「株式」会社は株主のもの

株主至上主義って?」についての反論をLilacさんが書かれているので一応返答したい。
会社は本当に株主のものか?という疑問に答える本 – My Life in MIT Sloan

専門家を称する人は、「専門的にはこれが正しいんです。あなたは間違ってます」と言うのではなく、彼の感覚的な表現の、根本の問題意識に答えようとしてくれれば良いのに、と思った。

前者的な反論は既に池田信夫さんがなさっているが、Lilacさんが納得する説明のようには思えないのでここでは一問一答形式でいく。

そもそも、彼の言う「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」、そしてそれを問題だ、と思う感覚自体は、至極まっとうじゃないのか。

彼の感覚が自然か否かについては議論していない。例えば、解雇された労働者を可哀想だと「感じる」のは真っ当だが、それを解雇を禁止することで助けるのは真っ当ではない。

まず「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」というところだが、ここでは比較対象は、他の欧米諸国と比べてるんではなく、「日本の昔に比べて」ってことを言ってるのだと思う。

「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」が「日本の昔に比べて」の発言だというのは妥当な推定だが、そうであれば「喝を入れたい」というのはおかしい。改善していっているだけかもしれない

例えば、1970〜80年代には、日本では優良大手企業でさえ利益率5%以下が普通だったのが、現在の企業経営ではROEと利益率が神様みたいに崇められてる。
これは「株主を重視しすぎる風潮」と言わずしてどう説明するか。

それは投資先が「優良」大手企業だったからだ。30・40年前の日本企業と今の日本企業とを同じ投資対象とみなすのは不可能だ

当時の日本企業は「効率が悪かった」のだろうか?

逆だ。当時の日本企業は成長の見込みがあるからそれでよかったのだ。成長の見込みがなければ投資家が配当という形で資金を回収するのは当然だ。成長していない企業に内部留保を残しても効率的な投資は行われない社会的な観点からみても同じだ。そもそも成長してもいない企業が持っているとされる会計上の内部留保の額なんて信用できるだろうか。

極端な議論かもしれないが、良いものを安く売ることで消費者に還元していた、とはいえないか。多少コストが高くなっても、簡単に従業員をクビにせず、たくさん雇っていたのは、従業員に還元していた、とはいえないか。

もちろん企業が存続しているということは、普通は企業は社会に貢献したということだ。そしてその貢献を消費者・従業員・債権者・株主が分け合っている。しかし、その貢献の量というのは誰が意思決定を行い利益をどう分配するかによって変わる。そして、通常、最大のリスクを引き受ける投資家が会社の重要事項と経営者を決定するのが効率的だ。

株主が最大のリスクを負っているのはP/Lをみれば分かる。消費者はその会社の財・サービスを買う必要は(独占でもない限り)ないのでリスクはほぼ負担しない。従業員の給料は会社の業績に関わらず支払われ、破産しても真っ先に確保されるのでリスクは小さい。そのあと利益が残って入ればまず債権者が取っていく。一番最後の残り物が株主だ。大体、この中で会社が払う額を後から決められるのは配当だけだ

米国の「優良企業」のように30%も営業利益を取るかわりに、5%以下に抑えて、消費者や従業員のためにはなっていたのではないか。

株主へ利益が渡せないなら投資は行われない。内部留保だけでやっていけるのであればいいが、それでは外部からの資金調達はできない。

また、前回も触れたが、企業・消費者・従業員を分別するのはおかしい。どの人も消費者であり労働者であり(少なくとも間接的には)企業の所有者だ。誰が得しているか、損しているのかを考えるよりも全体での利益を考えるべきだ。

そもそも企業の利益率が高くて、一体誰が喜ぶかをよく考えると、利益から法人税を取れる自治体以外は、そこから配当を得られる、もしくは株価向上が見込める株主だけじゃないのか?

利益が出たあとで分配をどうするかは、事前のインセンティブを変える。例えば、非営利企業には株主がいないし、そもそも給料や利息を払ったあとの残余利益をもらう人がいない。しかし、世の中の会社をみんな非営利企業にしたほうがいいという人はいないだろう。非営利企業がうまくいく場所もあれば、うまくいかない場所もある(参考:非営利と営利との違い)。株式会社も同じで適材適所だ。起業家は非営利を含め好きな組織形態を使えばいい

(多少関係するのは、格付けによる社債など資金調達の容易さだけだが、メインバンクからの負債中心の当時の日本型企業にはほとんど関係なかった)

負債中心ならそれでいいし、誰も企業にエクイティでの資本調達を強制したわけではない。しかし、株式を売ってお金を集めたなら配当をする必要がある。株主から投資を受けた後に株主の要求はうるさいというのは、お金を借りたのに利息に文句をつけるようなものだ

その結果、多くの企業の経営者が株価や株式総額を気にする余り、市場に説明できないような長期的な投資が出来ない、と悩んでる。

まず、株主もまた長期的な利害は考えている。株主が内部留保を配当させれば株価は下がるので売り抜けても(超過)利益はでない。もちろん例外的なケースはありそれはそれで規制すべきだが、それはあくまで例外だろう。

「日本の企業って、昔はもっと従業員やお客様を大事にしてたんじゃないのかなぁ・・・
それなのに、今は企業が短期的に利益を上げることだけ考えろって言われてる気がする。
それって得するの、株主だけだよね・・ これって本当に正しい方向なんだろうか?」

「株主価値経営が当然だっていうけど、本当に株主だけなのかなあ?
企業って従業員も取引先もお客様も大事だし、ひいては社会的な使命をもってるんじゃないのかなあ」

大体から言って、「企業の経営者」の意見を聞いてもしょうがない金を借りた人間に金貸しについてどう思うかと聞いているのと同じだまともな人ほどあの時貸してくれてありがたいと答え、だめな人ほど金貸しは金儲けばっかだと答えるだろう。こういう経営者は銀行にも同じことが言えるのだろうか

株主の発言権を重視するのは、基本的に一番リスクを負っている人間に発言権を与えるのが一番効率がいいからだ。他人の金で相撲を取っている人間は信用できない。

別に経済学や経営学の知識で武装しなくても。

多分、漠然と株主主権が問題、と思ってるのは藤末議員だけじゃない。

それはそうだ。漠然と株主主権は問題だと思っている人はたくさんいるしそれはいいしかし、会社法の改正に関わる議員に同じ基準は適用できない。仮に株式会社の法制度を変更する必要があっても「漠然と」思っているのでは困る。今回の藤末議員の発言は議員が企業の制度について理解していないという事実を明らかにしたから問題なのだ。ましてや、国会議員としては非常に期待できそうな経歴を持つ藤末議員に対する期待は高く、それが裏切られたことに対して批判や失望の声が上がるのは当然だろう。

あげられている書籍は入手できないので細かいコメントはしないが、

簡単に書くと、ポスト産業資本主義で最も大切になるのは、新しい知識や情報を常に生み出せる人的資産である。その人的資産を採用し、育て、つなぎとめ続けられる企業が、長期的に成長することが可能だ。そのために必要なのは、株主の方を見た経営ではなく、従業員に目を向け、従業員が離れにくい文化と制度を有する経営。それは、株主主権では実現できない、という話だ。

この部分が正しいとして「株式会社が株主を重視する」ことへの反論にはならない。誰も株式会社にしろとは言っていない。好きな形態をとればいい。単にいいとこどりはできないだけだ。株主に経営への影響力を与えなければ、リスクの高いエクイティ投資など誰もしない。逆に「従業員に目を向け、従業員が離れにくい文化と制度を有する経営」がそれほど素晴らしいなら、上場なんてしなくていもいいはずだ。内部留保と銀行からの融資で事業を拡大すればいい。前の記事で上げたGoogleは株主に口をださせず順調に拡大している。

親子上場禁止をひも解く

昨日は公開会社法が世間を騒がしたが(参考:株主至上主義って?)、親子上場の禁止についても議論があった:

藤末さんのブログ記事の件でもちきりでしたが、こっちも実現なら、インパクト大。でも、こっちは、ベクトル自体は正論だと思うけど > 市場激震必至!民主議員がブチ上げた「親子上場禁止」の波紋 (via tabbata@twitter

この件についてny47thさんと相変わらずの素晴らしいやりとりができたので、内容を簡単にまとめておきたい。

市場激震必至!民主議員がブチ上げた「親子上場禁止」の波紋 – livedoor ニュース

民主党議員が、親会社とその連結子会社がともに上場する「親子上場」の禁止をブチ上げ、波紋を広げている。

「親子上場」というのは親会社・子会社が独立して上場することだ。それが今民主党により禁止の方向へと向かっている。しかし、その根拠は何だろう。

親子上場では、子会社が親会社の意向を受けて不利なことを押し付けられ、子会社の他の株主がないがしろにされる可能性があることが問題視されてきた。

子会社の株主の利害が問題視されている。これは親会社が(定義上)上場子会社の議決権を抑えているため、その他の少数株主が意思決定に影響を及ぼせないためだ。しかし、これを問題と捉えるのは二つの観点から難しい。

まず、少数株主が意思決定に強い影響を持たないこと自体は「少数」なのだから当たり前のことだ。関連会社や他社との持ち合いで、意思決定を一部の株主(の集団)が抑えてしまうことは親子上場でなくてもある。

次に、子会社が不利なことを押し付けられることと株主が蔑ろにされることは全く違うことだ。子会社の少数株主は事前に不利な立場に置かれることを知った上で、それを織り込んだ価格で子会社の株を購入している。小学生がじゃんけんで荷物持ちを決めているようなものだ。じゃんけんをした後では(事後的に)一人の子供がいじめられているように見えるがそれは実態を表してはいない。そこに大人が入っていっても迷惑がられるだけだろう(明日からの友達関係を気にしなければ負けた子供だけは喜ぶが)。

一般に、自発的な取引で片方が「搾取」されることはない。「搾取」されることが分かっていれば取引には参加しないからだ。消費者が騙される可能性はあるがそれを株式市場に持ち込むのは望ましくない。参加者はルールを理解しているべきだし(参考:フランチャイズの問題点)、後で取引をひっくり返される恐れがあっては資本市場が有効に機能しない(注1)。

逆に親子会社の上場が自発的に行われているという事実は、それが親会社にとっても、子会社に新たに出資する投資家にとってもプラスであるということを意味する。親会社であれば子会社の収益ストリームを区別することで効率的に資本を集められるということはあるだろうし、子会社の少数株主とっては(リスクを含め)新しい投資機会となる。他にもメリット・デメリットあるだろうが、ポイントはある自発的な取引が市場で長いこと行われたきたのだから、それなりの理由がある=メリットがデメリットを上回っているはずということだ(注2)。

親会社が子会社の意思決定をコントロールしてしまうことによるガバナンスの問題はあるだろう。しかし、これはまさにガバナンスの問題として対処すべきで、子会社上場を禁止する理由としては非常に弱い。同じ問題は支配的な株主(の集団)が存在する場合には常に存在するし、ガバナンスがうまくいかないとしてその費用を負担するのは結局のところ親子会社と株主でしかない。その費用が上場のメリットを上回っているからこそ子会社上場が行われたはずで禁止する理由にはならない。

では親子会社上場を禁止する真っ当な根拠は何があるだろう。一つ考えられるのは国際的調和だ。要するに他の国では子会社上場が行われていないからそれに合わせようという話だ。通常単に海外に合わせようというのは制度を変更する強い理由にはならないが、海外の投資家が日本に投資しやすくするという点では意味がある株主至上主義って?で批判した外資を悪者にする主張とは整合しないが)。

親子上場を解消する方法はおもに2つ。TOBを実施して他の株主から株を買い取るか、子会社の株を親会社の株と交換する株式交換方式などで完全子会社化 し、子会社を上場廃止にする手法が1つ。もう1つは、保有株を市場などで売却して持ち株比率を3分の1以下に減らすやり方(子会社の上場は維持)だ。

しかし、制度を変更することのコストも忘れてはならない。禁止それ自体によるコスト(上場が持つはずのメリットの喪失)はもとより、親子上場企業が多く存在する現状を急激に変えることは余分なコストを発生させる。これが本当に不況真っ只中の日本に必要なことなのだろうか。

減量に例えればこうだ。理想体重よりも5kg重い人を考えよう。5kg余分でも本人は何も不都合がないが、一ヶ月でそれだけ減量しようとすればそれこそ健康を害する。ましてや体調が悪いときにやることが必要だろうか。しかも、5kg重いのは単に筋肉が多いせいかもしれないのだ。

(注1)これは個人投資家を持ち上げるような動きが何かピントの外れたものであることを示唆している(これは「インフォームド・コンセントと日本」の話とも似ている)。

(注2)取引に参加しない第三者が損害を受けている場合には問題だが、このケースでは思い当たらないし、根拠として報道されてもいない。上場のための費用も基本的に取引参加者(親子会社・株主)の負担だ。

株主至上主義って?

Lilacさんのページからお越し頂いた方:返答ポストがあるのでご覧ください。

今日は民主党の藤末健三議員の発言がTwitterで大きな話題になった。元となったのは次のブログへの投稿だ:

民主党参議院議員 ふじすえ健三: 公開会社法 本格議論進む

2.最近のあまりにも株主を重視しすぎた風潮に喝を入れたいです。今回の公開会社法にて、被雇用者をガバナンスに反映させることにより、労働分配率を上げる効果も期待できます。

被雇用者をガバナンスに反映させるというのは、従業員の代表を監査役に入れることだ。このこと自体の是非やそもそも監査役会の有効性など論点はあるが(参考:民主党政権の試金石「公開会社法」を斬る)、「あまりにも株主を重視しすぎた風潮」とは何のことだろうか。そして日本にそんな風潮があるのだろうか。

そこで、「株主至上主義」で検索してみたところ、藤末議員が以前に書いた記事がトップに出てきた:

日経トップリーダーonline: 「株主至上主義ではない」からグーグルは強い

株主が会社の持ち主であるという株主至上主義の資本主義

これが「株主至上主義」という単語の定義であり、「あまりにも株主を重視しすぎた風潮」というのはこれのことを指しているのだろう。しかし、この定義には大きな問題が二つある。

  1. 株主が会社の持ち主であるというのは株式会社の定義である
  2. 株式会社を組織形態として強制しているわけではない

企業は株式会社という形態をとる必要はないが、それが資金調達に有利なので株主を会社の持ち主にしているのだ。それを抑制するということは、資金調達が困難になり企業の拡大が阻害されることであって、現状のまま従業員への利益配分が増える(=労働分配率が上がる)という意味ではない。

こうした日本企業の株主重視の姿勢は米国企業の追従といえます。

これがアメリカの追従だというが、企業が本当にそんな理由で財務戦略を変更するだろうか。株主を重視することが資本市場から資金を調達する上で重要だからそうしているだけだろう。そうできない企業は高い調達費用を払うことになり市場で不利な立場に置かれる。

グーグルは特殊な株式を導入しています。それはなんと「株式公開前の株主が1株10議決権を持つ」というものです。グーグルには2種類の株式と2階級の議 決権があります。クラスAの株主は1株あたり1票の議決権しか持ちません。一方、クラスBの株主は1株あたり10票分の議決権を行使できるのです。

グーグルが、創設者に議決権を集中させていることを指摘しているが、これは「株主至上主義」と矛盾するわけではない。まず、これは創設者という特別な株主に権利を集中しているだけであり、株主が会社の持ち主という枠組みから外れているわけではない。また、ここでいうクラスBの株主は議決権が少ないことを承知で株式を購入しているため、既に存在する企業とその株主に対して、新しいルールを導入することとは全く異なる(注)。

グーグルは株主への配当がないようです。実際に最新の会計報告(2007年)を見ると配当は見当たりません。このようなグーグルの株主至上主義をある意味否定するようなスタイルですが、急激な成長を実現していますので、許されているようです。どこまでこのスタイルを貫き通せるかが注目されます。ある意味、「株価は上げるから…」という経営のやり方ですね。

配当がないことも挙げられているが、これは成長産業では当たり前の戦略だ。市場で資金を調達するより内部留保を再投資する方が調達費用は少ないし、既存株主の持分割合も減らない企業にとっても株主にとって都合がいいのであり、「許されている」わけではない。例えば、マイクロソフトは創業(1986年)以来長年無配当を続けていたが2003年に配当を始めた(参考:ついに配当決めたマイクロソフト)。これは大量の資金を効率的に再投資する対象がなくなったというだけで、「株主至上主義」を辞めたわけではない。マイクロソフトが相変わらず莫大な利益を出していることは言うまでもない。

要するに創業者に議決権を集中しつつ配当もしないでいるからグーグルが強いのではなく、グーグルが創業者の元で成長しているから議決権を確保したまま無配当を続けても誰も困らないのだ

わが国の株式市場の三分の一が外資に占められ、流通している株式の7割近くを外資系がコントロールする状況です。株価は外資に決められ、そして外資の要求 に経営陣が応えていくことが求められています。この状況を打破し、雇用を作り、社会に貢献する企業に資金が集まるような仕組みを作れたときこそ、わが国の 産業の競争力がいっそう強化されるのではないでしょうか。

これが結論部だ。しかし、株式市場が外資に占められていること自体は悪いことではない。それだけ資金が集まるおかげで企業は安く資本を調達できる。また、株主が外資でなくとも、投資家としてリターンを要求するのは当たり前のことだ。でなければ誰もリスクをおって投資などしない。

「雇用を作り、社会に貢献する企業に資金が集まる仕組み」を作るのは素晴らしいことで、それこそが資本市場の存在意義だが株主重視や外資の存在でそれが妨げられているのではない。外資を含めより多くの資金が入ってくる魅力的な市場を作り、安価な資本が成長する企業(=これから社会に貢献する企業)へと配分されていくようにすることが必要だ

むしろ心配すべきは、資本市場が魅力をなくし、外資が逃げだし、企業が拡大のための資本を集められなくなることだろう。この最悪のシナリオの現実性は増すばかりだ。

(注)この辺はTwitterでのmoraimonさん、katozumiさんとのやりとりから書きました。

P.S. 藤末議員は立派な経歴をお持ちかつ、ブログ・Twitterで情報を発信されている貴重な政治家なので、こういったネット上での議論を役立てていい方向に持っていってほしい。

追記

  • 上場時点でGoogleは強かったので「株主至上主義のアメリカだから強いGoogle”も”誕生した」というのは言い過ぎだろう。もちろん彼らが上場して大量の資金を手に入れ更なる発展を遂げているのは「株主至上主義」のおかげでもある。
  • 「企業の利益の分け前が欲しければ株を買って株主になればよい」というのはその通り。企業と労働者を二つに分けるのは間違っている。リスクや統治上の是非はともかく持株会などを通じて自社株を保有する従業員は多いはず。

発着枠の「配分」

滑走路拡張による羽田の新発着枠を日航へ多めに配分するというニュース:

NIKKEI NET(日経ネット):経済ニュース −マクロ経済の動向から金融政策、業界の動きまでカバー

国土交通省は4日、10月の滑走路拡張に伴って増やす羽田空港の国内線発着枠(1日37便)の配分を固めた。全日本空輸に11便前後、日本航空に8便前後 を割り振る。日航は経営体力が低下し、リストラに専念する必要があると判断。日航より全日空を多くする。スカイマークなど新興航空会社にも全体のおよそ半 数と手厚く配分する。

一見、配分内容に目がいきがちだが、ポイントは国土交通省が発着枠の配分を決めて無料で航空会社に提供していることだ。発着枠の配分に関する審議会の資料も国土交通省のサイトで公開されている(毎度のことだが、こういう情報をニュースに載せないのはどういうことなのだろう)。次のページにある論点整理なんかは各社の考えがわかりやすい。話題のJALの意見を見てみよう。

航空:羽田空港発着枠の配分基準検討懇談会(第4回) – 国土交通省

今回増枠数(37便/日)では必要な地方路線ネットワークの構築、増便には不十分であり、最終形(72便/日の内数)で最大限国内線に配分されることが必須。(JAL)

地方便を優先してほしいという姿勢が伺える。

地方路線ネットワークの維持・拡充の観点から、前回回収分(20便)を従前使用社(大手)にまず戻し、地方路線の増便に充てるべき。(JAL)

そして地方便の優先については自分たち大手に便数を戻せと主張している。ちなみにこの論点整理には航空会社と全空協の意見しか掲載されていない。

既に各所で提案されているが、発着枠にはオークションの導入が必要だろう。オークションにより社会的に望ましい発着枠の分配が可能になるし、政府収入も生じる。高い値段で売れた場合にはそれにより更なる拡張を行えばよい。

地方便の維持や共謀などの問題はあるが、それはオークションのデザインや競争政策として対応できる。また、配分ルールが明らかになるので、官僚・政治家・航空会社などの癒着を防ぐという大きなメリットがある

アメリカでも導入はなかなか進んでおらず(参考:Court Order Delays Auction of Landing Slots at Airports – NYTimes.com)道のりは遠いが莫大な社会的利益があり政策転換が期待される。

インフォームド・コンセントと日本

開業医の方が書かれたインフォームド・コンセントについての記事だ。読んでいて何か違和感を感じたが、数日忘れたまま放っておいたらふと一貫した説明がついたのでご紹介:

自己決定とパターナリズムのあいだ – Dr.Poohの日記

総合診療誌JIM1月号に掲載されていた内田樹氏と岩田健太郎氏の対談を読みました。冒頭から「インフォームド・コンセントはダメである」と断言してしまうあたり,医学雑誌としてはかなり刺激的です。内田氏によればインフォームド・コンセントという概念そのものがきわめてアメリカ的であって,日本では受け入れられるのかどうか疑問を呈しています。

内田樹さんの文章については以前もとりあげたが(人間も労働も特別じゃない)、今回も否定的にならざるをえない。何度か指摘しているが(例えば、アメリカは実名志向か)、日本的かアメリカ的かという切り口はあまり意味がない。アメリカ的だから日本では受け入れられないというのは結論を仮定しているようなものだ

次の引用文も頂けない:

僕には,どちらかというと,医師と患者のあいだには知の非対称性があったほうがいいと思っているんです。自分の状 態については医師のほうがよく知っているのだから,「この人にすべて委ねよう」と思ったほうが治療のパフォーマンスは上がる。たぶん日本人の大多数はそう だと思うんです。文化論的に言っても,外部に権威があって,それに対して自分は無防備で受け身の状態にいるほうが,日本人は心理的にも安定するんです。

学ぶ力と癒す力: JIM vol.20 No.1 2010-1 p60

この箇所だけから全体を判断することはできないが、それにしてもよくない。自分の状態について医師のほうがよく知っている場合に医師に委ねてパフォーマンスが上がるのは自分と医師の間に利害対立がないときだけだ。知識の豊富な保険販売員にすべてを委ねることはできない。文化論で「日本人」の心理を説明するのも説得力がない。仮にそういう傾向が日本人全体にあったとしてそれが肯定すべきものとはならない。

本題に戻ろう。

この対談でパターナリズムという言葉は出てきませんが,この文脈で言及しているのはまさにそれでしょう。

確かに議論の的となっているのはパターナリズムの是非だ。

当方が医師になった頃には,パターナリズムというのは従来患者さんの自己決定権を損なってきたものであり,本来患者さんに必要十分な情報を提供することで自己決定を支援しなければならない,という教育がされていました。

しかも日本の医療業界ではインフォームド・コンセントがパターナリズムの問題として扱われているようだ。

違和感を感じたのはここだ。インフォームド・コンセントが問題となるのは、患者と医師との間に情報の非対称があるからだが、情報の非対称による最大の問題は患者と医師の利害対立(プリンシパル・エージェント関係)であってパターナリズムではない。患者は適切な情報を有しないため、医師はどの治療を選択するかについてのアドバイスと治療サービスの提供を同時に行う。患者の利得とサービス生産者としての医師の利得は一般に一致しないため非効率が発生するわけだ。必要のない治療を行い収入を増やすような行為がこれに該当する。

インフォームド・コンセントは医師が十分な情報を伝えなかったり、不正確な情報を教えたりした場合にペナルティを与えることで、患者と医師との情報の非対称による問題を軽減する(注1)。セカンド・オピニオンとして他の医師の意見を仰ぐことも、アドバイザーとサービス提供者を分離することでこれに貢献する。

ではなぜ、日本ではインフォームド・コンセントがパターナリズムの問題として捉えられるのかそれは上に説明した情報の非対称に由来する問題がもとから軽微であるためだと考えられる。情報の非対称は存在する。しかし、利害の対立が小さいので深刻な問題にはならないということだ。

元記事においても、医師が自分の利益のために治療を選択するという状況は想定されていない。私が日本で医者にかかるときも、いらない薬だしてるかもとか薬の日数を少なくして通院回数を増やそうとしているんじゃないかとは思うが、それ以上の問題が起きるとはほとんど考えていない。これはアメリカでは当てはまらない。医療が非常に高く、保険は人によって異なるなど、医師を取り巻くインセンティブは日本より遥かに複雑だ。

例えば私はアメリカでLASIKの手術を受けたが、どの医師が技術的に望ましいかは経歴ぐらいからしか分からなかったし、具体的な処置についての知識もなかった。基本的な事項は調べたが、分野は違えど専門的な勉強している身としてウェブで調べれば分かる程度のことで正しい判断が行えるとは思えない。医学論文を読むこともできたが、内容を理解するのは困難かつ、研究と現実に必要な対策との一般的な乖離を考えれば論文を頼りにすることはできない(注2)。

そこで判断基準となるのはインセンティブ構造だ。ある程度の技術・知識がある場合に望ましくない結果となるのは医師のインセンティブが自分のそれとずれている場合だ。LASIKで言えば、適性がないのに医師が手術を進めてしまう危険性だ(問題が起きたとしてそれは事前には不確実なので責任を確定するのは難しいし、取り返しがつかない可能性がある)。私は結局、複数の医師が関わり、かつ医師にとって評判が重要で報酬の仕組みも保守的だと考えられる大学の病院を利用した。大学だから技術が高いと思ったのではなく、おかしなことをするインセンティブが少ないと考えたからだ

ひとつには必要十分な情報といっても過密な勤務のなかでそれを説明している時間がとれないということもありますが,何とか時間を作って説明したとしても,患者さんはかえって迷い,悩みを深めることもあるのです。

インフォームド・コンセントが積極的に支持されないという現状は、逆にこういったインセンティブ問題が軽微であることを示している。患者と医師との間の利害対立がなければ問題は生じず、説明のためのコストや多くの情報を与えられることによる戸惑いの方が目につくのも自然だ。現状ではアメリカ並のインフォームド・コンセントの徹底は非効率な結果になるだろう(勿論、程度の問題で必要ではあるだろう)。

(注1)この時の情報はどの治療法がどういう理由でどんな影響をもたらすかではない。必要なのはどの治療法がどんな確率でどんな影響をもたらすかだ。それさえ分かっていれば適切な判断は下せる。LASIKでいえば何%の確率で視力がいくつになるかや感染症が発生する確率が説明された(理由も多少は説明されるが)。ここで医師が嘘をついたことが判明すれば大問題になるが医師には大したメリットがないので、この情報を疑う必要はなかった。

(注2)もちろん程度にはよる。LASIKは成功率の極めて高い手術であるため費用的に見合わないという理由はある。これが生死に関わる難病の治療であれば、医学部生が読む教科書から勉強するだろう。

追記

コメント欄でWillyさんから重要な指摘がありました:

一般的にaccountabilityにはコストがかかります。それは単に説明する時間のような物理的なものだけではなくて「最善な選択肢よりも、論理的な言い訳(ないし直感的に分かりやすい説明)や相手が納得しやすい判断を優先する」ことによりロスが発生するのです。

これはその通りで、情報提供を強制することは提供自体の費用が生じるだけでなく、その費用を減らすというインセンティブを与え、行動を歪めます。事後的な説明責任においても同じで、ある特定の患者の場合にはこの治療法が効くと考え説明しても、うまくいかなかった場合それを正当化するのが困難なので最初から提示しないということがありえます。