https://leaderpharma.co.uk/

日本のウェブが残念なのは当然

Twitterがメインの記事だが、もっと広い文脈に該当する:

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) – コンテンツ編 – マぜンタとシアん

この記事は「日本のTwitterは残念だったのか?」という問いから始まりました。この「残念」という言い回しは、梅田望夫さんの岡田有花記者によるインタビュー記事のタイトル、「日本のwebは残念」から取ったものです。そこで、まず、「なぜこの記事で、日本のwebは『残念』と呼ばれているのか」について確認しておきましょう。

この日本のウェブが残念だというのは面白い。

クラスタ」の感触は、いうなれば「マイミク」のイメージに近いのでしょう。話題が通じる内部での安心感と閉鎖性、これはイラン大統領選でのTwitterのイメージとは正反対です。「日本のTwitter」もまた、mixi的なもの、ひいては日本文化的なものから袂を分つことができずにいるのです。

さしあたって「日本のTwitterは残念なのか」という命題には、首肯せずにはいられないでしょう。

最近日本語のウェブサイトを見始めたのでこの感覚はよく分かる。しかし、何故残念なのかという問いへの答えが何なのか示されていないように思う(元記事はその後日本のTwitterにおける出来事とコンテントについて解説している)。

ウェブの「クラスタ」感、内部での安心感と閉鎖性といった日本文化的なものを見ると「日本のTwitterが残念である」ということが分かるというが、これは前に「アメリカは実名志向か」で取り上げた「日本人は匿名志向・外国では実名志向」を疑うと同様あまり意味のある考えではない。あることが日本と海外と違う理由を文化の差に求めるのは非生産的だ([latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とで[latex]z[/latex]が違うのは[latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とが違うからだというようなものだ)。

では実際、日本のウェブが残念なのは何故か?これは「アメリカは実名志向か」で指摘した何故アメリカでは実名の使用が多く、日本では匿名が多いのかという理由と全く同じだろう。その時はLinkedInが実名である理由を次のように説明した:

何故LinkedInは実名なのか。それは単に実名でなければ何の意味もないからだ。就職活動に偽名を使うわけないし、偽名の知り合いとコネクションを持 ちたい人もいない。日本ではどうか。そもそもLinkedInのような組織がない。労働市場が硬直的で転職自体が悪いシグナルを送ってしまう。

実名の使用は労働市場が流動的か硬直的かに大きく影響される。流動的な市場においては社内で有名な○○さんになるメリットがない。どうせ一つの会社にいるのはいいとこ3,4年という社会では、社内でコネを作ってもあまり意味がない。逆に重要なのは社外に向けて自分のブランドを売り出すことだ。業界のいろんな場所に名前を売ることだ。フリーランスが多いこともこれに拍車をかける。

しかし、実名を所々で使用するだけでは大したメリットもない。名刺をただ配っているようなものだ。それだけではあまり意味がない。だって知らない人の名刺なんて読まないだろう。では誰の名刺ならローデックスに入れておこうかと思うか。それは重要そうな人だ。名刺を配ることに意味があるためにはそこにある名前に意味がなければならない

これはウェブ上で言えば、自分が重要であることを示すことであり、その一番簡単な方法が他人にはできない有益な活動をすることだ。例えば、オープンソースのソフトウェア開発に参加することは誰にでもできるわけではないので、プログラミングの能力を示すいいシグナルになる。ブログを書くこともそうだろう。

はてなについて、

はてな界隈」での論争に漂う内輪感、閉鎖性はしばしば批判の的となっています。流行りの言葉を使えば「ブログ論壇(笑)」になり果ててしまっている「はてな界隈」を揶揄する言葉が「はてな村」です。

その閉鎖性が問題となっているが、そのようなことはアメリカではほとんど問題にならないことも簡単に説明できる。論争に貢献する人間は自分のプロモーションとしてそうしている場合が多数なため、オーディエンスを限定しようという考えがないからだ。ジャーナリストが内輪にしか受けない記事を書くことはないだろう。

逆に、梅田さんがよいインターネットとしている

ウェブ進化論の中では「総表現社会」という言葉を使っている。高校の50人クラスに2人や3人、ものすごく優れた人がいるよね。そういう人がWebを通じて表に出てくれば、知がいろんなところで共有できるよね、というところまでは書いている。

もまた理想郷ではない。アメリカでは多くの人々が自己を表現しているのは確かだ。しかし、それは別にお花畑のような世界ではなく、単なる自分の市場価値を高めるための仕事だ。

とはいえこういうことをする人がウェブ上にたくさんいるかどうかがウェブが「残念」になるかならないかという点で極めて重要であることは言うまでもないだろう。梅田さんの「日本のwebは残念」で言えば、

今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合。「アルファブロガー」的なものも、最初のうちにぽーんと 飛び出した人からそんなに変わってないじゃないですか。それが100倍、1000倍になり、すごく厚みをもって、という進展の仕方と違う訳じゃない。

こういった活動が「アルファブロガー」を作る。そしてここでいう「インセンティブ」とは自己表現のそれではなく労働市場の価値を高めるという経済的インセンティブにすぎない

Twitterはいい例だ。アメリカのブロガーであればTwitterを使う最大の理由は読者とのコネクションだ。これはデパートがお客様アンケートを配るのと同じことでカスタマーサポートの一種だ。多くの著名職業ブロガーが人を雇ってTwitterを更新していることを考えればその同質性は明らかではないだろうか。

この解釈は、何故日本のTwitterが「クラスタ」化するのかをも説明する。アメリカでは自分を売り込むためにTwitterを利用していて、別に他人の声を聞いてどうこうしようと思っているわけではない参加者が多いのだ。そういった環境ではほとんどの人に興味のない情報がどんどんTwitterに流され一部の人が散発的に反応する

最後にmixiに関する次の箇所について:

SNS」は「mixi」という、既存の人間関係を効率的に管理するだけのシステムに置き代わりました。

mixiが既存の人間関係を効率的に管理するシステムのいうのは間違いだ。多くの参加者が匿名のmixiは驚くほど非効率なSNSだ。

夢の仕事とクソ会社

昨日書いた「好きなことを仕事にするな」では、好きなことを仕事にするべきだという風潮の弊害について論じた。その流れで「キャリアパス」の絵については、

一番上を目指すも、端っこで避けるも、他の木に飛び移るもいいけれど、やっぱり前回の「好きなことを仕事にするな」よろしく、頑張って大きな組織を支える役割の重要性を社会が認めることが必要でしょう。

と書いた。これは、好きなことばかり追い求めても夢の仕事は手に入らないのだから、好きなことではない=お金をもらわなければやらない仕事はやはり重要だという趣旨だ。これを書いた時はこの説明に特に疑問は覚えなかった。少なくともアメリカの状況はこれに近い。若者は好きなことを仕事をしようとして悩んでいて社会にとって必要だけど大変な仕事を率先してやろうという人すくない。そういった苦労事は移民によってなんとか賄われている

しかし、Willyさんの「キャリアパス」への次のコメントを読んでこの構図は日本にはあまり当てはまらないことに気づいた(いつも的確なコメントに感謝)。

特定の木に乗ろうとしている人が多すぎるのが一番問題のような気もします。

確かに日本を振り返ると長時間のサービス労働が常態化しているという現実がある。好きなことを追い求めて悩んでいる人は少数派なのかもしれない。これは「好きなことを仕事にするな」でのコメントで指摘されていることだろう:

日本人をみる限り、(1)好きなことはあるけど、(2)それを仕事にするかどうかは別、というところまで辿り着いている人は数少ない気がします。(1)に すら辿り着いていない人に「好きなことをやれ」というのは正しい面もあるでしょう。主体的に目的を持って動くということは能力開発面でも精神面でも良い影 響があると思います。もちろん、「社会に役立つことのなかで好きなことをやれ」という程度の意味ですが。

アメリカでは「頑張って大きな組織を支える役割の重要性」を見直すべきときに来ているが、日本ではむしろそういう部分が強調されすぎているのかもしれない。例えば、ニートの海外就職日記の最新のポスト「クソ会社に「愛」を語る資格などないw。 」はそのいい例だろう。愛社精神という名のもとにひどい労働環境が押し付けられている。これは「キャリアパス」の絵で言えば組織の下でクソまみれになることを強制する文化と言える。ニートの海外就職日記の副題が「仕事なんてクソだろう」となっているのとまさに対応している。

しかしだからといって「好きなことを仕事にすべき」という風潮がないわけではない。少なくとも子供はそう思っているだろう。では一体この二つのまったく異なる考え方が同時に存在しているのは何故だろうそれは学校教育と世間との隔離だと思われる。

日本社会は子供に対しては「自分がやりたいことをやらなきゃ」というような教育をしている。アメリカと変わらない。だから、中学生や高校生は自分に何ができるかではなく、何が自分のやりたいことなのかを考えている。若者が自分探しの旅なんかに出かけるのはその象徴だろう。

しかし、実際社会に出ると大分様相が異なる。日本では打って変わって社会・会社の歯車として動けという凄まじいプレッシャーが支配的になる。これはアメリカの状況よりも悲惨かもれしない。好きなことをすべきだと教えられてきた人々が突然歯車としての役割を押し付けられ、板ばさみになるわけだ。

その結果が、「ニート」の「海外就職」日記だろう。「自分が好きなことを仕事にする」と育てられてきた人間が会社の言うことは何でも聞けみたいな環境に放り出されたら働く気がなくなるのは当たり前だ。そして、そこから飛び立つ先が海外になるのも自然だ。だからニートの海外就職日記は非常に説得力があ。

この状況を改善するためには、二方向からの対策が必要だ。一つは、「自分が好きなことを仕事にする」と子供に唱えるのを控えることだ。好きなことを見つけるのはいい。でもそれを必ずしも仕事にしなくてもいいと教えるべきだ。もう一つは、過剰な滅私奉公的価値観を是正することだ。自分が好きなことを仕事にしなくてもいいと同時に仕事を自分の好きなことにする必要もないはずだ。もちろん二つが重なるならそれはそれでいい。でも必ずしもそうでなくてもいいという余裕があってもいいんじゃないだろうか。

脱オタを経済学的に考える

力を入れる箇所を間違えている『脱オタクファッションガイド改』を見たらちょっとネタっぽい記事を書こうと思い立った:

脱オタって何?

脱オタというのはオタクに見られない工夫のことだ。別におしゃれになることではない。もちろんおしゃれなオタクはいそうにないから、おしゃれなことはいいことだろう。しかし、それは別に必要でもない。どうしようもない恰好の非オタクなんて珍しくもなんともない。

ではどうするのが効率的か。単にオタクが絶対に取らない=オタクにとってはコストが高すぎる行動を取ればよい(考え方としては、「人種差別の現実」で紹介したまともな黒人がどう自分を差別化するかという話と同じだ)。基本的には:

  1. オタクは知らないもの=情報コストが高い
  2. 機能性が低いもの=使用コストが高い
  3. 値段が高いもの=金銭コストが高い
  4. (オタク的)常識でないもの=心理コストが高い

というあたりだ。ただし、いくつか注意点がある。まずオタクは情報収集能力が高いので1の効果には限界がある高収入オタクも多いので3も、特に社会人の場合は微妙だ4は2と比べて心の持ち様なので苦労もなく一番効果的だろう

もちろん、どれもやりすぎると効率が落ちるし(収穫逓減)、一つが突出していると不自然なので組み合わせる必要がある(そもそも四つは排他的な定義でもないが)。

ファッション編

流行

オタクはファッションに気を使わない故に知識がないので流行を知っているような恰好をするのは一つの手だろう(情報コスト)。これについてはよく議論されている。しかしこれは言うほど簡単ではないことには注意が必要だ。なぜならファッションの知識を身につけるのは単純な話、大変なことだからだ。ただ、オタクは情報収集自体は好きだろうから、ファッションについて調べるのが苦じゃないひとにはいい方法だ。

単にオタクに見られないだけなら最低限の常識を身につけ、まわりのオタクが愛用しているアイテムを避ければ十分だろう。やりすぎると単なるファッションオタクになる。むしろダサくてもぼろぼろのジーンズに超でかいシャツとか黒人風にすればオタクには見えない(心理コスト)。

コーディネーション

色彩感覚も必要ない。ある程度の常識の領域は知っているべきだろうが(情報コスト)、色彩感覚の欠如したファッション好きなんていくらでも歩いているからあまり気にすることはない。むしろオタクが着ているのを見たことがない色、大抵派手目な色とか白、を選べばいいだろう(心理コスト)。どんな色合わせだよと思われるかもしれないが、オタクだとは思われない。

金額

お金に余裕があればファッションにもっと使うというのもよい(金銭コスト)。オタクは当然ファッションにお金を注がないからいいシグナルになる。ただ、それなりの年齢になるとある程度のお金が自由になるのは当たり前なのでこの方法は効果が薄くなる。社会人が数万円服にかけたところで誰も驚かないし、他の部分と不整合があれば逆に疑われるだろう。あと、おかしなものにお金をかけるという危険性がある。

髪型

髪型も単純にオタがやらないものにすれば良い。やはり流行りのもの(情報コスト)かお金(金銭コスト)のかかるものであればいいが、上述の理由で効率的でないかもしれない。知識もいらず手間もかからないものとしてはモヒカンとかがいいかもしれない(心理コスト)。ファッション的にツッコミは入りそうだが、少なくともオタクには見えない。坊主も似合えばいいだろうが、場合によっては僧侶に見えたり、貧弱に見えるので注意。ヒゲの有無や体型と相談だろう。

バッグ

他のファッションと同じだがとりあえずデパートにでもいって機能性を捨てたものを選べばいいだろう(使用コスト)。オタクの機能性への愛情は異常なので、おしゃれで高いものなら多少機能性を追求してもよい、ないし重視して当然と思うだろうが徹底的に避けるほうが安全だろう。これは靴も同じだ。

アクセサリ

ネックレスや指輪などはセンスの問題があるだけでなく、買うだけでよくしかも安くすませられるのでオタクではないシグナルにはなりにくいだろう。アクセサリなら一押しはピアスだオタクは肉体的な脅威に弱いため、ピアスをすることは非常に考えにくい(心理コスト)。装着の煩わしさも軽微で、小さいものなら趣味も問われない。耳以外の場所のほうが非オタアピールは強いだろうが、社会的な弊害も凄いので見える場所ならどこでもいいだろう。同様にタトゥーも効果的だろうがセンスが問われるので難しいそうだ。

小物

アクセサリ以外の小物では流行りものを選べば良い(情報コスト)。音楽プレーヤーならiPodが無難だ。iPod以外のプレーヤーを持っていてもいいが、間違ってもどうして買ったかを聞かれたときに、「こっちのほうがバッテリーが長持ちで…」などと答えてはならない。「安かったから」と言っておけばいい。

その他ファッション

香水はオタクが使わないアイテムだ。買うだけでいいが、売っている場所がオタクには入りがたいためだろう(心理コスト)。そもそも香水の意義が見出せないのかもしれない(使用コスト)。選択については女に聞くのがいいだろうが、ピアス同様非オタシグナルが強いので別にどれでもいいだろう。脱オタとは関係ないが付けすぎにだけ注意。

行動編、ないし何故脱オタとモテが違うか

本当はこれが一番重要だろう。オタとそうでない人の最大の違いは見た目ではなく、対人経験の差であり、人間関係における自信だ(心理コスト)。恰好が典型的なオタクでなくても、ここが解決できなければ社会的に重要性の低い人間にみえる。モテないといってもいい(逆に大抵の芸人はファッショナブルではないがモテるだろう)。ではどんな行動を避けるべきか。

イベント

パーティーなどで端っこに立っている人間は人間関係で下にいる人間だ。イベントの中心になったり、自由にテーブルを回って知らない人間にしゃべりかける自信が必要だ(オタクはしない)。

対人関係

受身な人間は他人からの拒絶を恐れている弱者だ常に攻撃的でいるのを意識するぐらいがいいだろう。同じ理由で他人を褒めるのは程々にすべきだろう。異性に対して弱気なのは特に対人経験の欠如、社会的な評価の低さを表すので脱オタクをするなら改善する必要がある。

肉体面

ピアスのところでも述べたが、オタクは肉体的な脅威に弱い。これは立ち居振る舞いにも現れるし、肉体的接触を避けることにつながる。積極的に他人にタッチすることで改善できるが、迷いがあると逆効果になる恐れがある。立ち居振る舞いについては実際に筋トレでもするのがいいだろう。

グループ

は一番簡単にオタクに見えなくなる方法は、明らかにオタクでない人間と行動することだ。自分が集団のリーダーであればなおよい。どう考えてもオタクなはずがない異性(≠に)くっつているのが最も効果的だろうが、それができれば既に脱オタは終了しているという気もする。

おまけ

高学歴だったり社会的地位の高かったりするオタクは基本的にこぎれいでファッショナブルな恰好を目指すのではなくバカっぽい、ないしDQN(死語?)ぽい恰好をすれば良い。実際にバカではなくDQNでもないことは後で簡単に示せるからだ。

P.S. 下らないポストが大作になってしまった。。。

(心理コスト)

文化地図の軸は何か

イングルハート・ヴェルツェルによる文化地図(Inglehart-Welzel Cultrual Map)の軸の取り方について:

Overcoming Bias : Key Disputed Values

以下のグラフが文化地図と呼ばれるものだ。世界価値調査(World Values Survey)のページに置いてある:

map

マップ上の点は国を表しており、色分けは何らかの共通点でもって複数の国を囲ったものだ。例えば日本は生存よりも自己表現に重きを置いているが多くの欧米の国ほどではなく、伝統的価値観ではなく世俗・合理的な価値観が非常に強い国ということになる。

このマップを理解するにはこれがどのように作られたかを知る必要がある。実際の論文などは見ていないのでWikipediaなどからの推量になるが以下に簡単に説明する(間違いがあったら指摘してほしい)。

元となっているデータは世界価値調査というもので、それぞれの国においてどのような価値観が支持されているかを調査したものだ。データはインタビューによって集められる。

The WVS questionnaire consists of about 250 questions resulting in some 400 to 800 measurable variables.

250程の質問項目を元に400から800個の指標が作られるそうだ(例:個人的幸福度)。しかし、イングルハートはそれらの指標の多くを僅か二つの指標(軸)で説明できてしまうことに気づき、それを生存・自己表現と伝統・世俗という二つの軸で表現した。それが上のマップだ。

幾何学的に言うと、多次元空間に各国の指標の組をマップしたら何故かある二次元(超)平面の付近に並んでいたのでその平面を切り出してみたということだ。

このマップに対してRobin Hansonは次のように指摘している:

WVS leaders’ views on the key value disputes are found in their diagram labels: “survival vs. well-being” and “traditional vs. rational-legal.”  But we need not accept their labels. Given many data points in a high dimensional vector space, factor analysis strongly suggests the most informative subspaces to consider, but says less about the best axes to consider, and nothing about the best axis names.

マップでは生存・自己表現と伝統・世俗という二つの軸を取っているが、このマップを評価する上でイングルハートが提示した二つの軸を採用する必要はない。二つの指標で表されるということはある特定の二つの軸を選ぶ根拠にはならないからだ。

これは上の幾何学的な解釈から明らかだろう。重要なのは多次元空間上の点の位置が二次元平面で表されることで、その二次元平面の軸をどう取るかという話とは別の話だ。高校数学を思い出して欲しい。二次元平面を表現するには何が必要か。その平面上の一次独立な二つのベクトルの組なら何でもよい。

追記:主成分分析の基底の取り方について指摘を頂いたのでコメント欄を参照ください。

Given that one factor is the lower left to upper right wealth factor, the other factor is an upper left to lower right factor, stretching from Russia to the USA.  But what is the essence of that factor?

まず左下から右下を眺めると経済発展を表していることに注目する。それに対してもう一つの対角線、左上から右下、はどう表現できるか。これはロシアとアメリカの違いにも対応する。左上に共産圏、右下に自由主義圏が並んでいるの分かるだろう(日本はどちらでもないが若干共産よりだ)。

It seems to me that USA side values make sense when the priority is making families and personal relations work well, while Russian side values make sense when the priority is larger community health and threats.

彼はここで右下に個人・家族主義的な傾向、左上に共同体主義的な傾向を見出す

So why would Russia side nations focus more on community, while USA side nations focus more on family?  My story is much like that Diamond’s Guns Germs and Steel: geography made some places more vulnerable to invasion.

この違いについては地政学的な差異を挙げている。侵略されやすい国は共同体主義的となり、そうでない国は個人・家族主義的となる。外的な脅威があれば個人・家族の価値よりも社会の価値が自然と重視されるからだ。

So there you have it: I suggest the two main value disputes in the world are rich vs. poor and family vs. community priorities.

まとめると彼の主張は各国の価値観の違いは貧しいか豊かかと家族か社会かという二つの要素で説明できるというものだ(上のマップ上では対角線となる)。

これは生存・自己表現と伝統・世俗という分け方よりも実感にそぐう。日本の例がわかりやすい。日本が自己表現を重視しているかはよく分からないし、宗教にこそ熱心ではないが伝統的価値観を重んじない国ではないだろうしかし日本はかなり経済的に発展している比較的共同体重視の国と言われれば非常にしっくりくる。アングロサクソンは経済的に発展している個人主義の国々、ラテンアメリカは経済発展は遅れぎみの個人主義の国々、旧共産圏は経済発展が遅れぎみの共同体主義の国々となる。

Given many data points in a high dimensional vector space, factor analysis strongly suggests the most informative subspaces to consider, but says less about the best axes to consider, and nothing about the best axis names.