食べ過ぎ大国

アメリカ人の肥満具合はよくネタにされるが、一体どのくらい食べているのか。データがあったのでちょっと覗いてみよう。

ERS/USDA Data – Food Availability (Per Capita) Data System

As with the basic food availability data, the Loss-Adjusted Food Availability Data series does not measure actual consumption or the quantities ingested.

農務省のEconomic Research Serviceから公表されている情報だ。普通の栄養学的な情報とちょっと違うのは、このデータは実際の食事に関するデータに全く基づいていないところだ。

They are calculated by adding total annual production, imports, and beginning stocks of a particular commodity and then subtracting exports, ending stocks, and nonfood uses.

このデータは食糧の生産量・輸入量・期首の在庫から輸出量・期末の在庫・非食用利用を引いて計算されている。そこから実際に消費者の口に入るまでに生じるロスを推定して一人当たりの摂取カロリーを作るわけだ。そのため地域別データもないし、男女別の数字すらない(よって例えば南部の州の男性だけ取り出せばこれよりも遥かに多い数字になるはずだ)。

そこから七種類の分類別にカロリー摂取量の推移をグラフにしたものが上だ。最新の2008年で平均摂取カロリーは2,674Kcalとなっている。これは2002年のピーク時における2730Kcalよりは低いが、四十年前に比べると30%の増加だ。推定ロス率を掛ける前の消費量は約3,900Kcalとなっている。

国会図書館のページによると、日本の平均消費カロリーは厚生労働省調べで1,891Kcalとされていてアメリカよりも1,000Kcal近く少ない。

『World health databook 2007/2008』の「Japan: Nutrition and obesity 1999-2006」のデータソースは“Source: WHO/OECD/Euromonitor International”となっていますが、食い違いの原因は不明です。

ちなみに上記ページではWHOによる日本の摂取カロリー2875.3Kcalと厚生労働省の数字との食い違いが指摘されているが、これはロスを計算に入れているかどうかの違いだろう。おそらくWHOの数字は単純な食糧消費(経済から消えた食糧量)から計算しているのに対して、厚生労働省の数字は実際に口に入れたカロリー量を計算していると思われる。

政治では事実よりもストーリー

最近興味のある話題にぴったりの記事がBBCから:

BBC News – Why do people often vote against their own interests?

マサチューセッツで民主党が議席を失ったことは大きな反響をよんでいる。これによりオバマ政権が医療・健康制度改革を成し遂げることはより難しくなっている。そして、医療制度改革に反対している人々の多くは、まさに新しい制度により助けられる人々だ。どうしてこのような事態が生じるのか。

If people vote against their own interests, it is not because they do not understand what is in their interest or have not yet had it properly explained to them.

人々が自分の利益に沿わない投票を行うのは、自身の利害を理解していないからでも適切な説明がなされていないからでもないという。

They do it because they resent having their interests decided for them by politicians who think they know best.

There is nothing voters hate more than having things explained to them as though they were idiots.

有権者は政治家が知った顔で選択を押しつけることに憤っているし、何よりも子供相手のようにいちいち説明されるのが嫌いなのだ。

As the saying goes, in politics, when you are explaining, you are losing.

説明をしている時点でもう負けているという。気が滅入るような話ではある。

Gore: “Under the governor’s plan, if you kept the same fee for service that you have now under Medicare, your premiums would go up by between 18% and 47%, and that is the study of the Congressional plan that he’s modeled his proposal on by the Medicare actuaries.”

Bush: “Look, this is a man who has great numbers. He talks about numbers. I’m beginning to think not only did he invent the internet, but he invented the calculator. It’s fuzzy math. It’s trying to scare people in the voting booth.”

Mr Gore was talking sense and Mr Bush nonsense – but Mr Bush won the debate.

しかし例として挙げられているブッシュとゴアのやりとりを見れば頷かざるをえない。ゴアはメディケアのプレミアムについて数字を出して論じ、ブッシュはそれを皮肉っている。ブッシュの発言部分なんて読んでいて吹き出してしまうレベルだが、ディベートに勝ったのがブッシュだが笑ってもいられない。

[…] stories always trump statistics, which means the politician with the best stories is going to win […]

統計よりもストーリーが大事であり、勝つのは最もいいストーリーを持っている政治家なのだ。間違ったことをいってはいけないが、本当に人を動かそうとするならうまい話を考えることの重要性も忘れていはいけない。政治はこの微妙なバランスで成り立っている。そしてそれゆえに、支持の得られない正論・道を踏み外したポピュリズムがどこの国にでもあふれているのだろう。

薬剤師に薬学部が必要なのか

この井上さんの書く記事は議論の土台としては面白い。以前は「医師増員のため、医学部を廃止せよ」に「なぜ資格試験や教育が必要なのか」というコメントを付けた。

今回は薬剤師と薬学部教育に関するトピックで、コメント欄で複数の方が興味深い議論をしているのでそれを合わせて紹介したい(コメント欄という性質上、非常に読みにくく議論も錯綜しがちなのでまとめも兼ねる):

アゴラ : 薬剤師に薬学はいらない 井上晃宏(医師)

井上さんの主張はまあ次のようなものだ:

  • (現在の)薬学部教育は薬剤師養成とは乖離している
  • 研究者なら創薬コースがある
  • 薬理学・製剤学なら本があるので一年もあれば十分

これは前回の医師教育のポストにも当てはまるが、彼の主張には二つほど問題がある。まず、現状の教育水準に問題があることはそれを廃止して他の方法で同じ水準を達成すればいいことを意味しない。現状がよくないのであれば最も自然な対応はそれを改善することだ。もう一つの問題は、彼が試験と学校教育を交換可能なものだと認識していることだ。これはコメント欄におけるap_08さんの指摘がわかりやすい:

アメリカの薬学部学生には、たとえば病院実習があり、朝たびたび、病棟回診(毎日)を医師チームと一緒にします。回診では実際病室を訪れる前に、医学生や 研修医が前日からの患者の経過を報告し、その日の検査や治療のプランを立てるために、ティームで短いディスカッションをします。薬学部学生は、現に投与さ れている薬や、他に何か新しい薬のオプションについて自分の意見を述べたり、指導医から質問されたりします。実習ローテーション中、現場で実際にどのよう に薬が使われ、担当の患者さんが治療にどう反応するか経過を追います。また回診が解散すると、医学生や研修医と医師の病棟オーダーを一緒に考えてアドバイ スをしたり、一緒に文献検索をしたりして、教科書の範囲を超える専門知識やスキルを、実地で身に付けて行きます

学校教育にはできるが、試験と独学では(効率的に)達成できないことが存在する。もし試験ですべての技能をチェックできるのであれば学校はどれも必要ないだろうし、授業があったとしても期末試験一発でいいはずだ。しかし、現実はそうではない。実習のほうが確実に身につくこともあるし、試験では正確に測れないこともある。また試験一回であれば運か実力か判断がつかない。以前、大学の価値は何かというポストで大学教育のシグナリング効果とそれを代替するようなビジネスについて述べたが、現実には大学の重要性は増すばかりだ。もし試験で学校教育が代替できるのであれば、すでにそういったビジネスが非常に時間とお金のかかる大学を脅かしているはずだろう。そうなってはいないという事実が、大学教育という一見非常に非効率にみえる仕組みに代わるものが見つかっていないことを示している。

コメント欄の議論については錯綜しているのでトピック毎に論じたい:

薬剤師の職域

薬剤師の職域を広げるべきだということについてはap_09さんがアメリカの医療現場を挙げて説明している:

アメリカでは薬剤師には薬の適応・投与量から、副作用、医薬品の交差反応、薬の特異反応 (idiosyncratic reaction)に至るまで、実に詳細な知識があります。クリニックと薬局は分離していて、薬剤師さんは個々の患者さんが何の病気で何の薬をどれだけ、 どのぐらいの期間処方されているか、何のアレルギーがあるか、実によく把握しています。医者が現在の薬と交差反応を起こす可能性があったり、投与量を間 違ったり、とにかく何かリスクのある処方を出すと、すぐさまダイレクトに連絡をよこします。

これは妥当だろう。井上さんの現状レベルの薬剤師なら薬学なんて必要ないという意見より、薬剤師のレベルを上げてよりよいサービスを提供できる環境をつくろうという意見のほうが生産的だアメリカの実情をよく知ったうえでよいところを取り入れようという考えでとてもよいものだ。医者がすべてをカバーするのに比べればコスト面でも有利だろう。

医療の競争原理

医療に市場競争を持ち込もうという提案はこの議論の根底にある。最初のほうにkbk7478さんの問題提起がある:

現状の医療費拡大を食い止める最もいい方法は、開業医に対する診療報酬を大幅に削減することです。ただ単に技術料を下げては勤務医に影響を及ぼしますので、技術的に簡便な医療行為に競争原理を導入すべきです。

この発言は疑問が残る。まず医療費拡大の最大の原因は人件費の増大ではなく、医療技術の発展だ。また診療報酬の削減を持ち出すのは二つほど難点がある。一つは、日本の診療報酬は国際的にみて低水準だということだ。もう一つは、診療報酬を削減するという考えは市場原理に真っ向から反していることだ。例えば、地方における医師不足の原因は診療報酬が設定されているため価格メカニズムが働かないことだろう。価格規制がなければ、医師が不足している地域で診療報酬が上がって需給は調整されるはずだ。

また競争原理という言葉の定義もよくわからない。競争自体は完全な独占市場でなければ働いている。この曖昧さがap_09さんの次の発言にも現れている:

‘簡単な医療技術に競争原理を導入’というのは、薄利多売、量をこなしてかどをはしょり、低品質低価格で儲ける者が勝つ、いわば「悪貨が良貨を駆逐する」ということなんでしょうか?まさか違いますよね。

程度の問題はあるが、「なぜ資格試験や教育が必要なのか」にもあるように、医療において完全な自由市場が機能することはない。一つは情報の非対称による「悪化が良貨を駆逐する」という現象だ(これについては、ap_09さんがご自身のブログでも挙げられている例がわかりやすい)。資格制度による質の担保や情報の共有が必要だ。

競争原理の導入についてはarcsineさんも次のように述べているが、

フェアな競争原理というのは最適な医療を適正価格で提供する者が生き残り、そうでないものが淘汰されるという理想的な状況を指す言葉として用いました。

それに対するlocalsgさんの次の指摘は適当だ:

まず、「適正な医療を適正価格で提供するものが生き残り」というこの言葉が成立するためには医療から公定価格を取り払う必要があります。公定価格が存在しているのに上の言葉は成立しないでしょう。ap_09先生がおっしゃっている「どの疾患や外傷でも診療請求の仕方が一律」というのはこのことです。

医療において適切なサービスと価格を定義するのは難しい。そもそも規制なしに機能しない市場であるため、競争的な価格が何かわからない。また、市場がつける価格が市場外の観点からみて不適正だと考えられるがゆえに健康保険制度が存在するともいえる。

市場経済医療が主体となっている典型的な国がアメリカですが、その実情はまさに金持ちは高度医療を安く受けることが出来、貧乏人は最低品質の医療を高い値 段で受けるという状況です。いや、医療自体を受けれないこと、医療を受けることによって破産することも希ではありません。アメリカの破産原因の最も多い理 由が医療なのですよ。だからこそ、オバマ政権では何とかして国民皆保険制度を導入しようとしているのです。

アメリカの現状については「アメリカの健康保険」でも紹介した。アメリカの医療に深刻な問題があることはアメリカに住んだことがあれば誰でも分かるだろう。逆に、実際来てみないとどれほど酷いかは実感できないかもしれない。

なお、医師に関して言えば、医療に市場原理が導入されて困ることはほとんどありません。むしろ、一部の医師からは既に「もう国民皆保険は諦めて、さっさと混合診療に移行した方が楽だろう」という意見も上がっています。

についてもそのとおりで、医療に市場原理が導入されれば医師の給与は上昇する。価格規制が取っ払われるのだから当然だろう。アメリカの医師の給与は日本のそれの数倍だ。ap_09さんのコメントも的確だ:

私は制度の大枠としては、日本は優れていると思っています。医療技術は世界的にも最高レベルなので、医療教育そのものは原則的に良く機能しています。また、ドクターショッピングもしほうだいです。
アメリカもイギリスも、好きに医師や病院を選べる自由はないです。イギリスでは医療費を抑えるために、国の方針で誰がどの程度の検査や治療法を受けられるか制限されています。もっとも、アメリカではお金さえ出せば納得行くまで、文字通り世界最先端・最高峰が可能ですが。

競争原理を導入するには情報の非対称が課題となるが、アメリカでは保険会社が支払いを抑えるために加入者が通える医者に制限を加えることが多い。消費者の選択肢を狭めることで費用を抑えるのだ。企業が社会的に望ましい形で競争するのは、それが彼らの利益になる場合だけだ。政府による適切な運用が難しい分野は市場による運営も難しい

但し、医療において単純な市場原理が働かないことや他の国に比べてましであることは現状でよいことを意味するわけではない。bobby2009さんの次の指摘は世間の考えを代表している:

病院の勤務医もドラッグチェーンストアの薬剤師も十分に足りている状況であれば、そもそも、このような議論など無意味ではないでしょうか。

勤務医の不足や地方の医師不足は診療報酬の設定が不適切なためおきていると思われる。市場を使わない以上、適切な価格の設定は困難ではあるがこれだけ問題が報道されている以上何らかの調整は必要だろう。またドラッグチェーンストアの薬剤師不足も定員の増加や資格の細分化などでまた医療制度全体の問題に立ち入らずとも解決できるだろう。

医療と市場との関係は非常に複雑だ。当事者である医療関係者がこれを説明しても説得力を持ちづらく、もっと医療や経済学を理解したジャーナリズムの活躍が望まれる。とはいえ、医師の方々のこの問題にかける情熱は素晴らしい。彼らは別に社会全体の医療の問題を考える個人的な利害を有しているわけではないのに、複雑な医療市場や健康保険の仕組み、国際的な状況などに精通している。

情報の共有

情報を共有すべきというaoi700aoiさんの指摘は最もだ:

情報の非対称性というヤツですね。
もっと医療に関する情報を、独占しないで、広く提供したらどうでしょう?

これについてap_09さんは次のような提案をしている:

大賛成です。どうやらこれが鍵のような気がします。
1.ネットで医学一般の知識の普及。
2.医師会、学会による登録医の教育、研修、勤務、専門・認定医保持等、医師個人の情報公開
3.病院に患者ー医師双方のための調停サービスを置く。 -たとえば、患者さんが医師に聞きたいけれど、聞きづらいので、代わりに間に立ってもらう。

どれも妥当だ。特に多大な費用がかかるものではない。しかし同時に、localsgさんの次の指摘もまた正しい:

医学の情報というのは別にどこかに秘匿されているわけではありません。医学文献は最新のものであっても一般の方が手に入れることは十分可能です。教科書レベルの話であればちょっと大きな本屋に行けば誰でも購入出来ます(馬鹿高いですが)。

大学の図書館などを利用すれば医学の査読ジャーナルにだって比較的簡単にアクセスできる。

でも問題はそれらを購入したところで、読んでも意味が分からないということです。読むためにはベースの知識が必要だからです。家庭の医学のような本は出 ていますが、これは一般向けに内容をものすごくはしょって書かれています。深いところを書いても理解出来ないからです。専門分野の深いところになると、医 師でもそれを理解出来ないことが多々あります。

専門家が専門家たる所以はここにあり、消費者にとって情報があったとしても理解するのは難しい。

根拠のない治療、例えば風邪における点滴等ですが、「あそこの先生にかかれば風邪でいつでも点滴をしてくれる」という下らない理由でどうにもならないヤブ開業医にかかる患者さんはものすごく多いです。

こういった問題があるのも事実だろう(よく面白半分に挙げられる「Dr 林のこころと脳の相談室」なんていい例だ)。単純な医療に関する情報公開よりも上のap_09さんの提案でいえば2にあたる医師に関する情報公開が重要だろう。これは「なぜ資格試験や教育が必要なのか」でも指摘した評判の効果を高める。あのときは「資格」が必要ないかもしれない理由として挙げたが、資格制度を用いた上でより効率的な競争させる上でも役に立つ。

もちろん、医学に関する知識をより分かりやすい形で提供することは重要だろうが、それだけでは情報の非対称の問題は解決できない。仮に時間をかければある程度理解できたとしても、それだけの資源を投入するのは割に合わない。これは単なる分業であって社会的にも望ましい。localsgさんが情報共有に反対している風に取られているが、別にそうでもないのは次の一文から明らかだろう:

なお、むしろ医学知識や医療制度に関しては私も公開すべきという立場ですし、一般の方が積極的に参加すべきだと思います。

むしろそれで問題が解決するわけじゃないという主張であり、より積極的に情報を共有しようというaoi700aoiさんやap_09さんの考えと排他的なものではない。程度の問題であって、今よりも患者が医療を理解するべきかもしれないが全て理解することを期待するのは無理だし、望ましくもない。

医療業界の問題を議論する資格

localsgさんの

なお、井上氏の議論で最も欠けているのは、「専門家の仕事に対する敬意」です。彼自身の経歴からすると薬剤師としての実務に就いた経験はほぼ皆無のはず で、臨床医として経験は5年未満です。一般的に医師が臨床医として1人前「弱」と言われるまでには卒後10年はかかります。現在の彼は「周囲の一人前の医 師達に支えられてやっと臨床を行っている」レベルのはずです。
その彼が「現状でも、どうしようもない医師はいくらでもいるではありませんか。」だの言っているのをみると、「(どうしようもない医者とは)それはブーメランか?」という感想しか出てこないです。彼は自分のことをよほどの天才だとでも思っているのでしょうか?

という発言についてbobby2009さんの

医療業界の問題を議論する資格として、医者である必要すらありません。時間を割き、行政から医療現場までの問題に関する情報を広く収集し、正しく認識する能力があれば良いという事です。

やsatahiro1さんの

localsg氏は医療従事者でさえも医療問題を識別して考える能力がないのに、ましてや専門外の者が「全体を俯瞰する視野と全体最適な解決策を提案できる能力」を以ってしても、問題解決の糸口を提供できないと言う。

といった批判があがっている。これについては、localsgさんの言い方に棘があることと小さなコメント欄という議論の場が原因だろうが、次の発言にあるように単なる誤解だ:

どうも、議論が拡散しているようですが、そもそも私が言っているのは医療全般についての話ではありません。医学教育を受ける初学者が「これは医師になるために必要、これは医師になるために不要」と言うことの是非を問うているのです。

localsgさんが井上さんのポストについて問題としているのは、医師や薬剤師が持つべき知識・経験についての主張だろう。これはその分野に関する専門的知識がなければ難しいことだ。門外漢である私にはさっぱり分からない。私ができるのはせいぜい制度論だ(もちろん医療制度の専門家でもないが):

医療制度全体論に関して言うならば、必ずしも制度論を語るのに医師である必要はありません。むしろ医師以外の方がまともな意見を持っている場合は多々あります。

制度論ではどれだけの知識を保障するのにどのようなトレーニング・教育・試験が必要であるかは専門家に聞いて、その情報をつかって最適な制度を考える。これは高速道路の便益をはかるときに交通工学の専門家に交通量予測を頼むようなものだろう。

アメリカの喫煙率

アメリカの喫煙率を視覚化した地図:

What are the effects of smoking bans? – Statistical Modeling, Causal Inference, and Social Science

殆どの州で25%以下でありカリフォルニアに至っては15%以下だ。バークレーでは喫煙者を見かけることは非常に稀だ。むしろマリファナを吸っている人の方が多い。

医療は人権か

NYUのWilliam Easterlyによる医療を受ける権利に関する記事:

FT.com / Comment / Opinion – Human rights are the wrong basis for healthcare

The notion of a “right to health” has its origins in the United Nations’ Universal Declaration of Human Rights in 1948

医療を受けることを人権として確立しようとする運動自体はもう半世紀以上に渡って存在しているが、

President Barack Obama recently held a conference call with religious leaders in which he called healthcare “a core ethical and moral obligation”.

最近アメリカでの医療制度改革議論に伴い注目されている。

This moral turn echoes an international debate about the “right to health”. Yet the global campaign to equalise access to healthcare has had a surprising result: it has made global healthcare more unequal.

しかし、医療政策にモラルを持ち込むことは成功しているとは言い難く、むしろ不平等を拡大している。その理由が次の段落で説明されている。

So what is the problem? It is impossible for everyone immediately to attain the “highest attainable standard” of health (as the health rights declaration puts it). So which “rights to health” are realised is a political battle. Political reality is that such a “right” is a trump card to get more resources – and it is rarely the poor who play it most effectively.

端的に言って、最新の治療を社会の構成員全員に提供することは不可能である。よって医療に対する権利の議論は限られた資源を如何に分配するかというよくある政治の問題になってしまう。そして、貧困層は一般にいって政治力がない。

The WHO 2004 report that emphasised the “right to health” did so on behalf of only one specific effort – Aids treatment.

Saving lives in this way is a great cause – except to the extent that it takes resources away from other diseases.

具体例としてWHOによるAIDS対策が上げらている。AIDS対策は最も大きな効果を挙げたが、同時に他の疾病に対する予算を食いつぶした。結論としては、

The lesson is that, while we can never be certain, the “right to health” may have cost more lives than it saved. The pragmatic approach – directing public resources to where they have the most health benefits for a given cost – historically achieved far more than the moral approach.

医療政策を権利の問題と処理するのではなく、一般的な公共政策として単に便益な分野に資源を集中すべきだとされている。

医療政策に関してはこの考えは妥当なように思える。しかしこの議論には弱点がある。一つは、この議論がありとあらゆる政策分野に適用できてしまうことだ。どんな場合には権利の設定が適切で、どんな場合に行政的対応が望ましいかという判断基準が必要だ。例えば、一般的な財の配分は権利による対応が効率的なことは社会主義がうまくいかないことから明らかだ。

二つめは、権利と政策との間には明確な区別がないことだ。例えばプライバシーを権利として認めるか否かは主に取引費用の問題だろう。取引費用がなければコース的な意味で最適なプライバシーが成立するはずだ。しかし、完全なプライバシーへの権利がある場合と全くない場合以外にも特定の条件でプライバシーへの権利を設定することもできる(有名人ならプライバシーへの権利が狭くなるなど)。

個人的にはある程度の医療を権利として保障することは、再配分政策として意味があるように思う。例えば日本では生活保護法で医療扶助が規程されている。生活保護受給者は国民保険から外れるが国民保険同様の治療を無料で受けられる。これは再配分政策の現物支給として捉える事ができる。再配分政策を行う際に、本当に困っている人が誰なのかを特定することは難しい。支給を何にでも使える現金ではなく、医療という現物にすることで不正受給を減らすことができる。