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平沼発言の問題

よくあるが見過ごせない失言なので軽く取り上げておく。

<平沼赳夫氏>蓮舫議員の仕分け批判「元々日本人じゃない」(毎日新聞) – Yahoo!ニュース

平沼氏はあいさつの中で、次世代スーパーコンピューター開発費の仕分けで蓮舫議員が「世界一になる理由があるのか。2位では駄目なのか」と質問したことは「政治家として不謹慎だ」とし、「言いたくないが、言った本人は元々日本人じゃない」と発言。「キャンペーンガールだった女性が帰化して日本の国会議員になって、事業仕分けでそんなことを言っている。そんな政治でいいのか」と続けた。

まず、次世代スーパーコンピュータ開発で世界一になる必要があるかは実質的内容で決めるべきことだ。不謹慎だというのは議論でも何でもない。全ての分野で一位を目指すのは非効率な以上、どこに注力するかをきちんと議論するのが政治家の仕事だ

後半は救いようがない。「言いたくないが」と断れば差別発言が許されるわけではない。むしろ「言いたくないが」などと述べる人はみなその次のセリフをいいたくてしょうがないように見えるのは何故だろう

キャンペーンガールだった帰化女性を選んだのは国民であり、それを可能にしているのは日本の法律だ。それをどうこう言うのは頂けない。私はむしろキャンペーンガールだった女性が帰化して国会議員になったことは、蓮舫議員の行動に対する評価は別にして、それ自体として凄いことだと思う。

平沼氏はパーティー終了後の取材に対し、「差別と取ってもらうと困る。日本の科学技術立国に対し、テレビ受けするセンセーショナルな政治は駄目だということ。彼女は日本国籍を取っており人種差別ではない」と説明した。

元々日本人でないというのは変えようがないこれを論うのが差別でなくて何なのか。口が滑ったのなら訂正なり謝罪なりすればいいだけの話であって、「テレビ受けするセンセーショナルな政治」の問題にすり替える必要はない。

どこかで同じようなことがあったと思えば、以前西和彦氏が同趣旨の発言をしていた。その時のエントリーはこちらだ:「スーパーコンピューターが必要か」。西氏は次のように述べている。

1967年生まれの蓮舫議員は1995年に台湾からの帰化日本人である。1997年に双子の子供を生んだときには、日本の国籍になったにも拘わらず、中国 風の名前をお付けになっている。家庭的には感覚は中国のひとなのであろう。私はそうは思わないけど、日本のスーパーコンピューターをつぶすために、蓮舫議 員のバックは誰で、その生まれた国の意向があるのかなあと思う人もいる。もし、そうだったらビックリだけど・・・。

こちらもまた「私はそうは思わないけど」と断った上で言いたい放題だ。その時に書いたことを引き写しておく。

「私はそうは思わないけど」などという留保つければ、(どんな背景があるかはともかく)正式に日本国籍を取得して、民主選挙で選ばれた国会議員を憶測で非難することが正当化されるわけではない

帰化日本人が議員になることを許容しているのはこれもまた民主主義により正当化されている日本の法律だ。アメリカの外国系の帰化人との比較も行われているが、アメリカで帰化人が子供に自国風の名前をつけることを批判したら人種差別問題だ

このことは蓮舫議員の言動・政治を支持するかとは関係ないし、スーパーコンピュータ開発の是非とも関係ない。問題は、発言内容ではなく、発言した人間の出自・立場で発言を判断し・貶めようとすることだ。西氏の文章について書いたことがまるっきり当てはまる。

議論において、発言内容それ自体(「スパコンで世界一になる意味はあるのか?」)に反論するのではなく、発言者(蓮舫参議院議員)の物言い・出自を批判するというのは極めて不健全なことだ

海外脱出アドバイスのダメなところ

何か書いている間に全面的な批判になってしまいましたが、個人を批判する意図はありません。

追記:何やら一部に誤解があるようですが、このポストの主旨はどうして海外脱出を勧める記事が反感を買うかです(これは「アドバイス」としては致命的です)。主旨を読み間違えられないようにお願いします。ちなみに私の留学の是非についての個人的見解は「大学院に行く間違った理由」の最後にあります。構成は:

  • 前提がおかしいので受け入れられない人がいる
  • 前提はいいとしてオーディエンスの設定がおかしいから多くの人が違和感
  • 逆にターゲット層にとっては役に立つ情報があまりない
  • まとめと感想

となっております。

近年もう日本は諦めて海外へ逃げようという記事をよく目にする。反応は真っ二つで「その通り、よく言った」という肯定派と「何言ってるの、じゃあ帰ってくんな」という否定派に分かれる。もうこの手の記事は飽き飽きかもしれないが、どうして内容自体がおかしいわけでもない記事に批判が集まるのか、論点整理をしたい。主に見てみたいのはつい最近の酒井英禎さんの記事と以前話題になった渡辺千賀さんの記事だ。

15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ – Rails で行こう!

On Off and Beyond: 海外で勉強して働こう

どれも基本的な構成は変わらない。

  1. 日本の{社会|労働市場|教育制度|政治|文化|その他}はもう絶望的。
  2. 日本を変えるのは無理。
  3. 海外に逃げたほうがいい。

ではどうしてこの話題がどうして多くの(特にネガティブな)反響を引き起こすのか。

前提に説得力がない

* ベストケース:一世を風靡した時代の力は面影もなく、国内経済に活力はないが、飯うま・割と多くの人がそれなりの生活を送れ、海外からの観光客は喜んで来る
* ベースケース:貧富の差は激しく、一部の著しい金持ちと、未来に希望を持てない多くの貧困層に分離、金持ちは誘拐を恐れて暮らす
* ワーストケース:閉塞感と絶望と貧困に苛まされる層が増加、右傾化・極端で独りよがりな国粋主義の台頭を促す。

まず、自信をもって海外移住を勧めるわりには1の前提の吟味はお粗末なことが多い大抵自分はある外国に住んでいるが日本はここがダメだみたいな話になるこれでは主張自体が正しくとも説得力がない。上の引用は渡辺さんの記事からだが、限られた選択肢を挙げて選ばせるというのはまあよくある手法で、元から意見がある程度一致しているか根気よく説得するのでない限り相手を納得させられない。

日本の大学を卒業しても、専門知識はろくに身につかない。大学3年生のときから、「就活」という世にもくだらない非生産的な活動にエネルギーを注がなければならないからだ。

こちらは酒井さんの記事だ。少なくともアメリカの大学より日本の大学のほうが専門教育は(過剰なまでに)盛んだ。ご本人の経歴をみるに、留学はカナダの大学に三カ月ほど在籍されただけのようで、そこから日本の大学教育を批判するのは無理がある(東京大学経済学部を専門知識を身につけずに卒業できること自体は否定しないが、それを一般化するのは乱暴過ぎる)。

日本社会はこの20年間、驚くほど変化しなかった。この巨大な惰性が向こう数年で大きく変わるとは思えない。日本がよい方向に変わるだろう、という可能性 に賭けるのは危険すぎる。

2の日本を変えるのが無理という部分もあまりよく考えられたものではない。これは酒井さんの記事だが、過去変化しなかったから将来も無理だというのは自分の投資判断の根拠としては十分だが、相手を説得するには不足だろう。ましてや、本人が変えようとして変えられなかったというのでもなければ共感は期待できない

もちろん個人の将来予測としてはそれなりに当たっていると思うし、親戚の子供にアドバイスするならこれでいいだろう。しかし、これをあたかも当然の事実として、さあ海外いくべき、じゃあこうするべきというのではなかなか受け入れられない。(話したことはないけど)海外留学のエージェンシー会社の宣伝文句みたいだ。

あと、「日本の政治を根本から変えて日本を良くする」という自負のある人も是非日本でトライして欲しい。

自分自身の人生を守るために、逃げるべきだ。そして、それが同時に日本を変えていくことにもつながる。

なんて付け加えられても言い訳にしか聞こえない。

一体誰に向かってアドバイス(?)してるの

では個人のアドバイスとしては問題ないとしてそれがなぜ反感を呼ぶかそれは読者の想定が甘すぎるからだ。例えば酒井さんの記事の題名は「15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ」だが読者の何パーセントが15歳(前後)なのだろう。渡辺さんの記事は対象を限定しているわけではないけど、来る意味がある程度の(アメリカの)大学(注1)には入れるような人に向けて書かれているのは明らかだろう。

アドバイスというのは相手がいて初めて成り立つ。「三流大学に入ってもしょうがない、東大にいけ!」という意見が正しかったとして、それを何の変哲もない普通の高校でいっても誰の得にもならない。その意見が役に立つかもしれない相手はほとんどいないし、残りの人間にとってはうざいだけだ。ましてや同じことをその三流大学や既に大学を出た人ばかりの一般企業でやってもしょうがない。「何いってんだ?こいつ?」となるのは避けられない。

ブログでアドバイスをするということは、当たり前だが、いろんな人が見るということだ。話題になれば、普段の読者以外も見にくる。そのときに少数の人々に向けたアドバイスは反感を買うだけだ。一握りの人にしか当てはまらないアドバイスをしたいなら、本を書いたり、セミナーを開いたりと相手が自然に限定されるメディアを使うべきだ。今時、宗教団体だって突然説法を始めはしない。読者にもっと意識的になる必要がある追記:何もブログで発言するのが悪いというのではなく、例えば対象を明示した上で書けば、書き手にとっても読み手にとってもプラスということ。

(注1)実際には(高い)授業料・生活費などを考えればアメリカ人だって迷うような大学が多いわけで、どこでも行った方がましとは、少なくとも私には言えない。

アドバイスとしても役に立たない

世間の反感を買ってもより多くのひとに伝えたいアドバイスもあるだろう(注2)。しかし、海外移住を勧める記事の多くはそのアドバイスの内容も杜撰であまり役に立たない

海外へ出よう。英語を学んで、世界の人々と交流し、日本の狭苦しい世界観から解放されよう。意志さえあれば、英語を学ぶのにそれほどカネはかからない。

酒井さんの記事の具体的なアドバイスはSkypeなどを利用して英語を勉強して海外にいくのとアジアの準英語圏への留学だ。しかし英語の勉強法なら他にもっとしっかりした記事が他にあるし、何よりも英語を勉強すれば海外でうまくやっていけるなんていうのは妄想だ(注3)。ビジネス英語は(比較的)簡単だが、それで許されるのはビジネスがあるからだ。専門技能のない外国人への視線なんて世界中どこにいっても厳しい。

海外でいきなり就職するのは大変だと思うので、まずは留学してそのまま居残る、というのが楽なわけです。

渡辺さんの記事でも具体的な提案となるととりあえず留学というものだ。しかし留学でうまくいくひともいるし、いかない人もいる。ある人にとって楽でも他の人には当てはまらないかもしれない。既に留学している人はそれなりの勝算があって来てるのだから、それを一般化することはできない。

これは読者の想定の話とも重複するが、海外に出ることがプラスになるひともいるしそうでない人もいる。自分の能力を前提にした単純なアドバイスなんて役に立たない。お二人とも東大を出ているが、生まれつきの能力があり最高レベルの教育を受けた人間なんてどこに放り込んだったそれなりにやっていける「自分ができるんだからあなたにもできるはず」という謙遜は成功者にありがちな強烈な自尊心の裏返しでしかない。できないと言っただけで、相手より下と暗に認めたことになるという仕組みだ。

本当に必要なのはデータ・経験に基づいた分析だ。以前も紹介したが、社会人の大学院留学に関するWillyさんの記事は秀逸だ。機会費用としての逸失所得・日本に帰った場合のリスク・家族の問題・キャリア上のリスクまで細かく書かれている。結果として留学に肯定的な意見を示されているが、それは読者個人がここの状況に応じて決められるようになっている。

(注2)このブログだってそうだ。なるべくきちんとした根拠を用意し、批判するだけでなく相手を説得したいと思うがそれでも反感を覚える人は多いだろう。

(注3)実際、海外で「成功」している人のかなりの部分が日本とのつながりのある業界で働いており、日本人であることが一種の専門技能となっている。それ自体は全然構わないがそこを無視して日本はもうだめだから海外へいけと説法するとなれば違和感があるだろう。

結び:そもそも日本社会に向かって言うこと?

では、海外移住が個人へのアドバイスとして適切だったとして、それが社会に向けて誇らしげに語るようなことなのだろうか自分の生活のために海外に行くというのは全く正当な理由だ。だからこそ海外ニートさんの記事には説得力がある。日本でまともな生活が送れないから海外にいくのを非難する権利は誰にもない。しかし、どこにいてもやってけそうな人間が、こっちほうが人生明るいよ、みんな(?)で逃げようでは支持は集まらない。繰り返しになるが、情報は受け手が誰なのかを考えて発信する必要がある。

農村から都会に出てきた人が上京を勧めるのと同じだ。迷っている友達にアドバイスをするのはいいが、家族関係や仕事でそれができない人まで含めてこの村は終わってるから早く出て行こうなんていってどうしようというのだろう。

私はというと、日本だけが絶望だとも改善できないとも思っていない。それなりの生活をしたいだけならどこにいって働いてもいいだろうけど、もっと面白いことができたらいいと思う。

追記

毒之助さんのブログにもこ話題についてのエントリーがあります:「それは日本で出来るのか、そこの15歳」。コメント欄でのapさんの次の発言が印象的でした:

結局日本は大変住みよい良い国ということなんだなと、再確認いたしました。
私の回りの日本人でない人は、ちっとも本国に帰りたくなさそうです。

Willyさんのエントリーも切り口が面白いです:「安易に目標を決めるな」。

著者の言う海外というのはユートピアの比喩なのだ。

部分は大変的を得ていると思います。

日本と海外との二項対立自体がおかしいというご指摘も各所でありましたがその通りだと思います。どんな考えにしろあまり感情的にならずに議論できるといいと思います。

さらにbobbyさんからご自身の経験を交え、香港で働くためのアドバイスがなされています:「海外脱出を敗者復活戦として考えてみる」。非常に具体的な内容で実際に海外へ行ってみようという人には参考になると思います。

文中でも挙げた海外ニートさんからもリンク頂きました:「海外脱出という光は負け組を救う」。

黙ってクソ労働環境を受け入れならない昔の俺のような社会不適合者がこれらのエントリーを目にして、「海外脱出」という可能性に生きる希望を見出すかもしれないから。

海外にいくということが選択肢としてすら想定されていない人がいれば、目に触れるという点で価値があるというのはそうでしょう。

俺的には「海外脱出」というテーマが多くの人の目に触れただけでも有意義だったと思う。

ただ、それに対して海外ニートさんブログには説得力があり、他のブログには反感が多く集まるというのがどうしてかというのが私の関心事でした。

「嫌消費」なわけない

他のネタを使おうかと思ったが、Twitterで出てきて気になったので:

「嫌消費」世代(2010年)-経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち

「クルマ買うなんてバカじゃないの?」。こんな話を東京の20代の人達と話しているとよく耳にする。車がなくては生活ができない地方でも「現金で買える車しか買わない」と言う。

今の東京の若者が車を欲しがらないなんて誰でも分かることだ。あんなに公共交通機関が発達しているのだから、駐車スペースもなく税金もかかる車を買わないのは極めて合理的だ。(そもそも平均的な若者が買うことはない高級車を除けば)車のステータス効果はもうない。こんなものを取り上げて若者の消費欲が下がっているなんていうのは、若者を何も知らないといっているのと同じだ。

彼らは、消費をしない訳ではないが、他世代に比べて、収入に見合った消費をしない心理的な態度を持っている。このような傾向を「嫌消費(けんしょうひ)」と呼んでいる。

一つ単語が抜けている。「現在」収入だ。そして、今の収入を使いすぎない合理的な理由はいくらでもある。将来の収入が心配なのがその一つだ。今消費しないのは消費が嫌いだからではない。将来消費したいからだ

もし本当に将来に渡っても消費する気がないなら、頑張って働く必要はない

20代の彼らは、非正規雇用が多く、低収入層が多いからだと思われがちだが、実際は、他世代に比べて、男性の正規雇用率は65%、年収も300万円以上が52%と見劣りする条件にない。

しかし彼らは他の世代と見劣りしないほど働いて稼いでいるわけで、消費する気自体はある。そもそも、本当に消費欲自体がなくなっているなら収入に対する欲求も減るはずだが、収入に不満を持つ若者の数は増えている

ものが売れない理由は様々だ。バブル崩壊以後の構造的な要因としてあげられるのは、将来が不安、収入の見通しがよくない、低収入層が増えている、の3つである。

それを、これでほぼ説明できているのに、

彼らは、思春期に、バブル後の混乱、就職氷河期、小泉構造改革を世代体験として持ち、共通の世代意識を共有している。「自分の夢や理想を高望みして周り と衝突するより、空気を読んで皆に合わせた方がいい」、と言う意識だ。この意識の背後には、児童期のイジメ体験、勤労観の混乱や就職氷河期体験によって植 え付けられた「劣等感」があるようだ。

世代を勝手にまとめて一人の人間に仕立て上げた挙句、心理分析などする必要はない。そんなことよりも哲学、歴史、経済学等の人文社会諸科学やゲーム理論に基礎づけられた新しいマーケティングに期待したいところだ。

経営者性善説はおかしい

Twitter上で藤末議員から一連の議論(株主至上主義って?「株式」会社は株主のもの)ついての反応があった:

会社は株主のものか?昔書いた記事です http://www.sbbit.jp/article/11703/

昨年九月にご自身が書かれた記事が紹介されている。Twitterというメディア上で持論を紹介することは評価したいが、その内容には多くの人が驚いた。議員の考え方が分かるという意味では非常に貴重な記事であり、その考え方とは「経営者性善説」と呼ぶに相応しい内容だ。特にM&Aに関する部分にそれが表れている。

マネジメント≫IT戦略/ソリューション-【民主党藤末氏コラム】「和をもって尊しとする会社へ!」:ソフトバンク ビジネス+IT

経営者のマインドが変わった大きな理由として、「会社制度の変更」が挙げられます。例えば、M&A(企業の合併・買収)の規制が変わり、会社がいつ買収されるかわからなくなると経営者は株価を気にせざるを得なくなります。

買収が悪者扱いされている。しかし買収されたくないなら一番簡単な方法は業績を上げることだ。業績が高ければ既存株主は安い値段では株を売らなくなり、買収は成立しなくなる。買収されたとしても経営者を変えることはない。

基本的に株価は将来収益見通しを示すものであり、買収されるということは買収側はより大きな収益をあげられると考えているということだ。買収に多くの余計な費用が発生することを考えれば、当該企業をより効率的に運営できる自信がなければ買収などするはずはない。

本来、不適任な経営者は株主により交代させられるべきだが、利害関係も能力も様々な株主が総会で一致して経営者を取り替えることは非常に稀だ。買収は既存株主による統治不全を是正する最後の砦であり、買収のせいでマインドが変わるような経営者はそもそもおかしいのだ買収の可能性により経営者が適切に行動するようになれば企業の、さらには社会の、効率が増す投資家もより積極的に投資できるようになり、企業は有利な条件で資金を調達できる

一定の条件のもとでは望ましくない買収が起きることもあり、それにどう対処するかは政策上重要だ。しかし出発点としてはほとんどの買収がプラスなはずなのだ望ましくない買収を防ぐと同時に、望ましい買収が起きやすいような市場整備も必要だ。一面的な議論は誰のためにもならない。

敵対的買収を止める(イギリスのようにすべての株式義務をつける。敵対的買収で部分的に株式を所有し、経営をコントロールすることを禁止する)
従業員のある程度の同意がなければ買収を認めない

このことを考えれば、上のような提案がおかしなことが分かる。(敵対的)買収を極めて難しくするということは、今いる経営者・社員が努力するインセンティブを減らし、投資家にとっての企業の価値を下げ資本コストを上げる。これは社会のためにならない。

アングロサクソン的な「優秀な人が他の人をひっぱって行く」のではなく、やはりわが国は「和をもって尊しとなす」ではないでしょうか?

「和をもって尊しなす」はいいが、現実には和の中の人間しか見ず、前に進まない社会になっていないだろうか。会社法は「日本はこういう国だ」みたいな感覚で決めるべきものではない法律が人々に与える影響をよく分析して慎重に作っていく必要がある

P.S. 自社株に関する下りや「会社は公器」など不思議な箇所は他にもある。

「株式」会社は株主のもの

株主至上主義って?」についての反論をLilacさんが書かれているので一応返答したい。
会社は本当に株主のものか?という疑問に答える本 – My Life in MIT Sloan

専門家を称する人は、「専門的にはこれが正しいんです。あなたは間違ってます」と言うのではなく、彼の感覚的な表現の、根本の問題意識に答えようとしてくれれば良いのに、と思った。

前者的な反論は既に池田信夫さんがなさっているが、Lilacさんが納得する説明のようには思えないのでここでは一問一答形式でいく。

そもそも、彼の言う「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」、そしてそれを問題だ、と思う感覚自体は、至極まっとうじゃないのか。

彼の感覚が自然か否かについては議論していない。例えば、解雇された労働者を可哀想だと「感じる」のは真っ当だが、それを解雇を禁止することで助けるのは真っ当ではない。

まず「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」というところだが、ここでは比較対象は、他の欧米諸国と比べてるんではなく、「日本の昔に比べて」ってことを言ってるのだと思う。

「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」が「日本の昔に比べて」の発言だというのは妥当な推定だが、そうであれば「喝を入れたい」というのはおかしい。改善していっているだけかもしれない

例えば、1970〜80年代には、日本では優良大手企業でさえ利益率5%以下が普通だったのが、現在の企業経営ではROEと利益率が神様みたいに崇められてる。
これは「株主を重視しすぎる風潮」と言わずしてどう説明するか。

それは投資先が「優良」大手企業だったからだ。30・40年前の日本企業と今の日本企業とを同じ投資対象とみなすのは不可能だ

当時の日本企業は「効率が悪かった」のだろうか?

逆だ。当時の日本企業は成長の見込みがあるからそれでよかったのだ。成長の見込みがなければ投資家が配当という形で資金を回収するのは当然だ。成長していない企業に内部留保を残しても効率的な投資は行われない社会的な観点からみても同じだ。そもそも成長してもいない企業が持っているとされる会計上の内部留保の額なんて信用できるだろうか。

極端な議論かもしれないが、良いものを安く売ることで消費者に還元していた、とはいえないか。多少コストが高くなっても、簡単に従業員をクビにせず、たくさん雇っていたのは、従業員に還元していた、とはいえないか。

もちろん企業が存続しているということは、普通は企業は社会に貢献したということだ。そしてその貢献を消費者・従業員・債権者・株主が分け合っている。しかし、その貢献の量というのは誰が意思決定を行い利益をどう分配するかによって変わる。そして、通常、最大のリスクを引き受ける投資家が会社の重要事項と経営者を決定するのが効率的だ。

株主が最大のリスクを負っているのはP/Lをみれば分かる。消費者はその会社の財・サービスを買う必要は(独占でもない限り)ないのでリスクはほぼ負担しない。従業員の給料は会社の業績に関わらず支払われ、破産しても真っ先に確保されるのでリスクは小さい。そのあと利益が残って入ればまず債権者が取っていく。一番最後の残り物が株主だ。大体、この中で会社が払う額を後から決められるのは配当だけだ

米国の「優良企業」のように30%も営業利益を取るかわりに、5%以下に抑えて、消費者や従業員のためにはなっていたのではないか。

株主へ利益が渡せないなら投資は行われない。内部留保だけでやっていけるのであればいいが、それでは外部からの資金調達はできない。

また、前回も触れたが、企業・消費者・従業員を分別するのはおかしい。どの人も消費者であり労働者であり(少なくとも間接的には)企業の所有者だ。誰が得しているか、損しているのかを考えるよりも全体での利益を考えるべきだ。

そもそも企業の利益率が高くて、一体誰が喜ぶかをよく考えると、利益から法人税を取れる自治体以外は、そこから配当を得られる、もしくは株価向上が見込める株主だけじゃないのか?

利益が出たあとで分配をどうするかは、事前のインセンティブを変える。例えば、非営利企業には株主がいないし、そもそも給料や利息を払ったあとの残余利益をもらう人がいない。しかし、世の中の会社をみんな非営利企業にしたほうがいいという人はいないだろう。非営利企業がうまくいく場所もあれば、うまくいかない場所もある(参考:非営利と営利との違い)。株式会社も同じで適材適所だ。起業家は非営利を含め好きな組織形態を使えばいい

(多少関係するのは、格付けによる社債など資金調達の容易さだけだが、メインバンクからの負債中心の当時の日本型企業にはほとんど関係なかった)

負債中心ならそれでいいし、誰も企業にエクイティでの資本調達を強制したわけではない。しかし、株式を売ってお金を集めたなら配当をする必要がある。株主から投資を受けた後に株主の要求はうるさいというのは、お金を借りたのに利息に文句をつけるようなものだ

その結果、多くの企業の経営者が株価や株式総額を気にする余り、市場に説明できないような長期的な投資が出来ない、と悩んでる。

まず、株主もまた長期的な利害は考えている。株主が内部留保を配当させれば株価は下がるので売り抜けても(超過)利益はでない。もちろん例外的なケースはありそれはそれで規制すべきだが、それはあくまで例外だろう。

「日本の企業って、昔はもっと従業員やお客様を大事にしてたんじゃないのかなぁ・・・
それなのに、今は企業が短期的に利益を上げることだけ考えろって言われてる気がする。
それって得するの、株主だけだよね・・ これって本当に正しい方向なんだろうか?」

「株主価値経営が当然だっていうけど、本当に株主だけなのかなあ?
企業って従業員も取引先もお客様も大事だし、ひいては社会的な使命をもってるんじゃないのかなあ」

大体から言って、「企業の経営者」の意見を聞いてもしょうがない金を借りた人間に金貸しについてどう思うかと聞いているのと同じだまともな人ほどあの時貸してくれてありがたいと答え、だめな人ほど金貸しは金儲けばっかだと答えるだろう。こういう経営者は銀行にも同じことが言えるのだろうか

株主の発言権を重視するのは、基本的に一番リスクを負っている人間に発言権を与えるのが一番効率がいいからだ。他人の金で相撲を取っている人間は信用できない。

別に経済学や経営学の知識で武装しなくても。

多分、漠然と株主主権が問題、と思ってるのは藤末議員だけじゃない。

それはそうだ。漠然と株主主権は問題だと思っている人はたくさんいるしそれはいいしかし、会社法の改正に関わる議員に同じ基準は適用できない。仮に株式会社の法制度を変更する必要があっても「漠然と」思っているのでは困る。今回の藤末議員の発言は議員が企業の制度について理解していないという事実を明らかにしたから問題なのだ。ましてや、国会議員としては非常に期待できそうな経歴を持つ藤末議員に対する期待は高く、それが裏切られたことに対して批判や失望の声が上がるのは当然だろう。

あげられている書籍は入手できないので細かいコメントはしないが、

簡単に書くと、ポスト産業資本主義で最も大切になるのは、新しい知識や情報を常に生み出せる人的資産である。その人的資産を採用し、育て、つなぎとめ続けられる企業が、長期的に成長することが可能だ。そのために必要なのは、株主の方を見た経営ではなく、従業員に目を向け、従業員が離れにくい文化と制度を有する経営。それは、株主主権では実現できない、という話だ。

この部分が正しいとして「株式会社が株主を重視する」ことへの反論にはならない。誰も株式会社にしろとは言っていない。好きな形態をとればいい。単にいいとこどりはできないだけだ。株主に経営への影響力を与えなければ、リスクの高いエクイティ投資など誰もしない。逆に「従業員に目を向け、従業員が離れにくい文化と制度を有する経営」がそれほど素晴らしいなら、上場なんてしなくていもいいはずだ。内部留保と銀行からの融資で事業を拡大すればいい。前の記事で上げたGoogleは株主に口をださせず順調に拡大している。