多様な価値観を持ち人によって異なる方法で外界の情報を取り入れ処理するなどいった考えからスタートしたら、人間の行動に対する理解は進まなかっただろう

(注)個人の選好には他人の効用を含めることもできるので、経済主体が自己の利益のみを追求するという言い方が正しいかどうかは哲学的問題になる。しかし実際の経済モデルが自己利益の追求を想定しているのは事実だ。