手書き履歴書

昨日の記事からもリンクしたが、「履歴書なんかを手書きするという文化はまだ存在するんだろうか」という発言に多くの情報や意見が寄せられた。

Togetter(トゥギャッター) – まとめ「手書き履歴書の実態」

事実関係としては以下の通りだ。

  • 手書きを要求する企業は存在する
  • 手書きが好ましいという採用者もいる
  • 採用側にはタイプの方がいいという意見も多い
  • 学生はまわりに合わせて手書きが普通
  • 業界にもより、大手・外資といったあたりではネットで提出も多い

タイプを好む採用側の人が多く、逆に手書きが普通だと思っている学生が驚くという構造が見て取れる。これにはTwitterというメディアによって、参加者にセレクションがかかっているという面もあるだろう。

では手書きが好ましいとする理由はなんだろうか。

  • 性格が分かる
  • 志望度合いを測れる

以上の二つが挙げられている。手書きを要求する企業が存在するのでこれらの要素はある程度正しいのだろう。しかし、手書きの履歴書でなければこの役割が果たせないということはないはずだ

まず手書きの文字から性格が分かるとして、それは他の手段より効率的なのだろうか。人となりは面接ですぐに分かることだろうし、カバーレターのような文章を書かせれば文字よりも正確に分かるように思う。履歴書ならぱっと見てすぐ判定できるという利点はあるが、どちらにしろ不正確なシグナルなので本当は望ましい応募者を落としてしまう危険性がある。

志望度合いの高い人だけを選ぶという効果については、より多くの文章を書かせることで対応できる。応募者を減らしたいならエッセイを書かせても良いし、応募に(成績など)条件をつけても良い(それがダメなら一定の基準ではねればいい)。

個人的には、加登住 眞さんが使っている次の方法はなかなかいいと思う。

ご名答。その場で交通費精算書を書いてもらってます。RT @rionaoki: @kazemachiroman その場で字を書いてもらうとかは双方にとってコストが小さいので面白いかもしれません。

手書きの字で性格なんかを見たいなら、その場で書いてもらうのがいい書き手のコストも読み手のコストも小さくなるし、本人の字であることも分かる。ここでは交通費精算書があがっているが、他の書類を記入してもらってもいいだろう。

私は字を書くのが好きで、意味もなく文章を紙に写しているなんてこともあるが、応募者も書くのが大変で採用者も読むのが大変という状況は解消されるべきだろう。とりあえず、手書きでなくていいという企業はその旨明示するのはどうだろう。

P.S.

この話はTwitterでの発言から始まりました。賛否はありますが、使ったことのない方は少し使ってみるといいと思います。私のアカウントは@rionaokiです。

アメリカの就活

この前日本の「就活」についての記事を紹介したが、今度はアメリカの「就活」についてよくまとまった日本語記事があった。

[JMM]「既卒インターン制度のすすめ」from 911/USAレポート/冷泉 彰彦

では、アメリカでは「就職氷河期」といった言い方で社会問題化がされているのかというと、少なくとも新卒に関しては特に騒ぎになっていないのです。

就職氷河期的なものが存在しないのはその通りだ。不況で就職厳しいよね、という話はそこら中で耳にするが、新卒だけを取り上げるような話はない。

大学を出てフルタイムの仕事にブランクなしで就けるのは50%ぐらいと述べましたが、残りの50%はどうしているのでしょう? 先ほど申し上げたように、 新卒など20代の若者が考えることは「キャリアの蓄積」です。そのためには、フルタイムの仕事が良いと言えば良いのですが、この雇用情勢の下では難しい、 そこで多くの若者はパートタイムの仕事に就きます。

フルタイムの仕事が見つからなければパートタイムの仕事を探す。将来のキャリアに役立つような仕事を探して働く。単純労働のアルバイトをしている大学生は比較的少なく、ペイが少なくても経験を積むことを優先する(逆に単純労働をしているのは一生単純労働に従事する層だ)。

「勉強熱心な大学を出て、就きたい職業も決めているし即戦力になるだけの知識は大学で学んだ」学生が、たまたま「縁がなくて」とりあえずフルタイムの仕事には就けなかった、そんな場合は「インターン」になるのです。

学期中は必死に勉強している学生も休みになるとインターンに繰り出す。卒業するまでに履歴書のネタを稼ぎ、その過程でネットワークを作る。

インターンはその企業への就職活動であるだけでなく、他の企業に向けてのシグナルにもなるし、将来に向けての経験・人脈にもなるわけだ。もちろん、インターン先でそのまま採用となることもあるが、転職が当たり前な世の中では経験や人脈は企業の中でも重要だ。同じような文章を送って、企業が内部で審査・面接を繰り返す日本と比べると非常に効率的に思える。

(1)既卒者の採用拒否を禁止する、
(2)既卒者の有給インターン制度を設ける、の二点を提言したいと思います。

若年層がスキルを磨かない問題について二つの提案がなされている。一つ目は特に面白い。経験のない人間を特別に優先して採用するというのはそもそも不思議な話だ。アメリカなら、経験がないと採用されないのでインターンやパートタイムで頑張る。どちらの社会で外部で通じるスキルが身につきやすいかは論じるまでもないだろう。

終身雇用前提で主に社内スキルを身につけるというなら未経験者も良いだろうが、終身雇用がなければ社員は社内でしか通じないスキルへ投資を行わない。日本の雇用慣行も変わっていくはずだ。

日本では未だに手書きの履歴書を要求する企業がごく普通に存在するという。民間企業の採用活動を規制するような流れはあまり賛同できないが、それくらいの過激な政策を取らなければ変化に何十年も掛かってしまうかもしれない。

追記:履歴書手書きについてのTogetterはこちら

教養教育の終わり

学位の価値は落ちる一方だ。授業料の高いアメリカでは、一足先に価格に見合う価値があるのかという疑いが広がっている。

How to manage a college education | Penelope Trunk’s Brazen Careerist

大学の機能は主に二つある。一つは実際の学習、もう一つは能力を示すという意味でのシグナリングだ。

The idea of paying for a liberal arts education is over. It is elitist and a rip off and the Internet has democratized access to information and communication skills to the point that paying $30K a year to get them is insane.

しかし、教養教育を受ける場所としての大学の機能は消滅の瀬戸際だ。いまや多くの学問分野は自学自習が可能だ。インターネットにはリソースが溢れているし、勉強したい者同士集まることも可能だろう(そういう場所をもっと作れればよいとは思う)。そもそも現在の大学生のどれだけが「教養」を身につけているかだって疑わしい。

経済学にしたって社会人として必要なレベルの学習に大学という(機会費用を含めた)莫大な投資が必要だとは到底思えない。本当の専門教育以外、大学で勉強する必要は見つからない。そして、それだけの教育が社会的に必要な人間の数は現在大学に通う学生の数より遥かに少ないのではないだろうか。

これは教養教育の価値を否定するものではない。私自身、教養学部に四年間も在籍したし、文理問わず色々なことを勉強した。しかし、大学がなければ出来ないことではなかったし、大学で他の専攻にいたとしても同時に勉強することは出来ただろう。しかも私は教育の真の社会的費用を負担していたわけではない。国立大学の費用の多くは税金によりカバーされている。本当の費用を負担してなお、教養教育に何年間もかけようという人はどれくらいいるのだろう。

しばらく前にWillyさんが教養教育に関するポストを書かれていた。そこでは次のような一節がある。

これに対するレスは様々だが「教養賛成派」からは、
「意味がないからこそ面白い」
「教養こそが人間の価値」
といった、私からすれば驚愕の意見が並べられている。

教養学部卒の私としては耳の痛い話だが、こういった反論は間違っている。「意味が無いからこそ面白い」、「教養こそが人間の価値」だとしても、それを大学でやらなければならない理由にはならないし、それほど価値があるなら政府の支援は必要ないはずだ。教養がある市民が多いことが社会にとってプラスだという議論は可能だろうが、それなら一部の人間に限られた大学教育ではなく、幅広い教育にお金をかけるべきだ。私は、教養教育の価値が下がっているのは事実であって、それに反対するのは自分の教育の価値が下がることに対する反感に過ぎないと思う。

Ben Casnocha has one of the most thorough, self-examined discussions about the value of college on his blog. He went to college, probably, because so many people told him to.
Ben left college. Early. And he’s fascinating, and he’s educating himself through experience, which is what the Internet does not provide. The Internet provides books and discussion, so why would you need to go to school for those things?

それどころが大学に行くことの価値自体への疑いもある。これは大学へ通う人間のほとんどが「専門」教育を受けるつもりではないことからして明らかだろう。私は上に挙げられているBen Casnochaの本もブログも読んでいるが、非常に洞察に富んでいる。教養が不必要なのではなく、教養のための大学が必要なくなっているのだ。これは「教養学部」や「リベラルアーツ大学」のことだけを指しているのではない。本当の専門教育を受けている学生の少ない(ほぼ全ての)大学に当てはまる。

また、この例は大学のもう一つの機能であるシグナリングもまた崩壊しつつあることを示している。大学入試に簡単になることによる学歴自体のインフレもあるが、もう一つの脅威は他のシグナリングデバイスの登場だ。今の時代、若者が自分の能力を示す方法はいい大学にいく以外にもいくらでもある。事業を自分で始めるのもそのひとつだろうし、様々な話題についてブログを書くこともそうだ。大学のシグナリング効果が一朝一夕になくなることはないだろうが、どれだけの費用・苦労を支払う価値があるかという観点で評価すれば大学の価値は薄らいでいる。

Students today don’t need teachers who don’t know how to write a blog post to teach them how to persuade people. Because the bar for communication is high, and it’s in the blogosphere, and if you can write a blog post that gets a decent conversation started, then you already know how to write a persuasive, engaging argument.

また教養教育の最も重要な要素の一つは論旨の一貫した説得力のある文章を書く能力だが、それはむしろブログを書いて人に読んでもらうことによって大学のクラスよりも効果的に身につく。先生からいい成績をもらう努力をするよりも、実際に読者になってもらう方が余程効率的だ。先生は仕事なのでどんな文章でも読んでくれるが、ネットで長い文章を読んでもらうためには事前にそれなりの価値があるという信用・評判を築く必要がある。どちらが難しいかは明らかだろう。

リーダーシップと英語の授業

Twitterで見つけた次の記事を読んだら昔受けた英語の授業を思い出したので紹介したい。

リーダーを育てる|傲慢SE日記 ~30歳からの挑戦~

リーダーの仕事は一言で説明する事が難しい。あえて言うなら、目的を達成するためにチームの潤滑油になるというべきだろうか。[…]目的を達成するために何かをすると言う事は様々な事に気を使わなければならない。そのため、状況に応じて様々な仕事の進め方を選択(創造)する必要がある。それこそ想像力 がものを言うと僕は思う。さて、このリーダーをどうやって育てれば良いのだろうか?僕が推測するに、僕がそうだったように、、、自発的に成長して貰うように促すしかないと僕は思う。

この話を読んで思い出したのが大学一年の時に受けた英語のクラスだ。残念ながら教官の名前は忘れてしまった。英語の授業としては微妙だったが、リーダーシップ・チームワークについて非常に勉強になる仕組みだったので強く印象に残っている。簡単なメカニズムは次の通りだ。

  • 英文の記事が一つ用意される
  • ランダムに5,6人のチームが組まれる
  • チームごとに記事の内容を問う設問を5,6個作る
  • 設問の適切さや作成にかかった時間に応じて点数が決まる
  • チームの点数が個々人のその日の点数になる
  • 毎回、以上のスキームを繰り返す
  • 成績は個人ごとに集計された合計点数で決まる

最初の2,3回の間、自然発生的に始まった民主的な意思決定方法に従った。みんなが記事を全部読み、案を出し合い、どれがいいか合議で決めるというような流れだ。はっきり行って全然うまく行かなかった。案を出すのにも問題を選ぶのにも時間がかかりすぎた。最初は遠慮もあり何も口出ししなかったが自分の点数もかかっていたので声をあげることにした。

まず提案したのは文章をある程度分割した方が効率的なことだ。これにより無駄な仕事の重複が減り、民主的な意思決定のコストをなくすことができた。またある設問の質が低い場合に誰の責任かが明確になるため、質が安定した。これで作成時間が劇的に減少し、スコアはすぐに上がった。

それでもまだどの問題を誰に割り振るかを決めるのには時間がかかった。そこで議論するのをやめて、個々人に自分の英語力を自己申告させ、低いメンバーから前の方を強制的に割り振るようにしたら一段と点数は上昇した。強権発動が若干の反感をよんだが無視した。

クラスも折り返し地点に差し掛かるころには、そもそも全ての人間に仕事を割り振ること自体非効率だと気付いた。チームが決まったらまず英語が得意だと申告しなかった人間は作業に参加させないことにし、その中で一番ましな字を書く人間を設問の書き取り専門にすることにした。

残りの人間にはとりあえず前から読み始めてもらい、その間に作成時間によるボーナスの最大点が適用される時間制約までに自分で作れる問題数をさっと把握し、残りの問題をカバーすべき部分とセットにして一人一人に割り当てた。これにより、問題作成者はみな文章全体を眺めてから作成するようになり、かつ英語の苦手な人間が問題を作らなくなったので問題の質も向上した。

この時点ではすでに、クラスの人間の英語力の大体の分布を把握していたので割り当てもかなり適切に行えたし、毎回自分の入ったチームで満点近いスコアを上げていたため、方針を一方的に決めてもメンバーは全く不満なく従ってくれるようになっていた。

もちろんこの設定にはいくつかの前提条件がある:

  1. チームへの参加は強制
  2. リーダーとしての地位は確定されていない
  3. 仕事の評価はチームメンバーで共通
  4. チーム自体は毎回ランダム
  5. クラスは繰り返し行われる
  6. チームの人数が少ない
  7. みんなが高得点をとることを目標にしている(ht @notweb

これらの前提が違う場面では異なるリーダーシップの要素が要求されるだろうが(例えば大規模な組織や任意参加のクラブなど)、このクラスは複数の人間を動かして目標を達成することについて学べたように思う。上の条件をいろいろ変えてやれば、さらに学べることがありそうだ。

大学院に行く間違った理由

株主云々の話が続いて飽き飽きという人も多いと思うので教育ネタを。

アメリカの大学教授が書いた、人文系(Humanities)の大学院にいくべきではないというエッセイのご紹介。大抵の分野は人文系よりマシだが、キャリアをよく考えて決断すべきというのは変わらない。博士号取得者の就職難が話題になった日本にも当てはまる。

Graduate School in the Humanities: Just Don’t Go – Advice – The Chronicle of Higher Education

I have found that most prospective graduate students have given little thought to what will happen to them after they complete their doctorates. They assume that everyone finds a decent position somewhere, even if it’s “only” at a community college (expressed with a shudder).

大学院の進学者が学位を取得した後にどうするかあまり考えてもいないのはアメリカでも変わらない。どこかににそれなりのポジションを得られるとぼんやりと思っているだけだという。

よくある進学理由が挙げられているが、これはほとんどの大学院生に当てはまる(残りの三つは本文参照):

They are excited by some subject and believe they have a deep, sustainable interest in it.

一つの興味があるからといってその興味が持続すると信じている。これは経験の少なさによるものだろう。自分があることに(だけ)興味があると信じるがゆえに他の事柄に目を向けず、いつまで立ってもその可能性にすら気付かない。

They received high grades and a lot of praise from their professors, and they are not finding similar encouragement outside of an academic environment. They want to return to a context in which they feel validated.

学校でいい点数をとり教授に褒められるが、他の場所ではうまくいかないから進学する。人間、自分が認められる場所が心地よいというのはその通りだけど、それでは成長しないという面もある。

適材適所と言えば聞こえはいいが、頑張れば伸びる部分もそれを言い訳にするようになる。ちょっと人と喋るのに気後れする人が、いつのまにかそれを誇らしげに語る。

They are emerging from 16 years of institutional living: a clear, step-by-step process of advancement toward a goal, with measured outcomes, constant reinforcement and support, and clearly defined hierarchies. The world outside school seems so unstructured, ambiguous, difficult to navigate, and frightening.

勉強がそれなりに得意な人にとって学校ほど評価のはっきりしたシステムはない。人生の大半を学校制度の中で過ごすと、評価基準が複雑な現実世界に怖気づく。本当は大学にいても成績では決まらない要素はいくらでもあるのにそれに目を瞑っているのだ。

人文系の大学院に進学してもいい理由は次の四つだという:

  • 既にお金を持っていて、生活費を稼がなくてもよい
  • コネがあり仕事を見つけられる
  • パートナーが必要な収入を稼げる
  • 現在の職にプラスで、職場が経費を負担してくれる

ではこれらの条件を満たしていない場合はどうか。

Those are the only people who can safely undertake doctoral education in the humanities. Everyone else who does so is taking an enormous personal risk, the full consequences of which they cannot assess because they do not understand how the academic-labor system works and will not listen to people who try to tell them.

非常に大きなリスクを取っているというのが答えだ。もちろんリスクを取ること自体は悪いことではない。Willyさんの一連のポストが示すように、リスクを理解した上で決断する必要があるというだけだ。大学院に行った人がで何割の人がどこに就職しいくら稼ぐのか、そして大学にいかなかった人がどのくらい稼ぐのかある程度具体的な数字を挙げられないのであればアウトだ

それは人文系だけだというのもまた理由にならない。こういった情報を調べることのコストは、その結末に比べて極めて小さいので、それを調べないのは現実に目を背けているだけだ

News: No Entry – Inside Higher Ed

Unlike history, economics is a field where substantial numbers of non-academic jobs are regularly taken by new Ph.D.’s — and that career path is not considered an oddity. Still, however, about two-thirds of job notices in the fields are from academic institutions.

例えば経済学は民間からの需要もあり、就職に強い分野だとされている。しかし、それでも民間の需要は三分の一に過ぎない。

Among four-year colleges, the decline in positions was more pronounced at institutions without doctoral programs (down 31 percent) than those with doctoral institutions (down 8 percent).

残りの三分の二を占めるアカデミックなポジションの数は大幅減となった昨年からさらに大きく落ち込んでいる。不況でわざと就職を遅らせた学生も多く、厳しい就職事情になるのは間違いない。

個人的な大学院留学に関する目安は先に挙げられた四つの条件がないとすれば

  • アカデミックでない就職先が確立している専攻である**
  • 基本的に金銭的な持ち出しがない*
  • それなりに有名な大学に入れる**
  • (見切りを含め)適切にリスクを管理できる***

あたりだと思う(*は重要性の目安)。逆に言えばこれらの条件が揃っているのであれば、やってみるのは悪くない。