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大学教育と油田開発

November 23rd, 2009

バークレーを含めカリフォルニア大学の各キャンパスで授業料値上げに対するデモ行進などが起こっている。一つの主張は、授業料が上がると誰もが大学教育受けるという機会が失われるというものだ。しかし、なぜ大学の学費を政府が援助する必要があるのだろうか

UC Tuition: The Revolt of the Will-Haves, David Henderson | EconLog | Library of Economics and Liberty

大学教育への政府支出に対する最も有名な批判はフリードマン(Milton Friedman)のそれだろう:

Milton Friedman used to remark that the California government, with its state funding of higher education, taxed the residents of Watts to pay for the residents of Beverly Hills.

カリフォルニア政府は大学に財政支出を行うことで貧しい人々から豊かな人々へ再配分をしているというものだ。日本なら総合大学で最も親の平均所得が高いのは東大だろう(外れ値にもよるので実際どうだかは知らない)。仮に教育費の問題がなくとも、遺伝で説明できる(東大生の親は東大生という奴だ)。東大の学費を政府が補助することはみんなから集めたお金をお金を持っている家の子供に還元することになる

Even though the California’s tax system relies heavily on sales taxes, which probably makes the state tax system on net somewhat regressive, it’s still the case that a given Beverly Hills family pays much more in taxes than a given family in Watts.

もちろん裕福な家庭の方が多くの税金を払っていることを考えれば一概に逆進的な所得の再配分が行われているとは言えないが、そういう傾向があるのは確かだろう。

アルキアン(Armen Alchian)はさらに家庭の所得ではなく個人の潜在的な所得獲得能力に注目した:

All college calibre students are rich in both a monetary and non-monetary sense. Their inherited superior mental talent–human capital–is great wealth.

大学の学費を援助することの逆進的な再配分を説明するのに家庭を持ち出す必要はない。大学へ進学する人間というのは、将来多くの所得を稼ぐことのできる、潜在的には裕福な人間だからだ

また東大の例を出せば東大の卒業生が平均的に高所得なのは明らかだ。例え家が貧しかったとしても結論は変わらない。学生の本当の豊かさというのは潜在的な所得獲得能力で決まる。現在の稼ぎ、親の稼ぎ、将来実際に稼ぐかとも関係ない。

College calibre students with low current earnings are not poor. Subsidized higher education, whether by zero tuition, scholarships, or zero interest loans, grants the college student a second windfall–a subsidy to exploit his initial windfall inheritance of talent. This is equivalent to subsidizing drilling costs for owners of oil-bearing lands in Texas.

ここでは油田の開発と比べられている。学生というのは油田地域の保有者のようなものだ。教育というのはその採掘だ。学費の支援は油田採掘へ補助金を出すことだ

Nothing in the provision of full educational opportunity implies that students who are financed during college should not later repay out of their enhanced earnings those who financed that education.

教育機会の平等というのは、誰もが自分の油田を開発できる環境を提供することだそのために必要なのは採掘費用を貸し出すことであって、費用をみんなが負担することではない

では大学への政府支出が必要ないのかというとそんなことはない。油田の開発を考えれば分かる。油田の存在が国家にとって必要なら税金を使って開発するのは理にかなっている。また例えば大油田が日本のある場所に眠っているとして、その土地の持ち主が政府に採掘費援助を要求しても不思議はないだろう。土地であれば国が接収したり、開発を強制したりもできるが、人間の能力ではそれは無理だ。

また人間は油田とは異なり国際的に移動できる。もしある国が教育費を補助しなければ優秀な人間がさっさと国外に移動することは十分に考えられる。大学レベルでも同じだ。大学が授業料を免除したり、奨学金をだしたりするのは機会の平等のためではなく優秀な学生を捕まえるためだ。だから大学経営が商業的なアメリカのほうが授業料免除や奨学金は遥に多い。

政府は、大学教育への補助を機会の平等のためだと主張するのを止めるべきだ。機会の平等には学費の貸与で対応し、社会のために必要な補助に関してはそうと明らかにした上で適切に行っていく必要がある。

追加:FreakonomicsにもBlogにも関連記事がでている。ポイントは授業料が高いことではない。お金がない学生に対する奨学金が足りないことだ。大学の高い授業料と奨学金は価格差別の一種だ:

Financial aid is, at its core, a price-discrimination scheme. Consumers pay different prices (net of financial aid) for the same service. Higher education is the very rare market where the seller says “Tell me in detail about your ability to pay, and I’ll tell you what your (net) price will be.”

そして価格差別によって、それなくしてはその財を購入できない消費者の手に財が提供されるなら、価格差別は社会的に望ましい。

博士人材活用の攻めの姿勢

November 16th, 2009

民主党の「仕分け」で盛り上がっている博士の人材活用について:

「博士および博士級人材」の能力 – akoblog@はてな

「科学技術と企業家の精神—新しい産業革命のために」という本の紹介だが、次の本文が気になった:

先日のエントリで私が書いたことは、どうも個人的な待ちの姿勢と読まれた方も少なくなかったが、この本は強くお勧めしたいと思う。

本から引用されているのは次の一節だ:

(人材送出側の大学、本人、および企業側の)相互理解の不足問題の本質は、「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることが、社会の共通認識となっていないことである。個別の企業に高度知的人材の活用法を委ねるだけでなく、国策としての方策も併せて検討すべきであ る。(「科学技術と企業家の精神」p184 より)

しかし、これもまた「待ちの姿勢」に過ぎないだろう。逆に考えればわかりやすい。何が博士人材を活用する上での「攻めの姿勢」だろうか

それは、博士人材の問題解決・設定能力が社会に認識されていないうちに彼らを優先的に雇用することで大きな利益をあげることだ(とりあえず博士人材の能力については上の主張が正しいとする)。もし博士号を持っている人間の本当の価値が他の人間に知られていないことが問題の本質であるなら、それに気づいて彼らを雇う会社は優位に立てる。単純な裁定取引に過ぎない。

では何故そういう行動に出る企業が存在しないのか。博士人材の過剰供給が取り沙汰されるようになって以来ずっと誰もこの(裁定)機会に気づかなかったのだろうか。それは俄には信じがたい。企業はパート労働者が割安だと気づけば雇用するし、派遣労働者が人件費削減に資すると分かれば世間から非難されようと大々的に導入する。やはり、単に企業が「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることを知らなかったと考えるのは無理があるだろう。企業はそうだと分かっていながら合理的な判断として博士人材を雇用してこなかったはずだ

問題解決・設定能力が企業活動にとって重要であることは言うまでもないし、そういった人材が余っているという話も聞かない。よって潜在的な需要はあるだろう。ではなぜ企業は博士を雇用しないのか。まず検討すべきなのは情報の非対称だろう

企業からみて博士の人間の能力を判定するのは非常に難しい。問題解決・設定能力はどうやって測るのだろう。言うまでもなく、論文を読んで判断するというのは費用が掛かりすぎる。また、同業者と比べて明らかに学術業績がある人間はほぼ確実にアカデミアに残るため、企業が採用とする人間のプールだけを考えれば素人が見て業績に差があるようなケースもほとんどないだろう。自分がアカデミアにいる人は、違う専攻の博士をどう評価すべきかを考えればすぐに分かるだろう。例えば、他分野のトップジャーナルが何かなんて普通は知らない、ましてやある人がやっているその分野のごく狭い部分で重要なジャーナルが何かなんて業界の人に聞かないと分からないだろう。博士を取ったばかりの人間であれば参考にすべき情報もあまりない。

企業が学生の資質を測るのに苦労しているのは学部の新卒採用でも同じだ。何度も面接を行うのはその現れだ。しかし、面接をうまくこなせる能力や完璧なレジュメを書く能力よりも重要なことがある。それは出身大学だ。企業は学生の資質を測る最も簡単な方法としてどこの大学の学生かという情報を利用している。この場合、一流大学に入るということが能力が低い学生にとって比較的困難なため、シグナリングとして作用している(大学のシグナリングについて)。

こう考えると博士の就職がうまくいかない理由は簡単に分かる。それは大学というシグナリングの装置がうまく働かないからだ。企業は出身大学という情報を使って学生の質を推定することができず、採用をとりやめる。博士の就職問題を解決したいなら、この状況を変えればいい。まず、各大学(特にトップ大学)の定員を削減する必要がある。学部卒で考えれば分かる。誰でも入れる大学の卒業生を雇いたい企業がいるだろうか。その大学にも優秀な人はいるといくらいっても無理な話だ。

これは全体としての大学院の定員を減らせというわけではない。総数が同じであっても内部でランクがつけばよい。中程度の能力ならそうと分かればいいだけの話だ。それによって企業が学生を判断する手がかりが与えられる。学生の選考は難しくなるが、大学教授のほうが博士課程に進む学生の質を判断する能力には秀でている。特に国立大学はシグナリング機能を学生に提供しようという金銭的なインセンティブを持たないので政府の関与が必要だろう。

この場合でも何故学生がこのような状況でも進学するのかという疑問は残るかもしれない。しかし、それは学生がアカデミアに強い選好を持っていることで説明できる。また、実際学生が最適でない行動を取っているとしても、企業が最適でない行動をとっているよりはよっぽど自然なことだ。

シグナリングは社会的な費用になるのではないかという指摘についてはその通りだ。しかし他に効率的な手段がない以上必要だろう。アメリカでは大学院のランク付けは当たり前だ。また個々のプログラムは小規模でランクが上がるほどセレクティブになる。シグナリングはアカデミックな就職市場でも有効だ。業績が殆どない博士の能力を測る手段として大学院のランクが使われる。これには大学内の他の学部に対して採用決定の正当化に役立つという面もあるだろう。

おまけ:

もし自分には見分けがつくというのなら、就職支援・採用支援でビジネスを始められる。これはシグナリングなんていうコストリーな仕組みを使わない分社会的に望ましい。

見分けはつくがそれを信頼できる形で示せないというなら、自らビジネスを始めてできる博士だけを雇えばよい。優秀な問題解決・設定能力を持った人材を比較的低コストで雇えるのだから何をやっても利益を出せるはずだ。

なぜ資格試験や教育が必要なのか

November 14th, 2009

大学生は多すぎるのか」というポストに対するコメント欄で、司法試験制度について議論があったので資格制度一般について論じてみる。医師国家試験についてはちょうどこちらで提案がなされている。

何故試験や教育が必要かを考えずにどのような試験や教育が望ましいかを決めることはできない。通常のサービス業において試験や教育に関する制約は存在しない。単に市場での競争に任せておけばいいからだ。では司法サービスや医療サービスを市場へ任せられない理由が何だろうか。

経済学的にはこれらの専門家によるサービスは信用財(credence good)として捉えられる。信用財とはある財の価値が購入してもなお分からないようなケースである。よく挙げられるのは車の修理である。消費者にとって分かるのは車が動くか動かないかだけだ。実際に修理に何が必要でどれだけの費用がかかるかは分からない。そのため修理工は必要のないサービスを勧めたり、過大な請求を行う強いインセンティブをもっている(書いていてWillyさんのアメリカでの自動車修理に関するポストを思い出した)。消費者はこれに対して、社会的に非効率な方法で対応する。修理すれば低費用で直るものを直さなかったり、修理で直るものの全交換を要求したりする。

弁護士や医師のサービスはこの修理工のケースによく似ている。消費者が分かるのは裁判の結果と治療の結果だけで、そのための費用や本当に専門家が努力したのか、そもそも能力のある専門家だったのかについては非常に曖昧な情報しか持っていない。もし消費者が修理工と同じように弁護士や医師のサービスを捉えるなら、サービスの結果だけで報酬を決めるだろう。そしてそのことは社会的に非効率だ。例えばそもそも治りにくい病気に効果のある治療は利益が出ないため、誰も相手にしなくなる。また専門家が努力したとしても運悪く結果が出なかった場合にもそもそも努力しない場合と同じ報酬なので努力するインセンティブ自体が減少する。

では、どのような対策が可能だろうか。その一つの方法が資格を設けることだ。専門家の能力を保証することで、もしサービスが一定の結果をもたらさなかった場合には専門家の努力が足りなかったと推定できる(能力の保証がなければ運が悪くて失敗したのと区別がつかない)。またある程度の能力を持っている人間だけを選別することで、サービスを提供するための費用を抑えられる。能力のない人間にとって能力のある人間と同じだけの結果を出すのは大変だからだ。これは契約締結後に専門家が努力するための(限界)費用を減らすので非効率を抑えられる。また資格取得に投入した費用はあとで取り戻すことができない(サンクする)ため、資格を取得した専門家はその資格を失うような行動を取らないように努力することも効率性上昇に寄与する。修理工や医師のようにサービスの質に関する情報の非対称が時間の経過により判明するものではサービス提供後の保証の提供も役立つ。修理や手術後のアフターケア保証がそれだ。

但し、この議論は必ずしも制度としての資格が必要であることを説明しないことには注意が必要だ。その理由は三つほどある。

  • サービスの購入が頻繁であれば評判によって質は保たれる
  • 資格が必要だったとして政府がそれを提供する必要がない(民間資格)
  • カルテルの危険性
  • 垂直統合

まずこれまでの議論は基本的に静的であったことに注意が必要だ。もしこの状況が繰り返し起きるならこのような問題は起きない。消費者は専門家に関する情報を蓄積するため、評価の悪い専門家には依頼しなくなる。これを知っている専門家は最初から必要な努力を払うようになるし、それだけの結果をそもそももたらせない、ないしもたらすためにコストがかかりすぎる能力のない・低い人は市場から撤退せざるをえない。例えば、大企業であれば弁護士事務所に仕事を依頼することは日常茶飯事だろうから信用財の問題は軽微だろう。この議論は一般消費者には適用できないことには注意が必要だ。普通の人は弁護士サービスを多くて数年に一度しか利用しない。但しこの点はインターネットなど情報の共有を可能にする技術により緩和されつつある。

民間にまかせれば十分なことも考えられる。例えば自動車修理であれば自動車メーカーが修理工の能力を保証することがありえる。修理工がそういった保証を受けるインセンティブがあるだけでなく、メーカーにとっても自社製品の修理市場が効率的になることはメリットだ。効率的な修理が可能な車種は消費者にとって価値が高く、メーカーはその分価格を引き上げることができる。このように業界全体の利益を代表するような組織があれば、こういった資格制度は勝手に提供される

次の問題は前段落の業界組織にも当てはまる。資格制度を提供するインセンティブを持つのは業界を代表する組織だが、彼らは同時に価格を釣り上げる強いインセンティブを持っている。これは二種類の経路で行われる。一つは、資格制度のための組織を通じて直接価格を調整することだ。業界団体が価格や数量に関する情報を集めるのがこれにあたる。こういった情報の共有は共謀による価格つり上げを容易にする。二つ目は資格制度を使った新規参入を制限することだ。供給が減ることで独占利潤が生まれるだけでなく、共謀の結成も容易になる。業界団体の関与を減らせば問題は緩和するが、専門家を評価する能力が専門家以外にはあまりないため実際には困難だ。資格が政府によって制度化されていてもいなくてもこの問題は生じるが前者の場合には複数の資格認定機関による競争がないためより深刻だ(政府が関わってない場合には例えば認定機関が一つでも潜在的な競争がある)。

政府の関与がなくとも垂直統合で解決されるという考えもある。一つの方法はサービス提供側の統合で、自動車メーカー自らが整備サービスを提供するのがそれに当たる。もう一つの方法はサービス購入側の統合で、企業による法務部の立ち上げ、顧問弁護士の雇用などがこれに当たる。インセンティブが合わない問題を統合によって一気に解決するわけだ。但し、垂直統合だと競争・専門化の欠如という問題が生じる。

資格・教育に関する問題を議論する際にはこれらの長所・短所を勘案したうえで資格・教育制度の維持費用と見比べて判断する必要がある。

アメリカで頭のよい都市はどこか

November 13th, 2009

半分以上ネタだけどアメリカの都市をsmart(ないしbrainy)な順に並べたランキング:

America’s Smartest Cities—From First to Worst – The Daily Beast

First, some rules of the game. We only ranked metropolitan areas (the cities and their suburbs) of 1 million people or more, using Census data, with the definition of each greater metropolitan area defined by Nielsen. That gave us 55 in all.

センサスで人工が上位55位までのメトロポリタンエリアが比較対象だ。スコアの内訳は以下:

  • The education half encompassed how many residents had bachelor’s degrees (35 percent weighting) and graduate degrees (15 percent).
  • we looked at nonfiction book sales (25 percent)
  • We also measured the ratio of institutions of higher education (15 percent)
  • many studies link intelligence and political engagement, so we weighed this, too, as measured by the percentage of eligible voters who cast ballots in the last presidential election (10 percent)

学位を持つ住人の割合(35%)、修士号以上を持つ住人の割合(15%)、ノンフィクションの売上割合(25%)、高等教育機関の割合(15%)、投票率(10%)となっている。使っている要素や配分はどうなのかという話はあるがまあギャグなので気にしない(大学が多い比較的小さな地域が有利だろう)。

以下トップ3:

  • Raleigh-Durham: 三つの大学(Duke, UNC, NCSU)とテクノロジー系の企業がある。さらに首都があるため政治のスコアが高い。
  • Sanfrancisco-Oakland-San Jose: 要するにベイエリア。大学(UCSF, Berkeley, Stanfordなど)が大量にあり、学位に関するスコアがトップ。ハイテク関連が強い。政治のスコアが低め(人口が多すぎるためだろう)。
  • Boston: 同じく大学(Harvard, MIT, BU, BCなど)が多く関連するハイテク企業が集積。ノンフィクションの売上が多いそうだ。

これに、Minneapolis-St.Paul、Denver、Hartford-New Haven, Seattle-Tacoma, Washington DC, Portland, Baltimoreと続く。

逆にワースト3は上からSan Antonio、Las Vegas、Fresnoとなっている。最下位となったFresnoは、

The race to the bottom wasn’t even close. The largest city in California’s San Joaquin breadbasket, Fresno, had deficiencies across the board. College education (less than 20 percent of the local population have four-year degrees), graduate studies, academic institutions (not much besides Fresno State), book purchases, voter engagement—it ranked in the worst 5 percent in almost all of our categories. Problems with gangs and crystal meth tend to deter the best and brightest.

ほとんど全ての指標で下位5%に入ったそうで、ひどい書かれようだ。

大学生は多すぎるのか

November 11th, 2009

大学に進学する学生は多すぎるんじゃないかということについて様々な専門家が意見を出している:

Are Too Many Students Going to College? – The Chronicle Review – The Chronicle of Higher Education

中でも面白いと思ったのは次の二つだ。

Charles Murray: It has been empirically demonstrated that doing well (B average or better) in a traditional college major in the arts and sciences requires levels of linguistic and logical/mathematical ability that only 10 to 15 percent of the nation’s youth possess. That doesn’t mean that only 10 to 15 percent should get more than a high-school education. It does mean that the four-year residential program leading to a B.A. is the wrong model for a large majority of young people.

実証研究によれば、普通の専攻でそれなりの成績(平均B以上)を取れるだけの言語・論理・数理能力を持っている人間は10-15%に過ぎないという。もしこれが正しければ過半数の若者が大学に進学するのは非常に非効率ということになる。

Bryan Caplan: There are two ways to read this question. One is: “Who gets a good financial and/or personal return from college?” My answer: people in the top 25 percent of academic ability who also have the work ethic to actually finish college. The other way to read this is: “For whom is college attendance socially beneficial?” My answer: no more than 5 percent of high-school graduates, because college is mostly what economists call a “signaling game.” Most college courses teach few useful job skills; their main function is to signal to employers that students are smart, hard-working, and conformist. The upshot: Going to college is a lot like standing up at a concert to see better. Selfishly speaking, it works, but from a social point of view, we shouldn’t encourage it.

こちらは経済学者だ。個人レベルでは大学へ進学することがプラスになるのは25%だという。しかし、大学進学の個人へのリターンの多くがシグナリングに過ぎないことを計算にいれれば社会的な望ましい水準は5%だという。何故なら大学の授業は現実社会で役に立たないからだ。また進学者が少ないほうがシグナリングの効果は高いだろう。

彼は大学進学をコンサートで立ち上がることに例えている。これはとてもわかりやすい例えだ。四分の三の人が立ち上がっていたらもうどうせ前は見えないので立ち上がるのを辞めるだろう(現実進学率<75%)。しかし立ち上がっている人が四分の一なら立ち上がることは個人的にメリットがある(現実進学率>25%)。しかし、社会的に望ましいのは特別に背が低いなどを除き全員座っている状態だ(最適進学率=5%)。

これは日本にも当てはまる。どちらにしろ大学進学率が50%を越えるような水準で大学への資金援助・進学費用の補助などを行うことは正当化しにくいだろう(注)。

(注)教育が民主主義のために必要だと考えることはできるが、大学が学習を強制しない以上あまり有効な批判とは言い難いだろう。