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大学院に行く間違った理由

株主云々の話が続いて飽き飽きという人も多いと思うので教育ネタを。

アメリカの大学教授が書いた、人文系(Humanities)の大学院にいくべきではないというエッセイのご紹介。大抵の分野は人文系よりマシだが、キャリアをよく考えて決断すべきというのは変わらない。博士号取得者の就職難が話題になった日本にも当てはまる。

Graduate School in the Humanities: Just Don’t Go – Advice – The Chronicle of Higher Education

I have found that most prospective graduate students have given little thought to what will happen to them after they complete their doctorates. They assume that everyone finds a decent position somewhere, even if it’s “only” at a community college (expressed with a shudder).

大学院の進学者が学位を取得した後にどうするかあまり考えてもいないのはアメリカでも変わらない。どこかににそれなりのポジションを得られるとぼんやりと思っているだけだという。

よくある進学理由が挙げられているが、これはほとんどの大学院生に当てはまる(残りの三つは本文参照):

They are excited by some subject and believe they have a deep, sustainable interest in it.

一つの興味があるからといってその興味が持続すると信じている。これは経験の少なさによるものだろう。自分があることに(だけ)興味があると信じるがゆえに他の事柄に目を向けず、いつまで立ってもその可能性にすら気付かない。

They received high grades and a lot of praise from their professors, and they are not finding similar encouragement outside of an academic environment. They want to return to a context in which they feel validated.

学校でいい点数をとり教授に褒められるが、他の場所ではうまくいかないから進学する。人間、自分が認められる場所が心地よいというのはその通りだけど、それでは成長しないという面もある。

適材適所と言えば聞こえはいいが、頑張れば伸びる部分もそれを言い訳にするようになる。ちょっと人と喋るのに気後れする人が、いつのまにかそれを誇らしげに語る。

They are emerging from 16 years of institutional living: a clear, step-by-step process of advancement toward a goal, with measured outcomes, constant reinforcement and support, and clearly defined hierarchies. The world outside school seems so unstructured, ambiguous, difficult to navigate, and frightening.

勉強がそれなりに得意な人にとって学校ほど評価のはっきりしたシステムはない。人生の大半を学校制度の中で過ごすと、評価基準が複雑な現実世界に怖気づく。本当は大学にいても成績では決まらない要素はいくらでもあるのにそれに目を瞑っているのだ。

人文系の大学院に進学してもいい理由は次の四つだという:

  • 既にお金を持っていて、生活費を稼がなくてもよい
  • コネがあり仕事を見つけられる
  • パートナーが必要な収入を稼げる
  • 現在の職にプラスで、職場が経費を負担してくれる

ではこれらの条件を満たしていない場合はどうか。

Those are the only people who can safely undertake doctoral education in the humanities. Everyone else who does so is taking an enormous personal risk, the full consequences of which they cannot assess because they do not understand how the academic-labor system works and will not listen to people who try to tell them.

非常に大きなリスクを取っているというのが答えだ。もちろんリスクを取ること自体は悪いことではない。Willyさんの一連のポストが示すように、リスクを理解した上で決断する必要があるというだけだ。大学院に行った人がで何割の人がどこに就職しいくら稼ぐのか、そして大学にいかなかった人がどのくらい稼ぐのかある程度具体的な数字を挙げられないのであればアウトだ

それは人文系だけだというのもまた理由にならない。こういった情報を調べることのコストは、その結末に比べて極めて小さいので、それを調べないのは現実に目を背けているだけだ

News: No Entry – Inside Higher Ed

Unlike history, economics is a field where substantial numbers of non-academic jobs are regularly taken by new Ph.D.’s — and that career path is not considered an oddity. Still, however, about two-thirds of job notices in the fields are from academic institutions.

例えば経済学は民間からの需要もあり、就職に強い分野だとされている。しかし、それでも民間の需要は三分の一に過ぎない。

Among four-year colleges, the decline in positions was more pronounced at institutions without doctoral programs (down 31 percent) than those with doctoral institutions (down 8 percent).

残りの三分の二を占めるアカデミックなポジションの数は大幅減となった昨年からさらに大きく落ち込んでいる。不況でわざと就職を遅らせた学生も多く、厳しい就職事情になるのは間違いない。

個人的な大学院留学に関する目安は先に挙げられた四つの条件がないとすれば

  • アカデミックでない就職先が確立している専攻である**
  • 基本的に金銭的な持ち出しがない*
  • それなりに有名な大学に入れる**
  • (見切りを含め)適切にリスクを管理できる***

あたりだと思う(*は重要性の目安)。逆に言えばこれらの条件が揃っているのであれば、やってみるのは悪くない。

フルタイム教授の減少

アメリカの大学ではフルタイムの教授は結構少ない。大学院生はもちろん、学部向けの授業は非常勤の先生(Adjunct Professor)によって教えられることが多い。

Strategy – Faculty – The Case of the Vanishing Full-Time Professor – NYTimes.com

In 1960, 75 percent of college instructors were full-time tenured or tenure-track professors; today only 27 percent are.

このこと自体はよく知られていることがだが、実際の数字はショッキングだ。テニュアないしテニュアトラックの教授は1960年の75%から26%にまで落ちているそうだ。テニュアとは終身雇用のことで、大学はテニュア審査の対象となるポスト(tenure-track; Assistant Professor)を雇い、研究成果を元にそれを与えるかどうかを決めるものだ。テニュア制度の意義については以前説明した(テニュアの経済学)。

“When a tenure-track position is empty,” says Gwendolyn Bradley, director of communications at the American Association of University Professors, “institutions are choosing to hire three part-timers to save money.”

終身雇用を与えることは非常にコストリーなので、不景気になるとパートタイムの先生を使って必要なコマ数を確保することが増える。

フルタイムの教授の減少にはいくつかの問題点がある:

  1. 研究者ポストの削減
  2. 学生への授業外のサポート不足
  3. 講師のリスク負担

しかし、これらはそれほど深刻な問題とは言えない。まず研究者ポストの数についてだが、これはティーチングの数と紐付けされていること自体が適切でない。研究者の数については研究の必要性で判断すればよい。二つ目は制度的な問題だ。オフィススペースやメールボックスを整備したり、IT技術を導入したりすることで対処できる。最後は分野によるだろう。他の仕事がいくらでもある業界ではパートタイムの仕事はリスクにはならない。むしろ収入が分散する。

逆に、非常勤の教員が増えるメリットは多い:

  1. 研究職との分業による効率化
  2. 実社会での経験に基づく授業・産業界へのコネクション
  3. コスト削減

1については大学で授業をとったことがあれば明らかだろう。フルタイムの教授の審査はほぼ完全に研究業績で行われるため、彼らは必ずしも教育に秀でているわけではない。入門コースのように、研究者が受け持ちたがらない授業を非常勤ないし教育に特化した教員が受け持つのは効率的だ。また、学生にとって研究者ではない先生がいることはプラスだ。どの大学であれ卒業生の多くは民間企業に就職する。研究者との接点がなくなるのは問題だが、選択できる限り問題はない。最後に非常勤の教員の給与は低い。これは一見教員にとって悪いことに聞こえるがそうでもない。自分でビジネスを行っている人間にとって大学で教えることは自分の評判・知名度を高めるというブランディングに使える。よって、本来の価格より低い給与でもクラスを受け持ってもらうことが可能だ。これは大学・学生にとっても、教える側にとってもプラスだ。

民間から非常勤講師を招くという傾向はこれからも続くだろうし、日本でも急速に広まるだろう。ただ、その時に教える分野についてきちんとした知識を有していない自称専門家が入り込んでしまわないように注意する必要がある

コピペからペーパーミルへ

アメリカではかなり普及しているコピペ発見ソフト(Anti-Plagiarism Software)が日本でも登場した模様:

コピペ見破るソフト実用化 「学生らの悪癖なくす」 – 47NEWS(よんななニュース)

ソフト名は「コピペをするな」をもじって「コピペルナー」。論文の中にネット上に同じ文章がないか検索。完全に一致する部分は赤く表示され、単語を置き換えたり、語尾を変えた文章も度合いによって、該当部分がオレンジ色や黄色に表示される。コピペした部分が占める割合や転用した元の文献も割り出せるという。

大学での成績が重視されるアメリカでは、この問題は遥かに深刻だ。単なるコピペでは、同じ場所からコピーする人が多いので有料でレポートを販売するサイトも多い。日本でもハッピーキャンパスのようなサイトがある(よく検索で引っかかる)。

アメリカではさらに進化して、カスタムでレポートを作成してくれるペーパーミルが多い。例えば、Perfect Term Papersでは納期別に価格が設定されている:

5 Days & above

$7.95 per page

3-4 Days

$14.95 per page

2 Days

$19.95 per page

24 Hours

$26.95 per page

Next Morning

$34.95 per page

もはや一つの産業と化している。意図的に完成度を下げるサービスも存在し、こうなると発見は非常に困難だ。これは英語の場合ゴーストライターの確保が簡単であることが一因だろう。大学での成績を重視しない日本でこの手の商売はどの程度はやるだろうか。

本屋のない町

アメリカで最も大きな本屋のない町はTexasのLaredoだそうな:

Laredo could be largest US city without bookstore – Yahoo! News

With a population of nearly a quarter-million people, this city could soon be the largest in the nation without a single bookseller.

ちなみにLaredoの人口は23万人を越えている。

After that, the nearest store will be 150 miles away in San Antonio.

もちろん日本とは違い都市同士はかなり離れている。次に近い本屋はSan Antonioで150マイル、つまり240km先だそうだ。

これを単に書籍の店舗販売一般の問題と片付けるのは難しい:

Nearly half of the population of Webb County, which includes Laredo, lacks basic literacy skills, according to the National Center for Education Statistics.

この地区の人口の半分は基礎的な読み書きの能力に欠けている。ここで使われている読み書き能力の判定基準については以前、ヤクザと識字率というポストで触れた。

Fewer than 1 in 5 city residents has a college degree. And about 30 percent of the city lives below the poverty level, according to the 2000 census.

五人に一人しか大学を出ておらず、30パーセントの住人貧困ライン以下だそうだ。需要のないところに無理やり本屋を営業してもしょうがないが、アメリカの初等教育がどれだけうまくいっていないかを示す例ではある。

追記

Twitter経由でtetteresearchさんから以下のようなコメントを頂きました:

Laredoは米メキシコ間陸上輸送の最大拠点で、90年代以降NAFTAによる貿易拡大による輸送業特需で人口が倍増以上。移民の割合が高い(総人口の95%はヒスパニック系)と思われるのでLaredoの本屋の現状から米国初等教育に関する教訓を得られるか疑問です。

最もな指摘だと思います。そうすると問題は、移民の子弟への英語教育ということになりそうです(まあ移民の子弟は既にテクニカルにはアメリカ人ですが)。ちなみにLaredoの位置は以下の通りです。


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薬剤師に薬学部が必要なのか

この井上さんの書く記事は議論の土台としては面白い。以前は「医師増員のため、医学部を廃止せよ」に「なぜ資格試験や教育が必要なのか」というコメントを付けた。

今回は薬剤師と薬学部教育に関するトピックで、コメント欄で複数の方が興味深い議論をしているのでそれを合わせて紹介したい(コメント欄という性質上、非常に読みにくく議論も錯綜しがちなのでまとめも兼ねる):

アゴラ : 薬剤師に薬学はいらない 井上晃宏(医師)

井上さんの主張はまあ次のようなものだ:

  • (現在の)薬学部教育は薬剤師養成とは乖離している
  • 研究者なら創薬コースがある
  • 薬理学・製剤学なら本があるので一年もあれば十分

これは前回の医師教育のポストにも当てはまるが、彼の主張には二つほど問題がある。まず、現状の教育水準に問題があることはそれを廃止して他の方法で同じ水準を達成すればいいことを意味しない。現状がよくないのであれば最も自然な対応はそれを改善することだ。もう一つの問題は、彼が試験と学校教育を交換可能なものだと認識していることだ。これはコメント欄におけるap_08さんの指摘がわかりやすい:

アメリカの薬学部学生には、たとえば病院実習があり、朝たびたび、病棟回診(毎日)を医師チームと一緒にします。回診では実際病室を訪れる前に、医学生や 研修医が前日からの患者の経過を報告し、その日の検査や治療のプランを立てるために、ティームで短いディスカッションをします。薬学部学生は、現に投与さ れている薬や、他に何か新しい薬のオプションについて自分の意見を述べたり、指導医から質問されたりします。実習ローテーション中、現場で実際にどのよう に薬が使われ、担当の患者さんが治療にどう反応するか経過を追います。また回診が解散すると、医学生や研修医と医師の病棟オーダーを一緒に考えてアドバイ スをしたり、一緒に文献検索をしたりして、教科書の範囲を超える専門知識やスキルを、実地で身に付けて行きます

学校教育にはできるが、試験と独学では(効率的に)達成できないことが存在する。もし試験ですべての技能をチェックできるのであれば学校はどれも必要ないだろうし、授業があったとしても期末試験一発でいいはずだ。しかし、現実はそうではない。実習のほうが確実に身につくこともあるし、試験では正確に測れないこともある。また試験一回であれば運か実力か判断がつかない。以前、大学の価値は何かというポストで大学教育のシグナリング効果とそれを代替するようなビジネスについて述べたが、現実には大学の重要性は増すばかりだ。もし試験で学校教育が代替できるのであれば、すでにそういったビジネスが非常に時間とお金のかかる大学を脅かしているはずだろう。そうなってはいないという事実が、大学教育という一見非常に非効率にみえる仕組みに代わるものが見つかっていないことを示している。

コメント欄の議論については錯綜しているのでトピック毎に論じたい:

薬剤師の職域

薬剤師の職域を広げるべきだということについてはap_09さんがアメリカの医療現場を挙げて説明している:

アメリカでは薬剤師には薬の適応・投与量から、副作用、医薬品の交差反応、薬の特異反応 (idiosyncratic reaction)に至るまで、実に詳細な知識があります。クリニックと薬局は分離していて、薬剤師さんは個々の患者さんが何の病気で何の薬をどれだけ、 どのぐらいの期間処方されているか、何のアレルギーがあるか、実によく把握しています。医者が現在の薬と交差反応を起こす可能性があったり、投与量を間 違ったり、とにかく何かリスクのある処方を出すと、すぐさまダイレクトに連絡をよこします。

これは妥当だろう。井上さんの現状レベルの薬剤師なら薬学なんて必要ないという意見より、薬剤師のレベルを上げてよりよいサービスを提供できる環境をつくろうという意見のほうが生産的だアメリカの実情をよく知ったうえでよいところを取り入れようという考えでとてもよいものだ。医者がすべてをカバーするのに比べればコスト面でも有利だろう。

医療の競争原理

医療に市場競争を持ち込もうという提案はこの議論の根底にある。最初のほうにkbk7478さんの問題提起がある:

現状の医療費拡大を食い止める最もいい方法は、開業医に対する診療報酬を大幅に削減することです。ただ単に技術料を下げては勤務医に影響を及ぼしますので、技術的に簡便な医療行為に競争原理を導入すべきです。

この発言は疑問が残る。まず医療費拡大の最大の原因は人件費の増大ではなく、医療技術の発展だ。また診療報酬の削減を持ち出すのは二つほど難点がある。一つは、日本の診療報酬は国際的にみて低水準だということだ。もう一つは、診療報酬を削減するという考えは市場原理に真っ向から反していることだ。例えば、地方における医師不足の原因は診療報酬が設定されているため価格メカニズムが働かないことだろう。価格規制がなければ、医師が不足している地域で診療報酬が上がって需給は調整されるはずだ。

また競争原理という言葉の定義もよくわからない。競争自体は完全な独占市場でなければ働いている。この曖昧さがap_09さんの次の発言にも現れている:

‘簡単な医療技術に競争原理を導入’というのは、薄利多売、量をこなしてかどをはしょり、低品質低価格で儲ける者が勝つ、いわば「悪貨が良貨を駆逐する」ということなんでしょうか?まさか違いますよね。

程度の問題はあるが、「なぜ資格試験や教育が必要なのか」にもあるように、医療において完全な自由市場が機能することはない。一つは情報の非対称による「悪化が良貨を駆逐する」という現象だ(これについては、ap_09さんがご自身のブログでも挙げられている例がわかりやすい)。資格制度による質の担保や情報の共有が必要だ。

競争原理の導入についてはarcsineさんも次のように述べているが、

フェアな競争原理というのは最適な医療を適正価格で提供する者が生き残り、そうでないものが淘汰されるという理想的な状況を指す言葉として用いました。

それに対するlocalsgさんの次の指摘は適当だ:

まず、「適正な医療を適正価格で提供するものが生き残り」というこの言葉が成立するためには医療から公定価格を取り払う必要があります。公定価格が存在しているのに上の言葉は成立しないでしょう。ap_09先生がおっしゃっている「どの疾患や外傷でも診療請求の仕方が一律」というのはこのことです。

医療において適切なサービスと価格を定義するのは難しい。そもそも規制なしに機能しない市場であるため、競争的な価格が何かわからない。また、市場がつける価格が市場外の観点からみて不適正だと考えられるがゆえに健康保険制度が存在するともいえる。

市場経済医療が主体となっている典型的な国がアメリカですが、その実情はまさに金持ちは高度医療を安く受けることが出来、貧乏人は最低品質の医療を高い値 段で受けるという状況です。いや、医療自体を受けれないこと、医療を受けることによって破産することも希ではありません。アメリカの破産原因の最も多い理 由が医療なのですよ。だからこそ、オバマ政権では何とかして国民皆保険制度を導入しようとしているのです。

アメリカの現状については「アメリカの健康保険」でも紹介した。アメリカの医療に深刻な問題があることはアメリカに住んだことがあれば誰でも分かるだろう。逆に、実際来てみないとどれほど酷いかは実感できないかもしれない。

なお、医師に関して言えば、医療に市場原理が導入されて困ることはほとんどありません。むしろ、一部の医師からは既に「もう国民皆保険は諦めて、さっさと混合診療に移行した方が楽だろう」という意見も上がっています。

についてもそのとおりで、医療に市場原理が導入されれば医師の給与は上昇する。価格規制が取っ払われるのだから当然だろう。アメリカの医師の給与は日本のそれの数倍だ。ap_09さんのコメントも的確だ:

私は制度の大枠としては、日本は優れていると思っています。医療技術は世界的にも最高レベルなので、医療教育そのものは原則的に良く機能しています。また、ドクターショッピングもしほうだいです。
アメリカもイギリスも、好きに医師や病院を選べる自由はないです。イギリスでは医療費を抑えるために、国の方針で誰がどの程度の検査や治療法を受けられるか制限されています。もっとも、アメリカではお金さえ出せば納得行くまで、文字通り世界最先端・最高峰が可能ですが。

競争原理を導入するには情報の非対称が課題となるが、アメリカでは保険会社が支払いを抑えるために加入者が通える医者に制限を加えることが多い。消費者の選択肢を狭めることで費用を抑えるのだ。企業が社会的に望ましい形で競争するのは、それが彼らの利益になる場合だけだ。政府による適切な運用が難しい分野は市場による運営も難しい

但し、医療において単純な市場原理が働かないことや他の国に比べてましであることは現状でよいことを意味するわけではない。bobby2009さんの次の指摘は世間の考えを代表している:

病院の勤務医もドラッグチェーンストアの薬剤師も十分に足りている状況であれば、そもそも、このような議論など無意味ではないでしょうか。

勤務医の不足や地方の医師不足は診療報酬の設定が不適切なためおきていると思われる。市場を使わない以上、適切な価格の設定は困難ではあるがこれだけ問題が報道されている以上何らかの調整は必要だろう。またドラッグチェーンストアの薬剤師不足も定員の増加や資格の細分化などでまた医療制度全体の問題に立ち入らずとも解決できるだろう。

医療と市場との関係は非常に複雑だ。当事者である医療関係者がこれを説明しても説得力を持ちづらく、もっと医療や経済学を理解したジャーナリズムの活躍が望まれる。とはいえ、医師の方々のこの問題にかける情熱は素晴らしい。彼らは別に社会全体の医療の問題を考える個人的な利害を有しているわけではないのに、複雑な医療市場や健康保険の仕組み、国際的な状況などに精通している。

情報の共有

情報を共有すべきというaoi700aoiさんの指摘は最もだ:

情報の非対称性というヤツですね。
もっと医療に関する情報を、独占しないで、広く提供したらどうでしょう?

これについてap_09さんは次のような提案をしている:

大賛成です。どうやらこれが鍵のような気がします。
1.ネットで医学一般の知識の普及。
2.医師会、学会による登録医の教育、研修、勤務、専門・認定医保持等、医師個人の情報公開
3.病院に患者ー医師双方のための調停サービスを置く。 -たとえば、患者さんが医師に聞きたいけれど、聞きづらいので、代わりに間に立ってもらう。

どれも妥当だ。特に多大な費用がかかるものではない。しかし同時に、localsgさんの次の指摘もまた正しい:

医学の情報というのは別にどこかに秘匿されているわけではありません。医学文献は最新のものであっても一般の方が手に入れることは十分可能です。教科書レベルの話であればちょっと大きな本屋に行けば誰でも購入出来ます(馬鹿高いですが)。

大学の図書館などを利用すれば医学の査読ジャーナルにだって比較的簡単にアクセスできる。

でも問題はそれらを購入したところで、読んでも意味が分からないということです。読むためにはベースの知識が必要だからです。家庭の医学のような本は出 ていますが、これは一般向けに内容をものすごくはしょって書かれています。深いところを書いても理解出来ないからです。専門分野の深いところになると、医 師でもそれを理解出来ないことが多々あります。

専門家が専門家たる所以はここにあり、消費者にとって情報があったとしても理解するのは難しい。

根拠のない治療、例えば風邪における点滴等ですが、「あそこの先生にかかれば風邪でいつでも点滴をしてくれる」という下らない理由でどうにもならないヤブ開業医にかかる患者さんはものすごく多いです。

こういった問題があるのも事実だろう(よく面白半分に挙げられる「Dr 林のこころと脳の相談室」なんていい例だ)。単純な医療に関する情報公開よりも上のap_09さんの提案でいえば2にあたる医師に関する情報公開が重要だろう。これは「なぜ資格試験や教育が必要なのか」でも指摘した評判の効果を高める。あのときは「資格」が必要ないかもしれない理由として挙げたが、資格制度を用いた上でより効率的な競争させる上でも役に立つ。

もちろん、医学に関する知識をより分かりやすい形で提供することは重要だろうが、それだけでは情報の非対称の問題は解決できない。仮に時間をかければある程度理解できたとしても、それだけの資源を投入するのは割に合わない。これは単なる分業であって社会的にも望ましい。localsgさんが情報共有に反対している風に取られているが、別にそうでもないのは次の一文から明らかだろう:

なお、むしろ医学知識や医療制度に関しては私も公開すべきという立場ですし、一般の方が積極的に参加すべきだと思います。

むしろそれで問題が解決するわけじゃないという主張であり、より積極的に情報を共有しようというaoi700aoiさんやap_09さんの考えと排他的なものではない。程度の問題であって、今よりも患者が医療を理解するべきかもしれないが全て理解することを期待するのは無理だし、望ましくもない。

医療業界の問題を議論する資格

localsgさんの

なお、井上氏の議論で最も欠けているのは、「専門家の仕事に対する敬意」です。彼自身の経歴からすると薬剤師としての実務に就いた経験はほぼ皆無のはず で、臨床医として経験は5年未満です。一般的に医師が臨床医として1人前「弱」と言われるまでには卒後10年はかかります。現在の彼は「周囲の一人前の医 師達に支えられてやっと臨床を行っている」レベルのはずです。
その彼が「現状でも、どうしようもない医師はいくらでもいるではありませんか。」だの言っているのをみると、「(どうしようもない医者とは)それはブーメランか?」という感想しか出てこないです。彼は自分のことをよほどの天才だとでも思っているのでしょうか?

という発言についてbobby2009さんの

医療業界の問題を議論する資格として、医者である必要すらありません。時間を割き、行政から医療現場までの問題に関する情報を広く収集し、正しく認識する能力があれば良いという事です。

やsatahiro1さんの

localsg氏は医療従事者でさえも医療問題を識別して考える能力がないのに、ましてや専門外の者が「全体を俯瞰する視野と全体最適な解決策を提案できる能力」を以ってしても、問題解決の糸口を提供できないと言う。

といった批判があがっている。これについては、localsgさんの言い方に棘があることと小さなコメント欄という議論の場が原因だろうが、次の発言にあるように単なる誤解だ:

どうも、議論が拡散しているようですが、そもそも私が言っているのは医療全般についての話ではありません。医学教育を受ける初学者が「これは医師になるために必要、これは医師になるために不要」と言うことの是非を問うているのです。

localsgさんが井上さんのポストについて問題としているのは、医師や薬剤師が持つべき知識・経験についての主張だろう。これはその分野に関する専門的知識がなければ難しいことだ。門外漢である私にはさっぱり分からない。私ができるのはせいぜい制度論だ(もちろん医療制度の専門家でもないが):

医療制度全体論に関して言うならば、必ずしも制度論を語るのに医師である必要はありません。むしろ医師以外の方がまともな意見を持っている場合は多々あります。

制度論ではどれだけの知識を保障するのにどのようなトレーニング・教育・試験が必要であるかは専門家に聞いて、その情報をつかって最適な制度を考える。これは高速道路の便益をはかるときに交通工学の専門家に交通量予測を頼むようなものだろう。