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大学院に関する変な記事

微妙な記事にコメントするのは非生産的なので避けたいが、これはあまりにあまりなので:

「大学院卒」は「東大卒」をも凌駕する学歴だ | ビジネスマンのための 大学・大学院の歩き方 | ダイヤモンド・オンライン

すなわち「いかなる大学院も、全ての大学の上位にあること」、いいかえれば最終学歴として書かれるべき学校は大学院、という時代が来はじめている、ということだ。

学歴主義というのが学歴というシグナルに基づく差別的扱いであることがまるで理解されていない。雇用が流動化すれば対外的にスキルを示すことのできる大学院は一般化していく。それに伴い、いい大学を出ているが大学院を出ていない学生の市場価値が低下することは当然ある。しかし、それもまたシグナリングに過ぎない。そしてシングナリングはネガティブなこともありえる。この程度の大学(院)にしかいかなかったということは、他の事情がなければ平均的にいって、能力が低いと判断されうるということだ。

これはアメリカのMBAでは既に現実化しており、例えばVCにいくならトップスクールでMBAを取ったのでなければ、持っていないほうが就職できる可能性は高いだろう。

本当は、その上に博士課程があり、おそらくは、現在の学歴社会の最終ゴールはそこだ。

博士課程が最終ゴールなんて発想がどこから出てくるのかさっぱり分からない。シグナリングという意味ではよほど勉強が得意でなければ非効率だし、そもそも社会人学生なんて相手にしていない。

すでに「MBAホルダー」である人間も、その上(DMAもしくはPh.D)を目指すのにはどういう戦略が有効かを考えるのである。

MBAがPh.D.を取りにいってどうするのか分からないし、そもそも入学できる可能性自体低い。著者はPh.D.が何か全く知らないようだ。

P.S. というかDMAって一体何だろう。Doctor of Musical Artsしか該当しないのだが。。。

どうして三世の所得が低いか

移民で三世、つまり祖父母が移民した世代の所得は親である二世より下がる。これは何故か:

Economic Logic: Why third generation immigrants earn less

こちらが元記事の論文だ。以下概要から。メキシコからの移民の人的資本を推定している。

there is a significant one time loss of human capital faced by immigrants upon migration that is not transmitted to their children.

第一世代は移民のために人的資本を犠牲にする。

Also parents with larger amounts of human capital tend to migrate more and tend to choose to remain high school educated.

能力のある人間が移民するが、彼らは高卒に留まる。

However, given the better educational opportunities offered in the US, they migrate with the expectation of their children becoming college educated.

しかし、子供の教育には熱心で第二世代は大学教育を受ける。

Therefore, measures that rely on the earnings performance and educational attainment of immigrants underestimate the amount of human capital they bring into the host country.

そのため第一世代の所得や教育レベルは彼らの本当の能力にくらべ低いものとなり、そういった指標で移民の価値を図ることは実際の価値を低く推定してしまうという。

さらに面白いのは第三世代は第二世代よりも所得が落ちるという傾向だ。これについてリンク先では次のように説明している。

The way I understand it is that there is selection in migration decisions: only those with higher than average abilities (not necessarily realized human capital) go. Their children inherit some of those traits, and thus have higher than average abilities and human capital. While the first generation was not able to fully exploit this, while the second does, wages go up. But abilities of the third generation continue regressing to the mean, and the selection effect erodes.

移住を決意する外国人は平均的に能力が高い。しかし、彼ら自身は移民に伴いそれを完全に生かすことができない。その子供である第二世代はその高い能力を受け継ぐ一方、高度の教育を受け高い所得を得る第三世代になると、遺伝的能力は平均に回帰していくため、集団としてのアドバンテージは消えていく

こういった考え方は優性学的側面を持つため表立って議論されることはあまりないが、移民の多い国の大きなアドバンテージになっていることは間違いないだろう。例えばアメリカでは高校までの教育水準は平均的にいって著しく低い。しかし大学レベルになると留学生が入ることでレベルが上がり、アメリカ人も必死で勉強するようになる。大学院に至っては留学生が大半を占める学科もある(うちの学校では60%-70%は留学生だ)。またアメリカ国籍を持っていて両親ともに留学生としてアメリカに来たという例も珍しくない。

実はアメリカの移民政策は一般に思われているほど移民にやさしくないが、イギリス・カナダ・オーストラリアなどでは能力の高い外国人が永住権を取得するのは簡単にしている英語が通じない日本で同じようなことが可能かは分からないが、できないとしても代わりに教育システムで補償するなど真剣な議論が必要だ

いつ専攻を決めるべきか

学生がいつ専攻を決めたかで将来の職業と大学での専攻との関連性がどう変わるかについて:

News: When to Specialize? – Inside Higher Ed

紹介されているのはOfer MalamudのDiscovering One’s Talent: Learning from Academic Specializationという研究。

To try to answer that question, Malamud compared entering college students in England, who apply for a specific field of university study while in high school, with those in Scotland, who enter a broad “faculty” for their first two years and typically specialize in a single discipline only for the second half of their time at a university.

彼は、大学入学時に専攻を決めるイングランドの大学生と後半になって決めるスコットランドの大学生を比較した。アメリカの大学は一般的に後者だ。進みたい学科が要求している単位・点数を満たした学生が途中で専攻を決める(declare major)。日本は前者の大学が多いが、東大のように最初の二年間は教養教育に当てるところもある。上にあるスコットランドのケースはそれに極めて近い。

In fact, the data showed that students who emerged from the English institutions were about 20 percent more likely than their peers in Scotland to end up in careers that were not aligned with their university majors.

結果は、入学時に専攻を決めるイングランドでは20%ほど専攻とは関係のない仕事に従事する割合が高かったとのことだ。

これは面白い結果だ。早く専攻を決めるということは卒業時により専門化されていることを意味する(はずだ)。よって賃金面で言えば、他の条件が同じなら、専攻に関係する仕事に就くのが望ましくなる。

The students at Scottish institutions, by contrast, seem more likely to have chosen to study fields that successfully aligned with their career interests, says Malamud, success that he attributes to the time and freedom they’re given to experiment with a broad range of fields, and to learn both what they like and what they’re good at.

これについて、スコットランドの学生の方がいろんな分野を試すことで自分がやりたいことや自分が得意なことを発見しているからだと説明している。

もう一つの説明は、専門化を遅らせることでちゃんと仕事が存在する分野を勉強するというものだろう。大体から言って自分が好きなことをすべきというのは最悪のアドバイスだ。そういった変な教育を辞めれば仕事のミスマッチとかいう問題は消えてなくなるような気もする。

大学教育と油田開発

バークレーを含めカリフォルニア大学の各キャンパスで授業料値上げに対するデモ行進などが起こっている。一つの主張は、授業料が上がると誰もが大学教育受けるという機会が失われるというものだ。しかし、なぜ大学の学費を政府が援助する必要があるのだろうか

UC Tuition: The Revolt of the Will-Haves, David Henderson | EconLog | Library of Economics and Liberty

大学教育への政府支出に対する最も有名な批判はフリードマン(Milton Friedman)のそれだろう:

Milton Friedman used to remark that the California government, with its state funding of higher education, taxed the residents of Watts to pay for the residents of Beverly Hills.

カリフォルニア政府は大学に財政支出を行うことで貧しい人々から豊かな人々へ再配分をしているというものだ。日本なら総合大学で最も親の平均所得が高いのは東大だろう(外れ値にもよるので実際どうだかは知らない)。仮に教育費の問題がなくとも、遺伝で説明できる(東大生の親は東大生という奴だ)。東大の学費を政府が補助することはみんなから集めたお金をお金を持っている家の子供に還元することになる

Even though the California’s tax system relies heavily on sales taxes, which probably makes the state tax system on net somewhat regressive, it’s still the case that a given Beverly Hills family pays much more in taxes than a given family in Watts.

もちろん裕福な家庭の方が多くの税金を払っていることを考えれば一概に逆進的な所得の再配分が行われているとは言えないが、そういう傾向があるのは確かだろう。

アルキアン(Armen Alchian)はさらに家庭の所得ではなく個人の潜在的な所得獲得能力に注目した:

All college calibre students are rich in both a monetary and non-monetary sense. Their inherited superior mental talent–human capital–is great wealth.

大学の学費を援助することの逆進的な再配分を説明するのに家庭を持ち出す必要はない。大学へ進学する人間というのは、将来多くの所得を稼ぐことのできる、潜在的には裕福な人間だからだ

また東大の例を出せば東大の卒業生が平均的に高所得なのは明らかだ。例え家が貧しかったとしても結論は変わらない。学生の本当の豊かさというのは潜在的な所得獲得能力で決まる。現在の稼ぎ、親の稼ぎ、将来実際に稼ぐかとも関係ない。

College calibre students with low current earnings are not poor. Subsidized higher education, whether by zero tuition, scholarships, or zero interest loans, grants the college student a second windfall–a subsidy to exploit his initial windfall inheritance of talent. This is equivalent to subsidizing drilling costs for owners of oil-bearing lands in Texas.

ここでは油田の開発と比べられている。学生というのは油田地域の保有者のようなものだ。教育というのはその採掘だ。学費の支援は油田採掘へ補助金を出すことだ

Nothing in the provision of full educational opportunity implies that students who are financed during college should not later repay out of their enhanced earnings those who financed that education.

教育機会の平等というのは、誰もが自分の油田を開発できる環境を提供することだそのために必要なのは採掘費用を貸し出すことであって、費用をみんなが負担することではない

では大学への政府支出が必要ないのかというとそんなことはない。油田の開発を考えれば分かる。油田の存在が国家にとって必要なら税金を使って開発するのは理にかなっている。また例えば大油田が日本のある場所に眠っているとして、その土地の持ち主が政府に採掘費援助を要求しても不思議はないだろう。土地であれば国が接収したり、開発を強制したりもできるが、人間の能力ではそれは無理だ。

また人間は油田とは異なり国際的に移動できる。もしある国が教育費を補助しなければ優秀な人間がさっさと国外に移動することは十分に考えられる。大学レベルでも同じだ。大学が授業料を免除したり、奨学金をだしたりするのは機会の平等のためではなく優秀な学生を捕まえるためだ。だから大学経営が商業的なアメリカのほうが授業料免除や奨学金は遥に多い。

政府は、大学教育への補助を機会の平等のためだと主張するのを止めるべきだ。機会の平等には学費の貸与で対応し、社会のために必要な補助に関してはそうと明らかにした上で適切に行っていく必要がある。

追加:FreakonomicsにもBlogにも関連記事がでている。ポイントは授業料が高いことではない。お金がない学生に対する奨学金が足りないことだ。大学の高い授業料と奨学金は価格差別の一種だ:

Financial aid is, at its core, a price-discrimination scheme. Consumers pay different prices (net of financial aid) for the same service. Higher education is the very rare market where the seller says “Tell me in detail about your ability to pay, and I’ll tell you what your (net) price will be.”

そして価格差別によって、それなくしてはその財を購入できない消費者の手に財が提供されるなら、価格差別は社会的に望ましい。

博士人材活用の攻めの姿勢

民主党の「仕分け」で盛り上がっている博士の人材活用について:

「博士および博士級人材」の能力 – akoblog@はてな

「科学技術と企業家の精神—新しい産業革命のために」という本の紹介だが、次の本文が気になった:

先日のエントリで私が書いたことは、どうも個人的な待ちの姿勢と読まれた方も少なくなかったが、この本は強くお勧めしたいと思う。

本から引用されているのは次の一節だ:

(人材送出側の大学、本人、および企業側の)相互理解の不足問題の本質は、「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることが、社会の共通認識となっていないことである。個別の企業に高度知的人材の活用法を委ねるだけでなく、国策としての方策も併せて検討すべきであ る。(「科学技術と企業家の精神」p184 より)

しかし、これもまた「待ちの姿勢」に過ぎないだろう。逆に考えればわかりやすい。何が博士人材を活用する上での「攻めの姿勢」だろうか

それは、博士人材の問題解決・設定能力が社会に認識されていないうちに彼らを優先的に雇用することで大きな利益をあげることだ(とりあえず博士人材の能力については上の主張が正しいとする)。もし博士号を持っている人間の本当の価値が他の人間に知られていないことが問題の本質であるなら、それに気づいて彼らを雇う会社は優位に立てる。単純な裁定取引に過ぎない。

では何故そういう行動に出る企業が存在しないのか。博士人材の過剰供給が取り沙汰されるようになって以来ずっと誰もこの(裁定)機会に気づかなかったのだろうか。それは俄には信じがたい。企業はパート労働者が割安だと気づけば雇用するし、派遣労働者が人件費削減に資すると分かれば世間から非難されようと大々的に導入する。やはり、単に企業が「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることを知らなかったと考えるのは無理があるだろう。企業はそうだと分かっていながら合理的な判断として博士人材を雇用してこなかったはずだ

問題解決・設定能力が企業活動にとって重要であることは言うまでもないし、そういった人材が余っているという話も聞かない。よって潜在的な需要はあるだろう。ではなぜ企業は博士を雇用しないのか。まず検討すべきなのは情報の非対称だろう

企業からみて博士の人間の能力を判定するのは非常に難しい。問題解決・設定能力はどうやって測るのだろう。言うまでもなく、論文を読んで判断するというのは費用が掛かりすぎる。また、同業者と比べて明らかに学術業績がある人間はほぼ確実にアカデミアに残るため、企業が採用とする人間のプールだけを考えれば素人が見て業績に差があるようなケースもほとんどないだろう。自分がアカデミアにいる人は、違う専攻の博士をどう評価すべきかを考えればすぐに分かるだろう。例えば、他分野のトップジャーナルが何かなんて普通は知らない、ましてやある人がやっているその分野のごく狭い部分で重要なジャーナルが何かなんて業界の人に聞かないと分からないだろう。博士を取ったばかりの人間であれば参考にすべき情報もあまりない。

企業が学生の資質を測るのに苦労しているのは学部の新卒採用でも同じだ。何度も面接を行うのはその現れだ。しかし、面接をうまくこなせる能力や完璧なレジュメを書く能力よりも重要なことがある。それは出身大学だ。企業は学生の資質を測る最も簡単な方法としてどこの大学の学生かという情報を利用している。この場合、一流大学に入るということが能力が低い学生にとって比較的困難なため、シグナリングとして作用している(大学のシグナリングについて)。

こう考えると博士の就職がうまくいかない理由は簡単に分かる。それは大学というシグナリングの装置がうまく働かないからだ。企業は出身大学という情報を使って学生の質を推定することができず、採用をとりやめる。博士の就職問題を解決したいなら、この状況を変えればいい。まず、各大学(特にトップ大学)の定員を削減する必要がある。学部卒で考えれば分かる。誰でも入れる大学の卒業生を雇いたい企業がいるだろうか。その大学にも優秀な人はいるといくらいっても無理な話だ。

これは全体としての大学院の定員を減らせというわけではない。総数が同じであっても内部でランクがつけばよい。中程度の能力ならそうと分かればいいだけの話だ。それによって企業が学生を判断する手がかりが与えられる。学生の選考は難しくなるが、大学教授のほうが博士課程に進む学生の質を判断する能力には秀でている。特に国立大学はシグナリング機能を学生に提供しようという金銭的なインセンティブを持たないので政府の関与が必要だろう。

この場合でも何故学生がこのような状況でも進学するのかという疑問は残るかもしれない。しかし、それは学生がアカデミアに強い選好を持っていることで説明できる。また、実際学生が最適でない行動を取っているとしても、企業が最適でない行動をとっているよりはよっぽど自然なことだ。

シグナリングは社会的な費用になるのではないかという指摘についてはその通りだ。しかし他に効率的な手段がない以上必要だろう。アメリカでは大学院のランク付けは当たり前だ。また個々のプログラムは小規模でランクが上がるほどセレクティブになる。シグナリングはアカデミックな就職市場でも有効だ。業績が殆どない博士の能力を測る手段として大学院のランクが使われる。これには大学内の他の学部に対して採用決定の正当化に役立つという面もあるだろう。

おまけ:

もし自分には見分けがつくというのなら、就職支援・採用支援でビジネスを始められる。これはシグナリングなんていうコストリーな仕組みを使わない分社会的に望ましい。

見分けはつくがそれを信頼できる形で示せないというなら、自らビジネスを始めてできる博士だけを雇えばよい。優秀な問題解決・設定能力を持った人材を比較的低コストで雇えるのだから何をやっても利益を出せるはずだ。