昨日書いた「好きなことを仕事にするな」では、好きなことを仕事にするべきだという風潮の弊害について論じた。その流れで「キャリアパス」の絵については、
一番上を目指すも、端っこで避けるも、他の木に飛び移るもいいけれど、やっぱり前回の「好きなことを仕事にするな」よろしく、頑張って大きな組織を支える役割の重要性を社会が認めることが必要でしょう。
と書いた。これは、好きなことばかり追い求めても夢の仕事は手に入らないのだから、好きなことではない=お金をもらわなければやらない仕事はやはり重要だという趣旨だ。これを書いた時はこの説明に特に疑問は覚えなかった。少なくともアメリカの状況はこれに近い。若者は好きなことを仕事をしようとして悩んでいて社会にとって必要だけど大変な仕事を率先してやろうという人すくない。そういった苦労事は移民によってなんとか賄われている。
しかし、Willyさんの「キャリアパス」への次のコメントを読んでこの構図は日本にはあまり当てはまらないことに気づいた(いつも的確なコメントに感謝)。
特定の木に乗ろうとしている人が多すぎるのが一番問題のような気もします。
確かに日本を振り返ると長時間のサービス労働が常態化しているという現実がある。好きなことを追い求めて悩んでいる人は少数派なのかもしれない。これは「好きなことを仕事にするな」でのコメントで指摘されていることだろう:
日本人をみる限り、(1)好きなことはあるけど、(2)それを仕事にするかどうかは別、というところまで辿り着いている人は数少ない気がします。(1)に すら辿り着いていない人に「好きなことをやれ」というのは正しい面もあるでしょう。主体的に目的を持って動くということは能力開発面でも精神面でも良い影 響があると思います。もちろん、「社会に役立つことのなかで好きなことをやれ」という程度の意味ですが。
アメリカでは「頑張って大きな組織を支える役割の重要性」を見直すべきときに来ているが、日本ではむしろそういう部分が強調されすぎているのかもしれない。例えば、ニートの海外就職日記の最新のポスト「クソ会社に「愛」を語る資格などないw。 」はそのいい例だろう。愛社精神という名のもとにひどい労働環境が押し付けられている。これは「キャリアパス」の絵で言えば組織の下でクソまみれになることを強制する文化と言える。ニートの海外就職日記の副題が「仕事なんてクソだろう」となっているのとまさに対応している。
しかしだからといって「好きなことを仕事にすべき」という風潮がないわけではない。少なくとも子供はそう思っているだろう。では一体この二つのまったく異なる考え方が同時に存在しているのは何故だろう。それは学校教育と世間との隔離だと思われる。
日本社会は子供に対しては「自分がやりたいことをやらなきゃ」というような教育をしている。アメリカと変わらない。だから、中学生や高校生は自分に何ができるかではなく、何が自分のやりたいことなのかを考えている。若者が自分探しの旅なんかに出かけるのはその象徴だろう。
しかし、実際社会に出ると大分様相が異なる。日本では打って変わって社会・会社の歯車として動けという凄まじいプレッシャーが支配的になる。これはアメリカの状況よりも悲惨かもれしない。好きなことをすべきだと教えられてきた人々が突然歯車としての役割を押し付けられ、板ばさみになるわけだ。
その結果が、「ニート」の「海外就職」日記だろう。「自分が好きなことを仕事にする」と育てられてきた人間が会社の言うことは何でも聞けみたいな環境に放り出されたら働く気がなくなるのは当たり前だ。そして、そこから飛び立つ先が海外になるのも自然だ。だからニートの海外就職日記は非常に説得力があ。
この状況を改善するためには、二方向からの対策が必要だ。一つは、「自分が好きなことを仕事にする」と子供に唱えるのを控えることだ。好きなことを見つけるのはいい。でもそれを必ずしも仕事にしなくてもいいと教えるべきだ。もう一つは、過剰な滅私奉公的価値観を是正することだ。自分が好きなことを仕事にしなくてもいいと同時に仕事を自分の好きなことにする必要もないはずだ。もちろん二つが重なるならそれはそれでいい。でも必ずしもそうでなくてもいいという余裕があってもいいんじゃないだろうか。