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計算された暴力

Science Dailyでドメスティック・バイオレンス(DV)に関する研究が紹介されている:
Violence Between Couples Is Usually Calculated, And Does Not Result From Loss Of Control, Study Suggests

Violence between couples is usually the result of a calculated decision-making process and the partner inflicting violence will do so only as long as the price to be paid is not too high.

多くの場合、カップル間(但しDVはカップル間のそれである必要はない)の暴力は計算された意思決定の結果だということだ。

The violent partner might conceive his or her behavior as a ‘loss of control’, but the same individual, unsurprisingly, would not lose control in this way with a boss or friends

本人は衝動的にやってしまったと主張するが、同じ人間が上司や友人の前で同じように「衝動的」な行動をとることはないそうだ。DVを暴力をふるう側のほとんどが精神病だとする向きもあるようだが、病気だと考えるよりも合理的な行動として解釈する方が方法論的に健全かつ生産的だろう。

上の主張についていえば、上司や友人の前では暴力的でないが身内に暴力的なタイプの精神病だと言うことはできるが、それは過剰な拡大解釈だ。全てを病気だと解釈することは一種の反証不可能仮説だ。何でも説明できるだろうが予測力がない。

記事によれば、DVは理性的な意思決定の結果(the result of a calculated decision-making process)とされているが、そのように解釈できることは必ずしも行為者が理性的でよく考えて行動していることを意味しないことにも注意が必要だろう。単に、理性的な意思決定の結果として理解できるのであれば主観の解釈は必要ない。もちろん本人が自分の行動をどう説明するかも関係ない。

Neither of the couple sits down and plans when he or she will swear or lash out at the other, but there is a sort of silent agreement standing between the two on what limits of violent behavior are ‘ok’, where the red line is drawn, and where behavior beyond that could be dangerous

この発言は暴力を伴う人間関係が一種の均衡になっていることを如実にしめしている。許容される暴力の限度についての同意(agreement)があるように見えるそうだ。

when speaking of one-sided physical violence, most often carried out by men, the violent side understands that for a slap, say, he will not pay a very heavy price, but for harsher violence that is not included in the ‘normative’ dynamic between them, he might well have to pay a higher price and will therefore keep himself from such behavior.

一定限度内の暴力は許容されるが、一線を越えた場合に別離や外部への通報というペナルティが発生するため暴力をふるう側もそこで止まるとのこと。

この状況は一種のゲームの(パレート)非効率な解として理解できる。両者にとって暴力を伴わない関係が望ましいにも関わらず、暴力を伴う均衡が選択されているためだ。

解決策としては刑罰などでペナルティを大きくすることが考えられるだろう。しかしこの方法が効果的かは疑わしい。ペナルティが暴力をふるう側の行動に影響を及ぼすためには、ペナルティに訴える可能性が現実的でなければならない。しかし、ペナルティが加害者への罰則に過ぎなければこれはうまくいかない。いくら加害者が損をしても、被害者が得するわけではない。むしろ、両者が関係を続けていることから、被害者にとってその関係は一応プラスの利得を持っていると推定できるためペナルティによって別れるのであれば被害者にとってマイナスだ。最終的に被害者がペナルティに訴えないと分かっているかぎり、加害者へのペナルティの大きさは加害者の行動に影響しない。通報した場合に被害者に報酬を与えればいいが、虚偽の通報などより大きな問題が発生するだろう。

もう一つの方法は二人で話合うか第三者が相談にのりコーディネーションを行う=均衡を選択することだ。この方法にも大きな課題がある。それは、暴力のない状態が必ずしも暴力を伴う状態にくらべ(パレート)改善とは限らないことだ。暴力をふるう側にとって暴力を伴う状態のほうがない状態よりも望ましいなら、さあ暴力をなくそうといっても合意は得られない。通常の交渉であればこれは補償により解決される。両者にとっての余剰の和が大きければそれを暴力をふるう側に配分することで合意が得られるからだ(そして「暴力をふるう」側は結果的に暴力をふるわない)。しかし現代社会であからさまに不平等の存在する男女関係は許容されないためこのような交渉は成立しないだろう。

P.S. 逆に言えば、フェミニズム以前の社会においてはパートナー間の不平等は存在したが、実際に暴力が発生する可能性は低かったかもしれない(実際の数字は分からないが、最初から亭主関白な家庭において妻への暴力が多いとは思えない)。

追記:亭主関白な家庭でもDVはあるという指摘があった。これは結婚しない場合の女性の利得=アウトサイドオプションが非常に低い場合にはありうる。この場合、不平等な関係であっても女性には、最悪の場合とくらべて、余剰が残っているので交渉力の関係によっては暴力がない関係にならないことが考えられる。これは女性のアウトサイドオプションが大きくなるにつれ解消される(男性は最低でもそれだけの利得を女性に割り当てなければ交渉が成立しない)。また、現実にはパートナーの暴力に対する選好に関して不確実性が存在するため、期待値的に大丈夫だと思って結婚したがそこから抜けられないというパターンもありうる。

不景気で育つとどうなるのか

若いときに不景気であることがその後にどんな影響を及ぼすのだろうか。いくつかの研究結果が紹介されている:

Will Recession Forever Scar Young Investors? at SmartMoney.com

一つ目UCLAのPaola GiulianoとIMFのAntonio Spilimbergoによる研究で、

Using data from the General Social Survey and matching it up with data on regional recessions in the United States between 1972 and 2006, the authors found that “individuals growing up during recessions tend to believe that success in life depends more on luck than on effort, support more government redistribution, but are less confident in public institutions.”

1972年から2006年までの地域ごとの不景気と個人の経済に対する見方を比べている。それによれば、不景気の中で育った世代は、

  • 成功は努力より運で決まる
  • 再分配政策により積極的である
  • しかし政府に対する信頼は低い

といった傾向があるそうだ。これは地域ごとに景気の波が存在するからこそできる研究だろう。

But what was truly striking was that this finding only held if the person was in his or her “formative years,” between 18 and 25, during the financial shock. Being exposed to a recession before the age of 17 or after the age of 25 had no effect in the data they studied.

しかしこのような傾向は18歳から25歳までの間の景気によってしか生じないと言う。

さらに同様の傾向がBerkeleyのUlrike MalmendierとStanfordのStefan Nagelの研究でも明らかにされているそうだ。こちらは、大恐慌を経験した世代と第二次世界対戦後の好景気を経験した世代との株式市場での投資行動を調べている。

people who have lived through periods of bad stock market returns report lower willingness to take financial risk. They also are less likely to participate in the stock market, and, if they do invest in the stock market, invest a lower fraction of their liquid assets in stocks. (Similarly, people who have experienced high inflation are less likely to hold bonds.)

不景気の中育った人々は将来的にもリスクをとらず、同様に高インフレで育った人は債権を保持したがらないそうだ(債権はインフレに連動しないため高インフレ下では望ましくない投資だ)。

The lesson: We’re slaves to what’s known as “availability bias.” We form our predictions about the world based on the data most readily available to us — on what’s happened to us personally, or what’s happened to our friends, or what we’ve read in the papers or seen on TV.

このような現象は可用性バイアス(availability bias)と呼ばれる。これは自分や親しい人間が経験した出来事が生じる確率を過大評価してしまう傾向である。

これはそれ自体でおもしろい発見ではあるが、同じ現象が日本でも観察できるだろうか。バブル崩解後、日本の不景気は極めて長いこと続いた。二つの点が特に興味深い。

一つは、不景気の状態がその後の行動に影響を与えるのか景気の悪化が与えるのかということだ。例えば私が学部にいた間、景気は常に悪かったが、悪化してというわけでもない。それでも経済に対する考え方、投資行動は変わるのだろうか。

二つめは、不景気が長期に渡ったことの影響だ。もし十年以上に渡って、投資行動に特定のバイアスを伴う(=サブオプティマルな投資を行う)人々が生まれたのであればこれは市場に大きな影響を与える。その影響は不景気の中で育った世代が四十台、五十台となりより多くの資産を保有するようになるにつれ拡大していくだろう。これは投資を行う側にはビジネスチャンスでもある。過度にリスク回避的な投資家が増えてればリスクのある投資を引き受けることは利益になるだろう。

P.S. この記事でも研究結果が紹介されているが実際の論文は示されていない。それらしい文献へのリンクをしておいた。これはジャーナリズムは普通のことなんだろうか。ちなみにavailability biasという言葉も言及されている(と思われる)論文には出てこない。記事を書いたひとの意見ということだろう。

説得力のある批評をする方法

消費者の心理に関する研究が紹介されている:

Drilling Down – Veteran Critics More Persuasive When Uncertain, Study Finds – NYTimes.com

Asked to evaluate the restaurant, the students who read the expert’s review liked it much better when he seemed tentative; the opposite was true of the novice.

四種類のレストランのレビューを被験者(学生)に見せる実験を行ったそうだ。四つのレビューとは、

  • 専門家が完全にお勧め(positive certainty)
  • 専門家が一応お勧め(tentative praise)
  • 素人が完全にお勧め
  • 素人が一応お勧め

結果は専門家の場合は曖昧な評価の方が好まれたのに対し、素人の場合には確信を持って勧められている場合の方が評価されたそうだ。

これは常識とよく合致する。専門家の曖昧な意見はよく考えて評価が行われているように聞こえるが、素人の曖昧な意見は何も考えていないように聞こえる。

また専門家は自分の評判があるので100点満点を出すことはない。逆に満点を出していると専門家としての地位を疑われる。素人にはそのような制約はなく高得点を出しても問題はない。もちろん本当の専門家が満点評価をしているならば一番評価されるだろうが、実験であれば専門家とされているだけに過ぎないため、いわば「自称」専門家の満点は信用されないのだろう。逆にいえばこの実験の問題は本当に信頼されている専門家のケースを扱うことができない点にあるだろう(実際の研究がどうなっているのかは分からないが)。

これは大学院出願における推薦状にも当てはまる。無名の教授(ビジネススクールであれば上司含む)の推薦状は明らかに素晴らしいものでなければ意味がない。むしろ留保点があれば大きなマイナスになる。名の通った人の推薦状であれば二通り考えられる。大学院側が推薦人と個人的な関係を持っているないし過去の推薦に関する履歴を記録している場合にはやはり素晴らしい推薦状の方がよいだろう(例えばいつも学生を送り出している教授の推薦は極端な話お勧めか否かだけで十分だ)。しかし経歴や地位は素晴らしいが信用できる推薦人と確信をもっていない場合には長所短所詳しく書いてある推薦のほうが効果的なように思われる(例えば経済学部宛てに推薦状を書く数学の教授の場合褒めてばかりでは誰にでもそうなのかもと疑うだろう)。

P.S. 著者とジャーナルをキーに実際の論文を探してみたがどれか確定できなかった。ジャーナリストとしては明記すべきだろう。

ファイナンスの教授の投資戦略

ファイナンスを教えている教授がどんな投資戦略を取っているかについて:

ScienceDirect – Journal of Financial Markets : Confidence, opinions of marketefficiency, and investment behavior of finance professors via Overcoming Bias

First, most professors believe the market is weak to semi-strong efficient. Second, twice as many professors passively invest than actively invest. Third, our respondents’ perceptions regarding market efficiency are almost entirely unrelated to their trading behavior. Fourth, the investment objectives of professors are, instead, largely driven by the same behavioral factor as for amateur investors–one’s confidence in his own abilities to beat the market, independent of his opinion of market efficiency.

アブストラクトからの引用だ。発見は四つ:

  1. ほとんどの教授は弱度ないし準強度市場効率仮説を支持している。
  2. 能動的な投資を行っている人はそうでないひとの半分。
  3. 投資行動と市場効率仮説への態度は相関がない。
  4. 投資目的は大抵素人と同じ要因で説明できる。

まあ妥当なところか。市場が基本的に効率的でも誰かが裁定取引をする。能動的に投資するかは自分の時間をどう扱っているかによる。投資が好きな人はファイナンスの教授にはならない(!)のでこちらも妥当だ。

人種差別の現実

巡回させて頂いているブログアメリカにおける人種差別の話について書かれていたので、前に読んでとても感心した黒人と白人の関係に関するエントリーを紹介(是非全文読んでいただきたい):

My Race Essay: What Whites Say Behind Blacks’ Backs « Colin Blog

著者は黒人が支配的なセントルイス出身で自らの経験から何故黒人に対する「差別」がなくならないのかについて論じている。まず現状については次のように述べている。

One such uncle of mine noted […] America is generally an “equal opportunity country.” I wouldn’t go that far, but this is how most white people feel and I think the truth is somewhere in the middle.

基本的に機会は平等に近づいている。これは私の感覚にも一致する。アファーマティブアクションが議論になるよう、教育などにおいて明らかな差別はない。

In my school, there was no systematic exclusion of the black students from excelling in academics. Most of the black students excluded themselves.

学校教育において、黒人が差別を受けているという事実はなく、むしろ彼らが勝手に勉強から離れていくとかかれている。その例として、黒人がほとんどの高校で微積分を取る黒人がいなかったこと、高校を卒業しているのに字が読めない歌手が挙げられている(アメリカの識字率の現実については前に書いた)。実際大学において黒人の比率は非常に低い(うちの大学は特に低いため時折批判に会う)。また白人と黒人は社会的にも早いうちに分離する:

But somewhere along the line, 5th or 6th grade, the white and black students started to segregate themselves.

これは大学になっても続いている。多くの大学生は自分の人種のグループから出ようとしない。小学校あたりで既に分かれているのならその傾向も不思議はない。

では何故「差別」はなくならないのか。これについて著者は自らがレストランでサーバーとして働いた時の経験から説明している。少し長いがまとめて引用しよう:

I have a theory to explain why blacks often suffer discriminatory treatment in society. From my experience in the restaurant service industry, servers and bartenders will tell you that black people don’t tip. This is bullshit. I used to argue that the average gratuity percentage of all black customers, while certainly lower, is not much lower than the average percentage from all white customers. The difference is negligible given low gratuities from rural white people and elderly white people.

But those ghetto white people aren’t such a pain in the ass. They’re in and out. Servers don’t remember them. Nor do servers remember the nice black family that was easy to take care of and left 20%. They remember the ghetto black table that sent back their food for trivial reasons, asked for free samples, complained to a manager, or were a major pain in the ass in some other way while not leaving a tip. The treatment I have gotten from ghetto black tables is simply unconscionable. You don’t get that from any other kind of people. Only black ghetto. Even black servers don’t want to wait on black tables. I was the guy that used to argue that waiting on blacks is not as bad as people make it out to be. And even I would get a feeling in my stomach when I saw a black table sit down in my section. Just the chance that this black table could be a black ghetto table could completely ruin my night.

掻い摘んで説明しよう。黒人客のチップが他の(同じような社会経済的ステータスの)グループに比べすくないわけではない。しかし、チップを払わない客のほとんどは単に食事してさっさと帰るだけなのに対し、一部の黒人客は大した理由もなく食事を突き返し、無料サンプルを要求し、マネージャーに文句を言うなど非常に面倒なことをした挙句チップを置かずに帰る。この体験が余りにも酷いのでサーバーは黒人の客が来ただけでもしかしたらその客がそういう客なのではないかと思ってしまう。

That feeling is uncontrollable. You can’t teach someone not to feel what has been conditioned into their system through experience, like a dog getting its face rubbed in shit after pooping in the house.

そしてこれが繰り替えされると、人間は自分の感情をコントロールできなくなってしまう。

My theory is that discriminatory treatment stems from people trying to thwart or discourage the triflin’ behavior of the ghetto segment. Imagine how police officers, whose exposure to black ghetto must be much higher, could come to treat all black people. Unfortunately, non-ghetto black people are often subject to the backlash against ghetto black people when they are not to blame. They are being treated unfairly. In my view, one third of the black population is fucking it up for everybody.

黒人の一部が余りにも酷いため、多くの人はそれに対策を講じる。ある路地に黒人が集まっていればそれなりの確率でそれが犯罪に結びつくかもしれないので避ける。これは極めて合理的な行動だ。観察できない情報(危険かどうか)が分からないのでそれと相関している他の観察可能な情報(黒人である)を利用しているに過ぎない。そしておそらく人間は単に相関している出来事にも恐怖感といった感情を持つようにできているのだろう(いちいち考えているよりも生存に有利だ)。だがこれは他の心理的問題とは異なる。なぜなら頭で考えたとしてもこの行動は(本人の利得を最大化するという意味で)正しいからだ。

しかも是非はともかく正そうとしても難しい。学歴「差別」を表面上禁止するのは簡単だ。単に求職者に学歴を聞くのを禁止すればよい。学歴はシグナルなので禁止するのは非効率的だろうし、実際に執行するのは困難だろうが理論上は可能だ。しかし黒人に対する「差別」を禁止するのは非常に難しい。肌の色は見れば分かるのでその情報を利用しないように強制することはできない。実際、黒人に多い名前を書いた履歴書を企業に送るとごく標準的な名前で同じ履歴書を送った場合よりも企業から反応がある可能性が有意に低いことが知られている。企業は少しでも観察不可能な情報と相関している情報を意思決定に利用する。

I can’t think of how normal, mainstream black people can disassociate themselves with the ghetto segment in order to receive normal treatment. The black ghetto segment is so triflin’ that the mere presence of a black person can cause worry in worrisome types.

ではまともな黒人はどうやってこの構造が抜け出すのかという疑問が掲げられている。これはそういう黒人を観察していれば分かる。多くの、ここでいうghettoでtriflin’な、黒人は大きなTシャツにダブダブのジーパンを腰ばきし、キャップやフッディー、指輪・ネックレスなどを着ている。それに対してまともな黒人はそれと限りなく反対の着こなしをする。Tシャツはほとんど着ないし、着てもサイズをきちんと合わせる。大抵はYシャツ。ジーパンもぴっちりとしたものを履くし、チノパンであることも多い。シャツはタックインしてしばしば上にはジャケットだ。スーツを着ている人も多い(これはカリフォルニアでは非常に珍しい姿だ)。しゃべり方もまったく異なる。アメリカの多くの黒人は特徴的なしゃべり方をすることが多くなかなか聞き取れないのに対し、彼らは他の人種よりもわかりやすいしゃべり方をする。オバマの演説なんかがいい例だ。

ではこの問題はどうやったら解決するのだろうか。「差別」が黒人であるという情報に基づいて異なる行動をとることを意味するなら上述のように極めて困難だ。「差別」的な行動により不利な扱いを受ける黒人に対する補償が目的であればアファーマティブアクションが該当するだろう。しかしこれは「差別」自体をなくすのには役に立たない。また、他にも観測不可能な情報と相関する特性を持っているがゆえに不利な扱いを受けているグループは存在する。

根本的な解決には、「差別」自体に対処するのではなく、通常の福祉政策・教育政策・再配分政策によって問題となっている層を何とかするのが唯一の対策だろう。人種によって明らかな優劣は存在しない以上、これらの政策によりいつかは人種との相関は消えていくはずだ(逆に言えば本質的な違いが存在しているタイプの「差別」に関してはこの方策は効果がない)。