インフォームド・コンセントと日本

開業医の方が書かれたインフォームド・コンセントについての記事だ。読んでいて何か違和感を感じたが、数日忘れたまま放っておいたらふと一貫した説明がついたのでご紹介:

自己決定とパターナリズムのあいだ – Dr.Poohの日記

総合診療誌JIM1月号に掲載されていた内田樹氏と岩田健太郎氏の対談を読みました。冒頭から「インフォームド・コンセントはダメである」と断言してしまうあたり,医学雑誌としてはかなり刺激的です。内田氏によればインフォームド・コンセントという概念そのものがきわめてアメリカ的であって,日本では受け入れられるのかどうか疑問を呈しています。

内田樹さんの文章については以前もとりあげたが(人間も労働も特別じゃない)、今回も否定的にならざるをえない。何度か指摘しているが(例えば、アメリカは実名志向か)、日本的かアメリカ的かという切り口はあまり意味がない。アメリカ的だから日本では受け入れられないというのは結論を仮定しているようなものだ

次の引用文も頂けない:

僕には,どちらかというと,医師と患者のあいだには知の非対称性があったほうがいいと思っているんです。自分の状 態については医師のほうがよく知っているのだから,「この人にすべて委ねよう」と思ったほうが治療のパフォーマンスは上がる。たぶん日本人の大多数はそう だと思うんです。文化論的に言っても,外部に権威があって,それに対して自分は無防備で受け身の状態にいるほうが,日本人は心理的にも安定するんです。

学ぶ力と癒す力: JIM vol.20 No.1 2010-1 p60

この箇所だけから全体を判断することはできないが、それにしてもよくない。自分の状態について医師のほうがよく知っている場合に医師に委ねてパフォーマンスが上がるのは自分と医師の間に利害対立がないときだけだ。知識の豊富な保険販売員にすべてを委ねることはできない。文化論で「日本人」の心理を説明するのも説得力がない。仮にそういう傾向が日本人全体にあったとしてそれが肯定すべきものとはならない。

本題に戻ろう。

この対談でパターナリズムという言葉は出てきませんが,この文脈で言及しているのはまさにそれでしょう。

確かに議論の的となっているのはパターナリズムの是非だ。

当方が医師になった頃には,パターナリズムというのは従来患者さんの自己決定権を損なってきたものであり,本来患者さんに必要十分な情報を提供することで自己決定を支援しなければならない,という教育がされていました。

しかも日本の医療業界ではインフォームド・コンセントがパターナリズムの問題として扱われているようだ。

違和感を感じたのはここだ。インフォームド・コンセントが問題となるのは、患者と医師との間に情報の非対称があるからだが、情報の非対称による最大の問題は患者と医師の利害対立(プリンシパル・エージェント関係)であってパターナリズムではない。患者は適切な情報を有しないため、医師はどの治療を選択するかについてのアドバイスと治療サービスの提供を同時に行う。患者の利得とサービス生産者としての医師の利得は一般に一致しないため非効率が発生するわけだ。必要のない治療を行い収入を増やすような行為がこれに該当する。

インフォームド・コンセントは医師が十分な情報を伝えなかったり、不正確な情報を教えたりした場合にペナルティを与えることで、患者と医師との情報の非対称による問題を軽減する(注1)。セカンド・オピニオンとして他の医師の意見を仰ぐことも、アドバイザーとサービス提供者を分離することでこれに貢献する。

ではなぜ、日本ではインフォームド・コンセントがパターナリズムの問題として捉えられるのかそれは上に説明した情報の非対称に由来する問題がもとから軽微であるためだと考えられる。情報の非対称は存在する。しかし、利害の対立が小さいので深刻な問題にはならないということだ。

元記事においても、医師が自分の利益のために治療を選択するという状況は想定されていない。私が日本で医者にかかるときも、いらない薬だしてるかもとか薬の日数を少なくして通院回数を増やそうとしているんじゃないかとは思うが、それ以上の問題が起きるとはほとんど考えていない。これはアメリカでは当てはまらない。医療が非常に高く、保険は人によって異なるなど、医師を取り巻くインセンティブは日本より遥かに複雑だ。

例えば私はアメリカでLASIKの手術を受けたが、どの医師が技術的に望ましいかは経歴ぐらいからしか分からなかったし、具体的な処置についての知識もなかった。基本的な事項は調べたが、分野は違えど専門的な勉強している身としてウェブで調べれば分かる程度のことで正しい判断が行えるとは思えない。医学論文を読むこともできたが、内容を理解するのは困難かつ、研究と現実に必要な対策との一般的な乖離を考えれば論文を頼りにすることはできない(注2)。

そこで判断基準となるのはインセンティブ構造だ。ある程度の技術・知識がある場合に望ましくない結果となるのは医師のインセンティブが自分のそれとずれている場合だ。LASIKで言えば、適性がないのに医師が手術を進めてしまう危険性だ(問題が起きたとしてそれは事前には不確実なので責任を確定するのは難しいし、取り返しがつかない可能性がある)。私は結局、複数の医師が関わり、かつ医師にとって評判が重要で報酬の仕組みも保守的だと考えられる大学の病院を利用した。大学だから技術が高いと思ったのではなく、おかしなことをするインセンティブが少ないと考えたからだ

ひとつには必要十分な情報といっても過密な勤務のなかでそれを説明している時間がとれないということもありますが,何とか時間を作って説明したとしても,患者さんはかえって迷い,悩みを深めることもあるのです。

インフォームド・コンセントが積極的に支持されないという現状は、逆にこういったインセンティブ問題が軽微であることを示している。患者と医師との間の利害対立がなければ問題は生じず、説明のためのコストや多くの情報を与えられることによる戸惑いの方が目につくのも自然だ。現状ではアメリカ並のインフォームド・コンセントの徹底は非効率な結果になるだろう(勿論、程度の問題で必要ではあるだろう)。

(注1)この時の情報はどの治療法がどういう理由でどんな影響をもたらすかではない。必要なのはどの治療法がどんな確率でどんな影響をもたらすかだ。それさえ分かっていれば適切な判断は下せる。LASIKでいえば何%の確率で視力がいくつになるかや感染症が発生する確率が説明された(理由も多少は説明されるが)。ここで医師が嘘をついたことが判明すれば大問題になるが医師には大したメリットがないので、この情報を疑う必要はなかった。

(注2)もちろん程度にはよる。LASIKは成功率の極めて高い手術であるため費用的に見合わないという理由はある。これが生死に関わる難病の治療であれば、医学部生が読む教科書から勉強するだろう。

追記

コメント欄でWillyさんから重要な指摘がありました:

一般的にaccountabilityにはコストがかかります。それは単に説明する時間のような物理的なものだけではなくて「最善な選択肢よりも、論理的な言い訳(ないし直感的に分かりやすい説明)や相手が納得しやすい判断を優先する」ことによりロスが発生するのです。

これはその通りで、情報提供を強制することは提供自体の費用が生じるだけでなく、その費用を減らすというインセンティブを与え、行動を歪めます。事後的な説明責任においても同じで、ある特定の患者の場合にはこの治療法が効くと考え説明しても、うまくいかなかった場合それを正当化するのが困難なので最初から提示しないということがありえます。

理系のための会話の楽しみ方

昨日Twitterで、結論のない(主に女性の)会話の話題が出て面白かったが(この辺)、関連するDilbertコミックがあった:

Dilbert comic strip for 12/23/2009 from the official Dilbert comic strips archive

Dilbert.com

You’ve made a number of inaccurate statements during the course of this date.

デートに限らず不正確で内容のない発言というのは多い。適当に相槌をうちながら、結論が出てくるまでの時間を数えていると面白い。結論が出てこない(!)こともある。伝えることがないなら他人の時間を使うなと言いたくもなるがぐっとこらえよう。

II don’t want to break the romantic mood, so I’ll send you and e-mail with links that you can review on your own time.

しかしDilbertもそれをそのまま批判するとうまくいかないことを学んだようでそれをメールで伝えるというが、それもやはりうまくいかないというおちだ。これは日本人が思う典型的な理系思考だ(MBTIのINTJ的というほうが正確かもしれない)。

でもよく考えると意味のない会話をする理由もない。もし無意識に無意味な会話をしているとしてもそんな習性が残る理由が(進化論的に)ない。よって一見意味がなさそうな会話にも機能があるはずであり、それは相手のスクリーニングだ。

その内容についてはここでは取り上げないが(参考:レイプのパターンを考えるクリーピー)、意味のない会話と切り捨てず、どういうメカニズムが動いているのかを考えれば理系頭の人にも楽しめるはずだ。Dilbertもまたその場では相手が如何に意味のない会話しているかを解説しないことで、その一歩を踏み出している。次はメールで指摘するとは言わないだろう。相手の行動に説明がつかなければモデルを修正し次の会話=実験に臨めばいいのだ。

終身雇用はなくなる

日本の雇用についてのポストから:

終身雇用はなぜなくならないか – Chikirinの日記

(1)新卒採用
(2)年功序列
(3)終身雇用

これらが日本型雇用だという。何故これらがなくならないかについて以下のように説明している:

大企業は、解雇規制があるからイヤイヤ“日本的雇用”を維持しているのではなく、それが自分達にとって得だと思える強固な理由があるからこそ、それを維持しているのだ。

これは市場の仕組みを考えれば当然だろう。もし解雇規制が原因で合理性のない雇用慣習を採用しているのであれば、解雇規制が問題にならない新規企業に駆逐されるはずだ

終身雇用の主なメリットは二種類ある:

  1. 社員のリスクを雇用主が負担できる
  2. 社員が雇用主に固有の人的投資をできる

1は社員の方がリスク回避的であるため、会社がそれをカバーできるなら給料を節約できるからだ(これはWin-Winだ)。会社員にとって解雇のコストが高いことを考えれば妥当だろう。

2は「“仕事のやり方”ではなく、“我が社のやり方”を知っている社員が望ましい」という部分と重なる。そういった企業固有の知識を習得するのは雇用が保証されていない限り割に合わない。

それに対して終身雇用最大のデメリットはまさに解雇が難しいことだ。解雇という脅しなしに社員を働かせなければならない。ただ、これは成果主義が成立しないということではない。将来の処遇を使ってそれなりのインセンティブを与えることは可能だ。

このように長年続いてきた終身雇用制度にはそれなりの合理性があるでなければそんなシステムが維持されるわけはない。しかし、終身雇用が続く、最も大きな原因は労働市場の硬直性だ:

今や日本の労働市場では中途人材の新規獲得コストが異常に高くなり(=高品質人材の中途採用市場が整備されないままとなり)、企業は今更方針を変えられなくなってしまっている。

上の部分がそれを表している。長年、新卒採用・終身雇用に依存してきた社会には健全な労働市場が育たない。終身雇用が当たり前だと途中で労働市場でる人間は何か問題があるという悪いシグナルを送ってしまう。そのため中途労働市場が機能せず、新卒採用・終身雇用という制度はさらに強化されてしまう。これを何十年も続けた結果が履歴書が気になってブラック企業を辞めることもできない社会だ

しかし、この一見強固に見えるサイクルにも解れが見え始めた。この悪循環は中途の労働者が悪いシグナルをもっているというのが原因だ。リストラをする企業や破産する企業が出てくれば、悪いシグナルは減少し、逆のサイクルがまわり始める。中途労働市場が改善、新卒採用の重要性低下、労働者にとっての終身雇用の価値低下、転職の増加、さらなる中途労働市場の改善という流れだ。

つまりはこのように大企業側にも日本的雇用はいろいろメリットがあるわけで、だから簡単には崩れないのだと思った。

確かに今すぐに日本的雇用がなくなることはないだろうが、上のサイクルが逆にまわり始める時に一気に崩れ去っていくだろう。経済全体が伸びていかない以上、この流れを止めることはできない。

開発援助の成果主義

なぜ開発援助に成果主義の導入が進まないのかについての明察:

Linking aid to results: why are some development workers anxious?

Linking aid more closely to results is attractive from many different perspectives.  My own view is that linking aid directly to results will help to change the politics of aid for donors.

成果主義の導入は何よりも援助国が開発援助を政治的に正当化するのに役立つという。

I think donors will be freed from many of the political pressures they currently face to deliver aid badly; and it would be politically easier to defend large increases in aid budgets.

成果がきちんと観測できるのであれば、直接指示を与える必要もないので効率的だし、納税者も納得する。営業のように結果の見えやすい部署が成果主義に近い形で運営されているのと同じだ。

But there is one group of people for whom these ideas seem to be quite unsettling: development professionals in aid agencies and NGOs.

しかし、開発に関わる専門家やNGOはこれに反対しているという。何故だろうか。

The “risks” identified in the CAFOD brief are not primarily about the consequences for development but rather risks to the privileged position enjoyed by professional staff in aid agencies and NGOs.

それは援助の効果の問題ではなく、成果主義の導入が彼ら専門家やNGOが占めている特権的な地位を脅かすからだ。これは少し考えれば明らかだ。成果主義が導入されれば、今まで業務を細かく指示してきた管理職は必要なくなる。次の政治家との対比は切れ味がよい:

Politicians are, of course, at their most dangerous when they can no longer distinguish their own interests from the interests of the people they are meant to serve.  Similarly we should be concerned when we hear development professionals identifying themselves as speaking for the poor, and arguing that they must retain influence (i.e. power) – purchased by the relative wealth of their country – to promote strategies which the country would not pursue on its own.

政治家は正しい意図を持って政治のキャリアに入るが、いつのまにか政治的な力を手にすることが自己目的化する。これはあらゆる職業にあてはまる。自分の判断は一番正しいという考えが内面化された時に力を得ることは常に正しいことになる。開発援助の専門家であれば、援助される側に任せるのではなく、自分が指示するのが最も望ましいという信念を抱いたとき、自分が援助の内容を管理する力を保持することは望ましいことになる。自分が正しいと信じていないと何も変えることはできないが、それが飯のたねになったときその正しさへの信念を捨てるのは難しい

ミニスカとシグナリング

前回「ミニスカートが悪いのか」に引き続き、ミニスカの話:

ミニスカ論争 – キリンが逆立ちしたピアス

セクシュシャリティを研究されているそうだ。

曽根さんの文章は、主語があいまいで、何をいわんとしているのかがよくわからない。たぶん、フェミニズムをバッシングしたいのだろう。だが、もってまわった言い方をしているので意味がわからない。

とあるが、曽根さんの文章は言っていることがおかしいだけで、別に分かりにくくはない。

曽根さんは、女性がミニスカートをはくのは、男性をセックスに誘うためだと考えているのだろう。そして、そういう女性は性犯罪にあってもしかたがない、と訴えているのだろう。

と解釈されているが、その通りだろう。誰もがそう読んだと思う。

私自身は、意識や深層心理はともかくとして、少なくとも10代のうちにこうした論文アクセスすることができた。それは、「<私>を見ている男性」を見る、ための視座を獲得できたということだ。私は「見られる」という女性の位置にありながら、その視線に抵抗したり、利用したりしようとする、女性の置かれた位置を俯瞰しようとしてきた。要するに、見られながら、見る主体を確立してきたのである。

これは単なるシグナリングの話だろう(但し、私はレイプについてそれがシグナリングの問題だとは考えていない:ミニスカートが悪いのか)。自分が外からどう見られているかを考えること、それを利用することは何も女性に限った話ではない

「<私>を見ている企業の面接官」でもいい。もう勉強していい大学にいって面接官の目を欺いてもいいし、変わったの色のスーツを着ていって抵抗してもいい。

私たちは、なにもない真っ白な状態で、ものごとを「見る」ことはできいない。ミニスカートをはく人に対しても、すでに作られた枠組みを通して見ている。

人間は本当に知りたい情報が見えない場合に観察可能な情報に基づいて推論を行う。男性は相手の女性がどんな人間であるか分からないから、ミニスカートをはいているという情報から推論する。これは善悪の問題ではなく、合理的な行動にすぎない(参照:人種差別の現実)。そして人間は大抵の合理的行動を自然に行う。意図的にしか合理的行動を取れないのは進化論上不利だからだ。

そして、その相手が見ているだろう視線を内面化して、「見られる私」を自分自身で構築する。そして、「その構築された枠組みがある」ことを知ったとき、ものの見方はまた変わる。

そんな大げさなことではないだろう。自分が観察される対象であり、観察可能な自分に関する情報を他人がどう利用するかというのは世の中のほとんどの人が毎日行っていることだ。

そして「その構築された枠組み」というのは誰かが意図的に構築したものではないことにも注意が必要だ。例えば、新卒の学生について企業はほとんど何も知らない。もしある男子学生が大量のピアスをして面接に現れたらどう思うか。他の状況が同じなら採用を控えるだろう。これはピアスをしている男性がどのような人間である可能性が一番高いかを考えれば妥当な戦略だ。別にピアス自体には何も考えを持っていなくても同じだ。

女性がミニスカートをはくことをやめる必要はない。仮に、男性がミニスカートを はく女性に対して欲情すると感じるとしよう。さらには、欲情すると、レイプという行動にでることも仮定しよう。だとすれば、男性が見方を変えればいいので ある。前者は無理だとしても、後者は可能である。

コメント欄でも指摘されているがこれは論理の飛躍だ。「女性がミニスカートはく」ことを止めることも「男性が欲情した時にレイプという行動にでる」のを止めることも共に可能であるなら、後者が必要だというためにはそれなりの根拠が必要だ。妥当な理由は「ミニスカートが悪いのか」で述べたように、後者のほうが圧倒的にコストが低いということだろう。

就職の例で言えば、男子学生が面接にピアスをしていくのを止める必要はない、企業が見方をかえてピアスをしていても学生を採用すべきだと言うようなものだ。「男子学生が面接にピアスをしていく」のを止めることも「企業が見方をかえる」ことも共に可能だ。

一世代では無理かもしれない。でも、時間をかけてでも変えていきたい。そして、すでに少しずつ変わってい る、と私は信じたい。

これは信じるまでもないだろう。職場でのピアスも女性なら問題ない。ミニスカートをセックスに誘うために着用する女性が減っている以上(というかそもそも存在するのか?)、男性がミニスカートをそのためのシグナルとして利用することもなくなっていく。

付録

ただ、男女の場合に複雑なのは女性がセクシャリティを出す場合、それをシグナルではなくスクリーニングの手段として使っていることが多いことだろう。つまり、男性が自分のシグナル、例えば興味をみせるモーション、にどう対応するかを観察することで男性の質を推定するということだ。

この場合男性があるシグナルを観察したときにそれを無視するのは難しい。もしそれがスクリーニングのためのシグナルであった場合積極的に行動しないことは、自分の質が低いことを示してしまうからだ。「ちょっと誘ってみたけど何もしなかったのよ、あきれちゃったー」みたいなのがそれだ(参考:クリーピー)。

逆にこれはいかに「つい」レイプしてしまうかがありえないことかも示している。男性は社会的に拒絶されることを恐れており、つい積極的に行動してしまうことはない(でなければ誘ってみるなんて行動がスクリーニングに使えるわけがない)。ミニスカをみて欲情しレイプしてしまうかもしれないと悩んでいる男性はいないが、家に誘うタイミングを逃したと悩む男性はいくらでもいるだろう。

追記:家庭内暴力のケースについては計算された暴力をどうぞ。