海外脱出アドバイスのダメなところ

何か書いている間に全面的な批判になってしまいましたが、個人を批判する意図はありません。

追記:何やら一部に誤解があるようですが、このポストの主旨はどうして海外脱出を勧める記事が反感を買うかです(これは「アドバイス」としては致命的です)。主旨を読み間違えられないようにお願いします。ちなみに私の留学の是非についての個人的見解は「大学院に行く間違った理由」の最後にあります。構成は:

  • 前提がおかしいので受け入れられない人がいる
  • 前提はいいとしてオーディエンスの設定がおかしいから多くの人が違和感
  • 逆にターゲット層にとっては役に立つ情報があまりない
  • まとめと感想

となっております。

近年もう日本は諦めて海外へ逃げようという記事をよく目にする。反応は真っ二つで「その通り、よく言った」という肯定派と「何言ってるの、じゃあ帰ってくんな」という否定派に分かれる。もうこの手の記事は飽き飽きかもしれないが、どうして内容自体がおかしいわけでもない記事に批判が集まるのか、論点整理をしたい。主に見てみたいのはつい最近の酒井英禎さんの記事と以前話題になった渡辺千賀さんの記事だ。

15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ – Rails で行こう!

On Off and Beyond: 海外で勉強して働こう

どれも基本的な構成は変わらない。

  1. 日本の{社会|労働市場|教育制度|政治|文化|その他}はもう絶望的。
  2. 日本を変えるのは無理。
  3. 海外に逃げたほうがいい。

ではどうしてこの話題がどうして多くの(特にネガティブな)反響を引き起こすのか。

前提に説得力がない

* ベストケース:一世を風靡した時代の力は面影もなく、国内経済に活力はないが、飯うま・割と多くの人がそれなりの生活を送れ、海外からの観光客は喜んで来る
* ベースケース:貧富の差は激しく、一部の著しい金持ちと、未来に希望を持てない多くの貧困層に分離、金持ちは誘拐を恐れて暮らす
* ワーストケース:閉塞感と絶望と貧困に苛まされる層が増加、右傾化・極端で独りよがりな国粋主義の台頭を促す。

まず、自信をもって海外移住を勧めるわりには1の前提の吟味はお粗末なことが多い大抵自分はある外国に住んでいるが日本はここがダメだみたいな話になるこれでは主張自体が正しくとも説得力がない。上の引用は渡辺さんの記事からだが、限られた選択肢を挙げて選ばせるというのはまあよくある手法で、元から意見がある程度一致しているか根気よく説得するのでない限り相手を納得させられない。

日本の大学を卒業しても、専門知識はろくに身につかない。大学3年生のときから、「就活」という世にもくだらない非生産的な活動にエネルギーを注がなければならないからだ。

こちらは酒井さんの記事だ。少なくともアメリカの大学より日本の大学のほうが専門教育は(過剰なまでに)盛んだ。ご本人の経歴をみるに、留学はカナダの大学に三カ月ほど在籍されただけのようで、そこから日本の大学教育を批判するのは無理がある(東京大学経済学部を専門知識を身につけずに卒業できること自体は否定しないが、それを一般化するのは乱暴過ぎる)。

日本社会はこの20年間、驚くほど変化しなかった。この巨大な惰性が向こう数年で大きく変わるとは思えない。日本がよい方向に変わるだろう、という可能性 に賭けるのは危険すぎる。

2の日本を変えるのが無理という部分もあまりよく考えられたものではない。これは酒井さんの記事だが、過去変化しなかったから将来も無理だというのは自分の投資判断の根拠としては十分だが、相手を説得するには不足だろう。ましてや、本人が変えようとして変えられなかったというのでもなければ共感は期待できない

もちろん個人の将来予測としてはそれなりに当たっていると思うし、親戚の子供にアドバイスするならこれでいいだろう。しかし、これをあたかも当然の事実として、さあ海外いくべき、じゃあこうするべきというのではなかなか受け入れられない。(話したことはないけど)海外留学のエージェンシー会社の宣伝文句みたいだ。

あと、「日本の政治を根本から変えて日本を良くする」という自負のある人も是非日本でトライして欲しい。

自分自身の人生を守るために、逃げるべきだ。そして、それが同時に日本を変えていくことにもつながる。

なんて付け加えられても言い訳にしか聞こえない。

一体誰に向かってアドバイス(?)してるの

では個人のアドバイスとしては問題ないとしてそれがなぜ反感を呼ぶかそれは読者の想定が甘すぎるからだ。例えば酒井さんの記事の題名は「15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ」だが読者の何パーセントが15歳(前後)なのだろう。渡辺さんの記事は対象を限定しているわけではないけど、来る意味がある程度の(アメリカの)大学(注1)には入れるような人に向けて書かれているのは明らかだろう。

アドバイスというのは相手がいて初めて成り立つ。「三流大学に入ってもしょうがない、東大にいけ!」という意見が正しかったとして、それを何の変哲もない普通の高校でいっても誰の得にもならない。その意見が役に立つかもしれない相手はほとんどいないし、残りの人間にとってはうざいだけだ。ましてや同じことをその三流大学や既に大学を出た人ばかりの一般企業でやってもしょうがない。「何いってんだ?こいつ?」となるのは避けられない。

ブログでアドバイスをするということは、当たり前だが、いろんな人が見るということだ。話題になれば、普段の読者以外も見にくる。そのときに少数の人々に向けたアドバイスは反感を買うだけだ。一握りの人にしか当てはまらないアドバイスをしたいなら、本を書いたり、セミナーを開いたりと相手が自然に限定されるメディアを使うべきだ。今時、宗教団体だって突然説法を始めはしない。読者にもっと意識的になる必要がある追記:何もブログで発言するのが悪いというのではなく、例えば対象を明示した上で書けば、書き手にとっても読み手にとってもプラスということ。

(注1)実際には(高い)授業料・生活費などを考えればアメリカ人だって迷うような大学が多いわけで、どこでも行った方がましとは、少なくとも私には言えない。

アドバイスとしても役に立たない

世間の反感を買ってもより多くのひとに伝えたいアドバイスもあるだろう(注2)。しかし、海外移住を勧める記事の多くはそのアドバイスの内容も杜撰であまり役に立たない

海外へ出よう。英語を学んで、世界の人々と交流し、日本の狭苦しい世界観から解放されよう。意志さえあれば、英語を学ぶのにそれほどカネはかからない。

酒井さんの記事の具体的なアドバイスはSkypeなどを利用して英語を勉強して海外にいくのとアジアの準英語圏への留学だ。しかし英語の勉強法なら他にもっとしっかりした記事が他にあるし、何よりも英語を勉強すれば海外でうまくやっていけるなんていうのは妄想だ(注3)。ビジネス英語は(比較的)簡単だが、それで許されるのはビジネスがあるからだ。専門技能のない外国人への視線なんて世界中どこにいっても厳しい。

海外でいきなり就職するのは大変だと思うので、まずは留学してそのまま居残る、というのが楽なわけです。

渡辺さんの記事でも具体的な提案となるととりあえず留学というものだ。しかし留学でうまくいくひともいるし、いかない人もいる。ある人にとって楽でも他の人には当てはまらないかもしれない。既に留学している人はそれなりの勝算があって来てるのだから、それを一般化することはできない。

これは読者の想定の話とも重複するが、海外に出ることがプラスになるひともいるしそうでない人もいる。自分の能力を前提にした単純なアドバイスなんて役に立たない。お二人とも東大を出ているが、生まれつきの能力があり最高レベルの教育を受けた人間なんてどこに放り込んだったそれなりにやっていける「自分ができるんだからあなたにもできるはず」という謙遜は成功者にありがちな強烈な自尊心の裏返しでしかない。できないと言っただけで、相手より下と暗に認めたことになるという仕組みだ。

本当に必要なのはデータ・経験に基づいた分析だ。以前も紹介したが、社会人の大学院留学に関するWillyさんの記事は秀逸だ。機会費用としての逸失所得・日本に帰った場合のリスク・家族の問題・キャリア上のリスクまで細かく書かれている。結果として留学に肯定的な意見を示されているが、それは読者個人がここの状況に応じて決められるようになっている。

(注2)このブログだってそうだ。なるべくきちんとした根拠を用意し、批判するだけでなく相手を説得したいと思うがそれでも反感を覚える人は多いだろう。

(注3)実際、海外で「成功」している人のかなりの部分が日本とのつながりのある業界で働いており、日本人であることが一種の専門技能となっている。それ自体は全然構わないがそこを無視して日本はもうだめだから海外へいけと説法するとなれば違和感があるだろう。

結び:そもそも日本社会に向かって言うこと?

では、海外移住が個人へのアドバイスとして適切だったとして、それが社会に向けて誇らしげに語るようなことなのだろうか自分の生活のために海外に行くというのは全く正当な理由だ。だからこそ海外ニートさんの記事には説得力がある。日本でまともな生活が送れないから海外にいくのを非難する権利は誰にもない。しかし、どこにいてもやってけそうな人間が、こっちほうが人生明るいよ、みんな(?)で逃げようでは支持は集まらない。繰り返しになるが、情報は受け手が誰なのかを考えて発信する必要がある。

農村から都会に出てきた人が上京を勧めるのと同じだ。迷っている友達にアドバイスをするのはいいが、家族関係や仕事でそれができない人まで含めてこの村は終わってるから早く出て行こうなんていってどうしようというのだろう。

私はというと、日本だけが絶望だとも改善できないとも思っていない。それなりの生活をしたいだけならどこにいって働いてもいいだろうけど、もっと面白いことができたらいいと思う。

追記

毒之助さんのブログにもこ話題についてのエントリーがあります:「それは日本で出来るのか、そこの15歳」。コメント欄でのapさんの次の発言が印象的でした:

結局日本は大変住みよい良い国ということなんだなと、再確認いたしました。
私の回りの日本人でない人は、ちっとも本国に帰りたくなさそうです。

Willyさんのエントリーも切り口が面白いです:「安易に目標を決めるな」。

著者の言う海外というのはユートピアの比喩なのだ。

部分は大変的を得ていると思います。

日本と海外との二項対立自体がおかしいというご指摘も各所でありましたがその通りだと思います。どんな考えにしろあまり感情的にならずに議論できるといいと思います。

さらにbobbyさんからご自身の経験を交え、香港で働くためのアドバイスがなされています:「海外脱出を敗者復活戦として考えてみる」。非常に具体的な内容で実際に海外へ行ってみようという人には参考になると思います。

文中でも挙げた海外ニートさんからもリンク頂きました:「海外脱出という光は負け組を救う」。

黙ってクソ労働環境を受け入れならない昔の俺のような社会不適合者がこれらのエントリーを目にして、「海外脱出」という可能性に生きる希望を見出すかもしれないから。

海外にいくということが選択肢としてすら想定されていない人がいれば、目に触れるという点で価値があるというのはそうでしょう。

俺的には「海外脱出」というテーマが多くの人の目に触れただけでも有意義だったと思う。

ただ、それに対して海外ニートさんブログには説得力があり、他のブログには反感が多く集まるというのがどうしてかというのが私の関心事でした。

拷問の方がマシ

追記:数字の解釈についてデータ・経験に基づくコメントをいただきました。ご覧ください。

エコノミストの考え方が象徴的なポストがあったのでご紹介。ついでにアメリカの少年拘置所(Youth detention center)の実態も垣間見える。

Overcoming Bias : Torture Kids Instead

一行でリンク先の提案を纏めるなら、非行少年を今の拘置所に入れるぐらいなら拷問したほうがいい、ということだ。エコノミストはこういう一見過激な結論を述べることが多いが、批判する前に待ってほしい。大抵の場合、本人も本当にそれが何らかの絶対的基準に照らして望ましいと信じているわけではないのだ。むしろ、冷静に考えてみたらこういう結論になるのでそれを仕方なく受け入れているというのが正しい。ではこの場合の理屈はどうなっているのか。

The US state is a horrible parent; 12% of its “detained” kids are sexually abused each year, versus 4% of adult prisoners.

アメリカの少年院の実状が明らかにされている。毎年、収容された少年の12%(大人は4%)が性的虐待を受けてそうだ(BJSのソース)。多くの収容所ではその割合が1/3にものぼる。これが現状だ。

But, honestly, torture and execution look pretty good to me when compared with our actual prisons; … Branding or stockades seems less cruel than rape in pretty much any book.

ここに筆者の価値判断として、かなりの確率でレイプされるぐらいなら、焼き印や拘束台(注)に繋がれる方がマシではないかとされている。この価値判断はそれなりに妥当だろう。上の事実とこの判断を認めるなら、今の拘置所よりも拷問のほうがマシだろう、という結論を受け入れざるをえなくなる。それは拷問を肯定することではない。

Compared to prison, punishments like torture, exile, and execution are not only much cheaper, but they can also be monitored more easily, letting citizens better see just how much punishment is actually being imposed.

さらに、拷問は収容に比べて費用がかからず、適切な執行がなされているかをモニターするのも容易である。後者は、収容所・刑務所の問題が管理する人間をうまく管理する方法がないというところにあることを考えれば重要な論点だ。

この結論を受け入れたとして拷問を導入する必要はない。現状の刑務所を改善し、拷問の方がマシだという状況を変えればよい。してはならないのは、結論を批判し、現状に目を背けることだ。例えこの事例が日本に当てはまらずとも、どんな問題についてもまず現状を理解するのが必要なことは変わらない。

(注)Stockade。定訳不明。晒し台(Pillory)の晒さないバージョンのこと。

追記

どうしても理解できない方がいらっしゃるのでまとめると、[latex]A=[/latex]現状の刑務所、[latex]B=[/latex]体罰の方がまし、として[latex]A\Rightarrow B[/latex]だと述べています。これは[latex]B[/latex]を意味しません。なぜなら[latex]A[/latex]が真でなければ[latex]A\Rightarrow B[/latex]でも[latex]B[/latex]は真になりません。

「嫌消費」なわけない

他のネタを使おうかと思ったが、Twitterで出てきて気になったので:

「嫌消費」世代(2010年)-経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち

「クルマ買うなんてバカじゃないの?」。こんな話を東京の20代の人達と話しているとよく耳にする。車がなくては生活ができない地方でも「現金で買える車しか買わない」と言う。

今の東京の若者が車を欲しがらないなんて誰でも分かることだ。あんなに公共交通機関が発達しているのだから、駐車スペースもなく税金もかかる車を買わないのは極めて合理的だ。(そもそも平均的な若者が買うことはない高級車を除けば)車のステータス効果はもうない。こんなものを取り上げて若者の消費欲が下がっているなんていうのは、若者を何も知らないといっているのと同じだ。

彼らは、消費をしない訳ではないが、他世代に比べて、収入に見合った消費をしない心理的な態度を持っている。このような傾向を「嫌消費(けんしょうひ)」と呼んでいる。

一つ単語が抜けている。「現在」収入だ。そして、今の収入を使いすぎない合理的な理由はいくらでもある。将来の収入が心配なのがその一つだ。今消費しないのは消費が嫌いだからではない。将来消費したいからだ

もし本当に将来に渡っても消費する気がないなら、頑張って働く必要はない

20代の彼らは、非正規雇用が多く、低収入層が多いからだと思われがちだが、実際は、他世代に比べて、男性の正規雇用率は65%、年収も300万円以上が52%と見劣りする条件にない。

しかし彼らは他の世代と見劣りしないほど働いて稼いでいるわけで、消費する気自体はある。そもそも、本当に消費欲自体がなくなっているなら収入に対する欲求も減るはずだが、収入に不満を持つ若者の数は増えている

ものが売れない理由は様々だ。バブル崩壊以後の構造的な要因としてあげられるのは、将来が不安、収入の見通しがよくない、低収入層が増えている、の3つである。

それを、これでほぼ説明できているのに、

彼らは、思春期に、バブル後の混乱、就職氷河期、小泉構造改革を世代体験として持ち、共通の世代意識を共有している。「自分の夢や理想を高望みして周り と衝突するより、空気を読んで皆に合わせた方がいい」、と言う意識だ。この意識の背後には、児童期のイジメ体験、勤労観の混乱や就職氷河期体験によって植 え付けられた「劣等感」があるようだ。

世代を勝手にまとめて一人の人間に仕立て上げた挙句、心理分析などする必要はない。そんなことよりも哲学、歴史、経済学等の人文社会諸科学やゲーム理論に基礎づけられた新しいマーケティングに期待したいところだ。

大学院に行く間違った理由

株主云々の話が続いて飽き飽きという人も多いと思うので教育ネタを。

アメリカの大学教授が書いた、人文系(Humanities)の大学院にいくべきではないというエッセイのご紹介。大抵の分野は人文系よりマシだが、キャリアをよく考えて決断すべきというのは変わらない。博士号取得者の就職難が話題になった日本にも当てはまる。

Graduate School in the Humanities: Just Don’t Go – Advice – The Chronicle of Higher Education

I have found that most prospective graduate students have given little thought to what will happen to them after they complete their doctorates. They assume that everyone finds a decent position somewhere, even if it’s “only” at a community college (expressed with a shudder).

大学院の進学者が学位を取得した後にどうするかあまり考えてもいないのはアメリカでも変わらない。どこかににそれなりのポジションを得られるとぼんやりと思っているだけだという。

よくある進学理由が挙げられているが、これはほとんどの大学院生に当てはまる(残りの三つは本文参照):

They are excited by some subject and believe they have a deep, sustainable interest in it.

一つの興味があるからといってその興味が持続すると信じている。これは経験の少なさによるものだろう。自分があることに(だけ)興味があると信じるがゆえに他の事柄に目を向けず、いつまで立ってもその可能性にすら気付かない。

They received high grades and a lot of praise from their professors, and they are not finding similar encouragement outside of an academic environment. They want to return to a context in which they feel validated.

学校でいい点数をとり教授に褒められるが、他の場所ではうまくいかないから進学する。人間、自分が認められる場所が心地よいというのはその通りだけど、それでは成長しないという面もある。

適材適所と言えば聞こえはいいが、頑張れば伸びる部分もそれを言い訳にするようになる。ちょっと人と喋るのに気後れする人が、いつのまにかそれを誇らしげに語る。

They are emerging from 16 years of institutional living: a clear, step-by-step process of advancement toward a goal, with measured outcomes, constant reinforcement and support, and clearly defined hierarchies. The world outside school seems so unstructured, ambiguous, difficult to navigate, and frightening.

勉強がそれなりに得意な人にとって学校ほど評価のはっきりしたシステムはない。人生の大半を学校制度の中で過ごすと、評価基準が複雑な現実世界に怖気づく。本当は大学にいても成績では決まらない要素はいくらでもあるのにそれに目を瞑っているのだ。

人文系の大学院に進学してもいい理由は次の四つだという:

  • 既にお金を持っていて、生活費を稼がなくてもよい
  • コネがあり仕事を見つけられる
  • パートナーが必要な収入を稼げる
  • 現在の職にプラスで、職場が経費を負担してくれる

ではこれらの条件を満たしていない場合はどうか。

Those are the only people who can safely undertake doctoral education in the humanities. Everyone else who does so is taking an enormous personal risk, the full consequences of which they cannot assess because they do not understand how the academic-labor system works and will not listen to people who try to tell them.

非常に大きなリスクを取っているというのが答えだ。もちろんリスクを取ること自体は悪いことではない。Willyさんの一連のポストが示すように、リスクを理解した上で決断する必要があるというだけだ。大学院に行った人がで何割の人がどこに就職しいくら稼ぐのか、そして大学にいかなかった人がどのくらい稼ぐのかある程度具体的な数字を挙げられないのであればアウトだ

それは人文系だけだというのもまた理由にならない。こういった情報を調べることのコストは、その結末に比べて極めて小さいので、それを調べないのは現実に目を背けているだけだ

News: No Entry – Inside Higher Ed

Unlike history, economics is a field where substantial numbers of non-academic jobs are regularly taken by new Ph.D.’s — and that career path is not considered an oddity. Still, however, about two-thirds of job notices in the fields are from academic institutions.

例えば経済学は民間からの需要もあり、就職に強い分野だとされている。しかし、それでも民間の需要は三分の一に過ぎない。

Among four-year colleges, the decline in positions was more pronounced at institutions without doctoral programs (down 31 percent) than those with doctoral institutions (down 8 percent).

残りの三分の二を占めるアカデミックなポジションの数は大幅減となった昨年からさらに大きく落ち込んでいる。不況でわざと就職を遅らせた学生も多く、厳しい就職事情になるのは間違いない。

個人的な大学院留学に関する目安は先に挙げられた四つの条件がないとすれば

  • アカデミックでない就職先が確立している専攻である**
  • 基本的に金銭的な持ち出しがない*
  • それなりに有名な大学に入れる**
  • (見切りを含め)適切にリスクを管理できる***

あたりだと思う(*は重要性の目安)。逆に言えばこれらの条件が揃っているのであれば、やってみるのは悪くない。

経営者性善説はおかしい

Twitter上で藤末議員から一連の議論(株主至上主義って?「株式」会社は株主のもの)ついての反応があった:

会社は株主のものか?昔書いた記事です http://www.sbbit.jp/article/11703/

昨年九月にご自身が書かれた記事が紹介されている。Twitterというメディア上で持論を紹介することは評価したいが、その内容には多くの人が驚いた。議員の考え方が分かるという意味では非常に貴重な記事であり、その考え方とは「経営者性善説」と呼ぶに相応しい内容だ。特にM&Aに関する部分にそれが表れている。

マネジメント≫IT戦略/ソリューション-【民主党藤末氏コラム】「和をもって尊しとする会社へ!」:ソフトバンク ビジネス+IT

経営者のマインドが変わった大きな理由として、「会社制度の変更」が挙げられます。例えば、M&A(企業の合併・買収)の規制が変わり、会社がいつ買収されるかわからなくなると経営者は株価を気にせざるを得なくなります。

買収が悪者扱いされている。しかし買収されたくないなら一番簡単な方法は業績を上げることだ。業績が高ければ既存株主は安い値段では株を売らなくなり、買収は成立しなくなる。買収されたとしても経営者を変えることはない。

基本的に株価は将来収益見通しを示すものであり、買収されるということは買収側はより大きな収益をあげられると考えているということだ。買収に多くの余計な費用が発生することを考えれば、当該企業をより効率的に運営できる自信がなければ買収などするはずはない。

本来、不適任な経営者は株主により交代させられるべきだが、利害関係も能力も様々な株主が総会で一致して経営者を取り替えることは非常に稀だ。買収は既存株主による統治不全を是正する最後の砦であり、買収のせいでマインドが変わるような経営者はそもそもおかしいのだ買収の可能性により経営者が適切に行動するようになれば企業の、さらには社会の、効率が増す投資家もより積極的に投資できるようになり、企業は有利な条件で資金を調達できる

一定の条件のもとでは望ましくない買収が起きることもあり、それにどう対処するかは政策上重要だ。しかし出発点としてはほとんどの買収がプラスなはずなのだ望ましくない買収を防ぐと同時に、望ましい買収が起きやすいような市場整備も必要だ。一面的な議論は誰のためにもならない。

敵対的買収を止める(イギリスのようにすべての株式義務をつける。敵対的買収で部分的に株式を所有し、経営をコントロールすることを禁止する)
従業員のある程度の同意がなければ買収を認めない

このことを考えれば、上のような提案がおかしなことが分かる。(敵対的)買収を極めて難しくするということは、今いる経営者・社員が努力するインセンティブを減らし、投資家にとっての企業の価値を下げ資本コストを上げる。これは社会のためにならない。

アングロサクソン的な「優秀な人が他の人をひっぱって行く」のではなく、やはりわが国は「和をもって尊しとなす」ではないでしょうか?

「和をもって尊しなす」はいいが、現実には和の中の人間しか見ず、前に進まない社会になっていないだろうか。会社法は「日本はこういう国だ」みたいな感覚で決めるべきものではない法律が人々に与える影響をよく分析して慎重に作っていく必要がある

P.S. 自社株に関する下りや「会社は公器」など不思議な箇所は他にもある。