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進む非正社員化

非正社員化はアメリカでも進んでいるというストーリー:

You’re Hired. At Least for Now. – Kiplinger.com

What’s different about this recovery is that companies, many of which cut staffs to the quick, seem committed to staying flexible in the long term by using contingent workers to manage everything from special projects to whole departments.

テンポラリな職が増えるのは雇用回復時には自然なことだが、今回はその流れが定着しているという。企業は正社員を雇うのではなく、何でも契約社員(contingent worker)で対応し、なるべく雇用に柔軟性を持たせようとしている。

Companies now spend $425 billion annually on contingent labor, which accounts for about 11% of the workforce, or 14 million people.

その規模は年間4,250億ドルで、労働力の11%・1,400万人に相当するというのだから大したものだ。そもそもアメリカは「正社員」でも数年で転職するのがごく普通なので、労働市場の流動性は日本の比ではない

Littler predicts that half of the new workers added in 2010 will be contingent

2010に加わる労働者の半分は派遣形態になるという予測も取り上げられている。

It’s getting easier to maintain an upward career trajectory as a contingent worker. Professional connections are easy to make and maintain via electronic networks, such as Facebook, LinkedIn and Twitter, and via plain old e-mail.

しかし、それに対する論評は批判的なものではない。ネットを通じたネットワーキングはどんどん簡単になっている。そのような状況で転職が増え、派遣のような雇用形態が広がるのは自然なことだ

success depends on your skills and the demand for them instead of on the fortunes of a single company or even an entire industry. […] “It’s a different kind of job security.”

このような社会では個人の成功はたまたま勤めている会社ではなく、本人のスキルとそれに対する需要で決まる。企業が従業員の雇用を保証する時代が終わることは、企業の命運に個人が巻き込まれないことでもある。一つの企業で働き続けることが最も大きなリスクになる時代に変わりつつあるのだろう。

日本では、派遣の規制や正社員化促進などこのような流れに真っ向から対立する政策が推進されている。しかし、この流れが技術的進歩に伴なうものであればそれを押し止めるのは難しい他国の流動的な労働市場がさらに柔軟になっていくなかで、取り残されてしまう危険がある

Twitterでは「つぶやく」な

注意:Twitterの仕組みに関する記事なので利用したことのない人には分かりにくいかもしれません。とても良くできた仕組みなので、ぜひ利用されることをお勧めします。よろしければフォローください

最近、「Twitterを「つぶやき」と翻訳した罪」なんて記事を読んだ。記事中には次のように「つぶやき」という訳の問題が指摘されている:

「140文字限定」、「つぶやき」、「フォロワーにのみ伝える」。こうしたキーワードだけで判断すると、いかにも閉じた空間の自己満足的なツールにしか見えない。

これは確かに残念なことだ。何故ならTwitterがFacebookやMixiのようなSNSと異なる点がまさにその開放性にあるからだ。Twitterも元々はFacebookにおけるステータス更新をSMSで行う仕組みだった(参考:Wikipedia)。Twitterのオフィシャルサイトでの質問が”What are You Doing?”だったことがそれを象徴している。

ではTwitterがFacebookのステータス更新やMixiの日記と違うのは何か。それはTwitterの仕組みの根底にある一方向性だ。従来のSNSでは友達になるためには相手の承認が必要だ。昔の友達を発見したり、最近会った人を見つけたりするのには役立つが、あくまで既存の人間関係を補完するものに過ぎない。見ず知らずの人間が友達リストにたくさんいる人は少ないだろう。それはまさに「友達」リストなのだ。

逆にTwitterにおける「フォロワー」は一方向的な概念だ。相互にフォローすれば「友達」と変わらない状況になるが、最初は常に一方通行で始まる。例え現実に友達同士だったとしてもどちらかがフォローを始めるのには変わりない。この一方的にフォローし始めるのがデフォルトという仕組みがTwitterの革新的なところだ

まず私が誰かをフォローし始める場合を考えよう。これはFacebookやMixiではまずうまくいかないがTwitterではごく自然なことだ(だからTwitterがSNSと何が違うかを知りたければまず一方的にいろんな人をフォローしてみよう)。この状態ではフォローした相手のTweetが自分のタイムライン(TL)に表示されるだけでブログをブックマークしたりRSSで購読しているのと大差ない。しかし、ここから相手に@でメッセージを送ったり、Retweetで相手のTweetにコメントすることが可能だ。意味のあるコメントをすれば相手がフォローし返すこともあり、何の関係もなかった人間と「友達」になることができる。相手は決まっているのでこれは「つぶやき」でも「フォロワーにのみ伝える」でもない。しかしこの特性を生かすためには、できるだけ有益なコメントをする必要がある

逆に自分が誰かほかの人にフォローされるのはどんな場合か。それは自分のTweetに価値がある場合だ。現実の友達であれば朝何を食べたかにだって興味があるかもしれない。しかし、既に有名人でもなければ見ず知らずの人間があなたのごく普通の日常に興味を持っていることはない。他人にフォローしてもらうためには、なるべく有益な情報や興味深い議論を提供する必要がある。しかも、Twitterは多くのネット上のシステム同様にストリーム型のコンテンツであり、紙媒体とは異なりぱっとみて取捨選択するには一工夫(リスト・フィルター・ボットなど)が必要だ。ストリームの価値を上げるにはノイズ比を下げる必要があり、それは大した意味のない「つぶやき」をしないことを意味する

これらの特徴はブログにもそのまま当てはまり、Twitterがミニブログ(microblogging)に区分されるのも頷ける。旧来のブログと異なるのは、情報の送り手・受け手という関係が固定的でないこととリアルタイムであることだ。ブログでもコメント欄などを通じて読者と交流することは可能だが、相手もブログを持っていない限りやりとりは限定的だし、常に非同期な形でしかない。Twitterはその交流を自然な形で拡げることができるという点で、ブログを書いている人にとってコメント欄を代替する必要不可欠なチャンネルになりつつある(TopsyのようなTwitterのアグリゲーターが役に立つ)。

先ほど、MixiやFacebookについて「既存の人間関係を補完するもの」と述べた。これは別の見方をすれば非常に不自然なシステムだ。現実の人間関係は常に新しい可能性へと開かれている。その意味でTwitterは「既存の人間関係の在り方をネット上で再現するもの」と言えるかもしれない

ちなみに、相互にフォローしあっている、つまり「友達」状態の場合には@でやりとりすることで、両者をフォローしている人以外のTLにはTweetが表示されなくなる。これにより、そのやりとりに関係ない人に対しての自分のストリームの価値を下げないで済むし、既存の友達との間のインスタント・メッセンジャーとしての役割も果たせる。

ストライサンド効果

多くの人が既にTweetされているがあまりにも酷い話なのでここでも紹介:

6年も前のブログでニッポン放送?東京電力?からドタキャンをくらう話。 – KandaNewsNetwork

6年も前のブログでニッポン放送?東京電力?からドタキャンをくらう話。

細かい事情についてはリンク先を参照頂きたいが、簡単に言うと、神田敏晶さんが六年前にブログでスポンサーである東京電力にとって都合の悪い記事を書かれていたためにニッポン放送での出演を直前に断られたという話だ。

問題とされた記事「 真実と事実はちがうバグダッド」も直接東電を批判しているものではない。神田さんは次の一節が問題視されたのではないかと推測している:

「日本の原子力発電などに利用された劣化ウランが米国に販売もしくは、廃棄物利用のために利用されているというのもある意味、「派兵」以上の大きな責任があるのかもしれない。」

言うまでもなく、これは神田さんの原子力発電そのものへの立ち位置を示すものではない。またこのような対応はニッポン放送にとっても東京電力にとっても好ましくない結果をもたらす:

いや、このブログを書くことによって、一生、東京電力さんとの仕事はできなくなってしまうのだろうか?

当該記事の内容を問題視することで、その内容に信憑性を与えてしまうからだ。11日に公開されたこの記事に関するTweetを私自身も二度目にしており、現時点で230回以上Tweetされている。その挙句に私なんかがそれを記事にしてしまうわけだ。

インターネットに発達によって生じたこの現象はストライサンド効果(Streisand Effect)と呼ばれる。 Wikipediaの定義を引用しよう。

The Streisand effect is a primarily online phenomenon in which an attempt to censor or remove a piece of information has the unintended consequence of causing the information to be publicized widely and to a greater extent than would have occurred if no censorship had been attempted.

オンラインによって情報の拡散を抑制しようという行為は逆効果になるということだ。これはTechdirtのMichael Masnickが2003年に名づけたもので、女優のBarbra Streisandが広域航空写真から自身の邸宅の削除を求めた件にちなんでいる。

誰もが情報を発信できるようになったことが、このような都合の悪い情報の検閲を極めて難しくした。情報の流通インフラが大手メディアに独占していた時代には、今回のようにマスコミに干渉することで流通を概ね止めることはできただろう(そしてこの一件はマスコミが実際にそうしてきたであろうことを示唆している)。

東京電力さんがキャンセルするのなら、ボクも東京電力さんをキャンセルしたい!
しかし、関西電力や中部電力にスイッチ!できないではないか…。

ましてや、市場支配力を持つ企業相手では消費者として財・サービスの購入をやめるということすらできない。メディアさえ抑えてしまえば何の不都合もなくなるわけで、その利益の一部をメディアに(広告費などで)供与して味方につけるだけでよい

都合の悪い情報は、広告主の立場でマスメディアから完全シャットアウトできても、その反作用はソーシャルメディアでは、確実に増長される。

それが、ソーシャルメディア時代の民主主義の正しいありかただと思う。

ソーシャルメディアはDiggにおけるAACS暗号鍵の一件が示すように、この現象をさらに大きなものにする。Twitterのようなサービスで情報が拡散、ソーシャルブックマークに記録され、ブログなどでさらに分析が行われる。

もちろんこのことが、大手メディアや情報を隠そうとする企業の責任を軽減させるわけではないし、逆にメディアが今まで果たしたきたとされる役割に疑問を投げかける

読む量は増えている

YouTube・ビデオゲーム・iPod・携帯など読書離れが危惧されているが、我々が読む文章は増えている:

Study: Rumors of Written-Word Death Greatly Exaggerated | Epicenter | Wired.com

“Reading, which was in decline due to the growth of television, tripled from 1980 to 2008, because it is the overwhelmingly preferred way to receive words on the Internet,”

文章を読むことによる情報収集はテレビの影響で減退していたが、この三十年近くの間に三倍にもなったという。これは文章がインターネットで最も利用されている情報伝達手段であるためだ。

これは少し考えれば何も不思議ではない。インターネットは情報伝達、特に文字情報の伝達、のコストを劇的に下げた。コストが下がれば消費が増えるのは当たり前だ(Kindleのベストセラーの多くは無料だ)。音声や映像の配信費用も下がったが、それは文字情報の衰退を意味しない。文字と音声・映像は限られた情報伝達をシェアしているわけではないからだ。どちらも安くなり、どちらもより多く消費されるようになったということだろう。だからこそ我々はネットをやりすぎて仕事が進まないなんていう状況に陥るのだ。

ネットが情報伝達を担うことに抵抗する既存メディアは、三桁ジーンズを批判するデザイナーのようなものだ(注)。新しいプレーヤーは市場全体を拡大させていく。既存のプレーヤーがやるべきことはそれをパイの奪い合いと捉えることではなく、広がる市場での自分のプレゼンスを築き、さらには市場の拡大をさらに進めることだ

技術進歩に異を唱えても先は見えている。たとえその意見が「正しく」とも、市場の大きな流れを変えることはできない。その「正しさ」さえも変えられていくのだ。

追記

(注)新しいポストを書くほどでもないのでここで件の記事へのコメントを一つ。「川久保さんは、安さを求めた結果、若い人たちの創造性が失われていくのも心配だというのだ」とあるが、安い衣服は組み合わせたり加工したりして創造を促す側面がある。これは音楽のリミックスにも通じる。ただし、音楽の場合と異なり政治・法律を利用して利得を拡大しようとしているのではないのでそういう考えで仕事をすることには何の異論もないし、それで成功されていることは素晴らしいことだ。

日本のウェブが残念なのは当然

Twitterがメインの記事だが、もっと広い文脈に該当する:

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) – コンテンツ編 – マぜンタとシアん

この記事は「日本のTwitterは残念だったのか?」という問いから始まりました。この「残念」という言い回しは、梅田望夫さんの岡田有花記者によるインタビュー記事のタイトル、「日本のwebは残念」から取ったものです。そこで、まず、「なぜこの記事で、日本のwebは『残念』と呼ばれているのか」について確認しておきましょう。

この日本のウェブが残念だというのは面白い。

クラスタ」の感触は、いうなれば「マイミク」のイメージに近いのでしょう。話題が通じる内部での安心感と閉鎖性、これはイラン大統領選でのTwitterのイメージとは正反対です。「日本のTwitter」もまた、mixi的なもの、ひいては日本文化的なものから袂を分つことができずにいるのです。

さしあたって「日本のTwitterは残念なのか」という命題には、首肯せずにはいられないでしょう。

最近日本語のウェブサイトを見始めたのでこの感覚はよく分かる。しかし、何故残念なのかという問いへの答えが何なのか示されていないように思う(元記事はその後日本のTwitterにおける出来事とコンテントについて解説している)。

ウェブの「クラスタ」感、内部での安心感と閉鎖性といった日本文化的なものを見ると「日本のTwitterが残念である」ということが分かるというが、これは前に「アメリカは実名志向か」で取り上げた「日本人は匿名志向・外国では実名志向」を疑うと同様あまり意味のある考えではない。あることが日本と海外と違う理由を文化の差に求めるのは非生産的だ([latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とで[latex]z[/latex]が違うのは[latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とが違うからだというようなものだ)。

では実際、日本のウェブが残念なのは何故か?これは「アメリカは実名志向か」で指摘した何故アメリカでは実名の使用が多く、日本では匿名が多いのかという理由と全く同じだろう。その時はLinkedInが実名である理由を次のように説明した:

何故LinkedInは実名なのか。それは単に実名でなければ何の意味もないからだ。就職活動に偽名を使うわけないし、偽名の知り合いとコネクションを持 ちたい人もいない。日本ではどうか。そもそもLinkedInのような組織がない。労働市場が硬直的で転職自体が悪いシグナルを送ってしまう。

実名の使用は労働市場が流動的か硬直的かに大きく影響される。流動的な市場においては社内で有名な○○さんになるメリットがない。どうせ一つの会社にいるのはいいとこ3,4年という社会では、社内でコネを作ってもあまり意味がない。逆に重要なのは社外に向けて自分のブランドを売り出すことだ。業界のいろんな場所に名前を売ることだ。フリーランスが多いこともこれに拍車をかける。

しかし、実名を所々で使用するだけでは大したメリットもない。名刺をただ配っているようなものだ。それだけではあまり意味がない。だって知らない人の名刺なんて読まないだろう。では誰の名刺ならローデックスに入れておこうかと思うか。それは重要そうな人だ。名刺を配ることに意味があるためにはそこにある名前に意味がなければならない

これはウェブ上で言えば、自分が重要であることを示すことであり、その一番簡単な方法が他人にはできない有益な活動をすることだ。例えば、オープンソースのソフトウェア開発に参加することは誰にでもできるわけではないので、プログラミングの能力を示すいいシグナルになる。ブログを書くこともそうだろう。

はてなについて、

はてな界隈」での論争に漂う内輪感、閉鎖性はしばしば批判の的となっています。流行りの言葉を使えば「ブログ論壇(笑)」になり果ててしまっている「はてな界隈」を揶揄する言葉が「はてな村」です。

その閉鎖性が問題となっているが、そのようなことはアメリカではほとんど問題にならないことも簡単に説明できる。論争に貢献する人間は自分のプロモーションとしてそうしている場合が多数なため、オーディエンスを限定しようという考えがないからだ。ジャーナリストが内輪にしか受けない記事を書くことはないだろう。

逆に、梅田さんがよいインターネットとしている

ウェブ進化論の中では「総表現社会」という言葉を使っている。高校の50人クラスに2人や3人、ものすごく優れた人がいるよね。そういう人がWebを通じて表に出てくれば、知がいろんなところで共有できるよね、というところまでは書いている。

もまた理想郷ではない。アメリカでは多くの人々が自己を表現しているのは確かだ。しかし、それは別にお花畑のような世界ではなく、単なる自分の市場価値を高めるための仕事だ。

とはいえこういうことをする人がウェブ上にたくさんいるかどうかがウェブが「残念」になるかならないかという点で極めて重要であることは言うまでもないだろう。梅田さんの「日本のwebは残念」で言えば、

今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合。「アルファブロガー」的なものも、最初のうちにぽーんと 飛び出した人からそんなに変わってないじゃないですか。それが100倍、1000倍になり、すごく厚みをもって、という進展の仕方と違う訳じゃない。

こういった活動が「アルファブロガー」を作る。そしてここでいう「インセンティブ」とは自己表現のそれではなく労働市場の価値を高めるという経済的インセンティブにすぎない

Twitterはいい例だ。アメリカのブロガーであればTwitterを使う最大の理由は読者とのコネクションだ。これはデパートがお客様アンケートを配るのと同じことでカスタマーサポートの一種だ。多くの著名職業ブロガーが人を雇ってTwitterを更新していることを考えればその同質性は明らかではないだろうか。

この解釈は、何故日本のTwitterが「クラスタ」化するのかをも説明する。アメリカでは自分を売り込むためにTwitterを利用していて、別に他人の声を聞いてどうこうしようと思っているわけではない参加者が多いのだ。そういった環境ではほとんどの人に興味のない情報がどんどんTwitterに流され一部の人が散発的に反応する

最後にmixiに関する次の箇所について:

SNS」は「mixi」という、既存の人間関係を効率的に管理するだけのシステムに置き代わりました。

mixiが既存の人間関係を効率的に管理するシステムのいうのは間違いだ。多くの参加者が匿名のmixiは驚くほど非効率なSNSだ。