「金儲け=悪」の話を絵で説明してみる

岡島純さんのご指摘により、図表を入れ替えてみました。いかがでしょうか。何がご意見ありましたらコメント欄やTwitterでお願いします。

同じ話ばかり続いてしまうが、「金儲け=悪」の一連の話(ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう「金儲け=悪」の由来)を絵に描いてみた。

最初の状態

orig

社会制度が未発達な段階では望ましいことと儲かることとは一致しない。いわゆる犯罪に該当する行為や公害のように他の人に迷惑をかける行為はお金になるからだ。逆に教育や発明など社会にとって必要なことでも儲けが出せないことも多い。八百屋のように儲かるし望ましいビジネスもあるが、それは儲かることのうちのごく一部にすぎない。よって「金儲け=悪」は近似的には当たっており、そういった思想が残っているのは驚くことではない

理想的状態

optim

しかし強力な警察機構を備えた民主国家は、法律によって何が割に合う=儲けがでるかを操作できる。図でいえば赤い円を移動することができるということだ。よって、われわれはなるべく赤い円を青い円に近づけようとする。そうすれば、儲けようとするだけで社会のためになり、社会のためになることをしていればそのための資金が儲けとして入ってくるようになるからだ。

現実

real

しかし、法律や規制は完璧ではない。現実には、赤い円と青い円は一致しておらず、パッチワーク状態だろう。強盗を犯罪化し、公害は規制し、発明は特許制度で保護し、教育は政府が直接供給するといった具合だ。この段階ではまだ儲かるが社会的には望ましくないことも残っているし、社会的に望ましいのにお金にならず維持できない事業もある。ただ、多くの望ましいことはすでに利益を生み出すことができるようになっているので、とりあえず社会に貢献したいならそういった事業を選べる状況だ

経済学の役割

econ

経済学はこの赤い円と青い円を近づけるということに貢献する。どこまでが望ましいことであり、それゆえに儲かるようにすべきかを決めるのは実際にはとても難しい。例えば特許制度は発明を儲かるものにするが、全ての発明を保護することが社会的に望ましいとは限らない。医薬品の開発には特許制度が不可欠だが、ビジネスモデル特許は弊害が多く指摘されている。経済学は費用便益分析(CBA)や規制影響分析(RIA)でそういった社会制度・法律・規制・事業が社会的にプラスなのかマイナスなのかを判定する。これは図でいえば青い部分を確定して、それに合わせて赤い領域を決めていくことに該当する

おまけ:道徳の役割

実は道徳にも赤い円と青い円とを近づける効果がある。例えば、嘘をついてお金を儲けることは望ましくない。嘘は悪いことだという道徳はそういった行動を抑制するとともに、その道徳を破るものへ社会的なペナルティーを与える。いつも嘘をついている人間に世間は厳しく、割りに合わないということだ。しかし、「金儲け=悪」の例のように道徳は社会の変化に遅れをとる。これは道徳を批判・改定することは道徳的でないという、道徳の根本にある同語反復的な構造を考えれば不思議ではないだろう。

どんな道徳を持つべきかについておおっぴらに語ることができないということは、道徳が社会の流れに歩調を合わせられないだけでなく、基本的に大雑把なルールでしかありえないことも意味する(注)。言葉を通じたコミュニケーションなしに複雑なルールに合意することはできないからだ。例えば独禁法は反競争的な企業行動を規制するが、何が反競争的かは簡単には分からない。このような場合には道徳は問題を解決できないだろう。水平合併は悪、垂直合併なら善みたいな道徳を想像するのは難しい。経済学と道徳は同じ問題に取り組んでいるとも言え、経済学がしばしば道徳的に批判されることも説明できる。

(注)これはごく基礎的と考えられる二つの道徳原理が衝突するようなケースを簡単に想定できることからも明らかだろう。古典的な例では、薬を盗むのは悪いことだが、子供を助けるのはいいことだというようなケースだ。

コメントに関し追記:

maru62さん:

実際は赤い円が青い円を飲み込んで包含しつつある

これは鋭いご指摘です。国が青い円に含まれていないのに儲かることを放置したまま、赤い部分ばかりを広げているというのは日本を含め多くの先進国の現状です。儲かることを増やせば政治力を持った人間がその分け前を手にすることができるためです。

atsushifxさん:

金儲け=正義 となるのは、社会が整備され市民が社会を信じることからはじまる。官僚バッシングが共感されることから見ても日本の社会は信頼されていない

これは経済学の役割のところで説明したように、青い円の位置が簡単には分からないことにより生じると思います。自分たちで調べるのはあまりにもコストリーなので信頼が必要とされます。経済学はここに定式化された計算を持ち込むことで、単純な信頼への依存を減らせると考えます。

unagiameさん:

てか、経済学は功利主義から派生したモラルサイエンスですよ。ケインズ曰く。だから、経済学は道徳の一種と考えるとよく分かる。

アダムスミス以前の「経済学者」は基本的に道徳哲学者ですね。経済学を勉強しようという大学生はギリシャ哲学からメタ倫理学まで、ある程度の倫理学を学んで欲しいと思います。

「金儲け=悪」の由来

ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう」では「金儲け=悪」が基本的に間違っていることと、なぜそれに大学生が気付かないのかについて書いた。しかし、一つ答えていない問いがある。それは「金儲け=悪」という道徳がそもそもどこからきたのかということだ。

いつからそういう道徳があるのかという問題は歴史家にまかせるとして、私の考えは道徳規則が社会の変化においついていないというものだ。ビジネス・金儲けがほとんどの場合社会的に望ましいためには、そういう風に社会が作られている必要がある:

社会的に望ましくないビジネスは割に合わないように社会は作られている。

しかし、そういった社会制度が整備されたのは比較的最近のことだ。例えば、価格カルテルは社会的に望ましくない企業活動だが、反トラストが政府の重要な機能と認識されたのはそう昔のことではない。アメリカでシャーマン法が成立したのは120年ほど前のことだ。

社会的に望ましくない行為を取り締まる必要が認識されたとしてもそれを実際に執行するためには有効な警察力をもった国家が必要だ。国家の力が弱かった時代(ないし国)においては法律があっても取り締まりは難しい。また民主主義が確立していなければ、それだけの権力を国が持つことの弊害は極めて大きい

そういった状況では、商売・金儲けが社会善と一致しないため、それに代わるものとして「金儲け=悪」という道徳規則が成立するのは想像に難くない。法律がなければ莫大な利益は他人の犠牲の上に成り立つことが多いだろう。

もちろん今でも法の抜け道は存在し、「金儲け=悪」という概念が存在する余地はある。しかし、本当にやるべきことは金儲けが社会的に望ましいことになるような社会制度を整えることだ。現代に生きる我々はそれを成し遂げるための仕組みを持っている。

追記:図を使ってこのことを説明してみました。下のピングバックリンクからどうぞ。

ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう

Twitterでryosukeakahoshiさんが次のように呟いていた。

いまだに「ビジネス≒金儲け=悪」のような歪んだ先入観を持った大学生がいっぱいいる@福岡。何でそんな考えに至るんだろうか?学校教育?マスメディア?家庭教育?日本の風習?

「ビジネス≒金儲け=悪」という間違った考え方がどうして支持されるかというのは確かに面白い問題だが、その前にそれが間違っているということを説明した方がいいかもしれない。

お金を稼ぐ一番簡単な方法は人々に望まれていることをすること

お金を稼ぐとはどういうことだろう。例えば、レストランであればお客さんに食事を提供することだ。客はお金を払って=他の消費を犠牲にして食事を注文している。別に強制しているわけではないのでこれは客にとって望ましいことなはずだ。その食事は1000円だっとする。レストランはそれを1000円で自分から提供しているのだからそれで利益がでるはずだ。二人が自発的に取引を行っているということはそれが二人にとって望ましいということだ

レストランの例が示すように、ビジネスの本質は社会の非効率を解消して、その分け前を得ることだ。食事を食べたいがおいしい料理をすぐに作れないひとと、それなりの価格でおいしい料理をすぐに作れる人がただ並んでいるのは非効率だ。レストランは食事を提供することでこの非効率を解消し分け前として1000円をもらう。

解消する非効率が全体のパイで、利益はその分け前だ。ないパイは分けられないので、ビジネスが基本的にはパイを作り出す=社会をよくするものなのは明らかだろう。これがいいことでないというならそれはかなり変わった考えだ。

でも自発的じゃなかったらどうするの?

レストランの話は客が自発的に食事を注文していることが前提だ。もしレストランがぼったくりだったら、悪いことだろう。しかし、ぼったくりが犯罪であるように、取引を強制することはほとんどの場合に犯罪となる

これは偶然ではない自発的でない取引は一般に望ましくないので、それを犯罪としているのだ。強制的に物品を奪い取るのは強盗であり、金をだまし取るのは詐欺だ。これらの行為は何も生産しないどころか、その過程で暴力のようなパイ自体を壊す行動を伴う。だからそれは違法とされており、社会的に望ましくないビジネスは割に合わないように社会は作られている。犯罪にするほどではない場合には税金が課される。例えばタバコを吸うことは本人にとってはプラスなので完全に禁止するよりも税金で適当なバランスをとったほうがいいからだ。

抜け道は?

もちろん法律には抜け道がある。世の中の全ての望ましくない行動を事前に列挙することはできないからだ。でも、それを探してビジネスにするというのはあまり賢明ではない。我々はそういった行動を見つけて規制しようという意志をもっており、抜け道を利用して派手に稼いでいる人を見つけたらその抜け道を塞ぐからだ

逆に、社会のためになるけど儲からないこともある。例えば、科学技術に投資することで未来の人たちは利益を得るが未来の人々と取引をすることはできないから分け前をもらうこともできない。しかし、この場合でも悲観的になる必要はない。それが全体として望ましい限り、いつか我々は政府を通じてそれを支援する。政府という主体が未来の人の代わりとなるのだ。

ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう

このようにビジネスは基本的に社会のためになるそういう風に社会は作られている。社会のためになることをしたいなら、なるべく大きな非効率を見つけてそれを改善すればいい。大きなパイを取れば分け前も多くなるのが普通だ。そうなっていない例外的なケースを探してビジネス・金儲けはよくないなんて気取っている暇があったら、何かを始めるべきだ大抵の場合、それで社会はよくなるのだから

ではなんで「ビジネス≒金儲け=悪」なんて考える大学生が多いのか

この問いへの私なりの答えは、ほとんどの日本の大学生は自分で商売をしたことがないから、というものだ。何か自分でものやサービスを売ってお金を稼いだことがあれば、こんなことが分からないはずはない。だってそうだろう。欠陥品を売りつけるのは難しく、みんなが欲しがる商品を売るのは簡単だ。捕まるリスクをおかして欠陥品を騙して売るよりも、商品を改善したほうがいい。それがビジネスであり、そうした改善の結果が金儲けだ。

追記:コメントでktamaiさんが指摘されているように、大学教員のほとんどが自分でビジネスにふれたことがないというのは大きな原因の一つのように思います。皆様有意義なコメントありがとうございます。

追記:図を使ってこのことを説明してみました。下のピングバックリンクからどうぞ。

付加価値を生んで税金(再分配原資)を収められるのは「産業」だけ。事業仕分けでみたように、残りは公務員もNGOも学者も芸術もスポーツも全部それを使う人neu

マンガ輸出振興はやめよう

よく日本独自の文化としてマンガを新しい輸出産業にしようって話があるけど、本気なんだろうか:

日本発ポップ・カルチャーのすすめ〜日本の電子書籍市場

リンク先の基本的主張を要約すれば次のようなものだ:

  • 電子書籍分野で日本は進んでいる
  • その規模は464億円
  • そのほとんどは携帯向け
  • 携帯コミックは成熟した日本から生み出された新しい書籍文化
  • 携帯音楽市場は1000億円規模で世界一
  • 携帯コミックは次のコンテンツ市場
  • 海外展開も始まっている
  • 製造業は限界なのでコミックのような新しい産業を育てる必要
  • コミックに加え“カワイイ”文化やアニメ・映画

四つほど論点を上げたい。

  • 日本の携帯書籍市場が大きいのは日本独自の理由
  • 製造業は限界ではない・輸出だけ振興してもしょうがない
  • 産業育成は必要ない
  • 本気でポップカルチャーが一大輸出産業になると思ってるの?

日本の携帯書籍市場が大きいのは日本独自の理由

では何故日本の携帯電話上で書籍の販売が盛んなのか。それは日本では携帯プラットフォームが非常にクローズドだからだろう。寡占的なキャリアは端末メーカーと協力して比較的強いDRMと簡単な支払い手段を用意した。これにより、著作権管理の強固な携帯プラットフォームでのコンテンツ提供が広まったが、逆に言えば、それが市場が大きな理由であって日本の携帯向け書籍・マンガが特に魅力的だからではない。同じものを海外にもっていったからといって成功する根拠にはならない。通勤時間が異常に長いという日本固有の影響もあるだろう。

製造業は限界ではない・輸出だけ振興してもしょうがない

製造業ベースの国際競争力では、今後、輸出関連産業が飛躍的に大きく伸びる可能性は小さく、これまで、ハイテク化や高付加価値化によって 立つという図式を日本の産業界は追求して来ましたが、このモデルだけでは限界があると思います。

ハイテク化・高付加価値化がどうして限界があるのかよく分からない。自動車産業はうまくやっているように見えるし、海外に目を向けても半導体や携帯など製造業が輸出の柱となっている国は多い。金融サービスや映画などのコンテンツを大々的に輸出しているのはアメリカだけではないだろうか。また輸出を行うのは輸入をするためであって、限界(?)を越える必要なんてない。海外で資産を買い占めたいのだろうか。

産業育成は必要ない

コミックのような成熟社会の文化に根ざしたコンテンツ配信をビジネスモデル化し、産業として育てていく途を加える必要があります。[…]産業育成として、コミック に加えて、東京発の“カワイイ”文化や世界で受賞相次ぐアニメや映画まで含めて配信ビジネスとして仕組んでいくことが、新しい日本の発展を支えるのではな いかと思っています。

産業育成一般に当てはまる話だが、政府に輸出産業を予知する能力はない。日本のポップ・カルチャーがそんなに素晴らしいなら、ほっとけばいい話であってどうにか振興しようというのは余計なことだ

本気でポップカルチャーが一大輸出産業になると思ってるの?

では日本のポップカルチャーが製造業に代わり外貨を稼いでくるようになるのか。

文字と比べて、ビジュアル系のコンテンツは映画を含めて、他文化の人達にも理解され易く、日本発のポップ・カルチャーとしての情報発信は十分可能です。

確かにマンガのようにビジュアルなものは文字だけのコンテンツに比べれば他文化の人にも理解されやすいかもしれないが、食料や自動車のようにはいかないだろう。

アジアを中心に、更に最近では欧米においても、コミック、アニメや“カワイイ”ファッションなど、日本発のポップ・カルチャーは注目を集めています。

変わったものとして注目を集めるのと輸出産業になるというのは全く違うことだ。いくらか輸出できるだろうけど、製造業のあとをつぐなんて不可能だろう。海外で一番大きなビジネスになっている日本文化は寿司だろうがそれだって普通の料理だと考えているのはごく一部だし、海外で出されるのは(多くの場合現地の人が)現地向けにアレンジしたものだ。海外に寿司レストランがたくさんできて日本に外貨が流れ込んできているという話も聞かない。

そもそも文化的なものは輸出するのが難しい(参照:日本でFacebookは生まれない)。日本にあるものをそのまま海外に持ち出しても一部のマニアに受けるのが関の山だ。本当に産業として成立するためには、海外の人たちがどんな日本風コミック・アニメ・ファッションを欲しているのか知る必要がある。だが、これは日本人が日本にいるだけでは非常に難しい。誰がスパイシー・ツナ・ロールやレインボー・ロールを作ったかという話だ

むしろ日本に独自性があって海外でも受けるというコンテンツで言えば、こちらの「マカオで“大人”の展示会、日系が海外攻勢」のほうが見込みがあるのではないだろうか:

インドから来たバイヤーは「日本のアダルト産業は世界的にも評価が高い。日本の商品をインドで売りたい」と興味がある様子。また一般客として来場した香港人男性は「今まで見たことがない商品があって面白い」と話した。

ミニスカートが悪いのか

なんか各所で話題になっているけど、ちょっと前に読んだ他の記事と関連しているので取り上げてみる:

強姦するのが男の性なら去勢するのが自己責任でしょ – フランチェス子の日記

産経新聞の曽根綾子さんのおかしな記事に対するツッコミだ。こちらに本文がタイプされているので少し引用してみる:

太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、と言うべきだろう。なぜならその服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ。

主張自体は別に真新しいものではない。女性が述べているのが珍しいだけで政治家なんかからはよく聞く話で、簡単に言えば「ミニスカートはいているのが悪い」ということだ。

この議論には致命的な問題がいくつもあるが二つだけ指摘する。まずは、レイプが起こるのは両者の不注意ではなく、一方の明確な意図が必要だということだ。これに同意できない人は男女を逆にして考えれば分かる。

男性がレイプされるシチュエーションを想像するのは難しいが、妻が浮気をしてもうけた子供を自分の子供だと騙されて育ててしまうというのがそれに近い。この話題はしばらく前にこちらで話題になった:

Biologically, cuckoldry is a bigger reproductive harm than rape, so we should expect a similar intensity of inherited emotions about it.

不貞の場合には被害者の男性は自分の遺伝子と関係ない子供に大量の資源を投入してしまい、実際に遺伝子を残すことが困難になる。レイプの場合では自分の遺伝子自体は残るが相手を選べず、妊娠した場合の出産・育児のコストは女性が負担するためその子供や自身の生存確率が大幅に下がる。

どちらも個体として適切に遺伝子を残す可能性を大きく下げる出来事であり、進化心理学的にいって人間はそれに対して同様の強烈な嫌悪感を持つはずだ(注)。実際、歴史上、妻の不貞に対して男性ないし社会は女性を強く責めてきた。また両者ともに、当事者間で合意がなく、一方の恣意的な行動がなければ成立しない点も同じだ。

しかし、夫が忙しくてかまってくれないので「つい」浮気をしてその相手の子供を「つい」生んでしまい「つい」夫の子供と称して育てるなんてことがあるだろうか。女性がミニスカートをはいているから「つい」レイプをしてしまうこともそれと同じだ。「つい」なんてあるわけないし、あったとしても悪いのは「つい」してしまった当事者であって忙しい夫やミニスカートの女性ではない

「ミニスカートはいているのが悪い」と思っている人は当然このケースでも悪いのは男性であって「つい」夫を騙した女性ではないと考えるべきだろう(そうであれば確かに男女対称だろうがそんな世界には住みたくない)。

二つめの問題は「自己責任」という言葉の無意味さだ。「自己責任」というルールが存在するのは、結果を左右する人間に責任を押し付けるのが最も効率的なことだからに過ぎない。しかし、これは結果と行為者とが1対1に対応しない場合には役に立たない。例えば車と自転車が衝突事故を起こしたとしてこれは誰の自己責任なのだろう。どちらも不注意があり、その結果として衝突が起こる。どちらがより多くの責任を追うべきかは「自己責任」というスローガンからは導けない。

仮に男性の意図がなくてもレイプが起こるとしても(!!!)、男性が自制することのコストの方が、女性が服装や生活を制約されることのコストよりも遥かに小さいはずであり、男性が自制することが効率的だ。よって法律や文化もそうなるようになっているほうが社会的に望ましいだろう。もし自制のコストが女性の制約のコストより高い男性がいるならそれは病気だろう。

(注)現代では事後避妊・流産・DNA鑑定などで進化論的な影響は避けられるだろうが、人間の心理はそういう技術がない時代の生物学的優位性に基づいて決定されていると考える。