海外から見た就活反対運動

就活に反対する行進を取り上げた英文の記事: Japanese Students Abandon Studies for Job-Hunting Gantlet – International – The Chronicle of Higher Education

By graduation this spring, many students will have spent 18 months and hundreds of hours preparing for and attending job interviews and recruitment fairs, all but abandoning study for months on end.

卒業前の18ヶ月間、数百時間かけて面接準備なんかをする日本の就活が紹介されている。長い期間にわたって就職の準備をするのはこちらでも変わらないが、その形態はインターンをこなし経験をつけるというもので、面接の準備に比べると生産的に思える。

“I had a student who got two—one from a local bank and another from a hotel,” he says. “She really wanted the hotel so accepted that. But the bank said, ‘You can’t do that’ and interrogated her for six hours, saying ‘You’re disloyal’ and so on. Finally the student’s father came and called the police.”

銀行とホテルから内定をもらった学生がホテルへの就職を決めたところ、銀行に不誠実だと尋問され警察沙汰になったという例が挙げられている。おそらく普通のアメリカ人はこれを読んでも何を言っているのか分からないだろう。親が出てくるのも不可解だろうが、それ以前にこんなことが起きたら確実に訴訟沙汰だ。

Japan is not unique in effectively forcing college students to look for jobs before graduation, but Mr. Slater says the system does demand that they start early. “They must begin figuring out what they want to do by second year,” he says, “and it becomes really heavy-duty in third.”

就職のために学生が在学中から活動するのは珍しいことではないが、日本ではそれが非常に長期に渡るという。将来何をしたいか二年目には考え始めなければならないのは大変と指摘されている。二年目に仕事のことはなど全く頭になかった自分はその時点でレールから外れていたと思うと感慨深い。 就活の問題については各所で取り上げられていることと思うので、採用どころか就活自体したことのない私が意見することはない。しかし、長期の就活を解消するには大学の学生評価の機能を上げるしかないだろう。成績が評価に訳に立たないのであれば、企業が欲しい学生を先に(面接のような方法で)確保しようとするインセンティブはなくならない。 ただ、就活という制度が持つメリットも見過ごしてはいけないだろう。日本の就職活動が苛烈なのは事実だが、企業が新卒を採用する制度が確立しているのは、自分で見つけなくてもいいという点で学生にとってはメリットでもあ る。新卒至上主義は就活へのプレッシャーではあるが、第一には新卒の学生に有利なものだ。大学が大衆化した現在、卒業生がここまで就職先を確定させている 国も少ないだろう。アメリカでインターンが一般化していることの背景には、経験のない学生が仕事をもらえないので、経験を積むことができないというサイクルがある

“It’s ridiculous. We don’t have time to mature as people or as students,” says Shingo Hori, a philosophy major at Waseda. “We’re forced to spend all our time looking for work.”

それにしても、 この一節は日本の外の人が読んだら笑ってしまうかもしれない。Philosophy Majorが就職が大変なんて言っても自業自得としか思われないし、大学卒業前に自分がmatureする時間がないなんて堂々と言えたことではないだろう(二十歳前後の期間が重要な点は同意するが)。

なくなるストライキ

先日、次のような言説を紹介した:

テレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。

しかし、大不況になってもストライキが起きないのは何も日本だけではない。ちょうどよくアメリカでのストライキの話があった。1,000人以上の従業員が参加したストライキの数を表したグラフだ:

Strikes and Lockouts at Record Low – Economix Blog – NYTimes.com

アメリカでもストライキの数は1980年前後に激減している。

The stoppages last year involved 13,000 workers and accounted for 124,000 lost workdays, both of which were also record lows.

昨年からの不況でも、その減少は続き過去最低となっている。雇用が保障されているのでなければ、不況時にストライキを起こすインセンティブは小さい。転職するのは難しいし、ストライキで業績が悪化すれば元も子もない。

ストライキが減っている理由としては、労働組合の減少および公的セクターへの移動や経済のサービス化が挙げられている。前者はアメリカでは顕著だ。後者についてはストライキの企業へのダメージが大きくなったということだろう。従業員にとってもストライキを実際に実行して会社に損害を与えるのは目的ではないのでストライキが減る原因となる。雇用の流動化も大きな原因だろう。企業にとっては働かない社員を解雇するのが簡単だし、従業員にとっても不満があれば組合活動をするのではなく転職すればよい(そしてその方が社会的にも無駄がない)。どちらも難しい政府部門に組合活動の中心が移行したのも自然な流れだろう。

アメリカの若者が「自分が悪い」と考え困っているという話は聞かないし、むしろ過剰なself-entitlementが問題となっている。ストライキの減少と若者の風潮を結びつけるのは無理がある。

テレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。テレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。テレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。テレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。

余剰資金は成長産業へ

最近、企業がもっと従業員に利益を分配しろという意見が多い。しかし、重要なのはどのような資源配分が最も効率的かだ。

トヨタもキヤノンも内部留保を使うが雇用には使えない? -10年で2倍増の内部留保こそ“埋蔵金”

企業の内部留保が2倍以上になった1998年から2008年の10年間で、労働者の非正規化が進み、ワーキングプアが3人に1人に激増し、労働者の給与は35万円も減ったということです。

内部留保が倍増する中で労働者の取り分が減ったということから次のような疑問が提示されている。

普通に考えて、いくらなんでも内部留保が10年前の2倍以上というのは溜め込み過ぎでしょう。少しは労働者や社会に還元してもいいのではないでしょうか。

「普通に考えて」と言えば、考えなくてもいいわけではない。企業は従業員に給与を払っているし、利益を上げる過程で社会に便益をもたらしている。「少しは」が何を意味しているのかよく分からない。たくさんあるんだから少しよこせという話ではない。

日本経団連は、「内部留保は生産設備などに使われており、現金に換えることはほとんど不可能」などといって、雇用にも賃上げにも使えないと主張し続けています。

当たり前だが内部留保と現金は違う。内部留保は会計上の利益が配当されずに留保されたものだ。企業会計は現金主義ではないので、利益の発生と流動性資産の発生とは一致しない(そもそもそれを分離するのが目的だ)。当然、内部留保は支払原資の存在を意味しない。もちろん、不存在も意味しないがそれなら保有している流動性の高い資産の存在を問題にすべきで、内部留保を槍玉に上げるのは焦点がずれている。まあこの辺は会計畑の人に任せたい。

しかし、素朴に考えて、10年前の2倍以上にもなっている内部留保を使えないというのはおかしな話です。

「普通に考えて」を「素朴に考えて」に変えて同じことを提案してもだめだ

トヨタは、2009年3月に、13兆9,322億円あった内部留保を取り崩して、株主配当3,135億円を払っています。

キヤノンは、2009年12月に、3兆9,436億円あった内部留保を42億円取り崩して、株主配当の一部に使っています。

確かに膨大な内部留保から配当が行われている。この数字を見て私が素朴に考えると、もっと株主配当をすべきだと感じる

内部留保は、株主配当には使えるが、雇用・賃上げには使えないという決まりでもあるのでしょうか?

企業が人件費を増やせば利益が減るので内部留保は減っていくだろう。それを内部留保を「使う」というのであればそれは可能だ。

本題に移ろう。企業が実際に多額の資金を溜め込んでいるとしよう。確かにそれは問題だ。事業を営むことが目的の営利企業が必要以上に資産を持っているのは、資源が有効に活用されていないことを意味するからだ。例えば経営者が個人的に企業を大きくしたいだけとか、自分を含めた従業員が不景気でも大丈夫なようにお金を貯め込むとかいろんな理由が考えられる。株主による経営者の監視は極めて不完全なので、こういったことが生じる。

では日本企業が不必要に資金を保有しているとしてこれをどう使うのが望ましいだろうか。もし企業の雇用・賃上げに使えば、不景気に関わらず利益を出している好調な企業にいる社員やそこで運良く採用された人は喜ぶだろう。しかし、それが社会全体からみて効率的な活用方法だとは思えない。労働者を助けるというなら、失業者や不調な企業の従業員が先だろう

必要なことは逆に内部留保を株主配当で資本市場に戻すことだ有効利用のできていない資金を生産性が高い、成長の見込みのある企業へと移すことで経済全体のパイを大きくすることができる。それにより新しい産業で雇用が生まれ、労働者にとってもプラスだ。資金の有効な使い道が分からない企業に人材を集めてもしょうがない

進む非正社員化

非正社員化はアメリカでも進んでいるというストーリー:

You’re Hired. At Least for Now. – Kiplinger.com

What’s different about this recovery is that companies, many of which cut staffs to the quick, seem committed to staying flexible in the long term by using contingent workers to manage everything from special projects to whole departments.

テンポラリな職が増えるのは雇用回復時には自然なことだが、今回はその流れが定着しているという。企業は正社員を雇うのではなく、何でも契約社員(contingent worker)で対応し、なるべく雇用に柔軟性を持たせようとしている。

Companies now spend $425 billion annually on contingent labor, which accounts for about 11% of the workforce, or 14 million people.

その規模は年間4,250億ドルで、労働力の11%・1,400万人に相当するというのだから大したものだ。そもそもアメリカは「正社員」でも数年で転職するのがごく普通なので、労働市場の流動性は日本の比ではない

Littler predicts that half of the new workers added in 2010 will be contingent

2010に加わる労働者の半分は派遣形態になるという予測も取り上げられている。

It’s getting easier to maintain an upward career trajectory as a contingent worker. Professional connections are easy to make and maintain via electronic networks, such as Facebook, LinkedIn and Twitter, and via plain old e-mail.

しかし、それに対する論評は批判的なものではない。ネットを通じたネットワーキングはどんどん簡単になっている。そのような状況で転職が増え、派遣のような雇用形態が広がるのは自然なことだ

success depends on your skills and the demand for them instead of on the fortunes of a single company or even an entire industry. […] “It’s a different kind of job security.”

このような社会では個人の成功はたまたま勤めている会社ではなく、本人のスキルとそれに対する需要で決まる。企業が従業員の雇用を保証する時代が終わることは、企業の命運に個人が巻き込まれないことでもある。一つの企業で働き続けることが最も大きなリスクになる時代に変わりつつあるのだろう。

日本では、派遣の規制や正社員化促進などこのような流れに真っ向から対立する政策が推進されている。しかし、この流れが技術的進歩に伴なうものであればそれを押し止めるのは難しい他国の流動的な労働市場がさらに柔軟になっていくなかで、取り残されてしまう危険がある

「自分が悪い」の何が悪いのか

どうも最近首を傾げるような記事が増えていて残念なアゴラから:

アゴラ : 自分が悪い 助けてといわない若者 – 原淳二郎(ジャーナリスト)

自分が悪いと考えてしまう若者が増えているという問題(?)が取り上げられている。20代後半の私も「若者」に含まれるだろう(しかしいつから「三十代の若者」などという概念が登場したのだろう)。

現在の不遇な環境、不幸は社会の責任ではないし、まして親の責任でもない。だからいくら困窮しても助けてといえないのだそうだ。30代の若者の現象らしい のだが、日ごろ学生を見ていて同じように感じることがある。

実際、問題に直面する原因の最も大きなものは自分の行動だろう。また、他人のせいにしたところで問題が解決するわけではないので、そういう考え方を持たない方が本人にとってもいいはずだ。

心優しいのか、誰が悪い、社会が悪い、教師が悪いなどといわない。毎日の生活に被害者意識が薄 い。

そしてそれは「心が優しい」からではない。単に、頑張ればもっといい状況にできたという事実認識と、被害者意識を持つより自分のせいだと考えた方が生産的だと知っているだけだろう。このような認識の何が問題なのかよくわからない。

毎日の生活に被害者意識が薄い。私の子どものころは、毎日食うものに困り、親からは家業にこき使われ、何もいいことがなかった。なぜこんなに自分は不幸な のか、と思うと同時に、自分が悪いから不幸なわけではない、周りが悪いのだと考えた。事実社会はまだ貧しかった。家業は二度も倒産した。社会への関心政治 への関心はそのころから生まれた。

確かに、貧しい社会でそういう育ちかたをすれば、社会や親が悪いと考えるのは分かる。しかし、現代の社会はそこまで貧しくないし、そういう環境で育つ人は昔に比べて相当減ったはずだ。

だからテレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。

現代社会において、多くの人の成功は自分の努力にかかっている。他の要因もあるが、自分が一番重要な要素だと多くの人が認識しているだけだろう。そしてその認識は基本的に正しい。

もうデモやストだけが社会的表現手段だった時代ではない。ネットなどでいくらでも表現できる。

まさにその通りで、不況でもストライキやデモのような非生産的な行動はしない。そんなことをしなくても「ネットでぶつぶつ不平をつぶやく」だけで、不平を世間に知らせることができるのだから当たり前だろう。不平が社会に流れていくチャンネルが変わったのだ。

日本には彼らが貧しいのは自己責任だという風潮がある。いつからこんな風潮が広まったのかは知らないが、不当に弱者に追いやられた人々が不満の声をあげられない社会をわれわれはいつの間にか作り上げてしまった。

これは風潮というよりも、時代が変わっただけのことだ。個人の努力ではどうにでもならない貧困がはびこる社会では貧しいことは主に社会の問題だが、努力すれば成功できる社会においては貧しいことが一義的には個人の問題となる。日本は大方前者から後者へと移行した。そしてそれは喜ぶべきことだろう。ご自身で指摘されているように、「不満の声」はネットを利用して簡単にあげられる。

もちろん、このことはより個人が努力によって成功できるように仕組みを改善していくことを妨げるものでは全くない。しかし何でもかんでも親のせい、社会のせいと言っている社会には未来がない。勉強ができないのは親や環境のせいだと文句をいっていた子供が成功しているだろうか。

追記:困っている人がそのことを社会に伝えるのは重要だが、本人が自分の問題だと認識していなければ援助しても効果がないとも言えるか。

P.S.

母親から毎月1500万円も贈られながら「知らなかった」人には、貧しくて声もあげられない人たちの心情などとても想像できないことだろう。

結局この一文を言いたかっただけのような気もする。しかしそういう政治家を選んだのは有権者であることも事実だ。